桜の季節
勉強机の椅子から立ち上がると、テンプレート的なインターホンの音が階下より聴こえてきた。優仁は「は〜い」と言いながら、一階に降りていく。その後をついて行くと、玄関先には初老と思しき女性が立っていた。優仁は、半身で私の方を向きながら、「田辺さん、ちょうど良かった。今、新しい子に「こもれび」の案内をしていた所です。」と簡単に紹介してくれた。
「はじめまして。橋本小華と言います。よろしくお願いします。」
私はペコリとお辞儀をしながら、簡単に挨拶をした。
「あら、もしかしてこの子が優理ちゃんが前に言っていた子?こちらこそ、はじめまして。「こもれび」でお手伝いをさせて頂いている、田辺綾子です。」
そう言うと、玄関口に佇む田辺さんは、にっこり笑ってお辞儀をしてくれた。髪はそれほど長くなく、肩辺りで切り揃えられており、推定年齢とは裏腹に白髪混じりもない黒髪だった。身長は私より一回り高く160cmくらいだろうか、中肉中背で痩せすぎでも太りすぎでもない。服装は、プルオーバーのグレーのスウェットシャツに淡い色のデニムといったシンプルで動きやすそうな出で立ちだった。お手伝いと言っていたので、掃除や洗濯など家事作業を考慮しての服装なのだろう。雰囲気は、物腰柔らかで、よく周りにいそうなお母さんといった印象だった。
「優理ったら、田辺さんにまで話してたんですね。」
「そうね〜。学校から帰ってくるといつも話していたから、私も妙に気になっちゃって」
優理は私と接触する前、優仁とのパトロールの中で私を見つけ、とても気になって早く助けたかったのだと言っていた。恐らく、私と会う前に、色んな人と話していたのだろうと想像に難くなかった。
「ちょうど良いわ。こもれびの事、私が簡単に案内してあげる。」
「いいんですか?色々お仕事お願いしているので申し訳ないのですが……」
「いいのよ。話しながら作業してた方が楽しいじゃない。それに、この子の手続きとか他に仕事があるんじゃない?」
「ええ、まあ……。それでは、お願いしても良いですか。」
「わかったわ。」
田辺さんはそう言うと、「こっちにおいで」と掌ををチョンチョンと手招きをして見せた。私はそれについて行くと、向かった先はお風呂場だった。
「まずは洗濯物かしらね。「こもれび」には男の子と女の子が共同生活しているから、基本的にお風呂場には男女が入れる時間が決まっているの。毎日交代で、先が女子だったり、後が男子だったり。キッチンの冷蔵庫に表が貼ってあるから、後で確認してみてね!」
「はい。女子もけっこう人数がいると思いますが、順番とかあったりするんでしょうか?」
「そうねぇ、特にないけど日によってバラバラって感じかしら。仲良く一緒に入ったり、一人で入ったり、みんな話し合いながら入ってるわね。まあ基本、女子の時間だったら、いつ入ってもOKって思っててくれれば問題ないと思う。」
「わかりました。」
「次に洗濯物のことだけど、小華さんも含め年頃の女の子はもちろん、男の子もいるから、そこは厳重に管理しているの。そこに銭湯とかにあるロッカーがあるでしょ。」
昨日お風呂に入った時はあまり気にならなかったが、入口から入って左手奥の壁に縦3列、横2列の合計6口あるロッカーがあり、それぞれに鍵穴が付いていた。左列の3口には男子、右列には女子とラミネートが貼られている。
「男子って書かれてるロッカーには男の子の洗濯物、女子って書いてあるロッカーには女の子の洗濯物を入れてカギを閉めるルールになってるの。鍵は、男の子のロッカーは浩くんが、女の子のロッカーは結衣ちゃんが管理しているわ。」
「なるほど。でも、それなら今ロッカーに鍵がかかっていると思うのですが、どうやって洗濯するんでしょうか?」
「その為に私が鍵のスペアを預かっているわ。みんなが学校でいない時に洗濯して干しているわけ。」
すると、田辺さんはポケットから鍵を取り出し、女子と書かれたロッカー3口をそれぞれ開ける。中には籠があり、沢山の洗濯物ものが入っていた。田辺さんは、それを取り出すと洗面所の横にある洗濯機に次々と入れていく。その中には私が昨日まで着ていた物も含まれていた。昨日か今朝のうちに、結衣がしまってくれていたのだろうか。
「昔は家庭用の洗濯機だったんだけれど、人が多くてねぇ。量が量だから、コインランドリーとかにある大きな奴を入れてもらったの。乾燥機能も付いてるから、梅雨時でも安心よ。」
