二話 覚悟
「はぁ……はぁ……はぁ……はっ、ははっ…」
何時間経ったのかは分かりませんが、自分の居た場所を胃液の明色の黄色で染め上げる程には居たようで、後半からは固形はなく、液体しかありません。
頭も痛く、気分は最悪、喉は焼けたように痛みが右往左往し、口の中は舌を苦しめる酸味と苦味が今もなお残り続け、鼻には腐敗臭と酸味を固めたような胃液特有の匂いがします。
まさに最低最悪、絶望という言葉が似合う状況です。
寒くも無いのに身体は痙攣して、震えてきます。
無残に殺された男性、あまりにも惨い姿をまともに見ることは出来ません。
もしも、私がゴブリンに捕まったら、あの男性のように。
いやだいやだそんな死は嫌だそんな風に死にたくなんかありませんそれにまだ生きたいです。
想像どころか考えることもしたくないです。
でも、あの時私が飛び出していたら、あの男性の人を助けていたら、あの男性は救われていたのでしょうか。
あの時、出ていれば。
そこまで考えて首を横に振って、思考を無理矢理停止させます。
考えるだけ無駄です。私に出来ることはあの時は何もなかったのですから。
「……とにかく…なんでも…いいから……水が欲しいです」
吐いたのも相まって、私の身体は水分を欲していますし、口も洗いたいです。
とにかく洗えれば、なんでもいい、それが例え泥の水であろうとなんだろうと。
そして、この場を早く離れて、落ち着けれる安全な場所を探さなければいけません。
ずっとこの場に居ては、命がいくつあっても足りません。
まだ震えている身体は引き摺って動かすことしか出来ませんが、それでも動いてくれます。
立ち上がり、歩き出した足に固い物が当たる感触がありました。
何かあるのかと目を向けると、足に触れていたのは半分に折れていた剣でした。
もう折れた剣、使い物になるかは分かりませんが、何もないよりはマシだと思います。
初めて手にした剣は、折れているのに、それでも私にとっては少し重く、連続で振り回すことは不可能です。
しかし、何も無いよりはマシです。こんなものですら、振り回せば少しでも脅威になるかもしれません。
歩き続けて、吐いて、人の殺された光景を見た後は心身ともに疲労感に包まれた状態は、正直動きたくありませんが、それでもここに居座り続ける方が嫌です。
それに、何よりも飢えと水分が足りない時点で、結局はここに居ても死ぬだけです。
もうこれ以上の選択肢は存在しません。
自分の直感と運に託すしかないのですから。
疲労で動かしづらい身体を動かして、重たい足をゆっくりと持ち上げ、一歩ずつ歩み始めます。
しかし、ここで厳しいのが、今の状況下にあり、空と森は闇が深い夜の世界になってしまっているということです。
微かに見えますが、見える距離はたかが知れている程度であり、目を凝らしても何かがある、何かがある程度のものしか見えません。
居る場所は、少し森が開けているため、月明かりが入るお陰で視認が可能なのですが、ここから出れば完全に闇の中です。怖いなんて言葉では済みません。
何も見えない中で、私は歩いて行くのですから。
ふぅ、と一息呼吸を整え、森に向かって歩き出します。
怖い、そんな思いしかありませんが、動かないよりはまだ生き残れる可能性があるのですから。
その時、左腕に電気を喰らったようなビリッとした痛みが走り、右手に持っていた剣を地面に落として左腕を右手で抑えました。
抑えた右手に何か少し粘着性のある液体が付く感覚がありました。
「ッ……なに、?………ぇ、ち、……?」
右手をゆっくりと左腕から離して、私の目の前まで持ってきます。薄暗い月明かりの中でもはっきりと見えるほど、私の右手、掌は赤く、真っ赤に染まっていました。
ヒュッと私の首から、空気が小さく抜けた。
そこでようやく私の頭はその液体が血だと理解したのです。
痙攣するように小さく身体が震え、手に向いていた視線をゆっくりと前に持っていきました。
その時、うっすらとではありますが、見えました。
なんの冗談なんでしょうか誰か嘘と言ってください。これが質の悪いいたずらだと言ってください。
ひゅっ、と首から空気が抜けていき、寒気が走ります。
男性を殺したゴブリン達が下卑た笑みを浮かべながら、こちらに向かってゆっくりと歩いてきていました。
手が震え、身体が石のように固まり、身体はまるで石そのものかのように動かなくなりました。
鮮明に頭の中に先程の惨劇な光景が浮かび上がり、私の中でぐるぐるとその恐怖が周り流れてきます。
来ないで、何度も望むことはそれだけでした。
しかし、そんなことをゴブリン達が理解することも、理解していたとしても止まるわけがありません。
少しずつ足を引き摺るように後ずさる前から、ゴブリン達はニヤニヤと獲物を見る目をしながら、手には男を殺した武器をそのまま持ってゆっくりと近寄ってきています。
息苦しくなり、目の前が朦朧として、まともにゴブリン達の姿が見えなくなっていきます。
意識を失いそうです。
