黒狼の選良騎士ー9
大型の馬車が進路変更せずともすれ違えるよう敷設された馬車通りは、王都内の雑多な街中までは延びていない。近衛の馬車は王宮から川沿いに郊外へ向かって南下し、東の住宅街、中心部にある商店街に沿って続く通りを疾駆し、ローズの自宅がある西の住宅街外れまで辿り着いた。
「ありがとうございました」
我先にと尻尾を振ってはしゃぐコタロウのリードを引いてランスロットが先に降り、ローズもお礼を言ってから続く。霧雨は止んでいて外気は秋の夜らしく冷え込んでいた。
「この馬車だとこれ以上住宅街には入れない。後は徒歩で」
開けたままの扉から出て来ようとするパーシバルを、ランスロットが固い声で止める。
「パーシバル殿、自分が送り届けますので、お戻りください」
「うん? そうするとランスロットの帰りの足がないのでは」
「自分は繁華街の詰所まで戻って、馬を借りますので」
「ふうん? なら、帰らせて貰おうか。では、ローズせんせい、また明日、ヒースレッドの様子について伺いますので」
「ええ、そうですね。ターニャが様子を見て来てくれているはずだから、はい、ご報告します」
優雅に会釈して去って行くパーシバルと馬車を見送り、ローズとランスロットとコタロウは暗い夜道を並んで歩き出す。馬車に閉じ込められていたうっぷんを晴らすべく、リードの先で道端の匂い嗅ぎに忙しいコタロウのお陰で、二人の進みは遅い。住宅街の外れにもガス灯はあるが、人通りの多い道より数が少ないため、夜闇が深い。
「モールフィの研究論文を取り寄せたと仰っていましたが」
「ええ、診療所の元同僚がちょうど隣国へ行くって言うから、送って貰うよう頼んだんです」
「もしかして、我々が持っている資料よりも新しいかもしれません」
「ああ、そうかもしれない。見ますか? 一度目を通したので、新たに取り寄せるまでの間、警邏にお貸ししてもいいし」
馬車内で感じた居心地の悪さを払拭するかのように、ランスロットは淡々としつつも饒舌に続ける。
「ありがたい、助かります。警邏の捜査に医師の視点が必要な事が多いのですが、専属のせんせいが引退したいと仰っていて」
「そうなんだ、ご高齢なの?」
「はい、今回の事案に関しては何とかご意見を貰えていますが、この先どうしたものか……総務が後任を探していますが、難航しているそうです」
「薬物の検査とか遺体の検死とか、治療とは異なる分野だけれど、医師としての知識や経験は必要だも、っと、あ」
訳知り顔で答えるローズを、側溝の奥にある草に興味惹かれたコタロウが引っ張る。
「せんせい!」
さっと手を伸ばしてローズの腰を支えたランスロットは、甘さと爽やかさが混ざった匂い立つ女体の香りに一気に耳に血を上らせた。
「大丈夫、ですから。ランスさんはなんていうか、過保護」
強い体幹で姿勢を戻したローズは、たたらを踏むようランスロットから距離を取り、呆れた口調で言う。
「過保護、ですか」
「ええ。幼児じゃないんだから、こんな事で転びません」
責められていると感じたのか、僅かばかり眉尻も肩も下げる騎士に、医局の薔薇がさらなる棘を追加した。
「素敵な騎士様に護って欲しいっていう若い女の子だったら喜ぶでしょうけど」
つんけんするローズの足元で、コタロウは強くリードを引いて進んで行く。常ならば凛と伸びた背を僅かに丸めてゆっくり華奢な背を追いかける灰色の瞳の騎士は、薔薇の些細な棘にも傷ついた。
長年の風雨に耐えた石造りの二階建てアパートの一階が、ローズが住む部屋である。泥落としの玄関マットの上で何度か足踏みをして泥を落としたローズは、ポケットから出した破れた手巾で、素早くコタロウの足裏も拭った。
「風情のある建物ですね」
ランスロットの感想に、足裏を拭かれて不機嫌そうに鼻を鳴らすコタロウの顎下を撫でていたローズが振り返った。
「古いよね、でも住みやすいの。上は大家さんのアトリエなんだけど、身体を壊してからは絵の保管倉庫みたいになってるから、出入りするのは私とコタロウだけなんだ」
「そうなんですか」
答えながら、アパートに並んで何軒か建っているこじんまりとした邸を観察する。彼女を護衛している第十三部隊からの報告で、朝は近所の人間と連れ立って通勤していると知っていた。
