第2話
白い制服が階段の方で見えた。反射的に足を止めたセイラは己の腿を叩く。
「クーン」
彼女の動きに気づいたコタロウが、受付の奥でむくりと起き上がって小さく鳴いた。
「あ、起こしちゃった?」
耳の良い柴犬の行動に謝罪を込めて問う。コタロウはセイラの足元へ寄って来て、欠伸をしてから丸まり直した。
「健康診断の再診に来た。ちょうど空いていると聞いたが」
「あ、はい。すぐにせんせいに確認してきます」
書類を差し出す白竜の騎士にぎこちない笑みを向けたセイラは、ローズの診察室へ報告へ出向く。予約を取ろうとして今すぐだったら空いていると言われた騎士が姿を見せることも増えた。
「せんせい、予約外の方が再診でいらしてます」
「はーい、いいよ、入って貰って」
健康診断の結果書類を受け取ったローズが、文字に目を走らせているうちに、騎士が入室する。
「こんにちは、どうぞ、座ってください」
名前、所属、年齢と改めて確認してから、腕を出して貰った。
「……もう、平気そうですね。健康診断の時って激しい運動をした直後だったり、寝不足だったりしましたか」
「ああ、直前に訓練だった」
「そのせいで、脈が張っていたみたいです」
「なるほど……」
謹厳そうな雰囲気の騎士が静かに答える。ローズは書類に問題なしを書き足して笑顔を向けた。
「他にも何か相談したいことがあったらどうぞ」
「いや、ない。ただ……せんせいに感謝を」
「え?」
「健康診断のおかげで、騎士として寿命が延びた同僚がいる」
「ああ、はい。自覚症状がない病もありますから。気づけて良かったです」
「……医局の見立ては優れている、と思う」
丁寧に頭を下げて出て行く騎士を見送ったローズは、顔が笑み崩れるのを止められなかった。
診察を終えても外はまだ明るい。ローズは作業着に着替えて手袋もはめ、中庭へ足を延ばした。コタロウも連れてきている。度々草刈りをしているが、強くなる陽射しで再び雑草が元気に伸びていた。
「コタロウは遊んでてね」
四阿の柱にロングリードを結び、地面や草の匂いを嗅ぎ始めたコタロウを眺めつつ、腰に括り付けたポーチからナイフを取り出す。夕方の風は初夏の熱を冷ますかのように僅かに冷気を含んで心地好い。
「危ないからそうっと近づくのはやめてね」
コタロウに話しかけながら、ローズは鼻歌を歌いながら草刈りに勤しんだ。一心不乱に作業しているうちに中庭も薄暗くなってきた。
「そろそろ終わりにしようかな」
遊び疲れたコタロウは、草の上で伏せをして、時折自分の前脚を舐めたりしている。
「ワフ」
ローズがナイフを収納した時、コタロウは低く鳴いて起き上がった。両耳をピンと立てている。
「コタロウ、何か聞こえるの?」
ローズがコタロウの向いた先へ目を凝らすと、人影が二つ本殿の開け放たれた扉から出て来た。背の高い影と低い影が寄り添うように四阿へ向かってくる。ローズはコタロウのリードを付け替えて、わざと大きな声で言った。
「さあ、草刈りも終わったし、帰ろうか、コタロウ!」
二つの人影の動きが止まる。コタロウのリードを引いて扉へ向かうローズの導線上にいた二人は、囁き合いながら扉方向へ戻って行く。影を追うよう本殿の中へ戻ったローズは、人影が侍女のお仕着せ姿の女性を連れたフィリップだと気づいた。
「お腹空いたね、コタロウ」
「アーオ」
甘えた鳴き声を上げるコタロウに話しかけながら、人通りの少ないロビーを横切って裏門方向へ通じる連絡口へ向かう。
「中庭をデートに使うのはやめて欲しいね、コタロウ。私たちが一生懸命草刈りしてるんだからさ」
小声で愚痴るローズを見上げて、コタロウは『ふんす』と鼻を鳴らした。
花のやの前でローブのフードをはらったローズは、コタロウを抱き上げて扉を開けた。
「シア、来たわよー」
「いらっしゃい、ローズ」
杯を拭きながら一人と一匹を出迎えたテレンシアは、テーブル席の方を向く。彼女の視線の先を辿ったローズは、目を見開いた。
「ランスさん……とナックルも」
見知った顔に喜んだコタロウが、二人の元へ行こうとリードを引っ張る。
「あっちへ行く?」
テレンシアの問いに答える間もなく、コタロウに導かれてテーブルへ近づいたローズは、黙って椅子を引いてくれたランスロットの隣に腰を下ろした。
「ワフワフ!」
コタロウは興奮してランスロットとナックルの足に交互に跳び付く。
「コタロウ、落ち着いて」
ローズがリードを手繰り寄せようとしたが、コタロウは背をしならせて拒否した。
「コタロウ、来い」
ナックルがポケットを探って干し肉を取り出す。ハッハと息を吐きながら寄って行ったコタロウは、干し肉を食べているところをナックルに捕獲された。ローズがナックルにリードを渡して、彼はテーブルの足に固定する。
「慣れているな」
ランスロットの呟きに、ナックルは口の端片方だけ持ち上げた。
「二人で花のやにいるなんて、なんか変な感じね」
「連日捜査に付き合って貰っているので、ご馳走させてもらおうと思いまして」
頷きながら、アクアパッツァの白身を食べ始めたナックルに、ローズは目を眇める。
