暗闇で動く影
久しぶりに高校に通い始めた週は酷く疲れた。やはり学校では殆ど一人だったし、割り切ってしまえばどうということはないのだが、周りが楽しそうにしている手前で一人でいる事は、それはそれで辛いものがあった。入学から1ヶ月が経とうとしている今では殆どコミュニティが出来上がっており、そこに入り込む勇気とコミュ力は私には全くない。授業中は、目の前の黒板に集中していれば良いので幾分ましだった。ただ体育だったり、化学の実験だったり、他人との交流が求められる場面は少なからずあって、極度の人見知りの私には非常に苦痛だった。それでも必要最低限のコミュニケーションで可能な限り表に出ないよう振る舞った。
そうやって何とか日々をやり過ごしながら、いつも「こもれび」に帰ると、優理と結衣が待っていてくれた。優理は小学生なので終わる時間も早く、学校からの距離も近いので一番帰りが早かった。結衣と私は学校が終わる時間は一緒なのだが、結衣は徒歩で20分くらいで通える距離で、私は徒歩と電車を含めて約30分かかるので、どうしても待たせてしまう形になる。結衣と同じ高校に通っている浩は、部活(科学部に入っているらしい)があるので何時も帰りが遅かった。私が「こもれび」に急いで帰ると、大体16時過ぎくらいになる。その後は、私と結衣は制服のまま(優理はとても羨ましがって、来年、中学生になったら私も制服で一緒に遊びに行くと言って騒いでいた)、優理と3人でスタバに行って門限ギリギリまで話をしたり、「こもれび」の二階にあるテレビ部屋で小学生達と一緒にSwitchでゲームをして遊んだりした。放課後は、まさに華の女子高生のお手本の様に充実していた。放課後に楽しみが待っているからこそ、日中の孤独や苦痛を乗り越えられている側面もあった。
そんな不慣れな日々を過ごし、一週間も折り返した水曜日の深夜。トイレに行きたくなって目が覚めてしまい、喉も渇いていたので水を飲むため1階のキッチンまで降りて行った。時間は深夜1時頃。みんなは既に寝静まっており、「こもれび」は静寂で満たされていた。日頃の優理の天真爛漫な喧騒を知っているが故に、多少の怖さを感じる不気味な静けさだった。階段を降りて右に折れ、ダイニングキッチン方面へ向かう。開き戸を手前に引いて開けると、いつも食事をしている大きなテーブルと椅子が佇んでおり、誰もいないしんとした空間が広がっていた。開き戸を入りテーブルを挟んだ正面には掃き出し窓があり、薄いレースのカーテンが半分だけ開いていて、そこから外界の明かりがほんのりと入り込んでいる。私は、さっさと水を飲んで部屋に戻ろうと、足早に左方へテーブルをぐるりと周る様に、開き戸から見て左前にあるシンクへと向かった。その矢先、視界の右端あたり、カーテンが半分だけ開いた掃き出し窓の周辺で何かが動いた気配がした。さっきダイニングキッチンに入って来た時は、誰も何も居なかったと思うのだが、暗がりだったので見落としていた可能性はあった。もしかしたら泥棒や不審者の類かもしれないと思い一気に背筋に怖気が走る。すると次の瞬間、掃き出し窓がカラカラと軽い音を立てながら開き、暗い人影がのっそりと中に入って来た。私は反射的に、今まで出したことのないような短くて甲高い悲鳴が漏れてしまった。人影も驚いた様で、怯むように後ずさった。
「わっ!びっくりした!」
外から差し込む微かな光を頼りに目をこらすと、どうやら人影の正体は男子高校生の浩だった。
「ご、ごめんなさい!下田さんですか?」
「うん。こっちこそゴメン、驚かせちゃった。」
人影の正体は身内だと知り安堵したものの心臓は早鐘を打っていて、トクリ、トクリと一定のリズムで刻んでいるのが分かる。胸元で両手をぎゅっと握り、落ち着きを取り戻そうと呼吸を整える。
