王宮食堂の女給ー10
王宮に医局が出来てから暫くの間は、医師はイーサン一人しかいなかった。王宮の福利厚生の一環として設置したものの、診察を受けるためには上司の許可と予約が必要で、継続的治療は不可能なため、結局専門の医院を紹介されるなら、最初から自分で判断して専門の医院へ行った方が良いと判断する者が多かった。十八年前の政変以前は医師が庶民を診察することはほとんどなかったので、未だに敷居が高いという感覚が残っているのも敬遠される理由だった。市井の医院では、政変以前は薬師だった人達が医師として働いている。貴族ではない王宮使用人にとっては、医局の医師より薬師上がりの医師の方が馴染み深く、気楽に受診出来る。
「あの……」
イーサンは下級使用人の食堂女給の受診に、深い感慨と時代の流れを感じており、入室して腰を下ろした少女を暫く無言で見つめていた。
「ああ、すみません、食堂のセイラ・ソーダさんで間違いありませんか」
「はい、そうです」
背を丸めてあちこちに視線をさまよわせる少女を、細い糸目で観察しながら、イーサンは意識して柔らかな笑みを浮かべて見せる。
「そう緊張しないでください。まずは症状をお伺いしましょう」
厨房長からの申し送り書類に視線を落としつつ聞くと、セイラはおずおずと顔を上げた。
「腰に痛みがあって……ぶつけたのかもしれません」
「かもしれない、というのは、気づかぬうちに痛みが出たと?」
「はい、いえ、あの、人とぶつかって押されてしまって」
「では、診てみましょう」
「あ、あの、できれば女性の方に……」
「ああ、そうですね」
診察台を横目に立ち上がったイーサンは、扉を開けてターニャを呼んだ。
「ターニャ君、立ち合いをお願いします」
「はーい」
診察室に入って来たターニャを見て、セイラは小さく唇を噛む。
「そうではなく、もう一人の女性の医師の方に診て貰いたいんです」
急にはっきりとした口調で主張するセイラを、ターニャが明るく制した。
「大丈夫ですよ、私がいますから。それに、イーサン医師は信用出来る方です」
女性の患者が男性医師と二人きりの状況を忌避したいと訴える事は時折あるが、医師を変えてくれと言われたのは初めてで、ターニャは不審を覚える。
「女の医師に、お願いします」
深く腰を折る様子を見て、イーサンは細い目を更に細めた。腰痛患者の所作には見えなかった。
「診せたくないと言うなら仕方ありません。専門の医院を紹介しましょう。行くまでは湿布でしのいでくださいね」
「え、あの」
「ターニャ君、湿布を渡して帰ってもらって」
背を向け椅子に腰を下ろしたイーサンと頬を引きつらせているターニャを見比べて、セイラは諦めて退室する。納品された薬を保管している部屋の扉の鍵を開けるターニャの背を、診察室から追い出されたセイラは暗い目で見た。
「はい、どうぞ。後ほど、医師の書いた紹介状を届けますので、とりあえず湿布だけお渡しします」
「どうして、女の医師に診て貰えないんですか」
明らかな仮病で受診しておいて、強気な態度を崩さないセイラに、ターニャは苛立ちを募らせる。
「……どちらの医師が診るか決めるのは、あなたじゃありません。そういう希望があるなら、最初から市井の医院に行ったらどうです?」
セイラの行動が理解できないと怪訝な表情をしているターニャから、セイラは引っ手繰るよう湿布を奪った。ターニャは不審な言動をする患者の少女を見送って、受付の奥で丸まって眠っているコタロウを癒しを求めて優しく撫でる事にした。
「はあ、はあ、はあ……メルヴィンさまと同じように、いい加減な診察をされたって、言うつもりだったのに、いないなんて」
小声でつぶやきながら階段を下りるセイラの顔色は青白い。
「でも湿布がある」
早足で階段を下りたセイラは、一目散に騎士棟へ向かった。騎士の勤務体制については聞いても教えて貰えないが、メルヴィンはだいたい毎日午後の訓練には参加するので、訓練前か訓練後に捕捉する事が出来る。お礼と称して最初にセイラが騎士棟を訪れた時、面白がったルークが漏らしてしまった情報だった。
「メルヴィンさま!!」
濃紺の制服の襟元を緩めながら、騎士棟へ向かう大きな背中を見つけたセイラは、息を切らしながら彼に駆け寄る。
「セイラさん」
眉尻を下げて低く名を呼ぶメルヴィンに、セイラの胸は高鳴った。密かに会話を聞いた事はあれど、面と向かって会話が出来るのは数日ぶりである。貯金をはたいて弟妹に食料を買い与え、前借りした給与は父親に取られてしまったので、渡せるお礼の品という口実が作れずにいた。
