琴音の微笑み
夏休みも終わり、厳しい暑さも少し和らいだ9月の中旬頃。ある土曜日の昼下がりに1階のダイニングで一人、紅茶を飲みながら小説を読んでいると、珍しく琴音が顔を見せた。優理と結衣、浩は、それぞれ友達と予定があるらしく「こもれび」を出ており、優仁も仕事で外出、田辺さんも別件があるとの事で今日は来ていなかった。その為、一時的に「こもれび」には小学生組4人と私だけになり、一番年上と言うこともあって見守りを頼まれたのだ。でも、しっかり者の小学5年生、琴音と和人が居るので、これと言ってやる事はなくて、とりあえず何かあっても直ぐに対応できるように、ダイニングに居る事にした。琴音が、入口の開き戸を静かに開けると、トコトコと軽い足取りでダイニングに入ってくる。ちびっ子達は2階のテレビ部屋でゲームに夢中になっていたと思うが、何かあったのだろうか。
「琴音さん、何かありました?大丈夫?」
「いえ、何も。ちょっとゲームに疲れたので降りて来ただけです。」
「なら良かったです……。紅茶、飲む?よかったら淹れますよ?」
「いいんですか?」
「うん。冷たいのと温かいの、どっちが良いですか?」
「冷たいの」
私は、椅子から立ち上がると水道水をやかんに注いで火にかけ、マグカップを二つと円形の小さな醤油皿を準備した。そしてキッチン下の収納棚から、常備してあるアールグレイのティーバッグを一つ取り出しマグカップに入れ、沸騰した少なめのお湯で抽出し、蒸らす為に醤油皿を被せて蓋をする。抽出している間に、もう一方のマグカップには沢山の氷を入れておいた。そして3分ほど経った頃、濃い赤橙色に変化した紅茶を、氷の入ったマグカップに優しく注ぐ。氷の割れる小気味のよい音が微かに響いて心地良い。そしてスプーンで数回かき混ぜると完成。琴音の目の前にゆっくりと差し出す。一応まだ小学生でもあるし、甘い方が良いと思いガムシロップとミルクを添える事も忘れない。
「ありがとうございます。」
琴音は軽やかに微笑むと、ガムシロップとミルクの両方を入れスプーンで3、4回ほど撹拌し、マグカップを口に運んだ。
「おいしい……。小華さん、作るの上手ですね。」
「ほんと?ありがとう。アイスの作り方、下田さんに教えて貰ったんですよ。その作り方が美味しいんだと思います。」
「ああ。浩お兄ちゃんも、よく紅茶飲んでますからね。」
「私、「こもれび」に来る前は、あんまり紅茶と縁がなかったんだけれど、「こもれび」のみんなは良く飲むんですか?」
「うーん、たぶん田辺さんが好きで、よく皆に淹れてくれたから、それが広まったんだと思います。」
「あぁ、なるほど。田辺さんの淹れてくれてる紅茶も美味しいですもんね。」
私と琴音は、暫くマグカップを口に運びながら、静かな時間を過ごす。ふと、会話が一旦途切れ、私は小説の続きを読もうと、閉じていた本に手を伸ばした。しかし、彼女の目の前で私だけが一方的に読み耽るのは如何なものかと、何気なく逡巡し手を止めた。実は年の離れた子供との接し方がよく分からなくて、ちびっ子達とは、あまり積極的に関わる事をしてこなかった。その為、こうして琴音と二人きりでゆっくり時間を共有する機会は初めてでもあった。あまり年下には気を使うものでは無いのだろうが、私の場合あまり関係がない。年上でも年下でも同い年でも、沈黙が訪れると等しく緊張して脳内がフリーズし、次の一歩が踏み出せなくなる。
「そう言えば、小華さん……。あまり驚かないで聴いてください。」
すると突然、琴音が少し佇まいを正したかと思うと、神妙な面持ちで話し始めた。
「はい?何でしょう?」
何となく、こちらまで居住まい正してしまう。
「夏休み中。浩お兄ちゃんと、中庭で何やらお話ししてましたよね?二人きりで。夜中に。」
「えっ……。」
真っ直ぐに私を見て、真面目な面差しで、淡々と追求してくる。私は、何だか見られてはいけない物を見られていた気がして、瞬間的に胸が跳ね上がった。言い訳を考えるのに必死で頭を回転させるのだが、唐突に来たこともあって全く思考がまとまらない。彼女に悪気はないのは分かるのだが。琴音はこういった他人の色恋沙汰にも首をつっこんで来る子だっただろうか。
「あの……。えっと……。見られてました?」
