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琴音の追憶

「津波に襲われた日は、朝、いつも通り学校へ行くため、弟と二人で家を出ました。「行ってきます」を言うと、台所の方からお母さんの「行ってらっしゃい」が小さく聴こえたのを覚えています。お父さんは朝が早いから、私達が起きる頃にはもう家に居なくて、昨夜の「おやすみ」が最後になりました。」

 琴音が淡々と、あの日の事を話し始める。本当は、またフラッシュバックさせる懸念もあって、無理をして彼女に当時の話をさせるつもりはなかった。止めようか迷ったが、彼女の本当の悲しみを理解するには、真実を聴くしかない、聴きたいという私の本心が、琴音の語りを止めようとはしなかった。

「地震が来るまでは、本当にいつも通りの日常だったんです。その日は下校が早い日だったので、私とハルは既に帰宅していました。私は、リビングのテーブルで宿題をしていて、ハルは向かいの椅子に座ってテレビを見ていました。そうしたら突然、さっきみたいな怖い地響きがして、普通じゃないと一瞬で理解しました。すぐに家が大きく揺れ始めたので、テーブルの下に潜るとハルの腕を急いで引っ張って引きずり込んだんです。すぐに家がバキバキと軋む音や色んな物が落ちる大きな音がして……。地震の最中の事はあんまり覚えていないんですが、とにかく揺れが収まるまで必死に我慢していました。」

 琴音の話し方には、まだ冷静さがあった。当日の状況を、事実と経験になぞらえて語ってくれている。私は、琴音の声音と表情に気を使いながら、夢中で耳を傾けていた。もし取り乱す様な事があったら、いつでも彼女の想起を止められる様に。

 「床には落ちて割れた食器や本、小物なんかが一面に散らばっていて、歩くのもやっとな状況でした。時間は15時前くらい。お母さんはハルの下校の時間に合わせて、いつも15時頃には帰って来るので、それまで二人で安全に待つ事にしたんです。でも、なかなか帰って来ませんでした。クルマだったので、たぶん地震の影響で道路が渋滞とかしていたんだと思います。すると、津波が来るから避難しろと町中に防災無線が流ました。私は迷いました。本当は、このまま家でお母さんの帰りを待ちたかった。けれど、早く逃げないとと言う気持ちもあって、停電のせいで電話も使えないし、お母さんがいつ帰ってくるかも分からない……。弟と二人でテーブルの下に(うずくま)りながら考えに考え、結局、家を出る事にしたんです。ここまでで時間は15時半くらい。テーブルに、私達が通う小学校に二人で避難すると書き置きを残すと、急いでお互い防寒着を1枚羽織ると家を飛び出しました。小学校は海から離れる方向にあったので、避難には最適だと思ったんです。でも今思うと、その判断は間違っていたのかもしれませんね。私達は、避難する途中で津波に飲み込まれてしまったんですから。」

 琴音の声音に少し力が入る。目はとても悲しく悲壮に満ちていた。口元はニヒルに笑い、さも過去の自分の判断を嘲る様な口調だった。私は、何も口に出して言うことができない。何と声を掛けてあげれば良いのか分からない。同じ様な事が前にもあった気がする。こういう時、口下手な自分に嫌悪する。きっと優理だったら、相手を勇気づける最適な言葉を掛けてあげることができるのだろう。私は、ただ口を真一文字に結び、ただ琴音の表情を見つめながら、静かに彼女の手を取り握ってあげることが精一杯だった。

「私達は、二人で半ば走りながら住宅街を駆け抜け小学校を目指しました。ハルは、運動が好きだったから駆け足は得意だったんです。もしかしたら私が、弟の足を引っ張っていたかもしれません。ハルの手を握りながら小走りで10分くらい経った頃でしょうか。後ろから黒い塊が水飛沫と轟音を立てて、迫って来るのが見えました。小学校までは徒歩20分の距離だったので、あと少しだったんです。クルマとか家とか色々な物を巻き込みながら、物凄い速さで迫ってきました。私も弟も必死に走りました。もう足も腕も上がらなくて、空気を吸っても吸っても足りない、身体が思い通りに動かない。けれど止まったら濁流に飲み込まれてしまう。後ろから迫る津波に飲み込まれたら助からないことは、その不気味さを見れば明らかでした。でも人の足で敵うスピードではないんです。私達二人は、当然の様に黒い塊に飲み込まれました。どっちが上か下かも分からなくなって、洗濯機の中に放り込まれた様でした。私は、それでも弟の手を離さない様に強く強く握り締めました。けれど自然の力は残酷なんです。あんなに強く強く強く握っても、いとも簡単に私達を引き剥がすんです。すると弟の声が聴こえました。2回。「お姉ちゃん!」「おねーちゃん!!」って。その声が、最後の叫びが、ずっと頭から離れない。今も、ついさっきの事の様に思い出せるんです。ハルは。ハルトは一人じゃ何もできないから。ダメダメだから。私がいないと、ご飯も着替えも宿題も何も出来ないから!私が見ていないと勝手に何処かに行っちゃうから!!私が側で見ていてあげないといけないのに!!!」