「クンクン」
「ああ、ごめんね、コタロウ、すぐ開けてごはんにしよう」
甘えた声で空腹を主張したコタロウは、扉が開くと一目散に室内へ飛び込んで行く。
「どうぞ、コタロウが逃げちゃうと困るからすぐに閉めて」
「はい」
玄関マットで軽く足踏みをして軍靴の泥を落としたランスロットは、素早く室内へ身を滑り込ませた。ローズは入ってすぐランタンを点けて、奥の台所も同様にしている。ランスロットは一度息を止めてからゆっくり、室内の空気を吸い込んだ。ローズの纏う香りを思い切り吸い込んでしまうと、思考が鈍くなる自覚がある。彼女の部屋は柴犬と同居しているとは思えない程、芳しい香りが漂っていた。
「散らかってるけど、コタロウのために掃除はしてるから、汚れてはいないと思う。座って待っていて」
小さな木製の食卓に揃いの椅子が2脚、背の低い長椅子には洋服が何着も放置されていて、本来だったら玄関から室内が見えない用途である衝立が、物干しとなっていて、洗濯された衣類がひしめいている。床にはコタロウの玩具であろう縄玉や鹿の骨が転がっていて、犬の飲用と食用である器だけが綺麗に並んで置いてあった。
「コタロウ、ごはんよ」
茶色い粒餌が音を立てて器に注がれると、コタロウは素早くやって来てお座りをする。
「待て……よし!」
ローズの台詞と共に餌にがっつく柴犬に目を細めながら、ランスロットは彼女の服のせいで隙間の少ない長椅子に浅く腰掛ける。立ったまま待つつもりでいたが、明らかにローズが不満そうに見つめて来たのに気づいたからだ。マッチで石炭の入った焜炉に火を入れたローズは、ヤカンに水を入れてからランスロットの元に戻る。
「ランスさん、ちょっとお湯を沸かしているから見ていてくれる? 資料を持って来る」
「あ、はい」
さっと立ち上がったランスロットは、命じられるままに台所に足を踏み入れ、温まり始めているヤカンの前に立った。彼が台所へ来るのを見届けたローズは、貫頭衣を脱いで長椅子へ放り投げてから、食卓や長椅子のある部屋の隣の扉を開けてランタンを点ける。
「あちゃー」
机を中心に積み重なった書類、床に散らばった文具や本等が薄明りに浮かび上がった。研究論文をどこに片付けたか把握していない事実に気付いたローズは、ランスロットの隣に戻って彼を見上げる。
「あの、ランスさん。お腹空いてる?」
「はい?」
「申し訳ないんだけど、資料は明日でも良い? 昨日買った煮込みとワインがあるんだけど」
「いえ、資料だけ受け取って戻り」
「お、な、か、空いてますよねー?」
彼の台詞を強引に遮ったローズは、棚を開けて鍋を取り出した。
「水道管の近くで保存しているから、悪くはなっていないはず。私の親友の料理人が作ったからすごく美味しいの。温めよう」
唖然とするランスロットを横目に、ローズはヤカンの隣の焜炉に鍋を置く。
「女性が一人で暮らす家に夜、長居するのは、その、誤解されてしまいます」
「誰に? 恋人も婚約者もいないのはわかってるでしょ? 誤解されて困ったら釈明すればいいだけの事でしょ。昔の貴族のご令嬢でもあるまいし」
「ですが、俺のような者と噂が立っては」
「誰も見てないのに誰が噂をするんですかー」
嘲りすら感じる口調のローズに上手く反論できないまま、ランスロットは口を噤んだ。
「何かご不快にさせましたか」
ヤカンがお湯の沸騰を知らせる音を立て始めた頃、ランスロットは所在なさそうな面持ちのまま尋ねる。棚からワインの入った瓶を取り出していたローズは、無言のまま隣室の食卓へ瓶を運んだ。餌を食べ終えたコタロウがローズの周囲を弾んだ足取りでうろうろする。
「コタロウ、なんでかな、ランスさんにイライラしちゃう」
お湯が沸く音にローズの呟きは紛れて消えた。同意を得ぬまま夕食をご馳走する事にしてしまったので、お茶を入れようと沸かしたお湯はヤカンのまま一度冷ましてから、水瓶に入れる事にする。
「ランスさん、ヤカンをその鍋敷きの上に置いておいてくれると助かります。お茶よりワインの方がいいよね?」
