連絡先
週明けの月曜日。朝、目が覚めると、いつもの様に重い憂鬱感が下腹部の奥底にどんよりと溜まっていて、学校に行かければならないと言う苦悩に身体中が蝕まれていた。学校が少しでも楽しい場所であったら、毎朝、こんな思いはせずにいられただろう。しかし今の所、私にとって孤独な場所に他ならなかった。昨日の日曜日、楽しいことが沢山あったから、その反動でより強く憂鬱を感じてしまっているのも一因だとも思う。毎朝元気な優理が本当に不思議でならなかった。
私は重い上半身をなんとか起こすと、両手で顔を覆い、瞼をぎゅっと固く閉じる。大丈夫。今の私にはスマホがあって、結衣とはいつでも繋がっている。学校では、これまでと違って孤独感が軽減されるはずだ。そう考えるだけで、重い憂鬱感も微かに楽になるのを感じる。固く瞑った瞼を開けて、枕元で充電していたスマホを手に取る。待ち受けには、昨日、三人で撮った栗毛の馬と私、優理と結衣が写っていて、みんなの明るい笑顔がその時の幸せを物語っていた。
日曜は、ポニー公園から「こもれび」に帰ると、ダイニングキッチンのテーブルで優理、結衣と三人でスマホを取り囲み、いよいよ開封を行った。結衣に手取り足取り教えてもらいながら、様々な初期設定をし、まずは主な連絡手段であるLINEをインストールした。その際、結衣や優仁と電話番号も含めLINEの連絡先も交換したのだが、私が浩とも交換をしたくて、テーブルの端でテレビを見ている浩の後ろ姿をふと見遣るものの、しかし今の私には絶対に連絡先を交換して欲しいなどと伝える事は出来なかった。照れくささなのか、何なのか。嫌いではないし、拒絶している訳でもないのに、気恥ずかしさも相まって、たった一言、声を掛ける事がとてつもなく勇気が必要だった。交換して欲しいと伝える姿を妄想するだけで胸がきつく締め付けられ、心なしか鼓動も早くなる。一言が言い出せずもじもじしていると結衣が、何かを察したのか浩に話しかけた。
「ねぇ、浩」
「ん?なぁに?」
テレビを見ていた浩がこちらを振り向く。
「ちょっと取り引きがあるんだけれど。」
「え?取り引き?」
「そう。見ての通り、小華が今日スマホを買ったんだけどね……。」
「うん。この前でた新しい奴だよね。いいなー、羨ましい……。」
「そうそう。まぁ機種の話は置いておいて……。見ての通り、新品でまだ画面フィルムを貼ってないわけ。」
「あぁそれ案外難しいんだよね。気をつけないと小さいホコリとか入っちゃって。」
「そうなのよ。そこで手先が器用な浩にお願いしたいんだけれど……。でも、タダでとは言わない。最近、お金払えば家電屋さんで貼って貰えるサービスとかもあるから、ちょっと申し訳ない気持ちもあるし……。ね、小華。」
「えっ、ええ。はい。」
結衣から急に振られたせいで、一瞬、反応が遅れてしまった。すると結衣の顔が、時折見せる悪戯な笑みを含んだ表情にふと変わった 。
「なんと!今なら美少女JKの連絡先をプレゼント!」
「えっ、美少女JK!?」
その結衣の言葉を聴いて、浩が一体誰の事だと言う様に目をしばたかせた。
「そう!欲しくないの?欲しいよね?美少女JKの連絡先?」
「えっ、それって橋本さんの連絡先のことでしょ?そりゃまぁ欲しいけれども、普通に交換すれば良くない?それにフィルムなんてタダでやってあげるけれど……。」
「いやいや、だから最初に取り引きって言ったでしょう?タダでは申し訳ないから、美少女JK小華ちゃんの連絡先をプレゼントしようってこと。ね、それで良いでしょ?小華も?」
結衣が、いたずらな笑みを携えながら私の方を見ると、ウィンクをしてみせた。それに、さっきから私の事を美少女などと宣っているが、決してそんな事はないので止めて欲しかった。言われるほどに気恥ずかしく、照れくさくて、何だか顔が火照ってきて暑いし、それに嬉しくないと言ったら嘘にはなるが、私には縁遠い言葉だ。なんなら結衣の方が、余程似合っていると思う。
「え……。あの、はい。フィルム、お願いしてもいいでしょうか?」
「うん、任せといて。得意だから。」
「ありがとうございます。」
「あと、連絡先も後で交換しよう。」
「あ……。はい…… 。あの、ありがとうございます……。お願いします。」
この一連の茶番は、結衣が私に気を使って浩と連絡先を交換できる様に取り計らってくれた物だと察しがついたが、結衣自身の浩と私に対する、からかいも含んでいると思う。結衣はいつも、私を使って浩をからかうし、それに、いつもの悪戯な笑みを含んだ表情が何よりの証拠だった。私は、いつもの結衣のからかいは、別に嫌な訳ではなかったし、決して誰かを傷つける様な内容ではなかったが、照れたり気恥ずかしくなる事が多く狼狽えてしまうので対応に困るのが常だった。でも、浩とコミュニケーションが取れる大切な瞬間である事と、仲間の輪に入ることができた気がして、不思議と温かみを感じていた。
その日の夜、夕飯も食べ終わり、お風呂にも入って一旦部屋に戻ろうとしていた時、背後から浩に呼び止められた。まさか浩に声を掛けられると思っていなかっので、少し驚いてしまい変な声が出てしまった。
「大丈夫?ごめんね、急に呼び止めて……。」
「あ、いえ……。大丈夫です。少し驚いてしまって……。なんでしょう?」
「よかったら、画面フィルム貼ってあげるけど、今スマホ借りても大丈夫?」
