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真夏の図書館

 全身にじっとりと重たく(まと)わりつく様な、湿気を多く含んだ空気のせいで毎日が憂鬱だった梅雨も乗り越え、文字通り刺すような陽光が厳しい夏を迎えていた。時は進み7月の下旬ごろ。学生にとって決して気分の良い物ではない期末テストを終え、世間の子供達は夏休み一色に彩られていた。とは言っても私自身、夏休みだからと言って特別やることもなく、予定のない日は図書館で小説を読んだり、夏休みの宿題をしてゆったりと涼んでいた。私は、夏の図書館が好きだった。外は猛暑で厳しい世界が広がっているのに対し、窓一枚隔てたこちら側は、寒いくらいに冷房が効いていてとても快適だ。外から微かに聴こえてくるセミの鳴き声は、静かな図書館にそっと広がり、まさに夏のBGMらしく心地よい。窓から見える清々しいほどの青い空に天高く伸びた積乱雲も、羊毛の様な膨らみが一つ一つ精細に形作られ、日の当たり具合によっては陰影が生じ、より輪郭がくっきりと見て取れて美しかった。この後、激しい雷雨になりそうな景色だったが、もし図書館で夕立に見舞われたとしても、通り過ぎるまで中に籠っていれば良い。絶対的な安全地帯にいる様な安心感が、より図書館を魅力的にさせていた。そういった図書館で感じる夏の風物詩の一つ一つが、まだせいぜい15歳である私に謎の郷愁感を強く感じさせるのだった。

 夏休み中は、優理(ユリ)結衣(ユイ)と毎日、外に出掛けて遊びに行く事もできるのだが、大体はお金が必要になる。今のお小遣い事情では厳しいものがあって、それは結衣や優理も一緒だった。それに結衣は、高校3年生で受験生という事もあって7月一杯まで補講があるらしく、毎日平日の午前中だけ高校に通っていた。どうやら中間と期末テストの数学の点数が悪かった様で、補講の時間数も数学だけ他の生徒より多く、その分、下校が少し遅くなるとの事だった。私は、冷房の良く効いた図書館の机で頬杖をつき、側の窓から暑そうな都内の景色を眺めながら、中間テストの時の一幕をふと思い出していた。あれは、優理たちと水族館に行ってから間もない頃だった。

  

「ヤバい……。このままだと夏休みの補講が増える……。」

 高校から「こもれび」に帰ってくると、結衣が深刻な面持ちで、いつものダイニングのテーブルに座り、(てのひら)ほどの大きさの用紙を睨んでいた。 

「中間と期末テストの結果で決まるんでしょ?まだ、結果は分からないんじゃない?」

 そう言った優仁(ユウジ)は、側のキッチンで田辺さんと夕飯の支度をしている所だった。何かを揚げている油の匂いが、学校帰りの空腹を強く刺激する。

「そうなんだけど……。今やってる微積が意味不明すぎて全く自信がない……。」

「まだ時間はあるし、頑張れば可能性はあるって。」

「いやいや無理だってば……。」

 そう言う結衣はげんなりして、手元の用紙を見つめながらテーブルに突っ伏してしまった。いまいち話の流れが読めない私は、「ただいま」と簡単に挨拶すると、結衣を心配して声を掛けた 。

