シーラカンスのような古生代の生き残り的人物の、とある出会いの物語。
彼女は少し驚いたような顔をして、
「あら、そう。よろしゅう御座いますわ。」
というと、尋に一枚の名刺を渡した。
「うーん、草書体過ぎて読めないな・・。」
そこには達筆すぎるぐらいに、名前らしきものが書かれてあった。
「宝龍院宗眼先生ですわ。」
何とも厳めしいというか、仰々しいというか、名刺からは取って付けたような後光が差しているように見えた。
「あの、ちなみに場所もよろしかったら・・。」
と、やはり読めない番地を彼女にたずねた。
「人に読んでもらえない名刺に、一体何の意味が・・。」
などとブツクサいっていると、
「アディオース、先生!。」
と、講師控え室の入り口付近でおかっぱ頭の前髪が揺れた。授業の質問をしに来た彼女に尋は、
「お、おう。」
と、覚束ない返事をした。その妙な音程を、古典の女性講師は聞き逃さなかった。空かさず尋と生徒の顔を交互に見ながら、
「あ、然もありなん、然もありなん。」
と口元を小開きにした扇子で隠しながら、しかし目元は涼しげに微笑んでいた。そして、尋の右型にそっと手を置き、
「時期も時期ですし、呉々も火の用心あそばせ。」
と窘めるかのようにいいのこして去っていった。尋は脇の下に嫌な汗をかきながら、それを悟られまいと生徒の対応をした。
「ん?。質問か?。」
「はい。」
そういって、彼女は先ほどの尋が行った授業のノートを鞄から取り出した。パッと開かれたノートには、相変わらず要点だけが見事に箇条書きされていて、尋が板書した図やグラフには、彼女のオリジナルキャラが幾つか散りばめられていた。しかし、
「キャラの絵、随分減ったなあ・・。」
と、この時期特有なものなのか、それとも尋に対する姿勢なのか、普段にも増して授業に集中している様子が見て取れた。
「これなんです。」
と彼女が指差したのは、記述式の問題だった。他の複雑な計算問題は軒並み完答しているのに対し、文章で説明して答える問題は、まるまる空白であった。
「この、生物の多様性についてなんだけど、どうして熱帯地方の方が、動植物の種類が多いのかなって。」
尋は彼女の質問に、身の引き締まる思いをした。あまりに当たり前過ぎて、そのことを説明するのに要する語彙力、論理力が問われるからだった。みんなが普通だと捉えていることほど、あらためて説明するのは難しい。しかも、生半可な答えでは彼女は絶対に納得いかない。
「エネルギー量の問題という点から書き始めるといいかもね。」
「エネルギー量?。」
「うん、そう。熱帯地方は概ね赤道直下だよね。つまり、太陽の光と熱が降り注ぐ量が最も多いんだ。」
「ふむふむ。」
彼女は素早くメモを取り出した。
「だから、植物が育つ条件としては何よりもいいと。そしてそれは、どんな植物にとっても。ね。」
「だから植物相が豊かなのか。」
「うん、ただし、その場合は、種類的にって意味でだよ。」
「うん。」
「そして、その豊富な種々の植物を住処や餌とする動物達も、より多くそこで暮らすことが出来ると。」
「なるほど~。」
それを聞いて、彼女はサッと記述式の回答を仕上げた。
「これでどう?。」
尋の示したヒントを元に、そこには論理的に美しい解答が書かれていた。
「うん。これならいけるな。」
尋はそういって話を切り上げようとすると、
「でも先生、」
「何?。」
「じゃあ、逆にいうと、緯度が高くなればなるほど、太陽の恩恵は受けられないよね。その場合、生物層は豊かじゃなくなるの?。」
尋はその質問が来ることを予想していた。
「だからさっき、種類的にっていったよね。」
「そっかあ!。」
彼女は開眼したかのように声を発した。
「つまり、豊かさって、種類の数って意味と、トータル数って意味があって、前者を答えればいいんだ!。」
的確かつ見事であった。尋がその先に用意していた説明は不要になった。
「でも、」
彼女の疑問は続いた。尋は不思議に思って彼女を見た。
「冷たくて暗い極付近の海って、種類は少ないけど、一種類当たりの量は多いってなると、果たしてどっちの地域の方が生命が豊富ってことになるのかなあ・・。」
彼女の疑問はもっともだった。論理的にいえば、二つの豊かさは基準が異なる。比べること自体、ナンセンスであった。だが尋は、
「持ち味の違い・・かな。引き分けってのとは少し違うけど、種の多様性で美を競うのも、クジラのような巨体が育まれるのも、どちらもダイナミックだろ?。」
「うん。」
「そのどちらもが、海洋や大気で繋がっていて、循環している。そして、その両方の源が、太陽エネルギーってストーリーかな。」
「なーるほど・・なあ。」
彼女は熟々、尋の説明に感心した。そして、
「今日もイイ話が聞けたなあ。どうも有り難う。先生。名残惜しいけど、勉強があるから今日はこの辺で。」
といって、人目があるから頬にキスする代わりに、尋の太腿を軽く二回叩いて、彼女は元気よく退室した。と、同時に、
「ふぅーっ。」
尋はようやく一仕事終えた感に浸った。冴えといい、視点といい、なかなかの生徒である。厄介な感情さえ絡まなければ。尋は帰り支度をして、早々に古典の女性講師に教えてもらった場所に向かった。
校舎を出て、尋は教えてもらった場所に向かった。
「電車より、バスの方が早いかな。」
尋は近くのバス停で、時刻表を確かめ、次が来るのを待った。程なくやって来たバスに乗り込み、後部の座席に陣取って、久しぶりの車窓を眺めた。やがてバスはビルの建ち並ぶ辺りを離れ、瓦屋根の立ち並ぶ付近にやって来た。
「へー、寺町かあ・・。」
降車のボタンを押すと、尋は財布から小銭を数えながら出して機械に入れた。ステップを降りてバスが後ろを走り去るのと同時に、尋は大きな門前に立っていた。
「え?、まさか、此処か?。」
降りてから暫く散策をと期待していたが、何のことは無い、目の前が目的の場所だった。荘厳かつ、かなり巨大な寺院だった。尋は呆気に取られながら門を潜り、石畳を進んだ。折角だから参拝もしておこうと、本殿に向かおうとした所に、
「あの、尋さんですか?。」
と、法被姿の一人の男性が声をかけて来た。
「あ、はい、そうですが・・。」
すると男性はにこやかな顔で、
「お話は伺っております。ささ、どうぞこちらへ。」
と、尋を寺務所の方へ案内した。
「あの、どうしてボクのことを?。」
尋がたずねると、男性はまたにこやかな顔で、
「古典を教えておられる御先生から伺いました。今日、同僚がいかれるので、何卒宜しくと。」
何とも根回しのいい先生であることか。しかし、尋は彼女に少し感謝した。本殿の右横にある寺務所の入り口に着くと、男性はドアを開けて、
「さ、どうぞ。」
と、中に案内された。そこは簡素な応接室風になっていたが、尋より先に既に十数人が列を成して座っていた。
「あれ?。ひょっとして、順番を待ってるのかな?。」
尋は当初、路上に小さな台と大きな虫眼鏡を置いて、頭巾を被った男性がひっそり待っているものとばかり思っていたが、そんな想像とはかなり様相は異なっていた。
「ひょっとして、かなり人気の占い師の人なのかな・・。」
