春の流星
「きれい……。」
私は「こもれび」の裏庭で、星空を見上げながら呟いた。これまで星や天体に興味がなかったので見向きもしなかったが、実際に見てみると、その美しさが分かる様な気がした。
「でしょ?意外と「こもれび」の星空もバカにできないんだ。」
浩と二人ならんで星空を眺める。私達の頭上では、白銀の星々が音も立てず静かに瞬いていた。きらきら星という童謡があるが、星は本当にきらきらと瞬いているのだと、目の前の星々を眺めて気づかされた。そうやって思いを巡らせていると、ふと、今の状況を冷静に俯瞰してしまった自分がいた。夜中に年上の男の子と二人きり。まるで恋人同士の様な……。すると、頭の中が否応なし一転し、急に浩の事を意識してしまう。これまでの学生生活で男子との接点が皆無だった自分にとって、この状況は非常に危うかった。さっきまで全く意識すらしていなかったのに、自然に振る舞えていたと思っていたのに……。今の状況を俯瞰してしまったが故に、抗えず意識してしまった私は顔が火照り、頭の中が白くなりつつあった。
「あそこ。明るい星が見えるでしょ?」
「え……」
それとなく浩に話しかけられた私は、戸惑って何と返答して良いのか分からない。
「ほら、あそこに。」
すると浩が少し距離を詰めてきて、私の顔の目線からでも分かりやすい様に指を指してくれた。微かに彼の息遣いと、肌から放たれる僅かな温もりが何となく感じられる。これまで男の子と、こんなに近づいた事はあっただろうか。小学生の時は、子供の遊びの中で不意にはあったかもしれない。しかし今はそんな巫山戯た状況ではない。顔の火照りから、今度は心臓の強くリズミカルな脈動も聴こえてくるほど意識してしまう。私は咄嗟に、さっきキッチンの暗闇の中で落ち着きを取り戻した時の様に、マグカップを持つ両手を胸元に添えて、ゆっくりと呼吸を意識した。マグカップからは浩が淹れてくれたイチゴの紅茶の甘い香りが漂ってくる。すると、次第に思考が戻りつつあった。
「あの……ごめんなさい……。あそこの、とっても明るい星ですか?」
「そうそう。あれが、こと座のベガって言う星なんだ。そこから伸びる菱形みたいな4つの星と反対にある1つの星でこと座。」
「あれが、こと座……。」
「そう。そのこと座の、ちょっと上あたりに放射点があって、そこから流れ星が出やすいんだ。」
「そこを見ていれば良いのでしょうか?」
「うん。基本は、その辺を見ていれば良いんだけど、けっこう広い範囲で流れたりするから、1点と言うより空全体を見渡すイメージだと見えやすいよ。」
私は「わかりました」と軽く頷きながら簡単に答えると、さっき浩から教えてもらった放射点を中心に、空全体を捉える様に見渡した。大丈夫。浩に、変に思われた様な素振りは見られない様だった。まだ会って日も浅いのに、テンパってしまって可笑しい人だと思われるのが嫌だった。
それからは二人とも無言で、夜空の同じ方角を黙々と見続けたのだが、一向に流れ星は現れなかった。私は本物を見たことがなかったので、見逃しているのかとも思ったが、浩も何の反応も無いので純粋に現れていないと判断した。体感で5分も経っただろうか。首が痛くなってきて、さっき浩が休憩で家の中に戻ってきた事を理解する。どれくらい観測していたのかは分からないが、十数分も夜空を見続けていたら首を痛めてしまいそうだった。
「さっきは3〜4個くらい見えたんだけどなぁ〜。ちょっと待ってて。」
浩が言いながら、おもむろに家の中に戻ると、ダイニングキッチンにある収納部屋(玄関側の入口から入って直ぐ右にある)から、キャンプやバーベキュー等で使う折りたたみ式の椅子を二つ持ってきてくれた。
「長丁場になりそうだから、これ使って。」
「ありがとうございます。」
