「こもれび」の夏休み
最近の夏は異常なほど暑い。特にコンクリートやアスファルトに囲まれた都内は、さも灼熱の焼き石の上で焼かれている様だった。図書館から「こもれび」までは徒歩15分の道のりだが、身の危険を感じさせるには十分で、汗が止まらなくなる。行きは、夏の早朝らしく清々しい気温で、半袖のTシャツに下はジーンズで気持ち良いくらいだったが、正午にはもう外に居ることが危険なくらいだ。やっとの思いで「こもれび」に着くと、中に入る前に玄関先でスクールバックからタオルを取り出し、Tシャツの下から手を突っ込んで、上半身の汗を一通り拭った。Tシャツ一枚だと、生地が汗で張り付き下着が透けて見えてしまわないか心配になったが、全身を見渡したところ問題は無さそうだ。黒と白のシンプルなボーダー柄が上手いこと隠してくれていた。いつもの様に「ただいま」と言いながら玄関を上がって廊下を進みダイニングに入ると、冷房の独特な匂いを伴った冷気で一気に身体が冷やされる。まさに生き返るとはこの事だった。キッチンでは田辺さんがお昼ご飯を作っていて、今日は浩も一緒だった。
「あ、橋本さん、おかえり。今日も図書館?暑かったでしょ?」
「はい、図書館で涼んでたんですけど、外は危険ですね……。」
「ちょっと待ってて、いま麦茶出してあげる。」
浩が、そそくさと冷蔵庫から麦茶の入った冷水筒を取り出し、コップに注いでくれた。浩の、ちょっとした気遣いが嬉しくて、顔が少し綻んでしまう。
「すいません、ありがとうございます。」
私は、受け取ったコップの半分ほどを一気に喉に流し込んだ。麦の香ばしい香りが鼻から抜けていき、渇きで粘ついた口内に瑞々(みずみず)しさが戻ってくる。
「橋本さん、顔、赤いよ?大丈夫?」
「そうですか?大丈夫だとは思うんですけど……。」
「本当だ、ちょっと貸して……。」
田辺さんが私の事を心配してか、両手で頬を覆うように触ってくる。田辺さんの手は、ひんやりしていて気持ち良かった。そして次に、額や首元をペタペタと触り始めた。
「気分は?悪くない?頭痛とか目眩とかは?」
「いえ、特に調子は悪くないです。」
「そう。なら大丈夫かな……。あんまり無理しないでね。異常な暑さだから。水分補給はこまめにね。」
「はい、ありがとうございます。」
もし、私にも優しいお母さんがいたら、こんな感じだったのだろうかと、ふと想像してしまう。私の実母にも、さっきの田辺さんの様に私を心配したり、可愛がってくれた瞬間があったのだろうか。少なからず私が物心ついてからは、そんな記憶や思い出は一切ない。そんな事を想像しながら、残りの麦茶を飲み干すと、浩がおかわりを注いでくれた。
「一応、念の為ね。あと一杯くらい飲んでおいた方がいいよ。」
「あはは、そうですね。喉渇いてますし、いただきます。ありがとうございます。」
「うん。」
浩が注いでくれた麦茶をゆっくり飲み干すと、お昼ご飯の手伝いをしようと思いエプロンを掛ける。今日は、夏らしく冷やし中華だった。私は、田辺さんからキュウリの千切りを引き継ぐと、田辺さんはトマトやハム、薄焼き卵の調理へと移っていく。浩は大量の麺を茹でていて、「こもれび」全員分の量を作るには、かなりの労働になる。いつも田辺さんに任せっきりの面があるが、本当に感謝のしようがなかった。
ほぼ冷やし中華も出来上がり、3人で皿に盛り付けていると、ちょうど結衣が学校から帰ってきた。玄関の方から「ただいま〜」と言う声が遠く聴こえてくる。結衣がダイニングに入ってくると、後をつける様に2階から小学生組も降りてきた。どうやらテレビ部屋で、みんなでゲームをしていたらしい。
