警邏部の新人-6
王宮の中庭の片隅に、古びた四阿がある。十八年前に起こった政変以前、王侯貴族の権力が強かった時代は丁寧に手入れされて茶会に使われていたそうだが、最近は庭で茶会をする習慣は薄れている。人の出入りの多い正門に面した表庭は庭師を呼んで手入れしているが、中庭は時折草むしりされる程度で自然の緑が濃い。
「コタロウ、お庭の巡回はもう良いかしら」
ローズはしばしば昼休みや時間が空いた時など、愛犬の散歩を兼ねて中庭を訪れている。診察の予約が詰まっているときなどは日中ずっと受付奥の定位置で寝ているコタロウは、中庭に連れ出されると嬉しそうだ。
「クンクンクウン」
甘えた声を出すコタロウに目を細めたローズは四阿に足を踏み入れ、薄汚れたベンチを軽く掃って腰を下ろした。背の高い刈られる前の草むらが明るい陽射しに照らされている。彼女は脇の柱に犬のリードを結んだ。お座りをしてローズを見上げる柴犬の頭と背を撫でる。ローズが一息ついた時、草むらの向こうからやって来る人影に気付いた。彼女に好意を寄せる有象無象かと警戒したが、人影は見知った騎士だった。
「部隊長さん」
「医師、おくつろぎのところ、失礼いたします」
生真面目な言葉に、ローズの口元が緩んだ。休憩しようと座ったところだったので、普段より気が抜けているせいかもしれない。
「そんなにかしこまらないでください。別に私と部隊長さんは上司と部下じゃないんですし」
強張った表情のランスロットを見上げる眼差しが柔らかい。彼は困惑を隠しながら小さく頷く。
「不躾に申し訳ございませんが、お尋ねします。暴漢に遭遇した後、体調はどうですか」
彼女が正気を失っているらしい男に襲われかけた夜から、三日経過している。
「怪我は元々してませんし、そうですね、何かしらの後遺症が出るような被害を受けていません。体もですけど、心も無事です」
「それは、重畳です」
「ルーク君とメルさんがすぐに来てくれたし」
「メル、さん」
何故か部下の愛称を復唱して眉間に皺を寄せるランスロットに、ローズは自身の斜向かいのベンチを指し示した。
「お話、長くなるなら座ったらどうですか」
四阿に足を踏み入れたランスロットに、お座りしていたコタロウが立ち上がって近寄って行く。人懐こい性質の柴犬に戸惑いながら、ランスロットはゆっくり腰を下ろした。コタロウは尻尾を振って座った騎士の足元を周回する。躊躇いがちに差し出された彼の手の匂いを嗅いでから、お座りをした。
「あら、いい子ね、コタロウ」
「コタロウどの、とは、この、犬の名ですか」
「はい、そうです。部隊長さんも犬好きですか?」
「犬も猫も、飼ったことはなく、あまり、接したこともありません」
「そうなんですか、でも、コタロウはあなたのことが好きみたい」
「それは、自分にはわかりませんが」
戸惑いつつ背筋を伸ばしたまま柴犬とローズを見比べるランスロットを眺めて、彼女は華やかな笑い声を漏らす。診察室では出さない艶やかさを感じる笑い声に、ランスロットは己の耳が赤く染まるのを感じて口元を引き締めた。
「あなたを襲った男ですが、血液検査の結果、薬物中毒者でした。被害者であるのに、お引き留めした上に診察までしていただいて、恐縮です」
「いえ、聴取を翌日に持ち越すのが嫌だったので、私が詰所に同行するよう望んだんです。初見の簡易的な診察をしただけですから」
焦点の合わない虚ろな男の目を思い出し、ローズは僅かに身震いする。市井で医師として働いていた時にも、王宮医局と同じように難しい症状の患者の継続治療は担っていなかった。ただ、薬物中毒患者の特徴について先輩医師から聞き及んだ事があり、医療先進国の医学書を取り寄せ日々学んではいる。
「ルークとメルヴィンから大いに助かったと報告を受けております。部隊長として感謝申し上げます。ありがとうございました」
折り目正しく頭を下げるランスロットに、ローズは笑みを浮かべて首を左右に振った。
「もう、そんなの……私の方こそ、助けてもらったんですよ」