この後に特に用事がある訳では無かったが、この列の最後尾だと相当の時間がかかるなと、また出直そうかと思案している所に、
「尋さんですね?。どうぞこちらへ。」
と、和服姿の女性が彼を案内しようとした。すると、
「あの、順番を待たなくてもいいのですか?。」
と尋がたずねると、
「古典の御先生から連絡を頂いて、ご予約させて頂いてます。」
和服姿の女性もにこやかに答えた。返す返す気の回る先生だなと、尋は熟々彼女に感謝した。寺の回廊のような通路を進んで、このまま本殿にでも向かうのかと思っていたら、
「こちらで御座います。」
と、寺院の施設とは逆の方向にある部屋の前まで案内された。女性は木造の大きな戸を軽くノックすると、
「御師匠様、お連れ致しました。」
といって、戸を開けて尋だけを中へ案内して、彼女は戸を閉めた。履き物の足音が遠くなっていくのが聞こえた。初め、尋は内部を見渡して驚いた。そこは荘厳な寺院の内部にあるとは到底思えない、明るいテラス風な建物だった。大きく南に向いて開けた明かり取りの窓から燦々と日が降り注ぎ、室内とは思えないほど巨大な樹木が二本立っていた。足元には白い玉砂利が敷かれ、所々苔むしていた。その間に飛び石が敷かれていて、一番奥には白くて丸いテーブルと椅子が二つ置かれていた。そして、一つには真っ白なドレス姿で髪の長い女性が座っていた。異空間過ぎて尋が口をあんぐり開けていると、女性が立ち上がり、
「こんにちは。どうぞこちらへ。」
と、とびきりにこやかに尋を迎え入れた。尋は木漏れ日の中、飛び石を踏みしめながら彼女の元までいった。戸を潜った直後の緊張感は、不思議と消えていた。
「尋さんですね。初めまして。宝龍院宗眼と申します。」
尋の予想は、またしても大外れした。法衣か甚平姿で、大きな水晶か、あるいはお香が煙る薄暗くて重厚な状況を想像していたが、何の威圧感も無かった。寧ろ、ひとときの安らぎのためにあるような場所であった。
「あ、あの、尋です。スミマセン。紹介された所がお寺だったので、てっきりご住職か、どなたが来られるものかと・・。」
と、尋は慌てながらも、相次ぐ期待の裏切られっぷりを口にした。女性は口元を少し押さえて微笑みながら、
「最初はみなさん、そう仰います。寺院は父が取り仕切っております。私はここでこうして、皆さんのご相談を受けておりますのよ。」
そう爽やかに答えた。まるで何処かの絵巻物か、あるいは高貴な物語の書物から現れたような、実に聡明で瞬時に相手を和ませる雰囲気を漂わせた女性だった。
「どうぞ、お掛け下さい。」
「あ、はい・・。」
尋は見とれすぎて、思わず座るのも忘れてしまっていた。
「あの・・、」
座ったと同時に尋が話しかけようとした時、女性は両手の平を上に向けてテーブルに置き、そっと目を閉じた。
尋は、
「まだ相談内容を一言も伝えていないのに・・。」
と不思議には思ったが、彼女の瞑想状態のような姿は全く声をかける隙が無かった。いや、寧ろ話しかけずに、彼女から何かが発せられるのを待つのが必然的にさえ感じた。一分、二分と時間が経ち、さらに沈黙は続いた。流石に尋も少し心配になり、声はかけ難いものの、彼女の様子に聞き耳を立てた。
「グー・・・。」
呼吸音とは違う、何か聞き覚えのある音が彼女の口元から聞こえた。
「ひょっとして、寝てる・・?。」
尋は戸惑った。しかし、あまりにも気持ち良さそうな寝姿に、尋は起こすのが憚られたが、先ほどの待っている人数を思い出し、これ以上自分のために時間が取られるのも申し訳なく思い、
「あの、すみません。」
と、そっと声をかけた。
「はっ。あ、ゴメンナサイ。昨日、飲み過ぎちゃって。えへ。」
彼女は悪びれること無く、素直に謝った。尋は拍子抜けした。と同時に、緊張が一気に解けた。
「あ、そうそう。女難の相ね。」
「え?。解るんですか?。」
さっきまで居眠りをしていたかと思うと、今度は何も伝えてないのにこちらの相談内容を一発でいい当てたことに、尋は驚愕した。が、
「あ、同僚の先生から伺いましたから。」
彼女はあっさりと答えた。尋の拍子抜けはとどまることを知らなかった。それにしても、この手の噂話の広がり方は、斯様にも速いものかと熟々思っていると、
「血縁者同士の間に立たされていますね。そして、一方とは成就されていますが、そこに予期せぬ思いが入り込んできて、それが真っ直ぐアナタに向かって来ている・・。」
彼女はすらすらと答えた。
「え?、そんな所まで聞いているんですか?。」
尋は噂話の怖さを感じかけた。が、
「いえ、これが仕事ですから・・。」
と、彼女は少し微笑んで答えた。これには尋は驚いた。同僚の先生からは悪戯っぽく女難の相とはいわれたが、本職の方ともなると、そんなディテールまで解ってしまうのかと。
「あの・・、」
と尋がいいかけたとき、
「大変よい恋愛をなされていますね。そして、もう一方のお気持ちも、純粋でとても素晴らしい思いを持っておられる。ただ・・、」
彼女は尋の現状を瞬時に把握しつつ、その先に何か危惧すべきことが待ち受けているのを推察したらしかった。尋は固唾を飲んだ。そして、
「ただ・・?、」
「彼女の恋愛観は、アナタの想像を超えて遥かに強大です。恐らくは手に余って途方に暮れることに・・。」
彼女の指摘は尋もそれとなくは気づいていた。自身がモラルを保てば上手くいくであろうという理屈が恐らくは通用しなくなるであろうことは、想像に難くなかった。灼とのステディーな関係を彼女にアピールした所で、多分意味は成さないだろうと、尋は咄嗟に感じた。
「仰る通りです。ボクはあまり波風が立たないように過ごしたいと思っているのですが、そうもいかないというのであれば、では、ボクはどうすればいいのですか?。」
尋はありのままの気持ちと疑問を彼女にぶつけた。すると彼女は尋の目を真っ直ぐ見つめて、
「アナタも、より強大になることです。その気持ちと覚悟がおありなら、状況は吉なる方向に向かうでしょう。」
と、如何にも占い師らしい気合いの入ったトーンで彼女は答えた。空調で揺れていた木々のざわめきが収まり、一瞬、空気が張り詰めた。
「気持ちと覚悟・・ですか。はい。」
尋は了解したことを彼女に伝えたつもりだった。しかし、
「生半可なことでは無理ですわ。力添え無くして、心が急に強くなるというのは難しいことです。」
そういうと、彼女はテーブルの上に置かれた尋の両手の甲に自分の手を置いて、
「ワタクシがそれをして差し上げましょう!。」
そういって尋を見つめてニッコリと微笑んだ。
「あの、でも、どうやって・・、」
という尋の言葉を遮るように、
「不躾ですが、今日、見料はお持ちですか?。」
そのことをスッカリ忘れていた尋は、頭から血の気が引いた。
「いえ、いくらするとかは伺って無くって・・。」
困惑する尋に彼女は、
「申し上げ難いのですが、結構しますのよ。本当は。でも、御同僚の紹介ということもありますし、今回はロハということで。」
尋は驚いた。取り敢えずは今のこの状況からは解放される。そう思った次の瞬間、
「で、今晩、お時間はおあり?。」
「え?、あ、はい。一応。」
「では決まりぃ!。早速、お力添え致しますわ!。」
