夏影の剣ー5
壁にかかっているローブの焦げ付いた裾を見る。簡素だが小ぎれいな邸へ連れて来られて三日経過していた。
「夏じゃなくて良かった」
自分の身体から垢じみた香りがしないか嗅いでみる。ミシェルは一日に一度顔を出して軽食を置いて行くだけで忙しそうにしていた。
「逃げてもいいよ。また、犬でもいいし、居酒屋の店主でもいい。君の大切なモノは知ってる」
「……逃げない」
花のや雑木林の先にあった舟着き場から、高級娼館の舟着き場へ移動した葉の生い茂る木々に隠された水門を潜ると建物の中まで水路がある。事前知識がなければ見つけられないだろう、そう推測した。高級娼館の地下で一日過ごし、明けきらぬうちにまた舟で短距離を移動、その後は荷馬車で体感で二時間程度移動している。夜間かつ銃口を向けられた状態だったので、邸の周辺も建物自体の外観も、観察できていない。
「アルセリアの騎士団もさ、僕のことは見つけられないわ、王宮の警備は突破されるし、大したことないよね」
昼も夜も閑静な場所である。二時間では王都脱出までは至っていないだろう。閉じ込められているのは二階の部屋だ。小窓から外を見たが、手入れされた樹木しか見えない。人が通りがかれば見えるだろうが、今のところ、そういった気配はない。銃口を向けられたのは、舟着き場と邸に入って階段を上る間だけだったが、さすがに肝が冷えた。
「あの、君を連れて来た点灯夫まがいの彼だけど、裏じゃ有名なんだよ」
早朝、固いパンを二つと薄いスープを持って来たミシェルは、ローズを見て眉をしかめた。
「ねえ、どうしてそんなに薄汚くしているの? 僕に嫌われたいわけ?」
「……洗面所では水しか出ないし、着替えもないわ」
ミシェルは目を瞬かせる。
「そっか、気づかなかったよ。下に何かあったかな……お湯は沸かせる。自分でやってくれる?」
扉を開けたミシェルは、後に続こうとしたローズを振り返って銃口を向けた。
「もう、君を撃ちたくないから、変なことしないでね」
ミシェルは仕立ての良い上下に身を包み、一つに結んだ黒髪にも艶がある。白皙ながら血色も良く、見栄えは整っていた。
「いつまでここにいればいいの」
お湯を沸かしながら目だけ動かして周囲を観察する。ローズの問いに、ミシェルは嬉しそうに答えた。
「もう少し、待っていて。僕も早く、君とゆっくりしたい」
優しそうな眼差しを裏切る銃口を見て、ローズは温めたお湯を桶に流し入れる。ミシェルが桶の中に布を放り込んだ。
「どうぞ、綺麗にして」
「見られていたらやりにくいわ。それに、着替えが欲しい」
「いいから、脱いで身体を拭いて」
銃を持つ手を上下させるミシェルを睨みながら、ローズは枯葉色のワンピースを脱いだ。彼女がしゃがんで布を絞り出したのを確認し、ミシェルは背を向けて立ち去る。置き去りにされた台所内を見回して、ローズは諦めて自身の清浄に勤めた。裏口は重厚な棚で塞がれており、換気口は天井近くで小さい。差し込んで来る朝陽は細く、外から物音は聞こえなかった。
「もっとお湯を沸かして髪を洗ってもいいよ」
布を数枚、シュミーズと色あせた灰色のワンピースを持参したミシェルは、下着姿のローズを見て艶然と微笑んだ。
「そんな風に哀れでも、君は綺麗だ、ローズ」
「……そう思うならもう少しなんとかしてくれない?」
ため息を吐いて視線を落とす彼女の耳に、ミシェルの笑い声が届く。
「アハハ、そうだよね、僕にそんな姿、見せたくないよね、ごめん、クック、笑える」
