夜の匂い
8月13日の深夜。私は、自室のベッドにうつ伏せに寝転がりながら、スマホの待ち受け画面に映るデジタル時計をじっと見つめていた。なかなか進まない時の遅さに焦燥感を抱いては、ベッドの上で何度も寝返りをうつ。今日は一日中、胸の奥底にある敏感な部分を柔らかな筆の毛先で撫でられている様な、こそばゆい感じがずっとしていた。それは、浩との約束の時間が近づけば近づくほど強度が増していき、心は浮き足立ち、心臓は高鳴り、そして顔は熱を帯びていった。
流れ星を見る約束の時間は午前1時だったが、まだ0時すら回っていない。私は、残りの時間をどうやって潰そうか考え、小説の続きを読もうとベッドから起き上がって机に座り文庫本を開いた。しかし、暫く読み進めたものの驚くほど活字が頭に入ってこない。ただ文字を音や記号として認識しているだけで、意味や情景などが全く頭に浮かんでこなかった。これでは後で読み返す時に続きが分からなくなりそうだ。私は諦めて文庫本を閉じ、机の上に静かに置くとスマホを手に取り、もう一度、時間を確認する。この間、5分しか進んでいなかった。このまま部屋に留まっていても気が滅入るだけだと思った私は、扉の側にある姿見で、髪や服装に変な所はないか確かめると(薄水色の半袖シャツに黒のハーフパンツを履いた寝巻き姿の自分が写っていたが、お風呂上がりと言うこともあり髪はしっとりとしていて、特に変な所は見当たらなかった)、一足先にダイニングへと向かうことにする。
時間はちょうど0時を回った頃。当然「こもれび」は既に寝静まっている。私は2階から、静寂に包まれた薄闇の中をゆっくりと降りダイニングキッチンまで来ると、入口の開き戸を入ってすぐ側にある壁のスイッチを押して明かりをつけた。いつもは賑やかな場所がしんと静まり返っていると、少し寂しさを感じる。私は気休め程度に一応もってきた小説とスマホをテーブルの上に置くと、気分を変える為に紅茶を淹れることにする。このあと眠れなくなるのが嫌なのでノンカフェインのフルーツ系の紅茶だ。いつか浩が入れてくれた物が、キッチン下の収納に常備されている。いくつかの種類の中から、今日の気分と夏という季節に合わせてピーチを選んだ。やかんにマグカップ2〜3杯分(一応、浩が来た時の為に多めに入れた)の水道水を入れ火に掛ける。私は、隣のシンクに軽くもたれかかると一つ息を吐き、何の気なしに髪を軽く手櫛で梳いた。髪が、だいぶ伸びてきたと思った。「こもれび」に来てもう5カ月になる。肩に少し掛かる程度だったが、今では肩よりずっと長い。セミロングくらいだろうか。このまま優理みたいに長く伸ばしてしまおうか。逆に結衣みたいに思い切ってショートにしてしまうのも悪くない。自分の容姿に無頓着だった私が、髪型をどうしようか気にしている。以前の私だったら絶対にあり得ない思考回路だと思う。自分自身の事なんてどうだってよかった。一切皆苦のこの世の中から、どうやったら少しでも安楽に生きられるかを考え続け、地獄の日々を淡々と生きていた気がする。そうやって、暫く妄想に耽りながら自分の髪を弄んでいたら、頭上から階段を降りてくる足音が聴こえてきた。テレビの上にある壁掛け時計を見やると時間は0時を回ったばかり。約束の時間には早すぎると思ったが、すぐに扉から浩が現れた。想定よりも早い邂逅に、心の準備ができていなかった私は一瞬息が止まる。
「橋本さん、早いね。もう来てたんだ。」
浩は、いつもと変わらない穏やかな笑みで私を見つめてきた。
「あっ、あの。はい。えっと……。ちょっと紅茶を飲もうかなって……。」
私は、変な緊張を誤魔化す様に、いつも寝巻きにしている薄水色の半袖シャツの裾を両手でぎゅっと強く握りしめた。いつもなら自然に話せているのに口籠ってしまう。私は浩に気付かれないように、静かにゆっくりと深く呼吸をした。
「いいね。僕も飲もうかな……。」
「あっ、お湯。少し多めに淹れたので、よかったら……。」
「ほんと?ありがとう。ホットで淹れるの?アイスにする?」
「えっと、いつも通りホットにしようと思ってたんですが、アイスも出来るんですか?」
「うん、できるよ。作り方、教えてあげようか?僕流になっちゃうけど。」
「本当ですか?最近あついので冷たいの、飲みたいです……。」
「そうだよね。分かった。」
浩は一言そう言うと、キッチン下の収納棚からティーバッグを一つ取り出し (味はアップルだった)、マグカップを4つと円形の小さな醤油皿を2つ用意した。その内、2つには私と浩のティーバッグを入れ、ちょうど沸騰したお湯を注ぎ、上に醤油皿を被せて蓋をした。もう2つには沢山の氷を入れ、お茶が抽出されるのを暫く待った。
「いつもより少なめのお湯で、濃いめに抽出するのが良いんだ。あと蓋をして蒸らすと、香りが逃げなくて美味しくできるらしいよ。」
「普通の紅茶でも使えますか?この方法。いつも常備してあるアールグレイとかダージリンとかにも……。」
「うん、大丈夫。暑い日とか、僕はいつもこの方法で淹れてるよ。」
「良いこと、教えて貰いました……。私、最近暑いので、ホットじゃなくて冷たくして飲めないかなってずっと思ってたんですよ。」
「そうだったんだ。確かに、この暑さで温かいのを飲むのはちょっと気が引けるね……。」
浩は話しながら、抽出し終わったティーバッグを2つのマグカップから引き上げ、シンクの三角コーナーに入れた。そして氷がたっぷり入ったマグカップに紅茶を注いでいくと、急な温度変化によって氷の割れる小気味よい音が僅かに響いた。浩はスプーンで軽く掻き混ぜると、ピーチティーの入ったマグカップを「どうぞ。」と言って手渡してくれた。
「甘くしたかったらガムシロと、あとミルクもあるよ。」
「ありがとうございます。歯磨きしちゃったのでストレートにします。」
「そう?じゃ、ちょっと約束の時間より早いけど。飲みながら星、見よっか。」
「はい……。」
私と浩は、ダイニングキッチンの明かりを消すと、掃き出し窓を開けて木製の縁台に出る。すると、夜風が東京の夜の匂いと共にひんやりと気持ちの良い空気を運んできた。私は、それを鼻から静かにゆっくりと胸いっぱいに吸い込む。私は、東京の夜の匂いに、いつも不思議な感情を抱く。それは郷愁感に似ていたが、ちょっと違う。例えるなら、物懐かしさと寂しさの中に、優理がいつも見せる天真爛漫な笑顔が内包されている様な感情。けして嫌な気持ちではないけれど、寂しさと幸せが共存している複雑で不思議な気持ちだった。その匂いは、どこから漂ってくるのか、発生源は何処なのか、正体は分からない。大抵、都内で日が沈み始め黄昏時に差し掛かると、何処からか漂ってくる気がする。私だけが気付いているのか、他の人も感じているのか、他人に話した事が無いから分からない。今、隣にいる浩に話したら、笑わずに聴いてくれるだろうか。でも、変な女と思われたくないので、この話はまだしないでおこうと思う。




