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幸せ家族

 琴音(コトネ)達が暮らす部屋は、ちょうど脱衣場を出てほぼ正面にある。いつものダイニングキッチンから廊下を進むと、左手側に脱衣場とそこから繋がるお風呂場が、右手側にトイレがあり、その隣が女の子達の部屋で、琴音と佳奈(カナ)が生活していた。ちなみに、更に先に進むと女の子部屋の隣が男の子部屋で、小学5年生の和人(カズト)、小学3年生の(イタル)が暮らしている。

 私は、少し湿ったままのセミロング程の黒髪はそのままに脱衣場を飛び出すと、琴音の部屋の前に立つ。まだ20時くらいだから、子供達も起きているだろう。静かに2回、ノックをする。

「はい!」

 いつも琴音が返事をすることが当たり前だったから、珍しい佳奈の元気な声に少し微笑ましさを感じた。

「あの、小華(コハナ)です。入って大丈夫?」

 すると勢い良く片引き戸が開き、目の前には私の顎下ほどの小さな女の子が立っていた。

「小華お姉ちゃんだ!ねーねー宿題教えて!」

「えっ宿題?」

「うん!どうしても分からない所があるの……。」

「いいよ」

「やった!」

 佳奈に半ば手を引っ張られながら、部屋の中まで連れて行かれる。部屋に入ると、正面に窓があり(今はカーテンが掛かっていた)、右手の壁側にベットが2つ並んでいて、その奥に琴音と佳奈の勉強机が窓を挟む様にして設けられていた。琴音は、入口側のベットでまだ寝ていて目を閉じていたが、私が来たことに気付いたのか静かに瞼を開いた所だった。私は、「ちょっとごめんなさい。佳奈さんに宿題教えたら、少しお話ししたくて……。」と言うと、琴音は掛け布団から見えている首から上を弱々しくコクンと頷く。部屋を入って左側の机が佳奈の勉強机なのだろう。机の上には教科書とノート、それに宿題と思われる算数のプリントが置いてあって、そこには努力の跡と思われる、乱雑に書き乱れた計算の痕跡が見て取れた。たぶん、いつもだったら琴音が教えてあげているのは想像に難くなかった。佳奈にとって、琴音はとても頼りになるお姉ちゃんだから。でも今日は、琴音が体調を崩してしまったから、佳奈なりに気を使って自力で解こうとしたのかもしれない。私は、隣の机の椅子を佳奈の近くまで寄せると座り、佳奈が分からないと言う問題を読み込んだ。そして、なんとなく解き方が分かると、佳奈からメモ用紙を貰って、絵とか例え話を織り交ぜて、なるべく丁寧に優しく教えてあげたつもりだった。佳奈も飲み込みが悪い訳では無くて、思っていたよりもスムーズに理解してくれて、私の教え方が下手だったらどうしようと思っていたのだが少し安心した。

「小華お姉ちゃん、ありがと!宿題なんとか終わった!」

「いいえ」

「お風呂に入るの遅くなっちゃったから、入ってくる!」

「うん。一人で大丈夫?」

「大丈夫!」

 琴音はそう言うと、トコトコと軽い足取りでお風呂に行ってしまった。ふと、琴音の方を見やると、掛け布団から出ている頭を少しだけこちらに傾けて、私の方を見つめていた。

「小華お姉ちゃん、教えるの上手ですね。」

「ほんとですか?私、人に勉強を教えた事なくて、上手く説明できるかちょっと不安でした。」

「いえいえ。ゆっくりで丁寧で、とても優しくて。それに分かりやすかったと思います。」

「ありがとう。でも、いつもは琴音さんが佳奈さんの宿題、見てあげているんじゃないですか?琴音さんの方が、ずっと上手だと思いますよ。」

「いや、そんなことは……。佳奈は、物分かりが良いから……。」

「あぁ、確かに。佳奈さん、さっき飲み込みがとても早かったです。いつも元気でお転婆なイメージだったので、少し意外でした。」

 私は話しながら椅子から立ち上がると、琴音の側まで近寄り、隣の佳奈のベッドに軽く腰掛ける。目の前には、いたいけな可愛らしい顔はそのままに、少し元気のない不安そうな面差しが私を見上げていた。

「体調はいかがですか?大丈夫?」

「えぇ、大丈夫です。さっきは、ありがとうございました。」

「いえいえ、それなら良かったです……。さっき城田さんから少しだけ聴きました……。琴音さんのご家族のことと、大震災のこと……。」

「あぁ……。そう言えば、小華お姉ちゃんにはちゃんと話したこと、ありませんでしたね……。私の家族のこと……。」

「あ、あの……。いいんです、無理に話さなくても。とても個人的で繊細なことですから。ただ、さっきの事もあって、私も以前、よく過呼吸になっていたから、何だかとても心配で……。だから……。私は、琴音さんの事を気にかけているって事だけ知っていて欲しくて……。私に何か出来る訳では無いんですけれど、困っている事とか、不安な事とかあったら……。」