「それで、水明楼はどうなの?」
隣席が空いているが念のため声を潜めて問いかけたローズの方へ身体を向け、ランスロットは首を左右に振った。
「まだ、なんとも言えません。ギャレン議員が水明楼に顔を出しているのは確かで。俺の父も水路再開発に関わっているんですが、水明楼に頻繁に足を運んでいるようです……父も会合に参加しているんでしょう」
「怪しいのは怪しいと」
「はい、ナックルせんせいを連れて行った収穫もありました」
ランスロットがナックルの方を向いて補足を促した。
「ああ、娼館の厨房から、ホアジャオの香りがした。故郷の香辛料だ」
ナックルが一度手を止めて付け加えた。
「東方のスパイスねえ、どんな味なの」
「痺れる」
短く答えるナックルにローズは口を尖らせた。
「ナックルの言うことは余計か足りないかどっちかなんだけど。もっとわかりやすく説明……」
苦言を呈そうとしたが、テレンシアがローズに料理と酒を運んで来たので口を閉じる。ナックルがつついている皿と同じアクアパッツァと茹でたそら豆、芳醇な香りの赤ワインを前に、ローズの相好が崩れた。ランスロットは僅かに目を細め、彼女の様子をじっと見ている。
「辛い」
「辛いんだ、興味あるなあ」
アクアパッツァの付け合わせのブロッコリーにフォークを刺したローズは、横のランスロットを見上げてすぐにブロッコリーに視線を戻した。
「ローズせんせいは辛いものが好きなんですか」
ブロッコリーを咀嚼して、カリフラワーも刺す。
「美味しかったらなんでも好き」
「他には何が好きですか」
畳み掛けるランスロットの膝辺りに視線を落とし、カリフラワーを口へ運ぶ。
「そうだなあ、なんだろ」
呟いた後でローズは白身魚、プチトマトと口へ運び、最後に赤ワインを飲んだ。ナックルは二人の様子を黙って眺めている。
「……水明楼が東黎帝国の品を扱っているのは確かだろう」
ランスロットの意識が完全にローズに向いてしまったが、ナックルが無理矢理捜査の話題へ引き戻した。
「ああ、そうだろう」
首だけナックルへ向けたランスロットが答える。ローズはランスロットの膝を軽く叩いた。
「ランスさん、はい、テーブル向いて。残りを食べて」
「あ、はい」
素直に正面に向き直るランスロットを、ナックルが眼鏡の奥からまじまじと見る。残りの肉を素早く腹に収めたランスロットは、炭酸水で喉を潤した。ローズ以外の二人は酒を飲んでいない。
「馬で帰るの?」
「はい」
「ナックルは馬に乗れるの」
「俺は馬車で帰る。そろそろ最終馬車の時間だな」
皿を空にしたナックルは、懐中時計を見て席を立つ。コタロウが首をもたげた。
「馳走になった」
「いや、こちらこそ、連日助かった」
まだ食事中のローズがヒラヒラと手を振るのに頷いて、ナックルは花のやを後にした。
花のやを出たランスロットは、当然のようにコタロウのリードを引いて歩き出す。
「ランスさん? もう護衛は必要ないんだから、帰っていいよ」
「送らせてください」
懇願の響きを感じ取り、ローズは僅かに口元を緩めた。
「うん……ありがと」
とりとめのない話をしながら家までの道を歩く。コタロウは草の生い茂る場所でいちいち止まるのを、ランスロットは律儀に待ってやった。
「その……お話する機会がなくて、伝えそびれていましたが」
「うん、なあに」
「アシッド医師のことです」
ローズは歩みを止めて、右肩にかけていた鞄を左肩へ持ち直す。コタロウは地面に鼻面を押し付けてフンフン鼻をうごめかした。
「イーサンせんせい、元気だったとは聞いた」
「はい、お元気そうでした。あなたに、医師として信じる道を進んで欲しいと言っていた」
左肩の鞄の持ち手部分を握り直し、ローズは口を噛んだ。コタロウの進みに合わせて前を行くランスロットの斜め後方で、彼女は小声で答える。
「そんな……道なんて、特にないの」
「はい?」
「ランスさんは騎士として頑張ってる。なりたかった道を進んでるよね」
振り返ったランスロットの眼差しの色が変わった。ローズはそっと視線を反らして、緩やかな髪を耳にかけ直す。
「それは……はい、自分ができることを精一杯、やっているつもりではあります」
「私は、ううん、私もできることをやっているのは一緒かな。でも、イーサンせんせいやナックルの方が、医師として優れているし、なんていうか……そこまでまい進できている訳じゃないんだよね」
ローズの表情を良く見ようと暗がりで目を凝らすランスロットの隣に並んで、彼女はそっと彼の手を取った。ぎくりと立ち止まったランスロットは、コタロウに引っ張られて、犬とローズを交互に見やる。
「ふふ、大きくなったね、ランちゃんは」
艶やかに笑うローズの言葉がランスロットの脳裏で反響した。温かな彼女の手は骨ばった手からすぐに離れる。
「ワン!」
早く動けとばかりに吠えるコタロウに促されるまま、ランスロットは機械的に足を動かした。
「じゃあ、ありがとう、ランスさん」
驚きと混乱で道中の記憶がないまま、ランスロットはローズのアパートの扉が閉まる音を聞いた。