そういって、夜に尋と会う約束を取り付け、彼女は元気よく尋を扉の所まで見送った。何とも腑に落ちない表情を極力隠しつつ、尋はふり向かずに出口に向かった。
「では、今夜。」
と、彼女は耳元で囁いた。尋は一礼すると、黙って来た回廊をスタスタと足早に歩いていった。出口付近までは受付の女性が見送ってくれたが、その際、
「あの、見料の方は・・、」
と尋がたずねようとしたとき、
「御先生の方からお話は仰せつかっております。」
と女性は答えた。
「いえ、そうでは無くって、因みに、お幾らほど・・、」
尋は好奇心から敢えてたずねると、彼女は耳元で、
「それはお知りにならない方が宜しいかと。因みに、」
といって、指を二本差し出した。
「解りました。では。」
と、尋は二の次に来るゼロの数を想像するのが怖くなりつつ、足早にその場を立ち去った。
一旦はこの寺町を後にすることにはしたが、
「どうせ、また会うんだよなあ・・。」
と、尋はため息混じりにバス停に向かった。落ち葉の散った並木道の両側には伽藍が立ち並び、如何にも落ち着き払った風景であった。心を静め、信心深き人達が集う、そういう場所では無かったのか。逆に尋の心はとめどなく押し寄せる細波で満ちていた。やがてバス停に到着し、次に来るバスに乗ったが、行き先は変える方角では無かった。尋は指示された場所に向かった。
「展望台・・かあ。」
この辺りには、それらしい小高い場所は無かった。平地にひたすら寺院や大きな家々が立ち並ぶだけだった。それでも、数十分ほどバスに揺られていると、やがて景色は少し山間の雰囲気に変わっていった。緩やかな傾斜をゆっくりと登りながら、バスは終着点の展望台に着いた。尋は下車し、目の前にある大きな建物に驚いた。
「へー。こんな所があったんだ。」
古びたドライブインのようなその施設は、1階がアミューズメント施設、2階が円形の展望台になっていた。日もすっかり暮れていたが、自販機とゲーム機の灯りが駐車場のアスファルトを照らしていた。
「あ、このビープ音は・・。」
尋は聞き覚えのある機械音に胸がときめいた。ドアを開けて内部に入ると、そこには如何にもレトロなゲーム機がずらりと並んでいた。
「何という天の思し召しか!。」
こんな山の上で待つようにいわれたときは、尋は正直、自身の運の無さを恨んだ。しかし、今は違う。彼の唯一といってもいい楽しみが目の前に広がっている。尋は小銭の持ち合わせが十分でないのに気づき、両替機で小銭を作って片っ端からゲーム機に座ってプレイをし始めた。赤、青、黄・・。色取り取りの光りが画面に映し出され、尋の顔に反射した。それはまるで、尋の心ばえのようであった。時を忘れてゲームに夢中になっていると、
「ブルン、ブルン・・。」
と大きなエンジン音が聞こえてきた。尋が大きな窓の方に目をやると、真っ赤なバイクに黒いレザーのスーツを着た人物がまたがっていた。そして、その人物はヘルメット姿のまま施設に入ってきて、尋の前で立ち止まった。そして、メタリックレッドのヘルメットを脱いだ。長い黒髪がバサッとほどけて伸びた。
「お待たせ!。」
尋は口をあんぐり開けて固まった。あの白いドレスの占い師だった。お淑やかで聡明そうではあったが、話し出した途端、何とも拍子抜けの面白い人だなとは思ったが、今、またもや期待を大きく裏切った出で立ちで現れた。尋が挨拶を忘れるほどの光景であったが、
「あ、ど、どうも。」
と思い出したかのように慌てて挨拶をした。すると、
「何?、ゲームなさってたの?。」
「はい。好きなんです。」
「そうなんだ。」
彼女は尋の向かいに座って、彼に教えてもらいながらゲームを始めた。
「うーん、難しいなあ・・。」
そういって、すぐにプレイを中断してしまった。そして、
「来て。」
といって、尋の右手を引っ張りながら、二人は2階の展望台に向かった。窓の外には街並みの夜景と星空が広がっていて、円形の構造がパノラマ風に一望出来るような演出になっていた。尋は以前にも満天の星空を見たことを思い出していた。すると彼女は手すりの所に持たれながら、
「普通、こっちで待つと思うんだけどな・・。」
そういいながら、しかし、
「でも、あんなにゲームに夢中になってる人、初めて。アナタ、面白いわね。」
そういって、夜景を背にしながら微笑んだ。タイトなスーツが彼女の輪郭を際立たせた。彼女は右手で長い髪を掻き上げた。それはまるで怪盗の物語に出て来る相棒のようであった。
「何も無いときに星を眺めるのも好きですが、ボクはやっぱりゲームが好きで・・。」
尋がそういうと、彼女は、
「あ、ちょっと待って・・。」
といって、両手の平を上に向けて軽く持ち上げて、目を瞑った。
「また、寝入るのかな?。」
と尋は少し思ったが、程なくして、彼女は眼を開いた。そして、
「アナタ、随分と古のものに通じておられるようね。」
と、尋を真っ直ぐ見つめて話した。尋は自身が古生物に興味があることを、同僚の古典の講師に喋ったことは無かったので、これは彼女から漏れ伝わった話では無いなと思い、
「あの、どうして解ったんですか?。」
とたずねた。
「仕事ですから。これが。ここの施設も含めて、古き物達がアナタを歓迎していますわ。」
そう聞いて、尋は彼女の言葉が真理をいい当てているのだろうと考えた。何故彼女にそのような能力があるのか、それは一体どのような感じで彼女には見えるのか。聞くだけ野暮な気がした。すると、
「さ、行きましょ。」
といって、今度は尋を1階に連れていき、直ぐさま用意してあるもう一つのヘルメットを尋に渡して、尋をバイクの後ろに座らせた。
「しっかり捕まっててね。」
そういうと、彼女はシールドを下ろし、エンジンをかけた。
「ブルン、ドドドドド。」
重厚で大きなエンジン音が辺りに鳴り響いた。二人を乗せたバイクは夜の峠道を下っていった。
かなりのスピードで彼女は疾走した。冬場のバイクをすり抜ける風は尋に容赦無く、まるで極寒だった。しかし、今は風邪に引き剥がされないようにしっかりと掴まることしか頭に無かった。
「こんな山中峠道で振り落とされたら、たまったもんじゃない!。」
何故こんな状況になったのかと、尋は一瞬自分の優柔不断さと迂闊さを恨んだが、兎に角今は彼女に全てを任せるしか無かった。やがて風景が街中へと進んでいったが、彼女は一向にスピードを緩める気配が無かった。交通量の多い交差点であろうと、物ともせずに突っ切った。山中に置き去りにされるよりも、こちらの方がよっぽど怖い状況ではあったが、尋の脳裏には何故か白いウサギしか浮かばなかった。あまりの寒さに感覚がマヒしてしまっていた。そして、少しスピードが落ちてきたと同時に、尋の体温も少しずつ戻って来た。
「何でもいいから、この状況が早く終わってくれ・・。」
そんな風に、やっと脳内で言語化が出来るようになったところで、
「さ、此処よ!。」
といって、ヘルメット越しに彼女が大声でいった。バイクを止めると彼女は颯爽と長い足を宙に浮かせてバイクを降りた。その後を、尋がまるで何処かから救出でもされたかのようにヨタヨタと降りた。二人はヘルメットを取った。彼女は長髪を解き放った。尋は四苦八苦しながら、何とか脱いで血の気の失せた顔を見せた。「さ、いきましょ!。」