浩が持ってきてくれた椅子は、肘掛け付きの比較的しっかりとした作りの椅子だった。布地で出来た座面も、お尻から腰回りをホールドしてくれて、ゆったりと座れる。背もたれの角度が、ちょうど寝そべる様な姿勢に最適で、これなら無理に首を上げなくても夜空を見渡すことができた。そのままマグカップに入った紅茶を少しずつ啜り、イチゴの香りで癒されながら星空を観察しつづけた。つい先ほど前まで、浩の一挙手一投足を意識しては思考が覚束なくなりつつあったが、大分落ち着きを取り戻してきたと思う。もう一度、浩の事を意識してしまったら、また引き込まれそうだったので、星空と流れ星に意識を集中させた。星空を見続けていると、白銀の輝きの他に、赤やオレンジがかった輝きもあり、その煌めく姿は千差万別だった。とても明るく輝く星もあれば、小さく微かに輝いている星もある。じっと眺め続けていると、星と星の間を不思議と無意識に線で繋いでは形を連想していた。さっき教えてもらった、こと座は既に分かるのだが、私は星座の知識が全くないので、その連想される星々の形は全く出鱈目だと思う。そのまま更に5分ほど経っただろうか。未だに流れ星が流れる気配は全くなかった。浩と二人で全くの無言でいると、何かを話した方が良いのだろうかと無性にソワソワしてしまう。かと言って、こちらから話しかける自信は全く無くて、何を話し掛けて良いのかも思いつかない。ただ心のざわめきだけが募り、隣の浩の気配が強く感じられる。私は、視界の端に浩の様子を捉えようと、顔の角度を変えて隣をチラリと盗み見る。チラリ、チラリと4回目くらいだろうか、次の瞬間、浩の視線と私の視線がぶつかり目が合ってしまった。目が合ったものの、何を話し掛けて良いのかは全く考えておらず、しかし無視するのも失礼な様に思えて、視線を逸らすことができなかった。ずっと、浩を見つめたまま硬直してしまっている。やばい、どうしよう……。と、まさに頭が真っ白な状態になった所で、彼の方が先に目線を逸らした。変に思われたかもしれないと、内心で不安に思っていると、浩がおもむろに語り始める。
「僕……。両親がいないんだ……。」
「え……。」
ただでさえ頭が真っ白であるのに、突然のカミングアウトに、何と声を掛けてあげるのが最適が思いつかなかった。私の様な特に事情を知らない人間が、変に声を掛けても傷つけてしまい兼ねなかった。
「あっ、あのね。両親は居るんだよ。どこかに。両親の顔を知らないって意味ね。生まれてから全く会ったことがないんだ。」
「あっ、あの……。ごめんなさい。意味は分かるのですが、何て声を掛けあげていいのか分からなくて……。何も分からない知らない私が、何か言ってもおこがましいですし……。」
「あはは。橋本さんは優しいね。そんな変に気を使わなくて良いのに。僕になんて、テキトーで大丈夫だから。」
笑いながら話しかけてくれる浩の笑顔は、まだ何処かにあどけなさが残る表情で、とても安心感があった。優しいと言われた私は、少し恥ずかしくなってしまう。本当は、優しいのではなくて気弱なのだ。できるだけ相手に気を使い、失礼のないように、傷つけないように振る舞ってしまう。弱気で臆病で、内気なのだ。
「ありがとうございます。優しいなんて、あんまり言われたことなくて……。下田さんは、生まれてから一回も御両親に会った事がないんですか?」
「うん、そう。僕が生まれて最初にお世話になった施設の人から聴いた話だと、いわゆる赤ちゃんポストって言う所に、僕と僕の名前が書かれた手紙とが一緒に残されてて、それだけだったって……。」
「そうだったんですね……。御両親を追う手掛かりは全くないんですか?」
「うん、全く……。強いて言うなら名前だけかな……。唯一、親が僕にくれた物なんだけれど、たぶん両親も同じ下田っていう姓だから、その苗字をくれたんだろうと思うし……。」
浩の出自は、少し衝撃的だった。「こもれび」には色々な事情を抱えた子供達が一緒に仲良く暮らしていると、お手伝いの田辺さんが言っていたが、彼も彼なりのバックグラウンドを抱えていた。
「ごめんなさい……。なんて言ったらいいか分からなくて……」
「いや、いいんだよ。僕が勝手に語り始めたことなんだから。」
「やっぱり……。会いたいですか?」
「そうだね~。やっぱり会いたい……かな……。会って話がしてみたい。」
「そうですよね……。全く顔も名前も、声も聴いたことないんですもんね……。」
「うん……。一回くらい会いに来てくれても良いのにね。その時は僕を育てるのが難しかったんだろうけれど、顔くらい見に来てくれても良いのにね…… 。」
