警邏部の新人ー5
王宮から馬車を三十分ほど走らせると繁華街の入り口へ着く。商店街、飲食街を抜けて花街とは逆方向、住宅街へ向かう道の途中に小さな居酒屋がある。扉には『花のや』と書かれたプレートがかかっており、中からはほどほどに賑やかな声が漏れ聞こえて来る。
「アンタ、明日は休みなの」
カウンターの奥から顔を出した店主の問いかけに、赤みがかった柔らかな黒髪がわずかに揺れた。
「うんにゃ、仕事」
「じゃあ、そろそろやめておきなさい」
「えー、飲みたい気分なのにい」
「二日酔いの医者なんて目も当てれないわよ」
「残るほど飲んでなーい」
陶器のグラスに並々注がれた赤ワインを半分ほど一気に飲み、ローズは碧色の目を頻回に瞬かせる。
「飲んでるじゃない」
小鉢に入った枝豆を差し出され、酔っ払いが相好を崩した。
「とか言いつつおつまみ出してくれるシア大好き」
「そういうことは私じゃなくてアンタを誘って来る男に言いなさいよ。奢ってもらえるわよ」
「男なんてきらーい。テレンシアが大好きー」
店主、テレンシアが小首を傾げると項の辺りでまとめられた真っすぐな黒髪が微かに揺れた。背を丸めて枝豆を食べながら、ローズは唇を尖らせる。
「また絡まれたの? 悪質な輩は出禁にするけど」
商人風の男数人と恋人同士らしき男女が数人、店内のざわめきは耳障りなほどではないが、カウンターごしに交わされる女性二人の声は他の客には届いていない。
「ここじゃないし、絡まれたんじゃないのー」
ローズは小さくため息を吐く。
「じゃあ、なによ」
切れ長の目を細めるテレンシアの口調に愛想はないが、声音には親しみが込められている。
「患者の一人が食事に行こうってうるさくて」
「いつも上手くかわしてるじゃない」
「母の関係先で断りにくくて」
「どういうこと?」
「その人、王宮の官吏なんだけど、母を雇ってる商会長の息子さんなの」
「だからって断れないってことはないじゃない」
「すごくいい人だってうるさいのよ、母が」
「ああ、なるほど」
「診察だって必要かどうか怪しいけど、正規のルートで予約して来るから断れないし」
愚痴を述べているうちに酔いが冷めたのか、口調が素面に戻って行く。
「お母さま、ローズに結婚して欲しいみたいだものね」
「私は別に結婚なんてしなくていいの、医師として一人で生きて行ける」
言いながら背筋を伸ばしたローズに、テレンシアは淡く笑みを浮かべた。
「私もよ、一人でも花のやを盛り立てて行けるのに、外野は余計なお世話を焼こうとうるさい」
「本当にそう!」
ローズが小さくカウンターを叩くと、テレンシアは眉尻を跳ね上げる。
「ちょっと、大事な店なんだから、大切にして」
「あら、ごめん」
苦笑するローズの足元で寝ていたコタロウが音に反応して首をもたげる。つぶらな瞳でローズを見上げる柴犬に、ローズは再び酔いが回ったかのように、笑み崩れた。
「やあん、いつ見てもかわいい」
王都に犬連れで居酒屋を訪れる人間などいないし、許可する店もほとんどないため、コタロウを飼うことになってからのローズの外食はもっぱら花のやに限定されている。店主のテレンシアとは五年来の付き合いであり、気心が知れているからこそ許されている。
「犬なんて好きじゃないけど、コタロウがかわいくて賢いのは認めるわ」
「そうよね、コタロウはシアも認める犬なのよねー」
コタロウに話しかけているのかテレンシアに話しかけているのか曖昧なローズに、テレンシアは肩をすくめた。他の客に呼ばれてローズの前を離れるテレンシアを見送り、ローズはグラスのワインを飲み干した。愚痴を吐き出したことで幾分か晴れやかな表情になったローズは、財布から銀貨を出してカウンターに置く。立ち上がって、フード付きのローブを纏った。
「シア、帰るわ」
「ええ、気を付けて」
注文を受けて調理場へ引っ込もうとする途中で振り返ったテレンシアは微笑を浮かべて、常連であり友人でもある医師を見送った。
花のやの扉に取り付けられた呼び鈴が涼やかな音を立てるのを背に、ローズはコタロウのリードを引いて家路を急ぐ。花のやでは酔った口調だったが、足取りはしっかりしてい速い。この国では珍しい柴犬を連れた妙齢の美女は、ローブをかぶって薄闇に紛れつつ歩む。軽やかな足取りでローズの隣を歩いていたコタロウが不意に立ち止まった。
「コタロウ、どうしたの」
「ヴーー」
街灯と街灯の隙間にあり、夜だと奥が見通せない路地に向かって唸り声を上げるコタロウに、ローズは小首を傾げる。
「何かあるの」
か細い声でつぶやいてローズはコタロウのリードを引くが、警戒心も露わな柴犬は力強く抵抗して動こうとしない。
「ヴーー」
