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プロローグ

 小雨が降りしきる新宿歌舞伎町の寒空の下、極度の空腹と寒さが身体に染み渡る。時間は18時頃、もう4月だというのに、今日の気温は10℃を大きく下回っていた。勢いで家を飛び出してきたものの、もっと厚着をしてくればよかったと後悔する。もっとも、飛び出してきた時はそんな余裕などなかったが……。私が家を逃げる様に飛び出してきたのは、一週間ほど前のこと。もう何日かも正確に数えていないが大体そのくらいだと思う。飛び出してきた理由は、簡単に言えば両親の虐待と言う事になるが、どこから何処までが虐待かと言われると難しい所がある。しかし当事者の私にとっては苦痛である事に変わりはなかった。

 2年ほど前、母が再婚相手を連れてきてから、ちょっとした小突きの様なものはあった。それが段々とエスカレートしていき、殴る蹴るが当然となり、次第に痣や傷も残る様になった。相手も巧妙な所があって、跡が目立つ顔や手、腕には手を出さなかった。そういった暴力が暫く続いたが、様相が変わったのがついこの前。男は、私に覆いかぶさる様にして押し倒してきたかと思うと、無理やり接吻をしてきたのだ。酒を飲んだ後に香るカルボン酸の匂いと煙草の匂いが混ざった香りが鼻をつき、心理的な気持ち悪さからくる嗚咽が漏れそうになる。私は抵抗しようと試みるも、両手を頭の上で組み伏されてしまい動かすことができない。男は片腕なのに、私は両手でも敵わない事に自分の女としての非力さを呪った。男は私の身体の上に馬乗りになり、私の両手を組み伏せていない、もう一方の手で、私の胸部を服の上からしばらく弄ったかと思うと、次に下の方へ伸びていき、履いていたジーンズと下腹の隙間から股の方へ対象を移していった。下腹を這う男の手が、これまで感じた事のないほどの気持ち悪さを伴いながらヒヤリと冷たさを帯び、指先が私の大切な部分に至り、更に敏感な部分に触れた衝撃を感じた瞬間、出来る限りの大きな声と出来る限りの力で、なんとか振り切り、着の身着のまま家を飛び出した。

 それからというもの、あの家と男には近づかないと心に誓いながら、なるべく家から遠く離れ、何処かも分からない公園を見つけ、雨風がしのげそうな遊具の中で、あの時の男の匂いと表情と、手が下腹を這う感触が頭の中でリフレインする中、震えながら一夜を明かした。逃げ出す時に、功を奏したのが、財布をジーンズのお尻側のポケットに入れていた事だ。高校生が持ち歩く金額(それも両親から殆ど小遣いなど貰ったことがない)はたかが知れているが、それでもスーパーやコンビニで、ちょっとしたおにぎりや飲み物を買うことができた。日中は、フラフラ歩いていると警官に見つかった時、補導され家に連れ戻されそうなので、なるべく公園の遊具の中で過ごした。虐待の事を訴えたり、助けを乞うても無駄なことは過去の経験で分かっていた。どうせ両親の口車に乗せられて、誤魔化されるだけだ。先生もお巡りさんも助けてはくれなかった。そんな生活も3日で財布が底を付いた。一日一食にセーブしたものの、数百円では3日が限界だった。それも、一食でおにぎり一個程度だ。多少の空腹は耐えられると思っていたが限界だった。このまま野垂れ死んでしまうのか……。

 そんな事を思った時、ふとテレビのニュースで、新宿歌舞伎町で売春行為が問題になっている事を思い出した。いわばお金を貰って、性的な行為をすることによって稼ぐ方法の一つだった。つい先日、男からあんな事をされた上で、空腹とお金の為とはいえ、もう一度、性的な行為に及ぶことに抵抗はあった。そもそも私に性的な経験はなく、そういう話も苦手だった。周りの友人の間でも、初体験などの話がちらほらと出ていたが、苦笑いでその場をごまかしてきた。性的な事に全く興味が無い訳でもなかったが、自分が誰かとするなんて想像もできなかったし、何時かは好きな人と……という思いもあった。でも、相手があの男でさえなければ、温かい寝床とお風呂と美味しいご飯との引き換えに、性的な行為に及んだとしても、それはそれで非常に魅力的に映った。そもそも性的行為の経験が無いため、どれ程の苦痛と恐怖が伴うのかは未知数で、それでも怖い事に変わりはなかったが、今の空腹と寒さを凌げるのであれば、しょうがないとすら思った。

 それからというもの、3日ほど連続で歌舞伎町のある場所へ、一日のうち不定期で何度か足を運んだ。最初は様子見で、周りの雰囲気やどの様な言葉でやり取りされているかを盗み聞きした。ニュースでも、言葉や隠語について放送されていたので、そういった事に疎い私でも多少は理解することができた。しかし、最後まで踏ん切りがつかなかった。何度か声を掛けられた事もあったが、恐怖心が先に来て、何度かその場を立ち去ってしまった。しかし、その恐怖心も、極度の空腹と寒さと疲労が極度に迫ってくると、次第に麻痺してくる。小雨によって、上に着ている厚手のグレーのパーカーがしっとりと濡れ重く感じ、体温を徐々に奪っていった。次に声を掛けられたらと意を決した矢先、30代くらいに見える男が私に声を掛けてきた。

「君、最近ここでよく見かけるね。帰るお家はある?大丈夫かな??」

「お兄さん、お客さん?よかったらホ別3でどうですか?あと、凄くお腹すいててご飯も食べたいんですけど……。」

「ああ。ごめんね。僕は、そういうんじゃないんだ。最近、ここで君を良く見かけるから……、それに時間も不定期だから帰る家がないんじゃないかと思って。どうかな??大丈夫??」

「いえ……。帰る家はないですし、大丈夫ではないです。かと言って行く所もないですし、お金も食べる物もないです。でもお兄さん、それでも私を助けてくれるんですか?今後、ずっと面倒を見て助けてくれるんですか?助けてくれないですよね?