 琴音は、足元の掛け布団を強く握りしめ、語りは途中から半ば叫びの様になっていた。私は必死に彼女の身体を抱き寄せると、彼女の頭を胸元に(うず)めた。彼女が姉として、とても大切に弟を思っていた気持ちを想像すると、視界がじんわりと滲んでくる。残酷な別れ、弟の断末魔の叫び。彼女のまだ幼くて純粋な心には、残酷過ぎるほどに痛ましかった。

「琴音さん、もう大丈夫です。これ以上は……。」

 私は琴音を離すと、彼女の両肩を優しく掴み、両目を見つめながら言った。可愛らしい黒目がちな瞳が、こちらを見返してくる。

「大丈夫です。私、小華お姉ちゃんに聴いてほしいんです。私の過去を……。私の家族を……。」

「なんで、そんなに……。これ以上は、心が壊れちゃいます。」

「小華お姉ちゃんにだったら、全部話せるから……。」

「それは、とても嬉しいですけれど、無理はしないで……。」

「はい……。」

 琴音はそう言うと、少し息を吐いてゆっくりと続きを話し始める。私はベッドに座り直すと、彼女の言葉に耳を傾けた。

「真っ黒な濁流に飲まれた私は、何もする事が出来ませんでした。上に下に、右に左に。よく分からない色々な物にぶつかって、身体中に激痛が走りました。口の中には泥水が入ってきて、海水の塩気と泥が交じった食感がして、あっという間に息ができなくなりました。このまま死んじゃうんだと思いました。すると一瞬、明かりが見えて、水面に顔を出すことができたんです。水の流れが、運良く私を引き上げたんだと思います。私は必死に藻掻いて顔を水面から出して空気を吸い、とにかく何かに掴まれる物を探しました。すると1台のクルマが水に浮いてこちらに流れて来ました。私は、それに掴まり何とか這い上がりました。」

「何とか津波から脱出できた?」

「はい……。そのクルマは、大量の瓦礫やクルマ、建物の残骸と共に流れてきて奇跡的に天井だけ浮いていたんです。私はその屋根に這いつくばって生き延びることが出来ました。全部、運なんです。濁流の中から頭を出すことができたことも、たまたま浮いたクルマが私の側に来てくれたことも。全部、全部、運が良かっただけ……。私は、そのままクルマの上で助けが来るのを待ちました。津波の濁流も暫くすると落ち着いて、ゆっくり流れはしていたけれど沢山の瓦礫と共に漂っている感じでした。ただ私は、クルマが沈まない事を祈りながら、クルマ上でじっと助けが来るのを待ちました。全身ずぶ濡れで、まだ3月の東北はとても寒いです。家を出てくる時に一枚、防寒着を羽織ってきて本当に良かったと思いました。もし着ていなかったら、クルマの上で一晩、寒くて死んでしまったかもしれません。」

「クルマの上で一夜を明かしたんですか?」

 それとない私の問いに、琴音はゆっくりと頷く。

「何度か助けを呼んだんですが、まったく返答がなくて、人影も見つからなくて……。結局、日が落ち、真っ暗闇の中で一晩を明かしました。途中、ハルトにも何度も必死に呼びかけました。「お姉ちゃん、ここにいるよ」、「助けに行くから頑張れ」って…… 。でも全く何も……。その時点で、私はもう諦めていたんです……。結局、朝になってから自衛隊の人に救助してもらうことができました。」

 私が気に掛かっていた、琴音が「こもれび」に来た背景について、気軽に知って良いものではなかったと今になって後悔する。小学3年生、凡そ9歳の身で天涯孤独。普通のお別れであるならまだしも、突然の災害のよる両親、弟の死。ただただ純粋に壮絶な体験だと思った。私も、自身の虐待の辛い経験があった事は確かであるし、出口の見えない地獄の様な日々も送ってきた。けれど彼女の絶望に比べたら、まだ序の口の様に感じてしまった。