「あの、何かあったのでしょうか?結衣さん、大丈夫ですか?」

小華(コハナ)、おかえり。それがね……。数学のテストで、中間と期末の両方で平均点以下だったら夏休みの補講の時間を増やされちゃうんだよ……。」

「それは嫌ですね……。ちなみに、結衣さんの今回の点数は……。聴いても大丈夫です?」

「えっと、45……。ちょっと恥ずかしいけど……。数学は苦手なんだよ……。ちなみに平均は55だった。」

「惜しかったですね……。あと10点ですか……。」

「これまで他の単元だったら平均くらい取れてたんだよ。でも今やってる微積は本当にダメ。マジで分かんない……。」

「小華さんも結衣に言ってあげてよ。最初から諦めるのは良くないよって。」

 優仁が手元で唐揚げを油から取り上げつつ、微笑を携えて横目で私を見ながら言う。

「数学が得意な人だから、そう言えるんさ。苦手な人は、全く何も分からないんだよ〜。」

「私も、数学はあまり得意ではなくて……。教えてあげるのは難しそうです……。それに習ってる単元も、高校1年と3年では違うでしょうし……。」

「大丈夫だよ、小華。ありがと。後輩の手を煩わせる訳にはいかない。それに強い助っ人がいるからね。ねぇ優仁。数学、教えてよ。昔、得意だったんでしょ。」 

「えぇ……。さすがにもう無理だよ。何年も、いや何十年も問題すら見てないし……。」

 そう言えば前に優理が、昔お父さんは自動車のエンジンの設計開発をしていたと言っていた。所謂エンジニアだったのであれば、確かに数学は得意なはずだ。

「いやいや、大丈夫だって。私より頭良いんだし。それに昔、仕事で使ってたんでしょ?数学。」

「使ってたって言えば使ってたけど、難しい計算とかシュミレーションは全部コンピュータがしてくれるし、ちょっとした計算は電卓使っちゃうしで、高校数学とはちょっと違うんだよ……。助けてあげたいけれど……浩なら適任じゃないかな?浩は数学得意だよ。」

「それは知ってる。でも借りを作るわけにはいかないんさ。」

 結衣は、それだけは嫌だった様で顔をしかめ

る。とても分かりやすい反応で、いつも浩をからかっているからか、結衣なりに譲れない思いがあるようだった。

「だったら、逆に結衣が英語を教えてあげなよ。結衣、英語得意でしょ?浩は英語が苦手だからWin-Winだと思うなぁ。」

 「なるほど、確かに浩は英語ダメだったね。交渉の余地はあるか……。」

 そう言う結衣の顔には、いつもの悪戯な笑みが少しだけ浮かんでいた。

「そうそう、小華の方はテストどうだった?嫌なら別に見せなくてもいいけど……。」

 私は、今回のテストは調子が良かった。高校に入学して初めての定期テストだからか、先生達もそれほど難易度を高く作っていないのだろうとも思う。それに「こもれび」と言う環境でいつもより落ち着いて勉強できたからか、全教科で平均点を超えることができたのだ。高望みしていた訳では無いが、努力が結果に結びついて純粋に嬉しかった。しかし、成績が芳しくなかった結衣の手前、自慢になってしまいそうで何と言って良いのか口籠ってしまう。

「えっとですね……。悪くはなかったです。良くもないですが……。」

 私はそう言うと、化繊でできたネイビーの一般的なスクールバックからテスト結果の用紙を取り出し優仁に手渡した。一応、保護者的な立ち位置にいる優仁には見せる必要があると思ったからだ。結衣も気になったのか、優仁の背後から覗き込む様にして、私のテスト結果に目を通す。

「えっ、まって。小華、めちゃ頭良いんだけど。みんな80点超えじゃん……。」

「小華さん、凄いね。偉いよ。ちゃんと勉強しているね。」

 今まで勉強に対して褒められた事がなかったので、自然に顔が綻んでしまう。しかし自慢になりそうで、無理にでも真顔を取り繕うのだが、逆に変な顔になってしまったかもしれない。私の両親は、当然の様に教育に関心がある訳がなく、私のテスト結果など全く無関心だった。だから、勉強で褒められたことも、叱られたこともない。私のテスト結果に興味を持って、頑張りを認めて褒めてくれる人がいる。それだけで、お腹の底からじんわりと温かい感情が湧いてくるのが分かった。頑張っても誰も見ていない、誰も興味を持ってくれない、誰も何も言ってくれない。無関心というのが、ある意味、一番残酷だったのかもしれない。ただ、勉強さえしていれば義父からちょっかいを出される事も少なかったから、家に居る時は黙って黙々と勉強をしている事が多かった。本心は分からないが、子供の勉強の邪魔をすると言う事に、少しでも後ろめたさがあったのではないかと勝手に思っている。勉強自体、嫌いではなかったし、それで自分を守る事ができるなら積極的に取り組んだ。 