「結衣 姉、おかえり。ハナちゃんも帰ってたんだね。外、暑くなかった?」
「ただいま。いや〜死んじゃうくらい暑いよ……。ちびっ子達は今日は外に出ない方が良いかも。もし外で遊ぶなら「こもれび」の近くでね。」
結衣が、琴音と和人に、言いつける様な仕草を見せる。
「分かったよ、結衣姉ちゃん。この後、みんなでゲームの続きをするから、午後は特に出掛ける予定はない。」
和人が、淡々と結衣に答える。和人は、小学生のちびっ子達の中でも大人びて見えるしっかり者だ。小学5年生の琴音と和人が妙に大人っぽくて頼りになるので、まだ目の離せない小学3年生の佳奈と至がいても安心して任せておける。そこに優理も加われば、基本的にちびっ子関連の大体のトラブルはフォロー出来ていた。高校生の私達や優仁や田辺さんも、特に手を焼くような場面が多くないのも、琴音と和人の存在が大きかった。
「なら良かった。でも、クーラーの効いた部屋にいても熱中症になるらしいから、ちゃんと水飲みなさいよ。」
「うん。」
冷やし中華の配膳も終わり、みんなでテーブルを囲む。優仁は仕事で外出中だったので、田辺さんも含めて9人だった。ほぼ同時に全員で「いただきます」を言う。みんなお腹が空いていたのか、麺を啜る音が一斉に鳴り響いた。私も図書館からずっと空腹だったので、実は冷やし中華を作っていた最中から誘惑されていた。具材の下に隠れている麺を表に引っ張り出し一口を啜る。黒酢の甘みと刺すような酸味がさっぱりと、暑い夏にちょうど良い。そこにキュウリやトマトのアクセントも加わると、ちょっとした味変も楽しめる。市販の物に具材を載せて調理しただけだったが、十分美味しかった。
「結衣 姉、この後、かき氷食べに行くんだよね?」
「うん。近くにある人気のところ。」
「去年も行ったよね。」
「そうそう。二人で一個ずつ頼んだら、量が多くて震えながら帰ってきたっけ。」
結衣はそう言うと、私の左手側に座る浩の背中側から手を差し出して、私にスマホを渡してきた。結衣は、浩の左隣が定位置で、キッチン側には優理、私、浩、結衣の順番で座っているので、少し距離がある。私は結衣からスマホを受け取るとテーブルの上に置き、優理と二人で覗き込んだ。そこには、苺と思われる赤いシロップに練乳の様な白いシロップがたっぷり掛かった、こんもりとした小山の様なかき氷が写っていた。その後ろには、薄緑色のシロップのかき氷が写っていたが、味が想像できなかった。緑だとメロンが定番だが、薄緑は何味なのだろう。いずれも、ふんわりとしていて美味しそうだったが、いかんせん量が多い。私は一つ食べ切れる自信がなかった。
「これこれ。苺ミルク、美味しかった〜。」
「この奥の薄緑のシロップは何味?」
「これは、ピスタチオミルク!結衣 姉が食べた奴だね。これも美味しかったよ。」
「ピスタチオ……。でも量が多くて食べきる自信がない……。」
「だよね。でも、ハナちゃん大丈夫!今日は3人いるから、3人で2種類を食べよう!」
「優理!3人で1つでいいんじゃない?また、震えながら帰る事になるよ!」
結衣が、浩の隣から顔を覗かせながら少し語気を荒げて言う。浩は、私達の会話に挟まれながらも、黙々と冷やし中華を食べていた。
「えぇ〜、せっかく色んな味があるのに1つじゃつまんないよ〜。それに、こんなに暑いし3人いれば大丈夫だって!」
「大丈夫かなぁ……。」
結衣が少し心配そうな顔をしたが、私も同意だった。実物を見たことがないから判断が難しいが、写真ですらその大きさが伝わってくる。とりあえず私は、現地で実物を見てから考える事にした。