「あはは、ありがとうございます。何だか、優理お姉ちゃんの病気がいつの間にかうつっちゃったみたいですね。」

 琴音は小さく笑いながら言うと、ベッドの上でゆっくりと身を起こして長座の体勢を取り、背中をベッドのヘッドボードへと預けた。

「そう、かもしれません。私、優理さんに一杯助けられたから……。それに「こもれび」の皆さんにも……。だから恩返しじゃないですけれど、私も皆の力になりたくて……。」

「小華お姉ちゃんは、とっても優しいんですね。」

「えっ、いや……。そんなことは……。自分が優しいだなんて、意識したこともないです。」

「いえ、とっても優しいですよ。さっきは私のこと、一生懸命たすけてくれましたし、佳奈が泣き出した日も一番に気が付いて来てくれましたから。」

 琴音は、柔らかな笑みを浮かべながら言う。私は返答に困ってしまい、何か言わなければと口を半分ほど開きかけて閉じ、そして琴音を静かに見つめた。「こもれび」に来て、私は皆から沢山の優しさを受け取ったから、だから私も皆の力になりたくて、私なりに赴くままに動いた結果だった。それが琴音には「優しい」と映ったのだろう。そう思われて素直に嬉しい気持ちはある。だが、誰彼構わず手を差し伸べては、持ち前の強烈な明るさと元気で、困っている子を地獄の底から掬い上げる優理の崇高な慈悲の心に比べれば、情けないほどちっぽけで恥ずかしくなってしまう。すると琴音は、少し俯いて目を瞑り、軽く一息吐くとゆっくりと話し始めた。

「私、もともと4人家族だったんです。東北の海の近い町で、仲良く暮らしてました。普通の幸せ家族だっと思います……。」

 琴音の目の色が少し変わった気がした。口元はいつもの様に柔和なままだけれど、目はとても悲しく悲壮に満ちていた。何か遥か遠い過去を懐かしんでいる様な、もう二度と巡り会えない誰かがそこに見えている様な……。琴音は、あまり間を開けず言葉を紡ぐ。

「お父さんとお母さんと、2つ年下の弟と私で4人です。当時、私が小学3年で弟が小学1年だったんですが、弟がもう全然ダメダメで……。ご飯は一人で食べられない、着替えも遅いし、忘れ物も沢山する、宿題だって満足にできない。とにかく私が見ていないと何にもできない子だったんです。」

「琴音さん、すごくしっかりしているのに、信じられないです。弟さんもしっかりしてそうなのに……。」

「それが私と全然違うんですよ。お母さんも最初は、お姉ちゃんを見習いなさいってよく言ってたんですけど、もう途中から呆れちゃって、「お姉ちゃん学校で弟の面倒お願いね」って、いつの間にか私が面倒を見るのが当たり前になってたんです……。」

 何だか弟の面倒を見るのが嫌で面倒くさい様な言葉だったが、琴音の口調からは満更でもなくて、弟が好きで面倒を見るのも嫌じゃなくて、姉としての責務を全うしている様なニュアンスが感じ取れた。

「あはは、弟さんと仲良かったんですね。」

「仲が良いというより、目が離せないから必然的に一緒にいるというのが正しい様な……。先生が見てくれている内はいいんです。でも登下校とか、私が見ていないと何処か行っちゃうんで、手は絶対に離せません……。」

 弟よりも少し背の高い琴音が、絶対に離すまいと手をしっかと握り、赤いランドセルと黒いランドセルが二つ横並びに静かに家路を行く、とても微笑ましい光景が頭に浮かんだ。

「お父さんは公務員で市役所に勤めていて、お母さんはパートで働いていました。今になって思うと、経済的にも全然不便を感じたりしなかったので、それなりに裕福だったんだと思います。週末は、よく近所の海に行って家族で散歩したり、夏には海水浴もしました。連休とかは、遊園地に連れて行ってもらったり、飛行機で北海道とか沖縄に旅行に行った事もありましたね。ハルが凄くはしゃいじゃって、すぐ何処かに行っちゃうので空港では大変でした。お母さんと協力して手を離さないようにしておかないと行けなくて……。あぁ、ハルっていうのは、弟のハルトのことです。あ、あと家族の誕生日には、必ず誕生日会をやるのがルールで、必ず大きなホールケーキを準備しました。ロウソクをいっぱい立てて、息で吹き消すんです。ハルの最後の誕生日会は、ハルが暴れてケーキを落っことしちゃって……。嬉しいのは分かるんですけどね……。結局、食べられる所だけ切り取って、みんなで食べました……。」

「とっても仲の良いご家族だったんですね……。」

「そうですね……。お父さんもお母さんもハルも喧嘩は殆どなくて、仲は良かったと思います。」

 楽しそうに話す琴音は、当時もきっと楽しくて幸せだったのだろう。私には、どれも経験したことがない家族イベントばかりだったが、琴音の表情と声音を聴けば、当時の彼女達の光景が浮かんでくる様だった。しかし、この後に待ち受けている悲劇を知っているだけに、聴きたくない現実が不気味な黒い影の様に、心の奥底に鎮座していた。

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