勇気を持って
9月下旬のある日曜日。自室のベッドで仰向けに寝転がりなりながら小説を読んでいると、開けっ放しの窓から、午後の清らかな風が優しく入ってきた。微かに靡いた黒髪が鼻先をくすぐり、トリートメントの甘い薫りが鼻をつく。流石の猛暑も既に過ぎ去り、気持ちの良い季節が近づいて来ている。まだ多少の暑さは伴うものの、エアコンを点ける程ではなく、窓を開けておくだけで清涼な空気が入ってきて丁度良い。少し離れた幹線道路から、遠く聴こえてくる騒音も、都内の閑静な住宅街らしく雰囲気があって私は嫌いではなかった。そんな程よいBGMと微風にあてられながら小説を読み耽っていると、その気持ち良さも相まって私は次第にうつらうつらとし、目に映る文字がボヤけて見えなくなってくる。
(あぁ……。ちょっと眠い……。)
すると次の瞬間、両手の力が抜けてしまい、仰向け状態で手に持っていた文庫本が顔面に降ってきた。私は、「いてっ」と情けない気の抜けた声を発すると、もう小説を読み続けるのは限界だと判断し、そのまま文庫本を閉じて枕元に置くと、両手両足を放り投げて、全身で窓から入ってくる心地よい風を感じながら寝入ってしまう事にした。
どれくらいの時間が経っただろうか。10分?いや30分?3時間くらい経ってしまった様な気もする。なんだか階下が騒がしい。男の人が言い争う様な声がする。夢だろうか。あまり「こもれび」では発生しないシチュエーションだ。
「おい!小華!いるんだろ!帰るぞ!さっさと出てこい!!」
ある男の威圧的で高圧的、もう聴くことは無いはずだった、無いと思っていた恐ろしい声が、突然耳に入ってきた。それを聴いた瞬間、私はさっきまで眠っていた事が嘘のように飛び起きると、一気に脳が冴え渡る。
(なんで!?どうして!?なんで、あいつがココにいるの!?)
「おい!聴こえてるんだろ!無視してんじゃねえ!!」
到底「こもれび」では絶対に聴くことのない声音が建物全体に響き渡る。
「お父さん、ちょっとこれ以上は。小さな子供達も居ますので。」
これは優仁の声だ。あの悪漢を丁寧に、けれど必死に食い止めているのが分かる。その間にも、私は思考が混沌と化し、急激に腹部の辺りがぐっと見えない力に押さえつけられる様な緊張が走った。心臓は一気に波打ち、トクリ、トクリと左胸で激しく鼓動していてとても煩い。さっきまで仰向けで寝ていた体勢から、ベッドの上で急いで上体を起こしたまでは良かった。両足先を左右に投げ出し膝先は内股に、いわゆる女の子座りで、座面にお尻がペタンとついたまま力が抜けてしまった。立ち上がろうと両手を布団の上につき、懸命に踏ん張るものの上手く力が入らない。緊張と焦り。そして、あの恐怖の再来。それらが私の心を支配し、身体中を蝕む。その結果、手にも足にも力が入らなくて、むず痒く気持ち悪い感覚が手先、足先に浸透していく。そして、どうにかしようと無理にでも力を入れようとすればする程、両手足は震え、全く役に立たない。
(はやく……。早く、下に行かなくちゃ……。城田さんが、みんなが襲われちゃう……。)
肝心な時に自分自身の身体さえ、ろくに制御が出来ない自分のメンタルの弱さを呪った。それでも必死に、何とか立ち上がろうと試みていると、2回、正面のドアをノックする音がして間髪を入れずに扉が開かれた。
「小華、入るよ。」
そこから半身で顔を覗かせたのは結衣だった。
「っ……。結衣さん……。」
「小華、ここから絶対に出ちゃだめだよ。そこでじっとしてな。」
「でも、城田さんが、みんなが……。」
「大丈夫。こういう事は珍しくないの。下で上手くやるから、絶対に降りてきちゃダメ。分かった?」