お昼ご飯を食べ終わり、みんなで協力してお皿を洗い終えると、出かける準備をする為に、一旦2階の自室に戻る。スクールバックを机に置き、中から財布を取り出し後ろのポケットに、スマホを前のポケットに仕舞う。私は外に出掛ける用のバックを持っていないので、結衣や優理と遊びに行く時は少し不便だ。スクールバックを持って行ってもいいが、少し大きいしがさばる。雰囲気もお出掛けとはちょっと違うので持って行きづらく、最近のちょっとした悩みでもあった。だから目下の所はお小遣いを貯めて、外行き用のバックを買う事が小さな目標だった。
部屋の扉の側にある姿見で、肩より少し長めの黒髪を手櫛で整え、ボーダー柄のTシャツやジーンズに変な所がないか確認すると部屋を出る。すると廊下の突き当たりで浩が、洗面台に少し寄りかかりスマホを弄りながら立っていた。その姿を見て、少しだけ胸が跳ねる。今では大分慣れてきたのだが、未だに胸元でトクリと脈打つ様な、ふとした時の反応は治らないままだ。ちょっとだけ身体が上気した気がしたのは、夏の暑さのせいだろうか。
「あっ、橋本さん」
「はい」
「今、ちょっと大丈夫?」
「え。えぇ、大丈夫ですよ……」
浩は何だか少し落ち着きがない様で、右手で後頭部を擦ったり、視線を斜め上に泳がせたりしている。口籠った様子で、何か発言を逡巡している様だった。前にも見たことがある様な気がしたが、そんな素振りをされると、私もどこを見て良いか分からず視線が右へ左へと泳いでしまう。
「あの……。8月13日の夜なんだけどさ……。時間、あったりする?かな?」
「8月13日……。いえ、特に予定は……。いつも通り「こもれび」にいると思います。」
「あのさ、えっと……。流れ星が、また見えるんだ。よかったら、一緒にどうかなって。嫌だったら、全然断ってくれて構わないんだけど……。」
「流れ星……ですか?また見られるんですか?」
以前、浩と一緒に見た、こと座流星群の光景を思い出す。無数の光点が織りなす広大な星空を、一瞬にして横断する一筋の光。流れ星が、こうも頻繁に現れる事を知らなかった私は、また、あの綺麗な天体ショーを見られるかもしれない事に胸が躍った。それに、男の子に遊びに誘われたこと自体が純粋に嬉しかった事も事実だった。実は半分くらいは、浩に遊びに誘われて嬉しい気持ちが支配しているかもしれない。けれど、純粋に流れ星を楽しみにしている自分もいて、案外、春に浩と一緒に見た光景を気に入っているのだなと改めて自覚する。
「うん、天気が良ければだけど……。」
「見たい……。見たいです、流れ星。ぜひご一緒させて下さい!」
「ほんと?良かった〜。」
浩はそう言うと、表情が少し綻んだ。
「ちなみに何ていう流れ星なんですか?」
「えっと、ペルセウス座流星群」
「ペルセウス……。」
「うん。夏に見られる流れ星で、一応、三大流星群の一つなんだ。」
「なんか難しい名前ですね……。当日までに少し調べておきます……。」
私がそう言った矢先、階下から「ハナちゃんまだ〜?」と言う優理の間延びした声が聴こえてきた。
「あっ、優理さん、ごめんなさい。ちょっと待ってて。」
「橋本さん、ごめんね、途中で呼び止めちゃって。あとは日が近づいたら連絡するから大丈夫。暑いから気をつけて行ってきてね。」
「はい、ありがとうございます。話の途中ですいません……。」
浩はにっこり笑うと、片手をヒラヒラさせて手を振ってくれた。いってらっしゃいの合図だろう。私は軽く会釈すると、急いで階段を降りた。




