優しい手
私は爽やかな夜気の中、木製の縁台に腰掛けると、足元に散在しているサンダルをつま先の感覚で探った。そしてペアになる物を探し当てて、それに足先を通す。左手で冷たいマグカップを持ち、浩と2人並んで縁台に座り夜空を見あげる。「こもれび」がある住宅街は、しんと静まり返っていた。たまに遠くからクルマの通る音が聴こえてくるくらい。夜空には、まだ目が慣れていないからか、赤く光る火星や一際目立つ一等星しか目に映らなかった。ふと、暗闇に浩と二人きりでいるということを思い出し、急に彼を意識する。するとなぜか二人の間には、見えない透明な壁が出来てしまったと感じて緊張する。私は、この沈黙を誤魔化す様にしきりにマグカップを口に運んでは、ちびりちびりと紅茶を飲んだ。桃の香りがする筈だが、正直、何の味がしているのか判断する余裕はなかった。
「学校はどう?楽しい?」
浩が沈黙を崩す様に、それとなく話しかけてくれた。壁を勝手に作り、意識していたのは私の方だけだったらしい。この謎の沈黙を破る力は私には無いし、この先も出来る様になる自信もなかった。
「えっと……。楽しくは、ないです……。」
「そうなの?」
「はい……。私、暗くてコミュ障ですし……。今の高校に通い始めたのも、少し時間が経ってからだったので、尚更、輪の中に入りづらくて……。」
「そんなコミュ障かな〜。「こもれび」だと普通じゃない?最近、よく笑ってるし。」
「私、そんなに笑っていますか?」
「うん。優理と話している時なんか特にね。最近、優理と何かあったのかなって……。」
それは、水族館での出来事が影響しているのは確かだった。あの一件で、私と優理の距離は一段と近づいたから。
「あはは……。やっぱり傍から見ても分かるんですね。」
「うん、まあ……。優理が他人にベタベタするのは前からだけど、橋本さんの声音と表情がね、変わったなって。」
浩に普段の私の所作を見られていたことが、なんだか気恥ずかしくて少し俯いてしまう。
「あのですね……。実は、優理さんのお母さんのこと、教えてもらったんです。それで、ぐっと距離が縮んだんだと思います。」
「あぁ……。理子さんのことだね。」
「リコさん?優理さんのお母さんのお名前ですか?」
「そう。」
「そう言えば、お名前。まだ聴いてなかったです。リコさんって言うんですね……。」
「うん。優理は……。大丈夫だった?」
「いえ……。それが……。優理さん、すごく泣いていました。初めて見たんです。優理さんのとても悲しい顔。」
「そうだよなぁ……。ああ見えて、まだ小学生だもんなぁ……。まだ3年しか経っていないし。」
「はい……。優理さん、いつも元気一杯で笑顔が絶えないから……。だから私、優理さんの悲しい顔なんて見たくなくて。そしたら私も辛くて苦しくなってしまって……。だから、言ったんです。そんな悲しい顔しないでって。似合わないって。優理さんは、ずっと笑っていなきゃダメだって。」
あの時の優理の悲しい笑顔を思い出してしまったからか、思っていたより口数が多くなってしまった。浩に、変に思われないだろうか。
「橋本さんも、けっこう熱っぽい所あるじゃない。」
「熱っぽい?ですか?」
「うん。なかなか言えないよ。普段、友達と接していてもね。そんなことを正々堂々と言える人をコミュ障とは呼ばないなあ。」
浩が、アハハと軽く笑う。
「でも実際、高校では友達はいませんし……。」
「みんな橋本さんの事を知らないだけだよ。よく笑うし、とっても優しいし、すごく面倒見もいいから、自然と友達なんかできるって。」
浩に、良い印象を持って貰っている様で素直に嬉しかった。でも自己評価とは全くかけ離れていて、認める事はできない自分がいた。
「そうでしょうか……。」
「そうだよ!でも無理に作れとは言わないよ。あくまで無理せず自然に。それに「こもれび」には僕らが居るんだから、そんな気にする事もないんじゃない?もう友達は「こもれび」に一杯いるよ!」
浩は笑顔で力強くそう言うと、縁台に添えていた私の右手を優しく覆うように握ってきた。その左手は、男の手、だった。私のより、ずっと大きくて、少し無骨。そしてほんのりと温かい。彼のその温度が、彼自身の優しさを表している様な、優しさが伝わって来る様な気がした。いつか義父に襲われた時の物とは全くの別物。男の人に触れられる事に良い心証のない私は、初めて感じた幸せな感触に加え突然の接触に、瞬間的に心臓が跳ね上がり息が止まった。私は慌てて浩の方を見上げると、彼も照れているのか、少し困った様な顔で笑いながら私を見つめていた。
「っ……。っ……。」
私は言葉が出てこなくて口を半開きにパクパクし、そのまま浩を見つめる。ただ右手から、じんわりと浩の優しさだけが伝わってくる。それを感じれば感じる程、顔は熱く心臓の拍動が力強くなっていく。もう何度となく繰り返し経験してきた自身の身体の反応に、「またか」と嫌気すら感じる。
「あっ……。……。あのっ……。」
何か反応をしなければと思い、何とか喉の奥から声を絞り出す。
「うん。」
「私……。私は……。「こもれび」のみんなが居るから、居てくれるから高校でぼっちでも平気なんです。帰れば、優理さんや結衣さん、下田さんにちびっ子達、城田さんや田辺さんが待っててくれるから、頑張れるんです。」
「うん。」
「みんな、すごく優しくて親切で……。私は、今まで身体も心も色んな人に傷つけられて、他人を全く信用していなかったけれど……。「こもれび」の人達だったら大丈夫だって。信頼できるって思えたんです。だから……。だから……。」
結局、最後は何が言いたいのか分からなくて、ただ感情のなすがままに、溢れ出てくる言葉を垂れ流していた。そして次第に「こもれび」の皆を思う感情が胸中を満たしていき、涙が一筋流れた。全く泣く場面ではないのに、悲しくなんかないのに。これでは変な女だと思われてしまう。
「そう、だよね……。これまで、辛かったよね……。」
浩は苦笑いをして呟くと、私の右手を握る手を柔らかく強めた。それが、私の胸の奥をぎゅっと抱きしめられた様に感じて何だか息が苦しくなる。私は、縁台に置いていたマグカップから左手を離すと胸元に添え、平常心を取り戻すためにゆっくりと息を継いだ。
「もう優理と結衣が、十分橋本さんを助けてあげているかもしれないけれど……。僕も橋本さんを支えてあげたい……。」
「えっ……。」
「僕に何かできる訳では無いんだけれど、いつか橋本さんの心の傷が、笑い飛ばせる位に、笑い話にできるくらいに平気になれたら良いな……。」
「……。あのっ……。わたしはっ……。」
その後の言葉は、嗚咽を堪えるのに精一杯で出てこなかった。私は、もう十分救われたと思っていた。あの地獄の家から抜け出して、暴力のない平和な日々を送ることができていた。満ち満ちたりていた。なのに、まだ私を助けようとしてくれる人がいる。私の、思い出すだけで吐き気が出る、可能なら消し去ってしまいたい惨めな記憶を、笑い話にしようと言ってくれる。私を見つめる彼のまだ少しあどけない笑みが、「大丈夫。いつか笑い飛ばせる日が絶対来るよ」と言っている様で、幾筋の涙が目元から流れた。