「はい。正確には、夜中にトイレに起きたらキッチンの方から話し声が聴こえたので、耳を澄ませたら小華さんと浩お兄ちゃんでした。」
「あぁ……。間違いないです……。」
こういう時、どんな顔をすれば良いのだろう。恥ずかしいけれど、相手は5歳も年下の女の子だ。それに揶揄われている訳でもないし、今の所、ただ事実を突きつけられただけ。年下の女の子を相手に、照れて赤面したり、しどろもどろになるのも違う気がする。少し上気した様な気もするが、今の所、変に取り乱すことなく普段と変わらない冷静さは保っている。
「なるほどです……。別に、深くは追求しませんよ。結衣お姉ちゃんと優理お姉ちゃんみたいに、変にからかったりもしません。でも私はお似合いだと思いますよ?」
琴音は、両手でマグカップを持ってアイスティーを飲みながら軽やかに言う。その顔は微笑みを含んでいて、いつもの真面目でお堅い雰囲気とは裏腹に、彼女の少し方向性の異なった気質が垣間見えた。しっかりしていて落ち着いた子だと勝手に印象づけていたが、意外と色恋沙汰にも首を突っ込んでくるし、琴音らしい優しいユーモアも感じられた。私が、まだ小学5年生の子供だからと甘く見ていた所もあったかもしれないが、今の子供達は、こういった恋愛事情には興味があるのが普通なのかもしれない。優理も、意外と積極的に恋バナをしたがるし、私自身が遅れている可能性は否めない。
「あ、ありがとう。やっぱり、傍から見ていて気付かれてますか?関係性とか」
「いや……。普通ですけど……。でも、夜中のあれを見た後だと、色々と合点がいくなと思っちゃいますね。」
「合点?」
「ええ。最近、浩お兄ちゃんが、小華さんとよくお話ししてるなぁとか、めちゃ元気に朝の挨拶するなぁとか……。」
「よく……見ているんですね……」
「はい、それはまぁ。ちなみに、付き合ってるんですよね?」
「え!?いっ、いや!付き合うとかは全然!!」
「そうですか。夜中に二人きりで、とても良い雰囲気だったので、私はてっきりお付き合いしているのだと勘違いしていました 。」
さらりと重たい事を平気で突っ込んでくる。もしそうなれたら嬉しい限りではあるのだが、付き合うなど、私にはまだ夢の別世界の様な事柄であると思えてならなかった。今の子達は、これくらい平気なのだろうか。
「あの……。今の小学生って、付き合うとかって普通なんですか?」
「うーん……。私の周りには何人かいます。」
「小学5年生で?」
「ええ。何なら優理お姉ちゃんも、告られたことありますよ。振ったらしいですが。」
「えっ、本当!?それは知らなかったです。びっくりです!」
「ああいう明るくて元気な性格ですから、けっこう学校で人気あるんですよ。」
「確かに……。それはそうですね。とても優しくて面倒見も良いですし。誰にでも明るく気軽に話し掛けてくれますから……。」
「今度、聴いてみたら良いですよ。きっと、いつもと違ったテンパった優理お姉ちゃんが見れますよ。」
琴音が口元に手を当てて、可愛らしくクスクスと小さく笑いながら言う。彼女は、実はよくお喋りをするし、時折、朗らかに微笑みを携えることもあるのだ。今日、ひょんなことから琴音と二人きりでお喋りをすることができて、そんな彼女の明るい一面を見られただけで、一気に距離を縮めることが出来たと強く思う。いつの日か、佳奈がお母さんに会いたくて泣き出してしまった夜、琴音は佳奈を抱きしめて一人でなだめていた。大人の風格すら漂う落ち着きぶりで、小学5年生とは思えないほどしっかりとしていた。しかし、それと同時に彼女はまだ小学5年生の女の子で、身体だって心だって、本当の大人である訳では無いし、「こもれび」に居る以上、何か辛い悲しみを背負っているんじゃないか、吐き出せずに苦しんでいるんじゃないかという憂慮が、頭の片隅の奥の方に、小さく靄の様に鎮座した。彼女の異常なまでの悠然さが、逆に、何かどうしようもない苦悩を無理矢理にでも抑えつけている様でならなかった。だからといって、これまで琴音に何かをしてあげられた訳では無いのだが、今日、琴音の小さくて可愛い微笑みを見ることが出来ただけで、頭の片隅にあった小さな靄が少し晴れた気がした。