確かに洗濯機は家庭でよく見るものより大きかった。これなら一気に洗濯できそうだ。
「私がいない時もたまにあるから、簡単に使い方を教えておくわね。そんなに難しくないから安心して。
まず洗剤、柔軟剤、漂白剤をこの量で、洗濯機の投入口に入れます。あとは蓋を閉めてスイッチを入れたら、おまかせボタンを押せばオッケーです。簡単でしょ?」
田辺さんはそう言いながら、洗剤などのキャップの目盛り線を見せて量を教えてくれた。
「はい。洗濯物は、女子と男子で別々に洗うのですね。」
「そうね、干す場所が違うのもあるけど、混ざり合わない様に、いつも分けて洗濯しているわ。」
田辺さんによると、女子の洗濯物、特に下着などは物置として使っている2階の部屋に、その他に見られても問題ないものは外の物干し竿に干しているとの事だった。
「洗濯物が洗い終わるまで、家の案内をしてあげるわね。」
田辺さんはそう言うと、お風呂場の脱衣場を出て左手に進み始めた。お風呂場入口の正面にはトイレが、右にはダイニングがあるので、昨日は行ったことのない方向だった。
「まず、こっちには小学生たちの部屋があるわ。4人が勉強したり遊んだり、寝たりする部屋ね。トイレ横が女の子の部屋、その更に隣が男の子の部屋になってる。」
田辺さんは、そう言うと、引き戸を少し開けて簡単に中を見せてくれた。それぞれ広めの部屋に勉強机とベッドが2つずつあり、二人が生活するには十分な空間が広がっていた。田辺さんは引き戸を閉めると、更に突き当たりまで進み、そこの扉に手をかける。サムターン式の鍵をカチャリと回し解錠すると、ドアノブをひねり扉を開いた。
「この先は、「こもれび」の庭に続いてるの。いつも、この裏口から外に出て洗濯物を干してるわ。」
田辺さんは「これを履いて」と言うと、裏口の足元にはサンダルが3足分ほど散らばっていて、それを履いて田辺さんと外に出る。室内から屋外へ急に出たので、春の陽光が眩しく、一瞬、目が眩んだ……。
暫く待って、目が慣れた頃に、ふと顔を上げると、見事なまでに満開の桜が視界に飛び込んできた。春の陽気に揺蕩う小風に乗って、桜の花弁が無数に舞っている。昨日の夜、「こもれび」に着いた時には全く気づかなかった。
「きれい……。」
「でしょ!毎年、きれいな桜が咲くのよ。今年は特にきれいね〜」
小風に揺れて額に落ちた前髪を軽く手で払う。今まで目向きもしなかった景色だった筈なのに……。不安や緊張から開放され、心や気持ちに余裕ができたからだろうか、完全に桜の散る景色に目を奪われていた……。
すると田辺さんが「こっちよ」と言って手招きしてくれていた。はっとして田辺さんの後をついていき、裏口を出て左に進んだ先は細長い庭になっていて、物干し竿が佇んでいた。庭は、ちょうどダイニングキッチンの正面にあり、掃き出し窓から中の様子が伺えた。ダイニングの掃き出し窓の先は縁台になっており、簡単に腰掛けることができる様になっていて、足元にはサンダルが無造作に3、4足ほど散らばっていた。田辺さんは、縁台に座ると、隣においでと言う様に、縁台を手のひらでポンポンとして誘ってくれる。私は、田辺さんが手招きしてくれた場所に座る。時間は、そろそろ10時になる頃だろうか。太陽は、十分高い位置まで昇っていて、今日の様な春の陽気であれば、ここに暫く座って日向ぼっこするのはとても気持ちが良いかもしれない。
「来たばっかりだろうけれど、ここでの生活は慣れそう??」
田辺さんが、こちらを見ながら聴いてくる。
「はい、以前の生活と比べたら天国みたいです。」
「そっか……。とても……酷い目に遭ってきたんだね……。」
「……。はい……。」
「私自身には、そういった酷い目にあった経験はないから、本当の意味で理解してあげる事は出来ないかもしれないけれど、ここに居る子たちは、多かれ少なかれ、小華さんの様な経験をしてきている子たちばかりなの。」
「やっぱり……そうなんですね……。こういった施設だったので、少し想像はしていました。」
「うん。だからかな……。みんな、とても優しいわ。お互いの過去や経験を尊重して、本当の辛さを知っているからこそ、理解し合えているのだと思う。言葉でどう表現すればいいか分からないんだけど、「こもれび」の子たちは、みんな見えない糸で繋がっている、そんな気がするわ。だから小華さんも、すぐ皆と仲良くなれるから安心してね。」
