閑話ー4 ☆お父さんは笑うと目がなくなる
いよいよおしまいなのだと、痛みが引いて行くのを感じてそう思った。
「大丈夫か」
笑うとなくなってしまうお父さんの細い目が、心配そうに見開かれている。大きく息を吸い込んでもどこも軋まない事に驚いて、首を動かす。ずっと寝ていたので、起き上がりたくても力は入らない。
「痛く……ない、よ。お父さん。治った?」
私の病気は医師のお父さんも知らない不治の病ってやつで、いつ命が尽きてしまっても仕方がないのだ、と言われてはいないが知っている。お父さんは力の入らない手をそっと握った。
「すまない」
答えは謝罪だった。お父さんは嘘を吐けない人だからって、おばあちゃんが言っていたけれど、せっかく久しぶりにどこにも痛みがないんだから、希望くらい持たせて欲しい。
「そっか、でも……嬉し、い。痛くないから、起きるの、怖くない」
痛みに耐えるばかりでまともに話していなかったせいか、上手く言葉が出て来ない。
「水だ、飲みなさい」
少しずつ喉を潤して元気を取り戻した私は、お父さんに手伝ってもらって起き上がる。外が明るいので、朝か昼なのだろう。
「お仕事、は」
「ああ、今日は早退した。ローズ君が暇な日くらいさっさと帰れと言ってくれてね」
お父さんと一緒に働くローズさんという女性の医師の話、受付のターニャちゃんの話、そして犬のコタロウ君の話、それらの話を聞くのが好きだった。
「コタロウ君の、お面白い話、ある?」
「ああ」
お父さんが優しく笑って私の額に手を置く。
「この前、コタロウがおえおえっと何度も吐きそうになってね、何かおかしな物でも拾って食べたかと思ったんだ」
「うん」
「お腹でも痛いのか、とローズ君が慌てて外に連れて行ったら、元気に散歩したみたいで、何ともなかった」
「良かった」
コタロウは柴犬という種類の東方出身の犬で、焼いた食パンみたいなこげ茶色の毛がふわふわとして、尻尾が丸いらしい。お父さんが描いた絵は独創的過ぎて、かわいさはわからなかったけれど、きっと本物はすごくかわいいんだろう。
「なんともなかったのは良かったが、それから毎日散歩に行きたくなるとおえおえと吐く真似をするようになってね」
「ええ? ふふ、そう、なの」
「どうしたのって、ローズ君やターニャ君に心配されるたびに、クンクンとかわいく尻尾を振ってさあ、散歩に行くぞとリードを引っ張るんだ。吐きそうになったら、外へ連れて行って貰えると覚えたんだろうね」
元気だったころ、外で歩いている猫を見かけた事は何度もあるが、犬は人間に散歩させてもらっている姿くらいしか見た事がない。かわいい子を撫でさせてもらったことはあるがそんな風に仮病を使うなんて面白い。
「ふふ、ふふ、コタロウ君、かわいい」
「ハハハ、元気になったら、うちでも犬を飼おう。さあ、少し寝なさい。起きたら食べられる物を準備しておく」
素直に目を閉じた。
お父さんから甘苦いような、変わった匂いがする。痛みに苦しむ時間が減って、今まで気にする余裕のなかった事を観察する余裕が出て来た。起き上がって動く事は難しいけれど、一日数時間だけでも良い気分で目が開けられるのは嬉しい。
「お父さん、その、タイプライター、どうしたの」
「ああ、これかい。医局で古くなったのを貰って来たんだ」
「カチカチって音、なんか好き」
丸まったお父さんの背中が薄くなった気がする。家でも白衣を着ている事が増えた。
「……待たせたね、何か、食べられそうか」
低く元気がないが優しい声のお父さんの手を取る。指先につるつるとした部分がある。火傷の痕も増えていて、なんとなく不安に感じた。
「いらない、痛くないし、元気だけど、お腹は空いてなくて」
「そうか、じゃあ、果実水を持ってくる」
雨の日は部屋の中も薄暗い。少しだけ起き上がらせてもらって窓の外を見る。甘酸っぱいはずの果実水の味が良くわからない。
おばあちゃんが来なくなって、お父さんが毎日家にいる。痛くて起きると注射をしてくれて、そうすると眠くなって痛みも消えた。お父さんは注射器を手に泣いている。
「どうして、泣くの」
「すまない」
笑うとなくなってしまう目が涙で歪んでいた。
「泣かない、で」
一人になっても、ローズさんやターニャさんや、コタロウ君と一緒に元気に生きて欲しい。伝えたかったが間に合わなかった。
「痛いの、やだ。注射、して」
もう痛みを失くして貰う事しか考えられない。お父さんに何度も擦ってくれた手の感覚が遠い。ふと、もう、終わりなのだと悟った。お父さんはもう注射を打ってくれないけれど、痛みもない。少しだけ息が苦しいけれど、ぼんやりとしてわからない。
お父さんが泣くのも忘れて粉の薬を液体にしている。部屋の中をふわふわと飛びながら、見ていた。