付いた先はレンガ造りの小さな建物だった。外観からは何のお店かは解らなかったが、壁の一部に鉄で、
「精」
という字が設えられていて、その文字の部分だけがピンスポットでライトアップされていた。
「せい・・?。」
尋がそう読むと、
「もののけ・・よ。」
彼女がそう答えた。彼女は凍えて動きのぎこちない尋の手を引いて店内に連れ立って入った。
「いらっしゃいませ。」
入り口のドアを潜ると店員が尋達に挨拶し、細い廊下を通って奥へ案内した。と、尋は驚いた。
「焚き火だ!。」
外観の小ささとは逆に、内部は開けた広い空間になっていた。黒い木の床と、その中央にレンガで組まれた大きな囲炉裏が煌々と炎を上げていた。煙は全て上部のダクトとも煙突ともつかない大きな金属のうねりの中に吸い込まれていった。その周りには丸いカウンターがあり、等間隔に客らしき人物が何組も座って炎を見つめていた。さらに感覚の戻った尋は、部屋に立ちこめる香ばしい空気に気づいた。
「肉だ。肉の焼ける匂いだ・・。」
見ると、焚き火の周りには傘か日本刀ほどの長さの串が幾つも傾けてて立てられていた。そして、どの串にもラグビーボールほどの肉塊が刺されて、
「ジューッ!。」
と音を立てながら炙られていた。そして、油が下の灰に滴り落ちては、
「パチン、パチン。」
と弾ける音がした。尋がその光景に見とれていると、
「はい、どうぞ。」
と、彼女は尋を促して目の前に開いている席に並んで座った。やっとのことで状況が把握出来出した尋は途端に、
「暑っ!。」
と、上着を脱ぎだした。そして、彼女の方を見ると、レザースーツのチャックを大きく下ろし、白く大きな胸元が撓わに現れた。問答無用に尋の心臓が高鳴った。そこへ、
「いらっしゃいませ。ご注文は?。」
と、店員がメニューを持って現れた。すると、
「冷たいシャンパンを。後はお任せで。」
「かしこまりました。」
如何にも手慣れた感じで彼女はオーダーを済ませた。そして、彼女はスーツの上着を一気に脱いで、ざっくりと胸元の開けたTシャツ姿になった。周囲の視線が一斉に注がれた。そして、焚き火の炎が勢いを増した。
「お腹空いたでしょ?。まずは腹ごしらえを、ね。」
そういって、彼女は尋の方を向いて微笑んだ。尋の冷えた脳ミソが一気に感覚を取り戻したかと思うと、今度は火照りでボーッとし始めていた。
「イカンイカン。確か・・、」
尋は何故自分が此処にいるのか、いや、そもそも何故こうなったのかを思い出そうとした。
「お力添え・・とかいってたよーな気が。」
そうこう考えている所に、
「おまちどおさまでした。」
と、店員がトレーに冷えたシャンパンとグラスを2つ持って来た。
「有り難う。」
彼女はそういって、シャンパンとグラスを受け取り、自分で2つのグラスに注いだ。そして1つを尋の方に差し出し、
「乾杯!。」
といって尋のグラスに自分のグラスを軽く当てた。
「チン。」
軽やかなガラスの音色が聞こえたかと思うと、彼女は一気にシャンパンを飲み干した。
「ふーっ。」
炎の前で火照った体を冷やすの彼女の姿は、テラスで見た人物とは全くの別人だった。長い黒髪を白いTシャツの両肩にたらし、白く大きな胸元と共に赤く炎に照らし出されていた。尋は圧倒された。そして自身も乾きを潤そうと、シャンパンを口にした。心地良い清涼感と甘さ、そして弾ける気泡が尋の喉を一気に癒した。
「ふーっ。」
そして、2杯目を注ぐ彼女の横顔を見た。
「妖艶・・。」
魔界の宴が始まろうとしていた。
同僚にいわれるがままに何気に、ほんの軽い気持ちで行動したはずが、何かとんでもない状況になっている。尋は彼女のことを何も知らないし、彼女もまた尋のことをほぼ知らない・・はずだ。これ以上、互いを、いや、彼女のことを知るのはどうかという躊躇の念もあったが、冷静さを取り戻すためにもと、尋はたずねた。
「あの、ボク、アナタのことをよく知らないな・・と思って。」
すると彼女は、
「あら、そう?。私はアナタのことをよく伺ってますわよ。」
そういって、さらにシャンパンを呷った。同僚の、そう、古典の女性講師が何やら吹き込んでいたようだった。
「ゴメンなさいね。勝手に伺っちゃって。でも、あの方、何も聞かないのに、何でも話してくれるから・・。」
尋は少し眉間に皺を寄せて、
「然もありなん、然もありなん。」
と心の中で呟いた。すると、
「でも、私だけが一方的に知っているのも、何か不公平ですわね。よろしい。では、何でもおたずね下さい。」
彼女はそういって、尋をじっと見つめた。その状況が、尋を何よりも口籠もらせた。炎、肉、胸元、そして何より、彼女のギャップ・・。尋も少しシャンパンを呷って、頭の中でたずねることを整理してみた。そして、
もし、このような人に出会うことがあるならば、かねがね聞いてみようと思ったことがあった。
「あの、アナタがされていることって、占いとか、そういう感じですかね?。」
「ええ、まあ。」
「そういうものって、感覚的に、どんな風に感じるというか、見えるものなんですか?。」
尋の質問に、彼女は少し面食らったようだった。そして次の瞬間、
「あはっ。可笑しっ。」
彼女は大きな声で笑った。そして、暫く笑った後、真面目な顔になった。
「ゴメンなさい。そんな風に聞かれたこと無かったから。私は別に普通だと思っていたわよ。あるときまでは。」
「あるときまで?。」
「うち、寺院でしょ?。小さい頃から仏事の中で暮らしてて。すると、色んな人が父に会いに来てたんだけど、みんな悩みを抱えていたんだなって。何か悶々とした空気が常にそんな人の周りに漂ってるのが黒いような、紫色のような、そんな風に見えたの。そのことを母や友達に話してみても、そんなもの見えないって。」
「へー。そうなんですか。」
「うん。で、そのうち、自分が見聞きしている状態が、他の人と少し違うんだなって、随分後になってから気づかされたの。」
「そういうのは、常に見えるものなんですか?。」
「ううん。初めは見えたり見えなかったりだったけど。意識を集中してというか、チャクラの辺りで見ようと、気を集めるようにしてからは、その瞬間にハッキリ見えるようになったの。」
「それは、何ですか?。」
「そうね・・、纏わり付いてるもの。そんな感じかな。」
「それは、その人自身から発せられてる訳では無くって?。」
「そうね。殆どがそう。でも・・、」
彼女はグラスを口にしながら、尋の方をチラッと見た。
「ごく稀に、その人自身から何かが放たれている場合もあるかな。」
「それは、どんな感じ?。ビジョン?。それとも・・。」
尋の矢継ぎ早な質問に、彼女はさらに笑った。
「アナタ、本当に面白い人ね。普通、私のことを聞きたがるんだけど、こんなにダイレクトに私の能力だけに興味を持たれたのって、初めて。」
「あ、スイマセン・・。」
尋はハッとなった。初めての女性との食事に、世の男性はこんな風なお喋りはしないものなんだと、あらためて気づかされた。
「ううん、いいの。それがアナタという人。そして・・、」
「そして?。」
「稀な人。何かを放っていて、その何かが周りを惹きつける。」