「王都の巡回帰りですか」
「ああ」
自分を見つめる琥珀の瞳が優しい気がして、セイラは青白い頬に血を上らせる。
「お疲れ様です、あの、これ、湿布です」
「ん? 湿布?」
「怪我してるんですよね」
差し出された包みを咄嗟に受け取ってメルヴィンは小首を傾げた。
「怪我の話なんかしたっけ?」
「あ、あの、あの人に聞きました。医局のローズ、さんに」
盗み聞きした情報だとは言い出せず、セイラは咄嗟に浮かんだ名を口にした。
「へえ、そりゃあ……まあ、貰っとく。気を遣わせたな」
少女の発言が嘘だと悟ったものの、直近の捜査によって知った彼女の境遇へ強い同情心を感じていたメルヴィンは追及をやめて言葉を濁す。
「お礼ですから!」
「……あのな、もう、お礼はいらない。十分いろいろと貰ったし。ありがとな」
そっと頭に手を乗せられて、セイラは自分のブラウスの胸元を掴んだ。泣き出したいような叫び出したいような強い感情の波にさらされる。
「メルヴィン、さま。私は、もっと、お礼を……」
「もういいから。無理すんな、アンタはもっと、自分を大切にした方が良い」
子猫をなだめるような低く優しい話し方をされたのは初めてだった。騎士が心を開いてくれたと敏感に感じ取り、嬉しさがこみ上げて言葉にならない。
「わた、し、メルヴィンさま、あの……」
「あら、お疲れ様、メルさん」
両手を握りしめて潤んだ瞳で大柄な騎士を見上げる少女の視界の端に、大きな袋を抱えた人が入り込んだ。
「よう、医師。デカい荷物だな」
「薬を受け取ったところ……あら、お邪魔だったわね」
メルヴィンの影で見えなかったセイラの姿を見止めたローズは、碧眼を好奇心も露わに見開きつつ、二人の横を通り過ぎようとする。
「あの!」
ローズは足を止めて、険しい形相で自分を睨んで来る華奢過ぎる少女を眺めた。
「はい?」
目を瞬かせるローズの前に移動して、セイラは泣き出しそうな声で叫んだ。
「メルヴィンさまに近づかないで!」
「あら、まあ」
「わた、私には、メルヴィンさましか、いないのに!!」
「ちょ、ちょっと待って、セイラさん、こっち」
騎士棟の入り口付近で痴話喧嘩めいた台詞を叫ぶ少女という構図に、慌てたメルヴィンは、セイラの肩を押して人目に付きにくい方向へ誘導した。詰られたローズは大きな袋を抱えたまま、後をついて来る。
「なんでついて来るんだよ」
「ええ、だって」
面白そうだから、と口の動きだけで答えるローズを胡乱な目で睨み、メルヴィンは泣き出してしゃくりあげる少女の背を撫でながら、人気のない訓練場の端まで移動した。
「落ち着いたか?」
感情を爆発させて大泣きしたセイラは、騎士達が訓練後に転がる場所として人気の木陰にへたり込み、小さく頷く。メルヴィンはセイラの隣に腰を下ろし、ローズは少し離れた正面に立って薬の袋を地面に置いた。
「栄養が足りていないわ。おそらく、睡眠も。大きな精神的負荷があるみたいね」
医師としての推測を述べるローズを、セイラは泣きはらした目で見上げる。屑親に寄生され集られ続けて来たであろう少女の人生を思い、メルヴィンは顔をしかめた。
「心配しないで。私はメルさんと恋人じゃない」
ローズが断固とした口調で告げる台詞に、メルヴィンは苦笑を浮かべる。
「それは……」
「私、どっちかというと優男が好きなのよ。メルさんは好みじゃない」
「おいおい、酷えな」
ローズの意図を測りかねているメルヴィンに視線を送り、彼女は目線だけで彼の発言を制した。
「でもね、一つ言わせて。あなたは王宮で働いてるし、自立している。メルさんしかいないなんて、男がいなくちゃ生きて行けないみたいな、そんな思い込みは捨てた方がいい」
「思い込み……」
父親の言いなりになっている自分の母の姿が脳裏をよぎる。嫌悪していたはずの母と同じ道を自分も歩もうとしているのだろうか、セイラは内心で大きく動揺した。
「セイラさん、アンタが一生懸命生きてるのはわかる、同情もする。だが、俺は騎士としての役目は果たすが、男としてアンタを守ってはやれない」
罪悪感を隠そうとしないまま、メルヴィンは淡々と言った。
「あの日、中庭で、守って、くれました」
「騎士として、揉め事を見過ごせなかった、ただそれだけだ」
セイラは膝を抱えて顔をうずめる。心は凪いで涙は出ないが、頭は忙しく回転していた。




