守りたいもの
転がり出る様に自室から飛び出したのとほぼ同時に、階下で何かが激しくぶつかる様な大きな衝撃音がした。瞬間的に身が竦み、廊下の途中で立ち往生する。きっと奴が物を殴ったり、何かを投げ飛ばしたりしたのだろう。もし優仁に何かあったらどうしようと心が急く。早く階下に降りて、奴の気を落ち着かせなければ。すると、さっきの大きな音が心配になったのか、いつも子供達がゲームをしている部屋から、ぞろぞろと皆が出てきた。そこには優理や結衣、浩の顔もあって、ゲーム部屋にみんなで避難していたのだと察した。不安で満ちた顔をした面々が私を見つめている。後ろの方に見える佳奈は、特に怯えていて、琴音が彼女を懐に抱く様にして懸命に宥めていた。私は結衣に、自分の部屋に居るように、決して出ないようにと言われた事を思い出したが、それに従う気はもう無かった。私は、みんなの顔を一瞥すると、階段の手摺に左手を添えて階下に行こうとする。みんなの顔をしっかりと見てしまったら決心が鈍りそうだった。すると優理が足早に駆け寄ってきて、左腕を引っ張る様にひしと掴んできた。
「ハナちゃん、ダメだよ。行っちゃダメ!」
優理が、眉根を寄せた不安気な面持ちで言う。あまり見たことのない表情に、トクリと一瞬脈を打つ。いつも明るくて元気いっぱいな彼女に、こんな表情をさせてしまっている事に、少し罪悪感の様な物を感じた。私は、無理にでも笑って見せた。でも、その顔はとても歪だと思う。頬が引きつっている事を感じる。いつもの自然な笑顔を作れた自信がななかった。でも今の私には、無理矢理に作り出した誤魔化しの笑顔でもって、できる限りみんなを安心させてあげることしかできなかった。私が義父と一緒に実家に帰れば、「こもれび」にはいつもの平和な日常が戻ってくる。奴が「こもれび」に来る理由が無くなりさえすればいいのだ。
「優理さん、ありがとう。でもね、わたし帰らなくちゃ。みんなと会えて本当に良かった。毎日が楽しくて、光り輝いてた。短い間だったけれど、「こもれび」のみんなとの楽しい思い出は、私の一生の宝物だよ。さようなら。」
私は早口でそう言うと、私の左腕を掴んでいる優理の手を、少し強い力でゆっくりと押しやる。優理は離すまいと、腕を掴む手に力を入れるが、私は多少無理にでもその腕を振り切った。優理は不安気な表情のまま、顔を左右に何度も振ってみせた。「行っちゃダメ」だと訴えている事を理解するが、もう決心した私には何をしても無意味だ。背後から「小華!ダメ!」と半ば叫ぶ様な結衣の声が聴こえた。私は小さな声で「ありがとう」と囁くと、重力に身を任せ自然に落ちる様にして、階段を駆け降りた。
玄関のたたきに並んだみんなの靴の中から、私のスニーカーを見つけると、無造作に足を突っ込み屋外へ転がり出る様に飛び出した。玄関の扉は、下の辺りが何か強い衝撃でも受けた様に大きくひしゃげていて、さっき音の破壊力を物語っていた。私は二本の足でしっかりと地面の上に立つ。そして真っ直ぐに前を見据える。もう二度と会うことはないと思っていた、もう二度と見たくなかった人間が先に立っていた。もう恐れない。みんなを守る為なら、勇気を振り絞ってどんな恐怖にも立ち向かう事だってできた。私は、出したことが無いくらい大きな声で叫んだ。
「もう止めて!!私、うちに帰るから!!「こもれび」のみんなには手を出さないで!!」
「チッ。居るならさっさと出てこい。手間取らせやがって。帰るぞ。」
一目見ただけで柄の悪さが伺える。ダブついた上下セットの黒いジャージに、金のネックレスをジャラジャラと首から幾つも下げ、しゃがれた怒声は嫌な記憶を幾つも蘇らせた。
「ダメです。小華さんは渡せません。小華さん、早く中に戻って。」
