黒狼の選良騎士ー18
窓から薄い星明りが差し込んでいる。冷えた寝台に兎のぬいぐるみが転がっていた。琥珀に濁った液がぽた、ぽた、一滴ずつ落ちて透明に変わる。濁った液と良く似た琥珀色の瞳が、微動だにせず見守っていた。
「沸いたか」
青い炎に焙られた鍋底は黒い。甘くて苦い香りへ純化した液が一滴、試験紙に落ちて色を変えた。
「ハハ、ハハハ」
器具の持ち主が渇いた笑い声を上げる。緩衝布が敷かれた箱に、焙って閉じたアンプルを十本並べた。乳鉢、秤皿、分銅の横に、タイプライターもある。カタカタと短い印字音で綴られたメモは小さく折りたたまれて箱に入った。
夜明け直前の鋭い冷気を含んだ風が、箱を抱える持ち主の後ろ髪を揺らす。入り組んだ路地を抜け、封鎖されて久しい橋の下を進むと、貧民街と呼ばれる区域へ出た。貧しい者すら近づかない朽ちた穀物庫の裏手に回る頃には空が白み始める。
「おはよう」
「ああ」
「すごいね、もう出来たんだ」
厚手で上品な灰色の外套を着こんだ青年が、朝焼けに映える美麗な笑顔で言った。
「繋ぎ役が捕まったと言っていたな」
「そうなんだ。次を決めるまで待ってって言ったのに、ユフィったら勝手に木札を渡しちゃって。相手を調べる時間もないし」
「なら何故急がせた」
「うん、そろそろユフィも切って、セリーナは終わりにしようかなって。あなたも、後顧の憂いはないでしょ? 一緒に行くかい。もっと稼げるよ」
無邪気な笑顔を浮かべる青年、ミシェルは、無言で差し出された箱を受け取る。
「君に渡された分であと数十本は作れる。王都を出るなら、販売ルートごと私が引き受けよう」
「ユフィが選んだ粉屋をあなたが使うって? じゃあ、あなたが新しい粉屋と直接やり取りして」
「明日の日暮れ後すぐだったな」
「うん、薬屋に箱を置いておくのと、粉屋をここへ誘導するまでは餞別として僕がやるよ」
朝焼けの中、スラリとした後ろ姿を無感動な眼差しが見送った。
ユーフェミアが指定した夕暮れ時、パーシバルは着古した外套に身を包んで、青い鳥の絵が描かれた扉の前に立った。ランスロットとルークは気のいい隣の店主により、屋内と勝手口で待機する許可を得ている。第三部隊より選抜されたカシアン・ロウは斜め向かいの店の店員に扮して様子を伺っていた。
「周辺に不審な人影はないそうっす」
臨時動員中の第十三部隊の騎士から伝言を預かって屋内へ戻ったルークは、ランスロットが頷くのを確認してから、再び勝手口へ舞い戻る。けだるい雰囲気で佇むパーシバルに、近づく人影はない。小一時間ほど経って、すっかり夜の帳が下りた。パーシバルは空き家の扉を蹴飛ばして中へ入る。音を聞いたルークは、息を潜めて隣家へ近づいた。
「副ちょ、じゃなくて、隊長ー」
裏の窓から掛けられた声に、パーシバルは立ち上がる。
「入って来い。ランタンを貸してくれ」
「はい」
声量を押さえてはいるが、彼ら以外に人の気配はない。家財道具も一切ない。窓枠に乗った木箱を見つけた。照らしてみると見覚えがある。二人は顔を見合わせた。慎重に蓋を開けると、液体が満ちたアンプルが十本と折りたたまれたメモがある。
【酒併用禁。初回一日:半量、以降一日全量まで。一本:銀一、一箱:銀八、推奨売価、一本:銀五】
「投与方法と価格か。ところどころ打刻の文字が欠けていて読みにくい」
「そうっすね。古いタイプライターっすかね、うちにもありますけど」
メモを透かしたり箱裏を確認したが他に伝言はなさそうだった。
「とりあえず俺は着替えに向かう。ルークはこのままもう一度周辺を哨戒した後で王宮へ戻って経過をチェリーナに報告しておけ」
「うっす」
パーシバルに接触する人物がいようがいまいが、彼が繁華街の詰所へ戻って変装を解くまで、ランスロットとカシアンが尾行する手はずになっていた。繁華街入り口付近は入り組んだ路地になっており、尾行者を撒くのにも摘発するのにも適している。パーシバルは無造作に箱を抱えてのんびり歩いた。問屋街と繁華街は隣あっており、二つの街の窪み的に貧民街がある。垢じみてやつれた人々が路地へ消えて行くのを横目に、雑踏の中へ分け入った。一日の疲れを癒そうと王都で最もガス灯が多い通りへ向かう。
「これ、あの素敵なお兄さんが落としたみたい、僕ちょっと急いでて」