恐怖、不安、絶望、死にたくない、お願いだから来ないでください。
そう望んでも無駄なこと、分かっているはずなのに、それでも何度も祈ってしまうのです。
もはや涙すら出せずに、震えることしか出来ません。
その時でした、ずり足で下がっていた足に何かが当たりました。
首を少し動かして、目を足下に向けるとさっき落とした折れた剣がありました。
剣、これで一匹でも。
その瞬間、私の身体は弾けたように動きました。
足を曲げて左腕から右手を離して下に落ちていた折れた剣を右手で持ち上げ、血が流れる左手を動かして両手で持ち、構えます。
手から感じてくるずっしりとした鉄の重さが身体に緊張感を与えてきますが、逆に心や思考は冷静さを与えてくれます。
人数は圧倒的に不利であり、自分の身体も疲労に満ちて、泣き出したいほどです。
でも、死にたくない、生きたいんです。
それに、走って逃げたところで森の暗闇の中を生きれることはほぼ不可能です。
可能性があるのは目の前にいるゴブリンを殺す、これが今ある唯一可能性がある選択肢です。
折れた剣は本当に武器としては心もとないですそれは変わりません。
それでも、何もないよりは圧倒的にマシです。
今この場に居るゴブリンは五匹、一番前に居るゴブリンは斧を持ち、その少し後ろに居るニ匹のゴブリンはナイフと棍棒を、その更に後ろに居るゴブリンは一匹は弓を、もう一匹はナイフを持っています。
一度でも隙を見せて、抑え込まれたらあの凶器であの男の人と同じように殺されます。
折れているとはいえ剣は剣であり、こんな凶器を扱ったこともありませんし、ましてや戦闘なんか無縁だったのですから。
ですが、今はこれをやらなければ死ぬんです。
死にたくない、生きたい、こんなところで、死にたくなんかありません。
しかし、ただ突撃するだけでは人数の差も相待って力でねじ伏せられるだけです。
それに例え逃げたところで一番後ろに居る弓を持つゴブリンに撃ち抜かれるか、疲労によりそこまで長期的に走れない私は追いつかれて結局は捕まるでしょう。
なら、今出来ることは、そして生き残れる方法は。
はぁ、と長い息を吐いて、呼吸を整え、足を少し開いてゴブリン達を睨み付けます。
何度か呼吸をゆっくりと繰り返して再度、呼吸を整えた瞬間、右に向かってゴブリン達を真ん中に円を描くようにして走り出します。
足が重りを付けているように重く、油断すれば縺れて転びそうです。
それでも、これが最後に残された可能性の存在する方法、やるしかありません。
目だけを少し後ろに向けると狙い通り、弓を持ったゴブリン以外のゴブリン達が追って走ってきています。
しかし、筋力はあろうと私よりも背が低く、少し太り気味のゴブリンは鈍足で、逃げることは可能ではあります。
それでも、いつか来るチャンスを、見逃さないように弓のゴブリンへと横目で見続けます。
弓を持っているゴブリンは、狙って矢を放ってきますが、やはりゴブリン、私の考えていた通り、それほど命中率は良くなく殆どが大きく外れています。
「今…ッ!!」
私は急速に足を左に九十度回転させ、一匹離れた所で弓を構えようとしているゴブリンに向かって今出せる全力で走ります。
他のゴブリンとは十分に距離があり、弓を持っているゴブリンもまだ矢を準備できていないです。
まさに絶好の最初で最後の好機これを逃せば死しかありません。
私は慌てて逃げようとするゴブリンのギリギリまで近づいて、折れた剣を思いっ切り、後ろに引いてゴブリンの頭目掛けて横から振りました。
手応えは完全にあり、肉を破壊する感触と目の前から血が噴き出て来ました。
そのまま弓を持ったゴブリンは弓を手放しながら地面へと倒れました。
「やっ……た!───────ッ!?」
しかし、喜んでいたのも束の間でした。
怒りを露わにしたゴブリンが追い付き、棍棒が背中に当たり、強い衝撃が与えられました。
その衝撃により、体制を崩した私は倒れながら転がり、暗闇の森の木の一つまで転がり止まりました。
油断しました。鈍足と思っていたのにまさかもう追いついてくるなんて。
そして、更なる絶望が私に襲い掛かりました。
それは、ゴブリンの生命力の高さなのか、はたまた私の攻撃が弱かったのか、弓を持っていたゴブリンは立ち上がり、また弓を持って私の方を向きました。
全てのゴブリンの顔には怒りが明らかに現れています。
私は身体はなんとか起こせましたが、立つまでは至らず、痛む背中を庇いながら後ろに下がろうと手と足を動かします。
しかし、今度は本気で殺しに来たゴブリン達がなりふり構わず武器を持って走って来ました。
「っ!……いやっ、!」
手と足を速く動かして逃げようと思いますが、圧倒的にゴブリン達の方が速く、私と段々と距離を詰めて来ます。
ゴブリン達は距離を詰めると一撃で殺すとばかりにその体型に似合わない程飛び、各々の武器を振りかぶり、私に向けて振って来ました。
持っていた折れた剣を前へと構えて、死ぬくらいならと無意味と分かっていながらも抵抗します。
死にたくない、まだ、!