いつも柔和な優仁が、見たことのない引き締まった鋭い面差しで、私と奴の間に立っていた。見た所、特に怪我はしていない様で安堵する。優仁は、この体格差を目の前にしても全く怯まず、毅然とした態度を崩さなかった。普段は頼りなく見える場面もあったが、優仁の普段は見せない胆力に胸が熱くなった。
「これ以上、「こもれび」のみんなに迷惑は掛けられません。私が帰れば、みんなに危害が及ぶことは無いから。大丈夫です。」
「小華さん、そういう問題じゃないんです。虐待の疑いがある状態で、帰す訳にはいかないんですよ。」
「だから!さっきから何の権利があって言ってるんだって聴いてるの!!俺は自分の娘を自分の家に連れ帰るだけなの!赤の他人のお前に何の権利があるんだって言ってるの!」
下劣な形相で顔を真っ赤にしながら義父が捲し立てる。この憎いくらい大きな体格で、ここまで激情させてしまったら収拾をつける事は不可能だった。ただただ意味もなく謝り続け、奴の気が済むまで殴られ、蹴られ続ける日々がフラッシュバックする。
「分かったから!私、帰るから!もう止めて!」
私が雑に叫ぶのとほぼ同時だった。次の瞬間、私の目の前に誰かが立ち塞がった。
「小華をイジメてたのはお前か?」
「なんだ?このガキ?」
浩だった。私を庇うように軽く広げた両手は、目に見えて分かるくらい震えていた。
「小華をイジメてたのはお前かって聴いてるんだ!!」
「イジメ?俺はこの出来の悪い女を躾てただけだ。何度言っても聴かないなら、身体に教えるしかねぇんだよ。お前みてぇな生意気なガキには、親の気持ちなんて分かんねぇだろうけどな!」
「小華が!小華が、どれだけ苦しんだと思ってる!!どれだけ苦しくて、辛くて、惨めで、一人ぼっちで悲しんでたと思ってるんだ!!」
浩がそう叫んだと同時に、奴に飛び掛かった。優仁が油断したとばかりに「浩!やめなさい!」と声を張り上げたが遅かった。浩は相手の顔面に一発、拳を入れると、もつれる様に取っ組み合いの乱戦になった。油断していたのか一撃を入れられた義父は更に頭に血がのぼった様子で、浩の上に馬乗りになり何度も拳を振り上げた。この体格差では到底、浩に勝ち目はなかった。
「やめて!!もうやめてー!!」
私は力の限り叫んだ。義父を止めに入ろうとしたけれど、後ろから優理と結衣に掴まれて叫び続けることしかできなかった。
「ハナちゃんダメ!ハナちゃんまで巻き込まれちゃうよ!」
「浩のバカ!突然走ってったと思ったら何しでかすのよ!」
優仁が止めに入ったけれど、暴れる義父を制止することは出来ず片腕を止めるのが精一杯で、浩はもう片方の腕で殴られ続けていた。下にいる浩の姿は、私には見ることができず目を背けてしまった。すると正面にある「こもれび」の門から、血相を変えた二人のお巡りさんが駆け寄ってくるのが、もつれ合う3人の背後から見えた。お巡りさんの一人が「ちょっと何やってるんだ!やめなさい!」と声を張り上げると、義父を軽々と浩から引き剥がし組み伏せ、素早く手錠をかけた。
私はそこまでで、ぷつんと何かが切れた様に崩れ落ちると、涙がどっと溢れてきて泣いた。優理の胸を借りて泣いた。これまでにないくらい声をあげて泣き続けた。お巡りさんが来てくれた事で浩を助けられた安心感からか、義父が逮捕され「こもれび」から一旦は危機が去りみんなを守れた安心感からか、または自分が実家に戻らなくて良い、また義父に虐待をされずに済むと言う安心感からか、安堵から来るよく分からない色々な感情が混沌と混ざり合い、それが涙となって流れ出た。優理は初めて合った時の様に優しく頭を撫でてくれた。今日は結衣も側に居てくれて、優理と一緒に頭を撫でてくれた。私は、優理のまだ華奢な細い体躯にぎゅっと強くしがみつくと、彼女の胸元に顔を埋めて声が枯れるまで、ただただ泣き続けた。優理の胸元は、とても温かかった。




