王宮食堂の女給ー9
軍靴が隠れるまでに伸びた草むらの中を、疾駆している生き物がいる。
「待って、待ってえ」
女性が息も絶え絶えに叫びながら草むらに分け入った。小さな影が動きを止めて首をもたげる。
「ああ、いい子ね、コタロウちゃん」
女性、ローズの母であるレイラが追いつくと、コタロウは再び駆け出した。
「ちょ、コタロウちゃん、止まって、とまってえええ」
はしゃぐ柴犬について行けず、レイラは前屈みになって自身の両膝に両手を置く。リードを繋いで朝の散歩に連れ出そうとした一瞬の隙をついて、コタロウに逃げられてしまった。開放感に興奮したコタロウは、近所の空き地までやって来て駆け回っている。必死なレイラをあざ笑うように、コタロウは追いつかれないだろう距離で止まって、彼女の様子を眺めたりもしている。
「ああ、どうしましょう、ケホッ、このまま、どこかへ行って、しまったら」
誰か捕縛を手伝ってくれないかと周囲を見回した時、骨ばった手が差し出された。
「お怪我はありませんか」
「え、はい」
見上げると背筋のピンと伸びた立派な体躯の青年が、レイラの手を掴んで上半身を引き上げてくれた。
「捕まえますか」
彼が問いかけた途端、様子を伺っていたコタロウが一目散に寄って来て、青年の足元にじゃれつき始める。そっと犬を抱き上げた彼は、コタロウに顔を舐められそうになって、ほんの少しだけ眉根を寄せた。
「あらあら、ありがとうございます。コタロウちゃん、おいで」
両腕を拡げるレイラを見つめるつぶらな瞳に、追いかけまわした事により生じた疲れが吹き飛んでしまう。
「ああ、いけない子ね。かわいいわ」
ため息交じりにつぶやくレイラに、青年は口元を緩めた。
「お渡しする前にリードを付けた方がよろしいのでは」
「まあ、そうよね、ありがとうございます」
青年の言葉に甘えてリードを付けると、彼はコタロウをそっと地面に下ろす。地面に下り立ち我が意を得たりとばかりに再び青年の足にじゃれつく柴犬を、レイラはついつい引きはがさないまま見守った。
「ごめんなさいね。あなたのことが好きみたい」
レイラの台詞に小さく息を飲む青年を、彼女は不思議そうに見上げる。
「もしかして、騎士様かしら?」
手を取った時に感じた掌の硬い肉刺と、半そでのシャツから伸びた腕の太さ、普段着に合わない武骨な軍靴から推測して問い掛ける。青年は無表情に戻って小首を傾げる。
「そう見えますか」
「ええ、政変で死んだ夫が騎士だったの。なんだか雰囲気が似ているわ」
初対面の相手にも全く物怖じしないレイラに戸惑いつつ、青年、ランスロットは静かに会釈する。
「そうですか……失礼、所用の途中ですので、失礼致します」
ランスロットは後方を振り返り、そのまま踵を返して足早に去って行った。追いかけようとするコタロウのリードを引いて押しとどめ、レイラはランスロットの綺麗に伸びた背を見送る。
「お仕事かしらね」
つぶやくレイラの視界の端にランスロットと合流する人影が映った。
「あれって、コタロウっすね?」
「ああ、ローズ医師の母君だと思う」
「ミシェル・ムーが何度も様子を見に来てた家に住んでるんですよね」
着古したシャツにくるぶしが出る丈の薄い生地のパンツ姿のルークは、返答しないまま歩き出した部隊長の半歩後ろを歩きながら、遠目に一人と一匹を振り返る。お尻を振りながら歩く柴犬に内心で癒されながら、ルークは近所で聞きこんだ情報を整理するために口に出した。
「商会で働いている女性が十年以上前から暮らしていて、夫はだいぶ前に亡くなっていない、娘は何年か前に仕事のために出て行って、時々顔を出している」
ランスロットは続きを促すよう軽く顎をしゃくる。
「薬って、医師なら手に入れやすい……まさか、ローズ医師に関わりが?」
ぶつぶつと独り言めいたルークに視線を送り、ランスロットは静かに首を左右に振る。
「犯罪に関わりがあるかはともかく、医師がミシェル・ムーと接点がありそうなのは確かだ。彼奴は何度かここを訪れて、医師の母親の様子を見ている。声を掛けてはいないことから、おそらく、この家に今、ローズ医師が住んでいないことを確認したのだろう」
ミシェルの見張りをしていた騎士からの報告と、自分達が足を運んだ事で得た情報を照らし合わせて得られた推論だった。
「ミシェル・ムーは、医師に会いたがっているって感じでしょうか」
「彼女と顔見知りではない騎士に、情報を集めさせる。医局へ納品される薬については我々で調べよう」
「……はい」
項垂れてしまったルークに、ランスロットは小さくため息を吐いて付け加える。
「これはあくまで俺の個人的な勘だが。ローズ医師が麻薬の売買に手を出しているとは思えん」
「部隊長!」
身長はさほど変わらないものの、厚みの薄いまだ少年らしい体格の新人騎士が弾んだ声で顔を上げた。
「彼女の潔白を証明するためにも調査は尽くさなくてはならない……俺の個人的な勘は他言無用だ。私情を挟んだと疑われるから、メルにも言うなよ」
「うっす、もちろんっす。俺と部隊長はローズ支持者ですもんね!」
「……支持者」
小さく呟いて黙り込むランスロットの隣を、ルークは弾んだ足取りで歩く。
「俺、医師とコタロウが遊んでるのを遠くから見てるのが一番好きなんす。なんか、こう、ほっこりして……だから、酷い目に遭って欲しくないし、売人なんかしてないって思いたいっす」
年ごろの少年らしからぬ素直過ぎる心情の吐露に、ランスロットは静かに相槌を打った。
「ああ、そうだな」
訓練時の模擬仕合では完膚なきまでに叩きのめしてくる上司だが、新人騎士の拙い意見や提案も尊重してくれる。ミシェル・ムーの捜査が始まって新たに知った一面だった。愚痴めいた言動にも真摯に耳を傾けるランスロットへの信頼は、ローズへの憧れと同時にルークの中で増していた。