「あっ、あの……。ありがとうございます……。」

「そう言えば、小華。かなり前から中間テストの勉強してるって言ってたもんね〜。 小華は、そっち側の人間だったか……。」

「そっち側って、小華さんが真面目で頑張ってるんだよ。結衣も見習ってちゃんと勉強しなよ。」

「はいはい、頑張りますよ〜」


 その後、期末テストを迎えるまで、結衣が優仁と一緒に勉強していたり、結衣が浩に英語を、浩が結衣に数学を教えている姿を、ちらほらとダイニングで見かける様になった。結衣も、言葉では無理だと言っていたが、ちゃんと努力したり勉強したりする気概はあって、その姿を見ていると、私も何だか勇気づけられて、やる気が沸き起こるのだった。


 その後の期末テストの結果はというと、残念ながら結衣は平均点に1点届かなかった。非常に惜しい所で、結衣が先生に大目に見てくれないかと交渉したほどだ。

「おかしいよ。何で期末テストの数学の平均点、中間より上がってるのさ……。」

「結衣、残念だったね。あんなに頑張ったのに……。でも、結衣の点数も中間より上がったじゃない。それは立派な努力だよ。」

 優仁が、夕食後にゆっくりお茶を飲みながら、結衣を慰めていた。

「平均点はいくつだったんですか?」

 私は気になって、それとなく聴いてみる。

「65。夏休みの補講が増えるのが嫌で皆頑張ったのかな?」

「なるほどですね……。でも結衣さんが64点って事は、中間より20点近く上がってますよ!それは凄いです!」

「小華、ありがと。でも補講が増えるからね……。先生に1点、大目に見てくれないか交渉したけどダメだったよ……。高校最後の夏休みが……。」

「大げさだな〜。午後は帰ってくるんでしょ?」

 優仁が、紅茶の入ったマグカップを口に運び微笑を携えながら言う。

「優仁は分かってないな……。高校最後の夏休みだから、最高の夏休みにしたいんさ。追加の補講の分、帰りが遅くなるのは嫌だよ。」

 それが一般的な女子高生の感情なのかもしれない。私も「こもれび」に来てストレスフリーな夏休みに突入してから、その気持ちは分かる気がした。今までは家に居る時間が増えるため最悪な事しかなかった。母は仕事をしておらず家に居る事が多いので嫌でも顔を合わせる。義父も夏の長期休みに入れば家にいる時間が増え、その分、暴力を振るわれる機会が多くなる。これほど劣悪な日々はなかった。

「結衣さん、すごく残念ですけど、午後は「こもれび」で待ってます。その後、どこかに遊びに行きましょう。」

「小華……。ありがとね……。急いで帰る。」


 私は、中間、期末テストの一幕を、窓から見える積乱雲をぼぉっと眺めながら思い出していた。時間は12時の少し前。まだお昼だと言うのに、積乱雲は天高く、かなり上空まで背を伸ばしていた。午後は、何処かで激しい雷雨になりそうだ。結衣はそろそろ学校が終わる時間だろうか。今日は、午後に結衣と優理とかき氷を食べに行く約束をしている。結衣に写真を見せてもらったが、見たこともないほど大きくて、シロップがたっぷり掛けてある。一人では食べ切れる自信が全くなく、3人で一つ位が丁度いいかもしれない。お昼ご飯は、いつも「こもれび」で食べるので、結衣と浩の帰宅に合わせてご飯を作っている。浩も結衣と同じ高校で受験生なので補講があったが、追加の補講はなかったらしく、結衣より1限分ほど帰りが早かった。私は、お昼ご飯の手伝いもあるので、そろそろ帰宅しようと思い、手元で閉じていた小説をスクールバックに仕舞って図書館を出る。夏の厳しい日差しが(まぶ)しく、一瞬目が(くら)み、反射的に(てのひら)を額にかざした。半袖のTシャツから伸びる腕に熱射が刺さるが、冷房で冷えた肌にはほんのりと温かく感じ心地よかった。しかし数分もすれば、じんわりと汗が滲み出てくるだろう。図書館から「こもれび」までは、徒歩で15分くらい。私は、逸る気持ちが抑えられず、遠くで揺らぐアスファルト上の陽炎を目掛けて、いつもより足早に歩き続けた。

Δ1(2025/6/8):小華の年齢を15歳に修正しました。また一部を加筆、修正いたしました。

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