その何かをたずねようとしたとき、
「おまちどおさまでした。」
と、シェフらしき人物が二人の間に割って入ったかと思うと、目の前の串から肉の塊を二つ巨大なフォークで抜き取って、二人の目の前に差し出した。そして、持っているナイフで大胆にカットしていった。表面のよく焼けてカリッとした部分を割くようにナイフが滑ると、中からはほんのりピンク色に肉が肉汁を滴らせて現れた。
「ゴクン。」
尋は思わず生唾を飲んだ。彼女も目を輝かせた。そして、
「どお?。これこそが肉よ!。」
上気しながら尋に語った。そして、カットを終えたシェフが立ち去ると、二人は、
「いただきますっ!。」
と口々にいうが早いか、フォークとナイフで厚く切り取られた肉に食らいついた。
「旨っ!。」
尋は肉を頬張りながら喋ったが、言葉にはならなかった。そんなもの、無用だった。あのお淑やかだった彼女も、店に入って豹変したときよりも、一段と凄さを増した。肉食獣そのものだった。眼をギラつかせ、口元についた脂を拭くのも忘れていた。
尋は、今まで食べてきたものが果たして肉だったのかと、人生を振り返ってみるほどの衝撃的だった。時折付け合わせの野菜を軽く挟みはしたが、二人は黙々と肉に齧り付いた。そして、たまにシャンパンで喉を潤しつつ、謝肉祭は暫くの間続いた。
「ふーっ。もう無理っ。」
尋はギブアップしたが、彼女は尋が残した分もフォークで突き刺して、全て平らげた。そして、先ほどの光景が嘘のように、静かに口元を拭って、シャンパングラスを空にした。尋は天井を見上げ、呆然としていた。
「これほどの肉が消化されてお腹がこなれるのに、どれほどかかるだろうか。それよりも、彼女とはバイクで来ているのに、このまますぐには帰れそうに無いな・・。」
などと何気に考えが頭を掠めたとき、
「さて、いきましょ。」
彼女はサッと立ち上がって、グロッキー状態の尋の腕を引っ張った。
「いや、でも、お酒がまだ・・、」
「大丈夫。バイクには乗らないから。」
そういって、彼女は尋をエスコートした。そして、出口付近でポケットから黒く輝くカードを出して、勘定を済ませた。
「いや、支払いはボクが・・、」
と尋はいいかけたが、
「いいの。今日は私が誘ったんだから。」
と、尋の申し出をあっさりと遮った。外に出た途端、彼女が、
「あれぇ?。」
といって、スーツのチャックが閉まらないことに気付いた。そりゃそうである。あれだけ肉を平らげて、まだ間が無い。その分のタンパク質は物理的に体積として増している。それでも彼女は、
「えいっ。」
と、無理矢理チャックを胸元まで引っ張り上げた。白く撓わで膨よかなものが今にも飛び出しそうな程に持ち上がった。
「あっ!。」
その光景を目の当たりにした尋は、鼻から赤い何かが滴り落ちた。肉の効き目が、もう現れていた。彼女はハンカチをサッと出して、
「さ、これで拭いて。」
と、優しく囁いた。尋は礼をいったが、気持ちは酷く恐縮していた。颯爽とバイクで現れた彼女に疾風の如く運ばれ、豪華な宴を奢られ、そして今は彼女の色香に鼻血を出している。全くいいとこ無しの自分なのに、彼女の思いやりの深さが、かえって応えた。気持ちは俯き加減なのに、それ以上血が落ちないように天を仰いで歩いていた尋には、自分達が何処へ向かっているのか全く解らなかった。すると、
「さ、ここで落ち着きましょ。」
そういって、尋を大きなガラス戸のある入り口付近で立ち止まった。尋は上を向いたままだったが、高く聳えるビルが目に入った。
「ホテル・・かな?。」
ぼちぼち血が止まった尋は彼女に、
「ゴメン、ハンカチ。」
と、血が付いたことを詫びて返そうとしたが、
「いいのよ。それより、もう止まった?。」
「うん。」
「じゃ、いきましょ。」
と、二人は中へ入っていった。そして、二人はそのままエレベーターに乗り、地下にあるラウンジまでいった
。
「さて、腹ごなしにお話でもしましょ。」
そういうと、二人は中に入って、カウンター席の一番端に陣取った。
「いらっしゃいませ。」
バーテンダーが彼女に一声かけると。彼女は指を二本横に出して合図した。
「かしこまりました。」
尋も何か頼もうとしたものの、このような所に出入りしたことが無かったため、何から頼んでいいものやら見当が付かなかった。
「ソフトドリンク、あるかなあ・・。」
と思っていると、空かさずバーテンダーが彼女の前にショットグラスを二つと透明な液体の入ったボトルを置いた。彼女はその液体を二つのグラスになみなみと注ぐと、
「はい。」
といって、一つを尋の前に差し出した。そして、二人はグラスを持って、
「乾杯。」
というが早いか、彼女は一気に飲み干した。そして、再び空のグラスに透明な液体を注いだ。尋も気後れしたままではマズいと思い、グラスに口を付けた所で、
「気をつけて!。」
と、彼女が小声で忠告した。何のことか解らないまま、尋は一口飲んでみた。
「ゴホッ、ゴホッ。」
何も危害を加えない風な無色のその液体は、喉を通るやいなや、まるで焼き尽くすが如く尋を悶絶させた。
「何っ、これっ?。」
掠れた声で尋がたずねると、
「スピリタスよ。」
そういって、彼女は二杯目を一気にあおった。
「精神?。魂?。」
見当違いな尋の言葉に、
「このお酒の名前。」
尋は後に知ることになる。それが消毒用のものよりも度数の高いアルコールであることを。
「まあ、ゆっくりやって。それにしても、アナタ、お酒弱いわね。」
彼女はそういって微笑むと、既に三杯目を飲むところだった。尋は水を飲んで喉の調子が少しましになった。
「いや、ボクが弱いんじゃ無くって、アナタが強すぎるだけのよーな・・。」
「あは。そーともいう。」
彼女は上気して、尋のグラスに自分のグラスを軽く当てて、三杯目を飲み干した。
「ところで・・、」
彼女は少し真顔になって話し出した。
「アナタって、ホント、不思議ね。」
「え?、何がですか?。」
「さっきの食べっぷりを見てても、全然肉食系じゃ無いし、お酒も滅法弱いし。そして何より・・、」
「何より?。」
尋は少し前のめりになった。
「全然アナタから野心というか、そういうものが見えないの。」
彼女の言葉が尋の胸に刺さった。彼自身、そのような自覚はあったが、透視術の能力があるような女性からいわれると、それが変わることの無い真実であると示されたようなものであった。しかし、彼女は言葉を続けた。
「でも、それでいて、そこはかとなく放たれるものが、どうやら周りを惹きつけるようね。」
それは気遣いでも何でも無く、やはり彼女が透視で見た、もう一つの真実でもあった。そして、彼女は気を許したかのように柔らかい表情になって、彼に話し続けた。
「アタシは寺の娘として育てられて、でも、そんな窮屈な生活が嫌で、気がつけばいつの間にか自由を求めて遊び歩くようになったの。そして、いろんな男がアタシにいい寄ってきたわ。でも・・、」
そういって、彼女はグラスに目を落として寂しそうな顔になった。すると、尋は優しく、
「でも?。」
とたずねた。彼女はグラスを見つめながら、
「集まってくるのは、みんなアタシじゃ無くて、家や持っている物に目を奪われてる人ばかり。それか、アタシの能力に縋ってくる人達・・。」
