警邏部の新人ー2
足元から小さな息遣いが聞こえて、ルークは目を見開いた。
「クウゥン」
「え、柴犬?」
「こんにちは、ご予約ですか」
「あ、ハイ」
医局の受付で受付嬢と会話しながら、足にまとわりつく柴犬に戸惑っていると、座っていた受付嬢が慌てた様子で立ち上がる。
「もしかして犬が??」
カウンター越しにルークの足元を覗き込んだ彼女は、腰の高さの扉を開けて出て来た。
「こいつは医局の犬なんすか」
「ああ、いえ、医師の飼い犬なんですけど、さっきまで奥で繋がれて寝てたのに。すみません」
「いや、犬好きなんで。柴犬に会ったの久々っすわー」
「この子、シバイヌっていう犬種なんですか」
「そうそう。東方の犬だったはず。実家が犬好きで」
「へえ、あ、失礼しました」
ルークは柴犬を抱き上げて、受付嬢に渡す。危なげなく犬を抱き上げる新人騎士に笑顔を向けて、受付嬢は犬を受け取ってカウンターの奥へ連れて行く。
「ああ、金具が緩くなっちゃってる」
首輪に引っかける金具の部分が外れてしまい、脱出したらしい。
「大丈夫っすか?」
「ちょっと待ってくださいね、代わりのリードはないし、直さないと」
「良かったら、抱っこしときましょうか」
首を左右に巡らせて混乱した様子の彼女に、ルークは提案した。
「ありがとうございます」
同世代と見える受付嬢は、笑顔でお礼を言って犬を預ける。
「おとなしいな、おまえ」
犬の顔を覗き込むと顔を舐めて来る。ルークは肩を揺らして相好を崩した。受付嬢は引き出しを開けては閉じるを繰り返している。
「名前はなんですか」
「え、ああ、ターニャです」
ようやく目当ての工具箱を見つけた受付嬢は、勢いよく新人騎士を振り仰ぐ。マスカラがしっかり乗せられたまつ毛を忙しなく動かしながら、サーモンピンクに彩られた唇で弧を描いた。
「メス?」
「んん、名前、ああ、シバイヌの方、やだ、私かと」
薄っすら頬を染める受付嬢ターニャに、ルークは低く笑い声を上げる。
「ターニャちゃん、か、俺はルークです。こいつは?」
「そのこはコタロウっていうの。医師が東方っぽい名前を付けたのは、東方の犬って知ってたんだ」
「そうなんすか、今日診てくれるのは、コタロウを飼ってる医師ですか」
「はい、ローズ医師です」
笑顔で会話をしながら簡易的に金具を直したターニャは、リードの先をルークに差出し、細身だが長身の騎士を大きく目を見開いて見上げた。
「首輪に着ければ良いっすか」
「はい、お願いします」
首輪にリードの金具を繋いで、一度コタロウに頬ずりしてから、彼は手の中の暖かな毛玉をそっとターニャに差し出す。
「クウウン」
甘えた鳴き声を上げるコタロウに、ルークもターニャも無邪気な笑顔になった。
「かわいいっすね」
「ね、帰りも時間あったらかまってあげてくださいね」
「ういっす」
「じゃあ、そっちの扉をノックして診察を受けてください」
名残惜しそうな眼差しをコタロウと交わしてから、ルークはターニャに示された扉を叩いた。
「どうぞ」
中から柔らかな声が聞こえる。重たい音がして開いた扉の奥に、赤みがかった黒髪の女性が座っていた。資料に落としていた目は優しい碧眼で、初対面の患者の警戒心が自然と解ける。
「あ、どうも、ルークです。ええと、ルーク・レコメンドです」
「ルーク君ね、どうぞ、座って」
古びた回転椅子に腰かけたルークは細い背中を丸めて軽く会釈をする。
「初めまして、医師のローズです。よろしくお願いします。じゃあ、さっそく。頭痛と腹痛を繰り返すって聞いてるけど、詳しく教えて」
「はい、あの……朝起きて動き出すと、頭が痛くて」
「うん、目を覚ましてすぐかな、どんな感じ? 痛みの種類はどうかしら」
「起きようとしても目があんまり開かなくて。なんか、こう、痛みっつうか、頭だけじゃなく身体も重たくて動けない訳じゃないけど、完璧でもないって感じで」
「ふうん、そっか、朝だけなのかな」
相槌の声が耳に心地よい。ルークは幼げな顔立ちにはあまり似つかわしくない低い声で話し続ける。
「はい、起きてしばらく経つと治まるし、休みの日は昼とか夕方まで寝てたりするんで平気なんです」
「うん、ルーク君は十六才だよね。朝が辛いのって最近の話?」
「いえ、二年くらい前から、急に。小さい頃は普通に元気に起きてました」
「もしかして、二年くらい前から急に背が伸びたり声変わりした?」
「うーん、多分、そうっすかねえ」
首を捻る新人騎士にローズは小さく笑い声を上げた。瞬きの回数を増やして驚きを表現するルークに、医師は軽く肩をすくめて見せる。
「ああ、ごめんなさい、笑ったりして。自分のことって意外と把握していないわよね。私も若い頃はそうだったわ」
「そうすか」
「うん、そう。きっとお母さまならご存じでしょうね。次の時に聞いて来てくれるかしら」
「ああ、はい、必要なら」
「よろしくね、腹痛は下しているのかな、それも朝だけ?」
「はい、そうっす」
包み込むような温かな笑みを浮かべる医師をぼんやり見つめて、ルークは薄っすら頬を染めて口をつぐんだ。彼女の首筋にかかるおくれ毛が視界に入り、落ち着かない気分になる。眼差しも丸みをおびた頬も波打つ髪の毛も、ローズを優しげな女性として印象づけている。先輩騎士たちの『すげえいい女が王宮医局にいる」という噂話を小耳に挟んだことが、急に脳裏によみがえった。
「とりあえず、頭痛薬と腹痛薬を出しておきます。薬を渡すから、受付の脇で待っていて。訓練で疲れちゃうだろうし、あんまり夜更かしせず良く寝てね」
「あ、はい」
「胸の音を聞かせて」
「え、あ、う」
身を乗り出して来たローズから立ち上る香りに上せそうになりながら、ルークは息を潜めて彼女のつむじを見つめる。
「うん、大丈夫そうね」
胸元に当てられた聴診器がローズのブラウスの胸ポケットに帰って行くのを眺めて、ルークは深く息を吐き出した。自分の耳に熱が集まるのを感じて、彼は素早く立ち上がる。
「じゃあ、あの、ありがとうございました」
「はい、お大事に」
腰を折り曲げて礼をし、ルークはぎこちない動きで診察室を出た。受付に戻って脇に設置された椅子に崩れるように腰を下ろす。
「何あれ、やべえ、なんか、すごい。良い匂いするし」
つぶやきながら天を仰ぐルークの耳に笑い声が聞こえた。
「診察お疲れ様でした、ルークさん、ふふ、ルークさんもローズ医師にやられちゃったのね」
「いやいや、そんなんじゃねえし」
「ふうん、そう? 騎士ってだいたい皆ローズ医師のこと好きになっちゃうんだよね、綺麗で優しくてマシュマロエロボディでさ、はあ、うらやましー」
長年の友人同士のような口調になるターニャをルークは胡乱な目で見やる。
「綺麗な人だなって思ったけど、好きとか違うし。それよりターニャちゃん、コタロウは」
コタロウのリードを渡されたルークは、じゃれついてくる柴犬を撫でまわしてざわめく心を落ち着かせた。