その時でした。
空が光り、上の暗雲から雷光がゴブリン達に落ち、辺りに雨を降らせます。
近くにいた私はその衝撃で後ろに吹き飛ばされ、木に身体を激突させました。
「っ、ぁ!……うっ、」
肺から空気が一気に抜け、苦しくなり、背中にはさっきの棍棒以上の激痛が走りますが、気絶するほどではなかったのが幸いでした。
木で少しは塞がれてるとはいえ、暗雲は大粒の水を滝のように落とし続け、暗雲の間は時折光り、地面へと轟音を立てながら落ちています。
見るとゴブリン達は焼け焦げ、黒くなり、先程の全貌は見えませんでした。
どうやら、幸運にも助かったようです。
生き残れたのに実感出来ない生にずっとぼーっと黒くなったゴブリン達を見続けます。
しかし、ゴブリンとはいえ、生命力が強いのか腕が震えながら起き上がろうとして、近くに落ちている自分達の武器を拾おうとするのが見えました。
それを見た瞬間、私の身体はさっきよりも速く動き、一番近くにいたゴブリンの斧を奪い取ります。
「悪く…っ…思わないでください、!」
私はその斧を思いっ切り、上に掲げてゴブリンの頭目掛けて何度も、何度も振り下ろしました。
頭がぐちゃぐちゃになるまで。
それでも動いて抵抗してこようとするのはモンスターとしての高い生命力のおかげなのか、ゴブリン達も生きようとしているからなのか。
動くな、もうやめて動かないで、死んで、死んで死んで死んで死んで死んで!!!
斧を振る速度を速くしながら、頭だけでなく、身体全体にも斧を出来る限り、振り回し続けました。
荒くなった呼吸、血塗れの地震の身体、、、得体のしれない高揚を感じている心。
もう動かないと判断した後、恐怖の目で私を見て、もう焼け焦げて楽に動かないであろう身体を動かそうとする他のゴブリン達にも近づいて私は斧を振り下ろして、躊躇いも何もなく殺しました。
全てのゴブリンを殺し終わった後、私はようやく落ち着き、そして手が震えました。
「はぁ……!はぁ…!はぁッ…!」
返り血を浴びて少し雨で流されたとはいえ、血塗れの両手を見ます。
初めて、自分の想いで生物を殺したのです。
私から落ちる液体が雨なのか、それとも目から出てくる液体なのか、もう混ざって分かりませんでした。
ただ、今私の身体に感じたのは。
「寒い」
それだけでした。
そう感じた私は背中を強打した木のところにもう動かないゴブリンだった肉塊を運んで積み、最後にぐちゃぐちゃになって大雨に打たれた男だった肉塊をゴブリンの更に上に積み上げました。
そして、私は何の躊躇いもなく、その肉塊の中に身体を入れ、毛布を纏うように被りました。
寒いとは感じますが、微かに感じる温かさが私を安心させてくれます。
もう疲れて、活動限界を迎えた身体はもう動かすことは出来ず、私はそのまま肉塊の中で目を閉じました。
今のこの状況が、夢であることを祈って。
でも、そんな中なのに、ゴブリンを殺した達成感のような高揚が心の片隅に残り続けているを感じました。
そんなの感じてない、命を奪うのが楽しいわけがない、そう考えているはずなのに、どうして笑みは消えてくれないのでしょう。