そういって、グラスの中身を飲み干した。尋もグラスに少し口を付けて、
「じゃあ、ボクも後者の中に入るのかな。最初は同僚にいわれるがまま来たけど、そのうちアナタの持つ力に興味を持って。ボクには無い力だから、人間が秘める能力を目の当たりにすると、つい探究心がでちゃったかな。ゴメン。」
尋は彼女に詫びた。
「ううん。アナタはアタシに縋ったりなんかしてない。それどころか、何もアタシに求めない。そんな不思議な男性に会ったことが無くって・・。」
尋はもう一口グラスの液体を飲んで、
「切っ掛けもそうだったけど、何から何まで面食らっちゃって、ね。でも、今は求めてるかも知れない。」
尋がそういうと、彼女は驚いたように彼を見た。
「求めてるって、何を?。」
尋は優しく彼女を見つめて、
「この状況を。今、こうしてアナタと話してるのが、何かいいなあって。」
そういって、もう一口飲んだ。すると彼女は尋の手の上に自身の手を置いて、
「状況だけ?。」
と、尋の頬を見つめた。尋はグラスを置いて語り出した。
「多分、アナタは仕事柄、人が悩みを打ち明けに来る姿ばかりを見てて、そのうち、自身は凜としていなきゃって、無意識のうちに思うようになっていったんじゃないかな。ボクの勝手な想像だけど。でも、人間って、何処か必ず弱い部分があって、そういうのを上手く曝け出せる人もいれば、そうで無い人もいる。でも、やっぱり心って、解放してあげないといけないときがあって、そんなときに立ち会えたら、それが互いにとって一番いい瞬間なのかもなあ・・って。だから、ボクは今、この状況を求めてる。」
そういうと、尋はグラスの残りを飲み干した。そして、彼女を見つめて微笑んだ。すると、彼女の目元が潤みだした。そして、
「アナタ、アタシなんかよりよっぽど透視の達人じゃない。」
そういって尋を見つめて微笑んだ。そして二人は笑い合いながら、杯を仰いだ。
「何だか、本当にいい気持ちだなあ・・。アナタに会えて、お話が出来て、こんな楽しいことは無い。本当だよ。」
尋は上機嫌になった。そして、次の瞬間、
「ドサッ!。」
と、カウンターに突っ伏した。それを横目で見ながら、彼女は、
「ありゃりゃ。もーいっちゃったの?。早えーなあ・・。」
と、仕方なさげに、眠り込む尋を他所に手酌酒を始めた。そして、
「状況・・かあ。コイツ、いいことをいうなあ。」
そういって、彼女は尋の頭を中指で弾いた。
「あの、大丈夫ですか?。良かったら、お運びしましょうか?。」
バーテンが泥酔する尋のことで気を回そうとしたが、
「ああ、大丈夫。アタシが運ぶから。これでお勘定ね。」
そういって、此処の飲み代を黒いカードで支払った。そして、彼女はぐでんぐでんになった尋をひょいと肩に担いで店を後にした。
明るい朝の日差しが尋の頬に当たり、尋は、
「うーん・・・。」
と、眩しそうに薄目を開けた。頭がガンガンした。と同時に、得も言えぬ肌寒さを感じた。尋はベッドからゆっくり起き上がって、周りを見渡した。どうやらホテルの一室らしかった。そして、ふと自分の姿を見て、
「あれ?。オレ、何してんだろ?。」
と、自身が全裸なのに気がついた。そして、右手で頭を押さえながら横を見ると、
「あっ!。」
と思わず声を上げた。尋の横には、全裸の女性がまるで二つのクッションを圧し潰すかのように、うつ伏せで眠っていた。
「・・・ちょっと待ってくれよ。」
尋は此処に至るまでのことを思い出そうとしたが、如何せん、激しい頭痛がそれを邪魔した。そして、
「うっ。」
尋は慌ててバスルームに駆け込んだ。
しこたま嘔吐した後、尋はグロッキーな状態でベッドルームに戻った。視界はまだ渦巻き状に歪んでいた。そして、ベッドの隅に腰掛けると、背中が露わになった女性にシーツを掛けた。そして、
「オレは何をしったんだ?。っていうか、一体、何があったんだ?。」
頭痛と闘いながら、尋は夕べの状況を何とか思い出そうとしてみたが、カウンター席で今横になっている女性とショットグラスを飲み交わしたところまでしか思い出せなかった。すると、
「うーん・・、」
と唸りながら、うつ伏せになっていた女性がシーツに顔を擦りつけながら、こちらを向いた。そして、ゆっくりと目を開けて、
「あ、おはよ。」
掠れた声でそういいながら、両腕でゆっくりと体を起こそうとした。
「だっ、ストップ!。」
尋は慌てて彼女を制止した。彼女は自分の胸元を見て、
「あら。」
といって、背中に掛けてもらってあったシーツを巻いた。そして、向きを変えて座り直して再び尋を見た。そして、ニコッとしながら、
「よかったわよ。夕べ・・。」
といって、尋の背中に抱きついた。膨よかなものが背中に当たるのを感じた。その瞬間、極めて複雑な感情が尋を襲った。
「快楽と背徳・・。」
頭痛も手伝って、尋は頭を抱えた。そして、彼女の方に向き直すと、
「あの、オレ、あの後どうなったんスか?。」
尋は申し訳なさそうにたずねた。彼女は悪戯っぽい顔で、
「あら、覚えてないの?。」
といって、ニヤッと笑った。そして、
「まるで獣だったわよ。ふふ。」
そういって、うっとりとした表情を見せた。それを見て尋は、
「マジかーっ・・。」
と、両手で頭を抱えて項垂れた。すると彼女は、
「一夜限りのアバンチュールでも、全然よろしくてよ。」
とニコッとした。が、しかし、尋のあまりの落ち込みように、彼女の表情が素に戻った。すると尋は、
「あの、御免なさい。こんなことになって。」
そういって、ベッドの上で頭を下げて謝った。この反応には、彼女も驚いた。そして、
「謝らないでよ。興醒めしちゃう。」
と、プイッと横を向いた。しかし尋は彼女を真っ直ぐ見据えて、
「アナタに初めて会ったときから、恐らくボクはアナタの虜になっていたと思う。多分。こんな不思議で清楚で。そして、その後のアナタも、初めとは真逆で妖艶で魅惑的で、そして・・、」
「そして?。」
彼女がたずねた。
「ダイナマイトボディーで・・。」
「ダイ・・?。」
そういうと、彼女は想わず吹き出した。
「ははは。あー、おかしっ。」
すると尋は、
「本当に魅力的だったんだ。だから、こんな風にじゃ無く、もっと真剣にアナタのことを好きになりたかったんだけど、こんな形になっちゃって・・。それに、ボクには・・。だから御免。」
そういって頭を下げると、再び彼女を見つめた。
「だ・か・らぁ、謝らないでっていったでしょ。」
といいながら、彼女は何か決意したような表情になった。そして、
「いいわ。正直にいってあげる。」
そういうと、尋は意表を突かれたような表情になった。
「あの後、アナタはすぐに酔い潰れちゃったの。そして、アタシがこの部屋に運んで来て、そして・・、」
「そして?、」
「服を脱がせて、」
「脱がせて?、」
「襲おう・・、」
尋は緊張した面持ちで先の言葉を待った。すると、
「としたら、アナタ、全然起きないし、反応すらしなかったのよ。」
そういって、彼女はプイと横を向いた。
「折角、横にダイナマイトボディーの美女がいるのに・・さ。」
そういって、彼女は一瞬拗ねたような顔を見せたが、次の瞬間、尋と目が合った。そして、