「あっ、すみません。忘れてました。お願いしても大丈夫ですか?今、部屋からフィルムを取ってきます。」
夕方、浩と連絡先の交換とフィルムの貼り付けを約束したものの、その後は結衣のおすすめや必要なアプリをインストールしたり、基本的な使い方をレクチャーしてもらったりしていた為、忘れていてしまったのだった。私は急いで部屋に入り、フィルムのパッケージを手に取って廊下に戻ると、黒縁ケースに収まった淡いグリーンとリンゴのマークが印象的なスマホをフィルムと一緒に浩へ手渡した。
「すぐ終わるから、部屋で待ってて。出来上がったらノックするね。」
私は、「ありがとうございます。お願いします。」と言うと、部屋に戻り机のイスに座って一息つき、気を落ち着かせた。浩と一緒に流れ星を見てから、最近ずっと調子が狂う。出会ったばかりの頃は、今ほど取り乱していなかったのに、最近では彼を真っ直ぐ見る事が出来ないし、会話中も上がり気味だった。今も少し、彼との会話の余韻が残っていて、トクリ、トクリと心臓の鼓動が微かに聴こえている。私はイスから立ち上がると、窓を開けて外の空気を部屋に入れた。4月ももう下旬になる。程良い涼しさを伴う風が、私の肩より少し長い黒髪を優しく撫で、ふわりと髪が舞い上がる。そして深く息を吸い込む。春の夜の東京の薫りがした。何とも言えない独特な、どこか懐かしさを感じる様な、春の温もりを感じる暖かな薫りだった。暫くそうやって、窓から住宅街の夜景を見ながら深呼吸をしていると、背後でトントンとドアをノックする音が聴こえた。どうやらスマホ画面にフィルムを貼る作業が終わったらしい。やっと落ち着きを取り戻した私の心臓は、またもやトクリ、トクリと早鐘を打ち出す。さっきまでの落ち着きを取り戻す為の行為は全て意味がなくなった。
(あぁ、ダメだ。下田さんを前にすると、いつもこうだ……。)
私は、小さく「はい」と言ってドアを開ける。そこには浩が立っていて、「これ、上手く貼れたと思うけれど一応確認してみて。」と言って、さっき渡した黒縁ケースに入った淡いグリーンのスマホを渡してきた。私は「ありがとうございます」と言って、それを受け取ると、画面の表面を流す様に確認してみる。気泡やゴミの噛み込み等は一切見られず完璧な仕上がりだと思う。
「全然問題ないと思います。とってもキレイです。ほんとに貼るの上手なんですね。」
「あはは、ありがとう。上手く貼れた様でよかったよ。あっ、そうそう忘れないうちに……。」
浩はそう言うと、おもむろにズボンのポケットからスマホを取り出した。私は何だろうと思い、少し首を傾げていると、連絡先の交換の件だった。
「一応、取り引き?だしね。結衣が言うには。」
「あっ、あの……。ごめんなさい。そうでした……。」
私は慌ててスマホの画面を操作するが、連絡先の交換の為にはどうすればいいのか、まだ操作がまったく分からない。私がもたもたしていると、浩が「ちょっと貸して」と言って、変わりに操作をしてくれる事になった。
「この待ち受け、良いね。今日、撮ってきたの?」
「はい、そうなんです。3人でポニー公園に行って。」
「お馬さんもカメラ目線ってのが良いね。」
「はい。なんか突然、近寄ってきたんです。そしたら結衣さんが急いで撮ってくれて。」
「さすが、インカメで撮るの上手いな。」
その後、浩が操作をしてくれたのだが、その際、浩が私のスマホ画面を覗く為に少し屈んだことも相まって、彼の顔との距離が急接近した。そのせいで心臓の鼓動が急に跳ね上がり強く拍動している。更に彼の肌から放出される熱も微かに感じて、それが私の体温上昇に拍車をかけた。それに伴って頬の紅潮を感じると共に、次第に脳内の処理も覚束なくなってくる。彼が、操作方法を教えてくれているが殆ど頭に入ってこない。無意識に、ただ「はい」と生返事をしているだけだった。
「はい。電話番号とLINE、交換しておいたよ。」
「あ……。あのっ……。すみ、すみません……。何から何まで操作して頂いて。ありがとうございます。」
「いえいえ。最初は皆、そんなもんだって。何か困った事あったら気軽に聴いてよ。じゃ。」
彼は片方の掌を上げてそう言うと、自分の部屋に戻っていったのだった。私は暫く放心状態になり、部屋に入ってドアを後ろ手で閉めると、その場にうずくまった。
(私、どうしちゃったんだろ……)
これまで人と接してきた中で、こんな状態になる事は初めてだった。浩と一緒に居ると、身体は火照り、脳もまともに働かない。好き、何だろうか。彼を思っているからこその反応なんだろうか。でも今回、彼を意識していると言う事だけは、はっきりと自覚できたと思う。しかし本当に心の底から彼が好きなのかどうかは、未だはっきりとした結論が出せずにいた。
月曜日。学校へ行くと、休み時間に必ず結衣から連絡が入っていて、「大丈夫?」だったり、「お腹すいたー」だったり、可愛いスタンプが送られてきて、結衣がとても気を遣ってくれていることは明白だった。そのおかげで私の孤独感は殆ど払拭されたし、結衣と繋がれている事がとても嬉しくて、まだ覚束ない手つきだったが、ゆっくりと文字をタイプしていった。それに待ち受けを見れば、可愛らしい栗毛の馬に私と優理と結衣の3人がいて、見る度に勇気を貰うことができる。それだけで、学校では一人でも、決して一人じゃないと自分自身を鼓舞できる。私には、大好きで大切でかけがえのない友達がいる。