何処の馬の骨とも知らない私を、今後、ずっと面倒を見れるはずないんですから!!

 それならいっそのこと、私を買ってよ!!」

感情が一気に高ぶるのが分かった。これまで溜まっていた思いや怒りや不条理が沸き起こり、一気に捲し立てた。こんな自分は初めてだった。これまで家では極力、暴力の対象にならないように大人しく過ごし、学校でもイジメられないように目立たずに過ごした。自分にも、こんなに主張ができるのだ。

「いや、面倒を見切れるよ。何処の馬の骨とも知らない君の面倒を見るよ。だから一緒に僕達のお家においでよ。」

「え?」

 拍子抜けした。これまで、こんなにあっさり助けの手を差し伸べてくれた人はいなかった。警察も学校の先生も親戚の連中も、母と離婚した私の実の父も。男は、そう言うとスマホを取り出し誰かに電話をし始めた。

「もしもし優理?昨日の子、今日うちに来るって。よかったら迎えにきて、顔を見せてあげて。」

 優理という女性?に電話をすると、男はこちらに向きなおり、私に名刺を渡してきた。

「僕は城田優仁シロタユウジ。一応、児童養護施設「こもれび」の所長をやってます。こもれびは君の様にトラブルを抱えていたり、身寄りのない子供たちの保護をしていてね……、帰りたくなかったら、そのまま「こもれび」に住み着いても良いし、ご家族とトラブルも解消して帰りたくなったら帰っても良いし、とにかく子供達の思いとか気持ち通りに寄り添えるような施設を目指してるんだ」

「ほんとうに私はその施設に行っても良いんですか?住んでも?まさか、そのまま私を監禁して襲ったりするんじゃ??」

「いやいや、そんなことしないさ!と言っても男の僕が言っても説得力ないよね……。もうそろそろ、優理くると思うんだけどなあ……。」

 優仁は、遠くに野球帽を被った少女を見つけると「こっち、こっち」と手を振り合図した。

「父さん、良かったね!昨日からずっと気になってたんだ!

 はじめまして!わたしは城田優理シロタユリ、一応、父さんと一緒に「こもれび」の運営をしています!」

 長い黒髪を後ろの低い位置でポニーテールにし、NYヤンキースの野球帽を被った少女は、私にペコリと挨拶をした。

「あ、あの……。こちらこそ初めまして…。」

「この子は僕の娘なんだけど、これで信用して貰えるかな……。仕事柄、男の僕一人で動いてると、なかなか疑われる事も多くて……、優理にたまにこうやって手伝ってもらってるんだ。まさか、こんな小柄な女の子を連れて誘拐なんて、なかなか考えづらいでしょ??」

 確かに、まだ小学生か中学生に見える少女を連れて、声を掛けて誘拐はあまり考えづらいと思った。それに男一人と少女では、そもそも第一印象と安心感が桁違いだった。特にこの娘は明朗快活で疑わしい所がまるでなく純粋そのものの目をしていると思った。

「はい……、大丈夫です……。本当に……。ほんとうに、ありがとうございます。でも、でも一つお願いがあるんです。絶対のお願いが……。」

「ん?どうしたの?言ってごらん??」

「絶対に、絶対にあの家には帰りたくないんです。保護されても、暫くたったら家に戻されるのは絶対に嫌なんです。絶対に……。」

「だいじょうぶ!!」

 私のお願いに対して、優仁ではなく優理が食い気味で入ってきた。彼女は私の両手をいきなり握ったかと思うと、胸の前で固くギュッと握り、前かがみで私を見つめてきた。

「それは大丈夫!!お姉さんが帰りたくないなら帰らなくても大丈夫だよ!何日も何年も何千年も何万年も、永遠にお姉さんが居たいだけ「こもれび」にいても大丈夫!!「こもれび」はそういう場所だよ!!」

優理の目はキラキラと輝いていた。少女の、その黒目がちで大きな目は、夜の歌舞伎町のネオンに照らされキラキラと輝き、私を真っ直ぐに見ていた。こんなに自信と温かさに溢れた眼差しは、これまでに見たことがなかった。これまでは冷たく邪魔者扱いされ蔑む様な眼差しが常だった。

 私は、ふと気がついた時には、目から涙が流れていた。それは全くと言っても良いほど止まらなかった。次第に嗚咽も止まらなくなる。自分より歳下であるはずの少女の前で、年甲斐もなく声をあげて泣いた。彼女は私を胸に抱き寄せると頭を優しく撫でてくれた。年端もゆかない少女の胸を借りることは、本当だったら恥ずかしい事かもしれないが、今の自分にはどうでもよかった。優理の胸は、とても温かかった。

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