「ははは。」
「ははは。」
と、二人は大笑いし合った。そして、一頻り笑った後、
「普通、逆じゃないッスかね?。それって。」
「男が女を・・ってこと?。いいじゃん。別に、どっちでも。でも、兎に角、アナタは何もしなかった。」
一応、それが真実なんだろうと尋は少しホッとした。しかし、
「でも、何かアナタに恥を掻かせちゃったかな。ゴメン。」
そういうと、
「だから、謝らないでって。アタシが悪者なのが逆に際立っちゃうじゃない。」
彼女はベッドから起き上がると、シーツを纏ったまま冷蔵庫からペットボトルの水を取りだし、喉を潤した。そして、
「アタシも色んな人を見てきたけど、アナタほど律儀というか、そんな人、見たこと無いわ。」
といって再び喉を潤した後、
「ねえ、お酒も抜けたでしょ?。」
彼女は胸元で止めたシーツをはだけさせながら、尋に優しく抱きついた。すると、
「あっ。」
尋の体は反応した。それを見て彼女は、
「ほら、ね。」
尋の顔を自分の胸に押しつけた。尋は苦しそうに悶絶したが、やがて彼女の両肩をそっと掴んで優しく引き離した。
「ボクは、ボクの体はアナタを抱いてしまうかも知れない。でも、ボクの心はアナタの心を抱けない。」
「いいじゃない。それでも。」
「本当に、そうかなあ・・。ボクはやっぱり、あなたの心を抱きたい。でも、それは今じゃ無い。だから・・。」
尋がそういうと、彼女は黙ったまま彼を見つめた、そして、
「こいつめっ!。」
といって、尋の額にデコピンをした。そして、
「これからアナタが向かうのは、海千山千の住む世界。そんな所に無垢なまま向かわせるのはどうかと思って段取りしてあげたんだけどなあ・・。でも、アナタのその折れることの無い何かが、ひょっとしたらこの先もアナタを守ってくれるのかもね。」
そういうと、彼女は尋に優しく口付けをした。
「ゴメ・・、いや、有り難う。」
尋はそういうと、自分も冷蔵庫からペットボトルの水を取りだし、喉を潤した。
二人は何事も無かったかのように脱ぎ散らかした服を着て、ホテルを後にした。フロントで彼女が黒いカードでチェックアウトをした。あまりの彼女の男前っぷりに、尋も、
「ここはボクが・・、」
と払おうとしたが、
「いいの。これはアタシのアバンチュールなの。」
そういって、尋の申し出をキッパリと断った。朝日に照らされ、髪を右手でかき分けるたスーツ姿の彼女は一段と輝いていた。尋はうっとりと見つめた。それに気づいた彼女が、
「どう?。勿体ないことしたでしょ?。」
と、尋の心をいい当てた。尋はサッパリした顔で、
「うん。」
と微笑みながら頷いた。
「これから、またあのテラスに戻るの?。」
尋はたずねた。
「そうね。またお寺の片隅に戻って、来る人の悩みを聞く毎日に・・。」
彼女は少し寂しげに、でも、眉の辺りをキリッとさせて、そう答えた。数多の人が業を抱えて、日々彼女の前に現れる。そして、彼女は自身の持つ力で、その人達に然るべき道を指し示す。それが彼女の能力であったとしても、体は人間である。無意識のうちの他人の業が断片となって彼女の中に降り積もっていてもおかしくは無い。だからこそ、こんな風に思いっきり羽目を外すようなことも必要なのだろう。そんな風に気づいた尋は、
「ボクで何か役に立てることがあったら・・、」
そう彼女を気遣おうとした。しかし、彼女は横目で尋をチラッと見ながら、
「立たなかったくせに・・。」
と、悪戯っぽく、しかし、冷徹な眼差しとともにいった。尋は赤面した。
「そういうことは、抱けるようになってからいってよね。でも・・、」
と、追い打ちの言葉をいったあと、彼女は柔らかい表情になって、
「アナタのような人がいるから、人生楽しいのかもね。そして、本当に愛おしいって、どういうことかを教えてくれる人・・。」
彼女は真っ直ぐ尋を見つめた。
「送ってくわ。」
彼女は髪を束ねながら尋にいった。
「有り難う。でも、ボクはここから一人で帰るから。」
尋は肩を竦めながら歩き出そうとした。そして、
「もしまた会えたら、お礼をさせてね。じゃあ。」
といって尋は彼女に握手を求めた。彼女は尋の手を握ると同時に彼を引き寄せて、そして抱きしめた。
「ご縁があれば、必ずまた会えます。それが物事の理。」
そう尋の耳元で囁いた。そして、颯爽とバイクにまたがると、ヘルメットを被って、
「ブルン、ブルン。」
というエンジン音を響かせて、軽く右手を上げながら尋の前から消えていった。夕べ見た炎のように燃え盛る彼女が去った後、冷たい冬の風が尋に容赦なく吹き付けた。そして、尋の脳裏に言葉が過った。
「ギャップ・・。」
大きく揺れる振り子のように、彼女は真逆のキャラを、人生を行き来しつつ生きている。物静かに振れ幅の無い、ストイックに生きている自分とは全く異なる、そういう人と巡り会うことの不思議。
「さて、帰るか。それとも、このまま出勤するか。」
荘厳で厳粛な寺院に始まり、静かな森の精に出会ったその日のうちに、やがて彼女はの炎の化身と化し、そして最後は颯爽と駆け抜けていった。尋は一体、自分のみに何が起こったのか、そしてこれから起ころうとしているのか。想像だにつかないこととは別に、確実に解っていることが一つ。
「ぼくはまだまだ・・だなあ。」
尋は暫く歩いてコンビニを見つけると、
「すみません。ここは何処ですか?。」
と、目を点にした店員にたずねた。そして、その場所が何処であるかということと、最寄りの駅を聞き、お礼に温かい缶コーヒーを買って、駅に向かった。道々コーヒーを飲みながら、尋は昨晩のことを振り返ってみた。が、しかし、
「やっぱり、思い出せない・・。」
と、自身の酒の弱さを心の中で嘆いた。そして、
「もし、酒に強かったなら、あの晩、やっぱり彼女を・・、」
と考えてはみたが、しかし、
「うーん、きっと、ボクが酒に弱いから、良くも悪くも、結果としてこうなった訳で、やっぱ、自分では無い自分は、居ないってことかなあ・・。」
などと、哲学論めいたことにいき当たりつつも、翌朝の彼女の温もりを思い出し、
「あ、いけね・・。」
と、自身はそんな高尚な精神論を持ち出すような人間ではないなと、あらためて反応を催した自分の姿を再認識した。そして、もう一つ解ったのは、
「冴えない大人が、いい歳して、迷子になりそうになっている。そして寒い・・。」
悶々としながら歩き続け、尋は駅の前に立っていた。
このまま一度帰宅しても、出勤までは然程時間も無い。尋はそのまま仕事に向かうことにした。改札を抜けて電車を待つ間、たまに頭痛が襲ってきた。
「まだ酒が抜けて無いなあ・・。」
そう思いつつ、足元に気をつけながら、やって来た列車に乗ると、暖かさと心地良い揺れで、尋は直ぐさま寝てしまった。そして、どれぐらい揺られただろうか。
「はっ。」
駅に到着すると同時に尋は目覚めた。寝過ごしてはいないかと一瞬心配になったが、幸い、目的の駅に着いていた。
「ラッキー。」
尋はそういいながら列車を降り、改札を潜ると、いきつけの茶店に向かった。
「ガランガラン・・。」
ドアに吊り下げてある金属のベルの音が、いつもより余計に響いて聞こえた。