「それから私は、自衛隊の方に連れられて、避難所になっている高校へ避難することが出来ました。私達の小学校は、下層が津波の被害を受けて避難所として使えなかったみたいです。その時、自衛隊の方に「近くに弟がいるはずだから助けて」とお願いをしましたが、夜が開けて見渡す限り大量の土砂と瓦礫の山が綿々と続いている光景を見て、もう無理だろうと、昨夜の諦めが確信に変わったのを覚えています。自衛隊の人は、それでも「今までよく頑張ったね。今すぐ助けに行くから、ここで待っていてね。」と、勇気づけてくれました。それから弟が見つかったのは3日後のことです。私が避難した高校の体育館が遺体の安置所になっていたので、毎日、運ばれてくる遺体、特に子供の遺体を確認しては、弟を探し続けていました。本当に、沢山のご遺体が運ばれて来るんです。中にはお腹が大きな妊婦さんもいて……。毎日、体育館にいくと、その女性の側に男の人が座っていて、何かを話しかけていました。きっと旦那さんだったのかもしれません。女性の側で片時も離れず、ずっと寄り添っていましたから……。弟が運ばれてきた時は、服装を見て一瞬でハルだと分かりました。家を一緒に出た時の防寒着を着ていたので。顔は……。もう私の知っている顔ではありませんでした。口は大きく開き、中には大量の泥が詰まっていました。目は虚ろに開き、苦しそうな表情で、手が離れた瞬間のハルの叫び声が想起されました。あの……。あのハルの表情が、脳にこびりついて離れない。本当は、ハルといっぱい遊んで、いっぱい笑って、たまに喧嘩したり、色んな表情を知っているのに……。全部、全部、ハルトの顔が、表情が。全部、あの顔になっちゃう。あの苦しそうな、恐怖と苦痛に歪んだあの顔に。私がハルの手を離してしまったから、離さなかったら一緒に助かったかもしれないのに!ハルは、きっと私を恨んでる!私が助けることができなかったから、きっと今もずっと私の事を叫び続けているんです!!」

「それは違うと思います!」

 私は、目からこぼれる水滴を気にも留めず、勢いで言い放つ。少し語気が荒かったかもしれない。でも私は、自分自身を責め続けている琴音を、大好きな弟を助けられなかった自分を追い詰めている琴音を、何とかして解放してあげたかった。本当はどうするのが正解なのかは分からない。私は精神科医ではないし、医学的に適切な処置があるのかもしれない。けれど、彼女の弟は絶対に琴音の事を恨んだりしない、こんなに大好きな姉を呪ったりはしない、その謎の確信だけはあった。 

「ハルトさんは、琴音さんのこと、きっと大好きだったと思います。琴音さんだって、ハルトさんのことが大好きで大切に思っていたんでしょう?ハルトさんが、大好きなお姉ちゃんのことを恨むなんて、そんなことは絶対にないと思います。一緒に生きることができなくなって、残念に思っているかもしれません。本当は一緒に生き残って、一緒にもっと遊んで欲しかったんだとも思います。けれど、今ここで琴音さんが間違いなく生きている。大好きなお姉ちゃんが、今ここにいて確かに生きている。もしハルトさんが生きていたら、絶対に喜んで笑ってくれると思いませんか?」

「私……。わたしは……。」

 私は、琴音の弟への思いと、弟が姉を思う気持ちとを慮っては、一気に捲し立てた。瞳から流れ出ては止まらない涙はそのままに。琴音は一瞬私を見つめると、すぐに俯き口籠ってしまった。この期に及んでも琴音は気丈に振る舞い、涙一つも流さないでいる。

「私は、ハルの事が……。ハルの事を……。」

 彼女は何かを言いかけて、必死に堪える様にして、私をじっと見つめる。すると、その双眸に透明な粒が生成され、次第に膨張し体積が限界に達すると筋となって彼女の滑らかな頬を伝った。

 「なんで、小華お姉ちゃんが泣くんです?そんなのずるいです。私だって、もう……。」

 彼女はそう言うと、堰を切った様にどっと涙が溢れ出し、止め処なく流れ続けた。懸命に嗚咽だけは我慢しているせいか、引きつった様なしゃっくりに身体を震わせる。私はゆっくり立ち上がると、もう一度、琴音の頭を胸元に埋め、その小さな背中を優しく何度も撫でた。しゃっくりは次第に激しくなり、すぐには収まりそうにない。私は、これ以上、涙が(こぼ)れない様に天井を仰いだが、目尻から流れ出るように道筋が変わっただけで何の意味も無かった。ただ、円形の蛍光灯から放たれる無機質な白だけが、さめざめと涙を流す私と琴音を静かに照らしていた。

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