「あなたが怪我をする前に間に合って良かったです、前例のない試みですが、ルークを夕勤夜勤中心の勤務にして正解だったようです」
緊張した面持ちになるランスロットに、ローズは小首を傾げる。
「先日の勤務体制のお話ですね」
「はい、医師のおっしゃるように、勤務体制を調整してみました。騎士たる者が時間帯に得手不得手があるようでは不適格だと断じるには、惜しいのではないかと」
ランスロットとローズがルークの治療に関して面会してから、ルークは医局を訪れていなかった。
「たった半月足らずで、変えたんですか」
驚きに目を見張るローズに、ランスロットは深く首肯する。
「慣例通りが必ずしも最善ではありません。新人騎士も老練騎士も、それぞれに十分実力を発揮できる時間帯に巡回へ出してみたら、成果が出ております」
「本当に? すごいですね、素人の思い付きですから、あんまり大げさに評価されると困りますけど、上手く行きそうなら、良かったです」
「医師として人体に精通しているからこそのご意見と承っております。ルーク以外の同世代の騎士も彼ほどではなくとも早朝は調子が出にくいと打ち明ける者も出て参りました。医師に伺っていなかったら、気づきませんでした。当初は例のないルークの頻回診療を疑問に感じておりました。医局自体に他意があるのでは、と」
「確かにそんな感じでしたね」
「視野狭窄を謝罪いたします」
「ええ? そんなに? 大げさですって」
淡々とした口調ながら、真摯な眼差しで彼女の功績を主張する騎士団第一部隊長を、ローズは胡乱な目になり見やる。
「あの路地を巡回に加えたいと報告したのはルークです。住宅街へ通じる静かな道ですが、無人の建物が打ち捨てられた路地を形成しており、不審者の溜まり場になりやすいのでは、と推測したそうです。彼がいつものように早朝、本調子ではないまま巡回していたら、見逃したかもしれません」
「そういえば、メルさんが、あの日初めてあの道を巡回ルートに加えたところだったって言ってました」
記憶を辿って答えたローズに、ランスロットは顔をしかめた。
「メルさんというのはメルヴィンのことで間違いないでしょうか」
「え、はい。気軽に呼んでって言われたので。失礼でしたか」
「随分と部下に気を許されているようですね」
困惑した時の癖なのだろう、手指を組んだり解いたりしながら答えるランスロットの表情が険しい。
「部隊長さんて意外と内心がお顔に出ますね、まあ、人のことは言えないんですけど」
悪戯っぽく目をきらめかせるローズを見て、ランスロットは再び耳が熱を帯びるのを感じ、ますます表情を硬くする。羞恥とも喜びともつかない感情がこみ上げて来て苛まれた。
「自分は医師と部下の人間関係に異議を申し立てるつもりはありません、ご不快にされたなら、謝罪いたします」
彼は真摯な眼差しでローズを見つめる。
「もう、違うって、違います。そんな困った顔しないでください」
「困ってなど、いません」
後頭部に手をやり発言とは裏腹に困惑した表情のランスロットに、ローズはとうとう噴き出した。
「私は部隊長さんの上司じゃないですし、王侯貴族でも議員でもありません。ただの医局の医師ですから、もっと気軽に話してください。名前を呼ぶとか」
艶やかな笑顔で器用に圧をかけてくる彼女に、ランスロットはしばし見惚れてから、観念して目を閉じた。
「ローズ……医師……」
生真面目で神経質だが、公平で部下に慕われている、と評判の王国騎士団警邏部第一部隊長が何故だか追い詰められている様子を愉快に感じながら、ローズは力強く頷いた。
「まあ、いいでしょう。私もランス隊長って呼ぼうかな? 警邏の部隊長さんは十人以上いますもんね」
「キャンキャン」
同意するかのように急に甘えた声で鳴くコタロウに毒気を抜かれ、ランスロットは思わず口元を緩めてしまった。
「あら、ランス隊長ったら、笑顔はかわいいんですね」
「戯言はご遠慮いただきたい」
「あらら、ふふふ、ごめんなさい」
羞恥で熱を持ったままの真っ赤な耳を隠す術もないまま、真っすぐ背筋の伸びた騎士は、柔らかな碧眼から必死で目を逸らした。