言い捨てて台所を出て行く監禁者を見送ったローズは、置かれた衣類を確認してから、身体も着ていた衣類も洗う事にした。汚水を流しに捨てている途中で、こみ上げる惨めさに耐え切れず瞳が潤んだ。
「コタロウ、会いたい」
天を仰いで何度か深呼吸したローズは、凛とした眼差しを取り戻す。
「あれ、また、元気そうに戻っちゃったね。なかなか心が折れないところも好きだよ、ローズ」
耳に残る中低音の囁きを残し、ミシェルは再び外出した。彼は一日一度軽い食事を準備するだけなので、空腹を抱えている時間が長い。
空腹に喘いだ少女の頃を思い出す。王宮騎士だった父の戦死認定が下りて、恩給が支給される事になった。同時に邸を建てた土地が国有地であり、買うか退去するか選ばなくてはならないと告げられた。
「退去しましょう。住み込みの仕事を探すわ。ローズはそのまま寮にいればいいし、恩給を学費に回せるから大丈夫よ」
迷い猫に餌を与えながら、母が請け負う。母は朝は家政婦、昼と夜は給仕として働いていた。体力的に限界が近かったのではないだろうか。きっと父が帰って来る、五年間本気で信じていた。
「この家がなくなったら……お父さん、どこに帰って来るの?」
「帰って……来ないのよ、ローズ、あの人の分まで立派な騎士になって」
「そんなの! お父さんが帰って来ないのに、騎士になんかなったって」
新しい剣を買いたいと相談に帰宅したつもりだった。民政局の役人が来ていた場面に出くわし、見ない振りをしていた家の財政状況を理解した。学園を中退して働いた方が良いと考えるローズと、卒業まで頑張るという母との攻防は、何度か続いた。
「ローズ、大丈夫だから寮に戻りなさい」
風邪をこじらせた母を見て、学園を中退する決心を付けた。ローズに後悔はない。ただ、ふとした瞬間にあの頃の記憶が蘇る。
「肺炎になりかかっている。安静にして食べられるようになったら栄養のあるものを食べさせて」
母が寝込んで起き上がれなくなってしまったため、医師の診察を勧められた。
「栄養……はい」
当時のワーロング家は僅かな現金も残っていなかった。支給された恩給を学園に納めたばかりで、寮に支払う食費を削って医師の往診を頼むしかなかった。
「君は学園の生徒だろう? 応急手当の授業にいたよね」
「あ、はい、せんせい、覚えていてくれたんですね」
「熱心に受講してくれたからね」
「あの……今度、診療所を開くって仰ってましたが」
「うん、そうなんだ。独立してじっくり後進を育てたり、王都の外の村にも医師を派遣して国の医療水準を引き上げる一助になりたくてね」
幸運な偶然を得て、ローズは見習い医師として働く機会を得た。
「ホワイトー、待ってえ」
物思いに沈んでいたローズは、外から聞こえた子どもの声に急いで窓辺へ寄る。小さな窓から、少女が白い大型犬を追い駆ける姿が見えた。頬を上気させた愛らしい顔立ちの少女を見て、空腹の記憶と重なり合う。
「……アンちゃん、いや、ラン、ちゃん……もかわいかったなあ」
先輩風を吹かせて後輩に剣を教えていたことも思い出した。二つか三つくらい年下で、大人しい子だった。柔らかそうな金髪で小柄で、でも均整の取れた身体つきをしており、真っすぐで理知的な灰色の瞳をしていた。
「ええと……ん……??」
少女と犬の姿が見えなくなっても、ローズは窓の外を眺めたまま身じろぎをしない。とりとめのない記憶の断片を拾い上げて現実逃避しているだけのつもりだった。
「うそ、え、え」
頬に手を当てて部屋の中を歩き回る。学園時代の先輩や同級生と王宮で再会し、挨拶を交わした事はある。後輩で記憶に残る程親しくしていたのは一人だけだった。