「私、力が入らなくて…… 。手足が言うこと利かないんです。早く下に行かないと、私のせいで大変なことに……。」
私は、震える両手を抑える様に胸元で強く握り締めて言うと、結衣はさっと私の部屋に入ってきて、いたずらっぽい笑顔で私の頭を力強くクシャクシャっと撫でた。結衣が子供達を勇気づける時にする常套手段だった。しかし何時もの時より激しくて、時間も長い気がする。私は目を瞑って、少し頭を引っ込めた。
「大丈夫!小華、いい?よく聴いて。これは小華のせいなんかじゃない。これで外に出ていったらアイツの思う壺だよ。毅然として、絶対に小華の姿を見せちゃいけないんだ。兎に角、小華はここにいて、じっとしていて。いい?分かった?」
私の目の高さに合わせて、身を屈めてくれた結衣の真剣な眼差しが近い。長いまつ毛、整った顔立ち、滑らかな肌。化粧などしていないのに、本当に綺麗だと思った。私は、分かったと言う身振りで大きく何度も頷くと、じんわりと滲み出した目元から数滴、涙がこぼれた気がした。結衣はにっこりと大きな笑顔を見せると、また私の頭を揉みくちゃにして、足早に私の部屋を後にした。
そうこうしている間も、階下での言い争いは継続していた。何度か玄関から外に出て行っては、中に戻ってくる事を繰り返しており、その度に玄関付近で優仁との言い争いが聴こえてくる。いつも穏やかで丁寧な優仁だが、聴いたことのない声音で決して引き下がらない強い意志が感じられた。でも本当に怖いのは言い争いなのではない。アイツは平気で暴力を振るってくる。その狂気こそが一番の恐怖だった。背が高く、図体も大きくガラも悪いから、見た目のインパクトが強くて大抵の人なら怯んでしまうだろう。結衣には、ここでじっとしていろと言われたが、アイツが本当にキレて収集がつかなくなる前に、気を静めなければいけない。私は力の抜けた両手両足に、兎に角なんでも良いから力を入れて踏ん張ると、そのままバランスを崩してしまいベッドの上で左に転がり、肩先から床に落っこちた。
「いったぁ……」
痛みで動くことができず、そのまま床で蹲る。そこで痛みが和らぐまで堪えていたのだが、ふと身体が元に戻っている事に気づく。痛みで正気を取り戻したのだろうか。私は痛みが引いた事を確認すると、ゆっくりと立ち上がった。動くようにはなったが、まだ膝と手は震えたままだ。手をゆっくり開いたり、握ったりを数回繰り返す。大丈夫。ちゃんと動く。理由は分からないけれど、アイツは私を引き戻す為に「こもれび」に来てしまった。このままでは、誰かが傷ついてしまう。それは嫌だ。凄く嫌だ。私のせいで、優仁に優理、結衣にちびっ子達、それに浩にだって影響が及ぶかもしれない。アイツの普段の振る舞いを知っている私は、女子供関係なく、それを平気でやってしまう程の暴君である事を知っている。私を助けてくれた人達。私に、普通で当たり前の幸せを教えてくれた人達。優理の天真爛漫な笑顔に、誰にでもなりふり構わず手を差し伸べる優しさ。結衣のクシャクシャに頭を撫でる仕草。琴音の妙に大人びた微笑。そして、浩のほんのりと温かくて優しい手。「こもれび」に来て約半年。毎日が本当に楽しかった。私は行かねばならない。また、アイツに殴られるかもしれない。蹴飛ばされるかもしれない。タバコの火を押し付けられるかもしれない。けれど私は行かなければならない。行って、アイツの気が休まるのなら、私の身体を差し出すことで「こもれび」の皆が毎日平和で穏やかな日々を送れるのならば、こんなに安いものはない。私は意を決して、震える足に強く力を込めて大きく一歩を踏み出すと、勢いよく部屋を飛び出した。