横から耳に残る中低音がする。気になって視線を向けると腰の曲がった老婆しかいない。澄んだ目がパーシバルを捕らえた。
「もし、これ、落としましたか?」
彼女は長身の無精ひげ男に臆する事なく、木札を見せている。青い鳥が描かれた木札だった。
「うん? ご婦人……んん、婆さん、それは俺のか」
「はて、お兄さんが落としたように聞きましたよ」
皺くちゃの笑みが闇を払う。
「そうか、ありがとう」
素早く周囲を見回すが不審な動きをしている者はいない。パーシバルは人波を抜け出し、自分の木札と新たな木札を見比べる。
【貧民街 穀物庫裏 待て】
彫られた文字を判読したパーシバルは、首を回した。先ほどの中低音の主は見当たらない。ランスロットとカシアンの姿も視界に引っかからなかったが、尾行して来ている信頼のまま、進行方向を変える。
「変装中は騎士だってことは忘れてください。売人だったらどうするか想像して動くのが基本」
メルヴィンの潜入指南を思い出し、箱を小脇に抱え直した。混雑して来た大通りを避け、遠回りして貧民街へ入る。すれ違う人間の人品が薄汚れてくたびれた者へ変わり警戒感を強くした。ランタンもないまま、目を凝らして歩むパーシバルに小柄な影が忍び寄る。
「なんだ?」
「あ、なあ、おっさん、この辺のヤツじゃねえだろ」
「子どもはさっさと帰れ」
「何も持たずに帰れねえんだ。なあ、何か恵んでくれよ」
小柄で酸っぱい悪臭を放っている影に向かって、パーシバルは小さくため息を吐いた。
「小遣いをやる。代わりにどこかに穀物庫……大きい建物ってあるか、教えてくれ」
ポケットに放り込んでいた大銅貨を出す。子どもが素早く飛びついて奪った。
「へへ、気前いいな。ここに穀物庫なんて上等なもんはねえよ」
逃げようとした子ども、おそらく十代の少年だろう、の襟首を掴んで引き留める。
「ぐえ、は、放せ」
パーシバルは加減しつつも少年を突き飛ばした。
「それらしき建物でもいい」
「わ、わかったって。ええと、建物な……この間爺さんが下敷きになって死んだとこかな。三つくらいでっけえ四角いのが並んだところがある。そっちの家無しが並んでる奥から行ける」
天幕が数張並んで張られた奥へ目を凝らすが、何も見えない。気を逸らした隙に、子どもは逃げた。
「行くか」
メルヴィンだったら舌打ちでもしろと助言しただろうが、パーシバルは低く呟くのみである。天幕を揺らしながら脇を抜けると、少年の言葉通り道があった。水の音が聞こえる。川の支流が近い。貧民街では目立つ大きな廃墟が二棟、一棟は倒壊している。メモの示す通り元は穀物庫だったのだろう。近くを流れる川の音と冷たい秋風の音が大きく聞こえた。瓦礫を踏みつつ進んだ先に、開けた空き地へ出る。パーシバルは周囲を見回しながら空き地中央へ向かった。己以外の人の気配は一切しない。
「誰も、何も、ない」
虚しい囁きが零れ落ちた。体感にして小一時間ほど、待機に焦れて空き地の点検を始めたパーシバルは、隅にある枯れた蔓に覆われた門らしき場所へ近づく。抱えていた箱を置いた瞬間だった。
「動くな」
項に冷たい金属の先端が触れた。
「おいおい、物騒だな」
「黙れ」
両手を挙げて気配だけで背後を伺う。黒狼の副長である、もちろん相手の気配には気づいていた。
「メモの通りに売れ。金は娼婦に。従うなら次もある」
「ほう……それはありがたい」
素に近い口調で答えて振り返ろうと首を動かす。
「ここにはアンプルよりも濃い薬が入っている」
声の低さと聞こえる位置から、己より若干小柄な男だと推測した。
「脅しにしてはやり過ぎじゃないか」
パーシバルが冷静な事を疑問に感じたのだろう、男は一歩踏み込んだ。
「粉屋はお前でなくともいい」
相手の顔が見えておらず、気配と声だけでは戦闘練度は図り切れない。捕縛可能と断じるには躊躇いが残る。モールフィの危険性は熟知していた。ランスロット達が近くにいると信頼しているが、距離が離れているのだろう。彼らの気配までは察知出来ずにいる。
「……上手く捌くさ」
「いいだろう」
項から針が離れた瞬間、廃墟方向でランタンが煌めいた。パーシバルが飛び退く。振り向きざまに上段に足を蹴り上げたが、空を切った。足音が複数駆けて来る。剣が鞘から放たれる音もした。