「ごめんなさい。本当に……。」
「え、どうしたの急に……。そんな謝らなくても良いのに。」
「いいえ。私は下田さんと真逆の立場にいるかもしれないからです。本当に心の底から両親の事を思えていない自分が、下田さんに共感する事は極めて失礼の様な気がして……。」
私がそう言うと、浩は少し小首を傾げて頭の上に疑問符が付いたような表情を見せた。浩がカミングアウトをしてくれたので、私も公言しても大丈夫だろうと思った。それに、もし私が「こもれび」に来た事情を話しても、「こもれび」の皆は絶対に受け入れてくれる自信もあった。
「私は、両親の事を全く良く思っていないのです。正確には、実の母とその再婚相手の義父ですが、私は、その両親の虐待から逃げて「こもれび」に辿り着きました。だから実の母も、その再婚相手も、私と母を捨てて何処かに行ってしまった実の父も、もう会いたくないと思っているんです。」
「そうだったんだね……。ごめん、僕も何て声を掛けてあげるのが良いか分からない……。でも、軽く聴こえちゃうかもしれないけれど、本当に大変で、とても辛くて悲しいって事だけは分かるよ。」
浩は、まだあどけなさの残る顔立ちを真剣な表情にして、私を見据えながら答えてくれた。とても真面目な浩らしい真っ直ぐな言葉で、私は純粋に嬉しかった。
「ありがとうございます……。」
「なんだろう、本当にこの世界の縁って不思議だと思う……。全く境遇は正反対かもしれないけれど、そんな二人がこうして一緒に居るのって……。」
確かに、両親を恨んですらいる私と、一度も会った事がなく、いつか会いたいと思っている浩は、対照的、真逆と言っていい程の境遇だった。そんな二人が、「こもれび」という施設を介して同じ屋根の下で暮らしているのは、何かの縁を強く感じた。
二人で話し込んでしまい、すっかり天体観測を忘れてしまっていた私達は、話も落ち着き二人とも星空へふと視線を戻す。その瞬間、夜空を一直線に横断する白銀の閃光が一筋、視界の真ん中に飛び込んできた。
「あっ……。」
「あ……。」
二人ともほぼ同時に声が漏れる。
「見えた?」
「見えました!あれが流れ星ですか?」
「そう!」
「わたし……。流れ星、初めて見ました……。きれい……。」
一瞬の出来事だったが、何とも幻想的な景色だった。ファンタジーの様な存在だと思っていた物が、確かに目の前に存在したのだ。
「綺麗だったでしょ!冬のふたご座流星群は、もっと凄いんだよ。」
「え、そうなんですか?ぜひ見てみたいです。」
「もっと沢山流れるんだ。12月だから、だいぶ先だけどね。」
浩と、12月のふたご座流星群も一緒に見ようと、かなり先の約束をすると、その後も10分ほど粘ったのだが流れ星が現れる気配はなく、夜も遅いのでお開きにする事になった。紅茶を飲んでいたマグカップを一緒に洗い、椅子を収納へ片付けた。2階の階段を登りきった所で、浩は右手、私は左手と部屋が分かれる。私が「おやすみなさい。今日はありがとうございました」と言うと、浩も「いえいえ。また一緒に星空見ようね。おやすみ」と嬉しい言葉が返ってくる。「また一緒に……」という言葉が、心をやんわりと包み浮足立つ気分にさせてくれる。そして私はベッドに入り込み目を瞑った。たった一晩の、それも突然のイベントだったが、浩と一気に距離を縮められたと思う。まだ会って約一カ月ほど。浩の事が気にならないと言ったら嘘になる。好きかどうかと聴かれたら、正直なところ明言ができない。これまで男子と付き合ったり、色恋沙汰と全く縁のなかった私には、判断がつかないのだ。この前、結衣が浩をからかいながら、私のセーラー服姿を見せた時、浩が可愛いと言ってくれた。それは本音だろうか、それとも結衣にしょうがなく言わせられたお世辞だろうか。浩は、私の事をどう思ってくれているのだろうか。少しは気になったりしてくれているのだろうか。そんな事を悶々と妄想していると、到底寝付けるはずはなかった。明日も学校があると言うのに、時計を見ると針は3時を過ぎていた。頬は熱く、身体も火照り、胸の鼓動も早鐘を打っている。私は再び目を瞑りながら、意識が寝静まるまで、永遠と妄想をし続けるのだった。