幾分か声に柔らかさを含ませて頼むと、ランスロットは周囲を見渡して作業台においてあった布でヤカンの取っ手を掴んで、ローズが鍋敷きと言った古布の上に置いた。居間や書斎として使っている部屋と異なり、台所だけは物が少なく片付いている。お湯を沸かしたり買って来た料理を温める程度にしか使用していないゆえだ。
「食器を出しますか」
小さな食卓の上に瓶と杯を置いたローズは、台所から問いかけて来るランスロットに声だけで返事をする。
「ええ、引き出しを適当に開けて出してください。匙だけでいいわ」
ランスロットが食器を設置する姿を横目に、ローズは再び台所に戻ってテレンシア特製煮込みをかき混ぜた。スパイスの香りが辺りを満たし、胃が縮まる気がして腹部を押さえる。コタロウが鼻をひくひくと鳴らしながら台所へやって来て、足元に犬がいる生活に慣れていないランスロットに蹴られそうになって彼の足首に甘噛みをして抗議した。
「あらあら、コタロウって音もなく下にいるから、気づかないのよね」
「すまない、コタロウ」
律儀に謝罪するランスロットが可笑しくて、ローズは苛立ちを忘れて笑い出す。呆けた表情で笑い出した彼女を眺めるランスロットの足に、コタロウは今度は前足で突撃を掛けた。
「アハハハ、もう、コタロウ、やめて。可笑しいし、かわいいわ、本当に困る」
気が抜けたように口元を緩めたランスロットは、優しい声で言う。
「かわいいし、困ります」
「コタロウのこと?」
「……はい」
意味深な間を取ってから是と答えたランスロットは、ローズの指示に従って鍋を食卓へ運び、衣類がひしめく物干しと化した衝立の端っこに、濃紺の警邏の上着を掛けた。恐妻家の夫みたいに己に従う部隊長に対して、ローズが感じていた苛立ちはいつの間にか消え、親近感が強く首をもたげて来ている。互いに普段通りの振る舞いが取れず感情に振り回されてしまっている事には気づいていた。
「そういえば、この家にコタロウ以外が入ったのって初めてだわ」
「え……そう、なんですか」
「ふふふ、だって、こんな散らかっているし……ごめんなさいね、ランスさん」
思い出したように謝罪するローズに、ランスロットは視線を下げて小さく首を左右に振る。ローズのゆるんだ素の姿を遠慮せず見せられて、喜びで胸がいっぱいだった。苛立ったような彼女の態度すらも嬉しく感じる己に、ランスロットは内心で呆れる。
「ああ、美味しい。甘藷も栗もほくほくして、甘いけどスパイシーで深みのある味で、ワインにも合う。ランスさんは何が好き?」
「肉が、美味いです」
「そうね、お肉も美味しい。そういえばチーズもあったはず、ちょっと待ってね」
次々と杯を空にしてワインを流し込んだローズは、機嫌良く話しながら立ち上がった。一気に酔いが回って身体が左右に揺れるのを、笑い飛ばす。
「アハハハ、楽しいわ。家で飲むなら帰る手間がないんだもの、楽でいいわ」
「ローズせんせい、まだ石炭が冷めきっていません、焜炉には注意して」
「ふふ、だから、過保護って言ってるのに、ランスさんたら、アハハハ」
生成りの生地のシャツの襟元をぐいと押し広げ、大きくため息を吐いたランスロットは、杯の中を飲み干して立ち上がる。
「過保護で結構。俺はあなたが心配で仕方ないんです」
据わった目で紡がれた台詞に、ローズは真顔になって目を瞬かせた。
「あら、まあ」
台所へ向かおうとした腰を力強く支えられ、寄りかかりたい気持ちがこみ上げる。口に出した事はないが、ランスロットが自分に好意を抱いていると理解していた。
「チーズを、食べたいんですよね」
「ええ、そう」
「俺が持って来る。座っていて」
肩を撫でるようにして椅子に戻されたローズは、どこか色を含んだ触れ方をして来るランスロットの、服の上からでもわかる盛り上がった背の筋肉を眺める。
「あの、さっきの棚の中」
酔っているからか、羞恥からか、自分でも判断できないままに頬に血が上って行った。
「てつめんぴ、詐欺」
チーズを差し出すランスロットの灰色の瞳も、形の良い唇もゆるやかに弧を描いている。
「食べて。あなたが食べている姿は、愛らしい」
「ちょ、やめてください、食べられないじゃない」
食卓の上に肘をついて己の顎を支えつつ、警邏部第一部隊長はこれ以上なく緩んだ表情で、ローズを見つめていた。