更に低く唸り、手足を地面に押し付けていつでも跳びかかれる低い体勢になる。
「ワンワンワンワン!」
「こ、こら、コタロウ、静かに」
強い警戒も露わな柴犬は、住宅街まで響き渡りそうな大きな吠え声を上げた。響き渡る鳴き声に焦った彼女は、路地の奥からゆっくり近寄る影に気付くのが遅れる。
「へへ、へ、うるさ、い、犬だ」
瘦せ細った男が姿を見せ、かすれた声で言った。ローズは咄嗟にコタロウのリードを引き寄せ、素早く犬を抱き上げた。
「すみません、うるさくして」
男の顔が雲間から現れた月明りに青白く浮かび上がる。目の焦点が合っていない。ローズも強い警戒心を抱いた。
「ワンワン!!」
ローズの腕の中で男に向かって吠えるコタロウの背を撫でて、彼女は問答は無用と判断し急いで踵を返す。逃げようとした彼女のフードの端が、無遠慮に掴まれる。フードが外れて色白の輪郭が現れる。彼女の心臓が危機を感じて強く跳ねた。
「やめてください」
「おおお、おん、な、へへ、いい女」
酔って興奮しているにしては虚脱も見て取れる。口元に涎の泡を垂らす男に、ローズの肌は泡立った。男は犬を抱えているため動きの鈍い彼女の肩を力任せに掴む。
「痛っ、離して」
間が悪い事に帰宅を急ぐ人の気配が途絶えていた。
「犬なんざ、放って、遊ぼう、ぜ」
歪な笑みを浮かべた男の手を身をよじって払いのける。彼女の腕の力が緩んだ隙にコタロウが地面に跳び下りた。
「ワンワンワンワン!!!」
勇敢な吠え声で男を威嚇するコタロウを
「ううう、うる、せえ」
男は足を振り上げて蹴ろうとする。
「やめて!」
コタロウは素早く避けて低く構えた。ローズがリードを引いて逃げようとするものの、コタロウは吠えて力強く地面を踏みしめる。非常事態は初めてのせいか、一人と一匹の連携がうまく行かない。
「逃げよう、コタロウ、早く」
力づくでリードを引いて、何とか逃げ出した一人と一匹の背に男のくぐもった声が追って来る。
「待て、待てまてまてまて」
男が急に足を速めて追いつき、勢いをつけてローズの背を押した。前のめりに倒れこみそうになる彼女の足元で、コタロウは再び大きく吠える。
「ワンワン!!」
体幹をしならせ体勢を立て直したローズは、コタロウのリードを引いて再び走り出そうとした。
「何してるんだ!」
鋭い誰何の声がして、男は身体を緩慢に揺らしながら振り返る。ローズはその隙に男と距離を取るべく後ずさる。
「おい、どうした、犬が騒いでるって、あ、ローズ医師!」
のんびりした性格からは想像がつかない速度で駆け寄って来た人影が、ローズ達と男の間に割り込んだ。
「ルーク君」
「ワンワンワンワン!」
新人だが騎士の登場に僅かに安堵し、彼女は緊張で強張った声音で彼の名を呼んだ。コタロウはルークにも訴えるよう吠えた。
「大人しくしろ!」
遅れて追いついたもう一人も騎士で、筋骨隆々で大柄な佇まいが月明りに力強く浮かび上がった。
「あ、あああ、ううう」
男の肩を掴んだ大柄な騎士、メルヴィンは、奇妙な叫びを漏らす男を素早く制圧し拘束した。ルークは、男が拘束されてもまだ警戒して低い唸り声を上げるコタロウの前に跪く。
「もう、大丈夫、コタロウ、怖かったな」
懐いている新人騎士に優しくなだめられたコタロウは、彼の腕に飛び込んだ。
「キュウン」
「大丈夫ですか」
ローズはため息を押し殺し、そっとルークにリードを渡す。
「ありがとう、少し、コタロウをお願い」
緊張が解けて弛緩したのか、ローズはたたらを踏んだ。心配も露わに表情を曇らせるルークと彼女の目が合う。いつものような医師らしい笑みを返そうとした彼女は、顔が強張って失敗したことに気付く。男は地面に転がされて後ろ手に縄を掛けられている。不明瞭な言葉を口にしながら身体を揺らし、皮膚は冷たく汗に濡れ呼気も浅い。
「気狂いか何かか……」
縄の先を掴んでメルヴィンは眉間に深く皺を刻んだ。
「様子が妙だな、禁断症状のような」
「そうかも、しれません」
まだ緊張した面持ちの医師を見下ろし、メルヴィンは低く耳障りの良い声で問いかけた。
「医局のローズ医師、ですよね」
「はい」
「どうも、第一部隊のメルヴィン・モーガンと言います。これから繁華街の入り口にある詰所までこいつを連行します。事情を聴かせてください。このまま一緒に来てもらうか、無理そうなら明日でも大丈夫です。その場合、ルークに家まで送らせます」
ローズはメルヴィンとルークを見比べた後で、静かに息を吐く。
「一緒に行きます。この子も一緒でもいいですか」
「もちろん。お前、ご主人を守って偉かったな」
力強く頷いてメルヴィンはおどけた表情になり、ルークに抱き上げられたコタロウの頭を大きな手で撫でた。