私は無言で頷く。その話を聴いて、私は正直複雑な気持ちだった。これまで確かに酷い目には合ってきたかもしれない。私も、とても辛かったのは事実だ。けれど、それで他人の気持ちを尊重できる自信がなかった。そもそも私より、もっと酷い目にあった事がある人は沢山いると思っている。結衣や浩も、私と同じ様な経験をしてきたのだろうが、どういった不幸なのか不幸にも色々あるし、自身にとってはトラウマレベルであっても、他人にとってはその程度と感じることがあると思う。私ごときが、そんな同情めいた心情で、他人の心に踏み入って良いものか、まだきちんと整理ができていなかった。
その後、田辺さんとは他愛のない話をした。田辺さんには、私と同い年の娘がいること、その娘が最近、全然言うことを聴いてくれなくて困っていること、好きな食べ物や趣味のこと。何気ない話題かもしれないが、私にとってこんなに沢山お話をしてくれる人は周りにいなかったので、新鮮でとても楽しくて時間があっという間に過ぎていった。夢中で話し込んでいると、家の中からブザーの様な音が断続的に聴こえてきた。「洗濯が終わったみたいね」と田辺さんが言うと、二人で立ち上がり裏口からお風呂場の脱衣場まで戻って、一緒に洗濯物を籠に入れた。その後、籠を抱えて階段を2階に上がり右に進むと、更に右手に廊下が伸びていた。その廊下沿いには、右面に予備の部屋2つと2階のトイレが、左面には物置兼洗濯物を干す部屋があった。洗濯物を干すだけあって、南向きの部屋でとても暖かかった。横長に広い部屋で、正直、物置と洗濯物用に使っているのがもったいない気がしたが、今の人員構成だと、グループにするにしても大きすぎて逆に中途半端になってしまうので、スペースとして使っているらしい。そして、奥にある予備の部屋の一つは、今はテレビとソファがあって、もっぱら皆の溜まり場になっているとの事だった。「こもれび」は大所帯なのでテレビも取り合いで、みんながみんな希望の番組を見ることは困難だ。そこでHDDレコーダーをダイニングにあるテレビと、2階のテレビに備え付ける事で、みんなの平和を維持している。更に、部屋にはSwitchなどのゲームやボードゲームも複数あって、子供たちは夢中になること間違いなしだった。私だって、こういった物に縁のない生活をしてきたからか、とても興味を掻き立てられた。田辺さんと一緒に、下着類などを一通り部屋に干し終わると、残りの余った物(人目についても問題ない物)は外の物干し竿へ干した。そして、男子の洗濯物を洗濯している間に、部屋中に掃除機をかけたり、トイレ掃除や今日の夕飯の準備を手伝った。
「小華さん、けっこう料理できる口なのね。」
私が、玉ねぎをみじん切りにする姿を見ながら、田辺さんが感心する様に話しかけてきた。(今日の夕飯はカレーとの事で、炒めて入れる玉ねぎを切っていた所だった。)
「いえ、料理は全然つくれないんです。ほんとに切ったり焼いたり、基本的な事くらいしかできません……。」
こんな事で褒められた経験がないため、毛恥ずかしくなってしまい、顔が少しほてり紅潮するのが分かった。
「いや、手つきが未経験者じゃないもの。日頃からやっていたんでしょ?」
「そうですね……。家で料理を作る人なんていませんでしたから……。母も途中からは全くでしたし。自分で食べる物くらいは簡単に作ってました。ほんとに簡単な物ですよ?」
「いいえ、それでも感心しちゃう。私の娘も、小華さんを見習って欲しいわね……。」
田辺さんは、微苦笑を浮かべながら、次から次へと夕飯の準備を進めていく。流石、仕事でお手伝いさんをしているだけあって、その所作は普通の主婦程度ではない事は明らかだった。そして夕飯の準備をしている間に、田辺さんは一緒にお昼ご飯も作ってくれて、優仁と3人で食べた。(お昼ご飯は、パスタを茹でてくれた。田辺さんは、簡単に余り物でソースを作ったと言っていたが本格的な味で、とても即席で作ったとは思えない味だった。)
午後は、洗濯物を取り込んだり(乾いた洗濯物はロッカーに戻して鍵を掛け、各自お風呂に入る時に回収するルールとなっていた。)、掃除や夕飯の準備を手伝っていた。すると突然、優理の「ただいま〜!」という元気な声が「こもれび」中に響き渡る。時間は15時半ごろ、小学生組が帰ってきたらしい。物静かだった「こもれび」に、急にかしましさが戻ってきた。優理が居るというだけで、家全体の空気が一変したのが分かる。私は、「こもれび」が本来の姿に戻りつつあると強く感じた。