「驚かせるつもりはなかったんだ……。でも、いつも深夜に起きてる人は滅多にいないから、誰もいないものだと決めつけてて……。本当にごめんなさい。」
「いえ、こちらこそすみません。私も驚かせたのは一緒ですから……」
普通だったら、「こんな時間に庭で何をしてたんですか?」と聴くのだろうが、私にその勇気はなかった。この遅い時間、何か他人に見られたくない事をやっていたのかもしれないし、知られたくないからこそ屋外に居たのだと思ったからだ。
「あのね……。流れ星を見てたんだ。」
「流れ星?ですか?」
「そう。」
さっさと水だけ飲んで、他人の領域には特に深入りせず部屋に戻ろうと思っていた矢先に、流れ星を見ていたと言われ少し拍子抜けしてしまった。
「流れ星って見られるんですか?滅多に見られない物だと思ってました。」
「それが結構見えるんだ。都内でも「こもれび」は意外に見える方だと思う!」
「そうなんですね……。知らなかったです……。」
流星について知識としては知っていたが、あくまでファンタジー世界の様な存在であって、本当に見ることは難しいものだと思っていたので少し驚いてしまった。すると浩が、少し逡巡する様な、照れた様な表情を見せたので、どうしたのだろうかと小首を傾げていると、「あの、よかったら……流れ星みてみる?」と誘ってきたのだった。
「え……。」
まさか誘われるとは思っておらず、また、そんなに簡単に見られるものなのかとも思い、一瞬、返答が遅れてしまう。
「あ、あの……。嫌だったら全然大丈夫だから。」
「いえ、嫌とかではなくて……。私、見たことなくて……。もし見られるなら、その、見てみたい……です。」
「ほんと?それなら良かった……。今年のこと座流星群は、意外と見えるから少し待てば見られると思う。」
「こと座流星群?ですか?」
「そう、こと座流星群。毎年、今の4月下旬頃に見られる流星群なんだ。他にも、ふたご座とかペルセウス座とか色々あるよ。」
「下田さん、とても詳しいんですね。それに毎年、見られるなんて意外と身近で驚きです。」
「あはは、ありがとう。でも趣味の範囲だから全然素人だよ。」
「いえ、私なんて何にも知らないですから……。知っているだけで凄いと思います。」
浩は照れくさそうな微苦笑を浮かべると、また「ありがとう」と言うのだった。
どうやら浩は、ずっと夜空を眺めていたら首が疲れてしまい、休憩する為に中に戻ってきたらしかった 。
「私はちょっと喉が渇いて、お水を飲みに降りてきた所だったんです。」
「なるほど、それで鉢合わせしちゃった訳ね……。それならお茶でも淹れるよ。ちょうど僕も温かい物を飲もうと思って戻ってきた所だったんだ。ちょっと外は肌寒くて。」
「すみません……。私の事は構わなくても大丈夫ですから。」
「いえいえ。一杯も二杯も手間は一緒だから。」
浩はそう言うとお湯を沸かし、シンクの下にある戸棚からフルーツティーのティーバックを出し紅茶を淹れてくれた(寝る前にカフェインを摂るのも良くないのでノンカフェインとの事だった)。私はストロベリー、浩はアップルを選んだ。ティーバックにお湯を注ぐと、キッチンにほんのりと果物の甘い香りが漂う。そして、二人でマグカップを片手に掃き出し窓から外に出る。まだ4月も下旬の夜。薄手のパジャマ一枚では少し肌寒い。庭の中ほどまで出ると、私も浩もほぼ同時に首を上に傾げ夜空に視線を移した。そこには満天と言うには程遠いが、確かに星空が広がっていて、無数に散らばる光点の数々が微かに煌めいていた。これまで全く見向きもしなかったと言うのに、そこには確かに綺麗と思える星空が、ただ静かに、そして限りなく広大に広がっていた。