丁度お昼時だったので店内は少し混んでいた。尋は奥の席が空いているのを確認すると、そそくさとそこに座った。
「いらっしゃい。」
マスターが水とおしぼりを持って来てくれた。
「ホットミルクティー。」
そういって、尋はおしぼりで手を拭こうとしたが、そのとき、
「どうしたの?。今日。」
「え?、何が?。」
「その顔よ。」
尋はマスターに異変を指摘されたが、あいにく店内には鏡が無い。仕方ないので、横の窓の少しくらいところに自分の顔を写してみた。が、何も見えなかった。もうマスターに聞くしか無いと思い、
「あの、どうなってます?。僕の顔。」
するとマスターは、顔を近寄せて右手で口元を隠しながら、
「デッカいキスマークが・・。」
尋は慌てて顔の反対側を窓に写した。すると、左の頬が何かもの凄い力で吸われたように、青紫のアザが浮かび上がっていた。
「あっちゃーっ!。」
尋は慌てた。夕べのことは何も憶えてなかったが、恐らくは酷いことが起きていたのだろうとは想像はしていた。が、しかし、その状況を物語るものが形となって残っていようとは。
「えーっと、こういう場合は、温めた方がいいのか、冷やした方がいいのか・・。」
思案する尋の様子を見て、マスターが、
「ま、放っとくより無いね。」
と、憐憫の表情を浮かべながらカウンターに戻っていった。残酷な知らせが頭痛に追い打ちを掛けた。と、同時に、
「ピポピポ♪」
と、尋のガラケーが鳴りだした。灼からだった。
「はい、もしもし、尋です。」
「ちょっと、どうしたのよ?。夕べから全然連絡取れなかったから、心配したわよ。」
「え?、そうなんだ。ゴメン。」
「で、今、何処?。」
「あ、例の茶店。」
「丁度よかった。アタシ、今近くだから、すぐいくね。」
「うん、了解。じゃーね。」
そういって携帯を切った途端、
「あっ!。」
思わず周りの人が振り返るほどの声が、店内に響いた。
「やっべーっ・・。」
尋は焦った。もの凄く焦った。理由は勿論、アザである。マスターからは死の宣告に近い言葉が浴びせられた、現時点ではどうしようも無いアザである。咄嗟に思いついた方法は一つ、
「まず断りの電話を・・、」
と、ガラケーを再び開いたとき、
「ガランガラン・・。」
本当に近くにいたらしかった。ものの一分程で、灼が現れた。
ドアの付近から彼女は尋に手を振った。尋もそれに応えて右手を振った。左手で頬を押さえながら。
灼は尋の向かいに座ると、
「夕べ、どうしたの?。何度かけても全然繋がらなかったし・・。」
と、不思議そうにたずねた。尋の行動パターンを、どうやら彼女も把握していた。そりゃ、そうである。尋も自負するほど、恐ろしく行動範囲の狭い人間である。そんな彼が、全く連絡が取れないとなると、灼が不思議に思うのも無理は無かった。尋は顔の右側だけを彼女に向けて、
「うん、夕べ、珍しくお酒を飲むことになって、ね・・。」
そう答えたが、今まで彼女に、そんな風な話し方をしたことが無いのに気づくと、直ぐさま左の頬を押さえながら、ちゃんと正面を向いた。灼は少し驚いたような様子でたずねた。
「アナタ、飲めるの?。」
「ううん、ほとんど・・。」
彼女は、では何故と、不思議に思いつつも、あることに気づいた。
「ほっぺた、どうしたの?。虫歯?。」
「いや、そうじゃ無いんだけど・・。」
尋の態度に、灼はますます不信感を抱き始めた。そこへマスターがやってきて、
「いらっしゃいませ。」
と、彼女に水とおしぼりを持って来た。
「すいません。ホットココアを。」
それを聞いたマスターが去り際に、尋にだけ解るように肩をポンと叩くと、何やら小さい紙切れを彼に手渡した。灼は質問の続きをするつもりで、その前に一息つけようと水を飲んだ。尋はその隙に紙切れを開いて見た。
「トイレ、ファンデーション。」
と、手書きで小さく書かれてあった。彼女がコップを置いて何か語り出そうとしたとき、
「あっ!。」
と、尋は小声でいった。
「ゴメン、ちょっとトイレいくね。」
そういって、尋は左の頬を押さえながら中座した。そして、トイレのドアを開けて洗面台を見ると、ファンデーションが一つ置かれていた。尋は鏡で自身の左頬を見て、あらためて、
「うわーっ。」
と嘆きつつ、しかし、マスターに感謝しながらファンデーションのフタを開けて、慣れない手つきでパフを使って頬のアザに塗りつけた。
色合いといい、尋の地肌にそっくりなファンデーションは、見事にキスマークを覆い隠した。
「よし!。」
尋は鏡に写る自分に気合いの声を掛けた。そして席に戻ると、何事も無かったかのように紅茶を口に含んだ。そのとき、
「ん?。」
と灼はいった。席に着いた尋が一連の動作をする、ごく短時間の間に灼の表情が何か疑問を抱く風に変わった。尋はカップ越しに彼女を見た。
「クンクン・・。」
彼女は何か空を嗅いでいるようだった。そして次の瞬間、尋の顔を見つめて、
「ファンデーション・・?。」
と呟いた。男性である尋は、知る由も無かった。いや、慌てふためいている状況が、可視的なものさえ補えば大丈夫という過信を助長していた。色だけで無く、香りも含まれているなどとは。そして、よもやバレるまいとの思惑は、彼女の嗅覚の前では全くの徒労だった。彼女と過ごす中で、尋は確実に知ったことが一つあった。
「料理の腕・・。」
尋は頭の中で呟いた。例えどんな食材であっても、そこに含まれる微かな味や香りを立ち所にいい当てる能力があったのを、今更ながらに思い出した。そして、思い知った。尋は口にしたカップをそっと置くと、真っ直ぐに彼女の方を見た。というよりは、自身の顔をしっかりと見させた。
「・・・。」
灼は無言でそーっと尋の左の頬に人差し指を当てて、軽く撫でた。肌色のしっとりとした粉が指先に付いた。そして、ファンデーションの剥がれた下から、紫がかった皮膚が現れた。尋は彼女がどんな言葉を投げかけてくるかを瞬時に想定し、
「ちょっとぶつけてアザが出来た。いや、虫に刺されて・・、」
とアレコレ考えた。が、ふと我に返って、
「自分は一体、何のいい訳を、いや、何のためにいい訳を考えているんだろうか・・。」
と我に返り、そこで思考をやめた。すると、彼女は端的に、
「キスマーク?。」
とだけ聞いた。尋は頷きながら、
「だと思う・・。」
とだけ答えた。灼は多少戸惑ったようだったが、動揺はしなかった。普通なら、自身にとって不利な証拠をかくそうとするかも知れないが、彼はそういうことには縁が無い人間であることを、彼女は知っていた。逆に、何故、香りの立ってしまうファンデーションで隠そうとしたのかの方に疑問を抱いていた。その様子を察して尋は、
「少しややこしい話だけど、聞く?。」
そういうと、灼は小さく頷いた。そして、そうなるに至った経緯を、順を追って話した。同僚に紹介されて訪れた寺町の占い師女性。その女性に誘われるがままに結局はデートのような形になってしまい、酩酊して、気づけば前の日の夜のことも思い出せないまま、ベッドを共にしたこと。結果、何も無かったであろうが、そうであると伝えるのは至難の業だろうという自覚。それら全てを、尋は淡々と伝えた。ファンデーションによる隠蔽は、自身の後ろめたさなのか、それとも、灼に対する配慮なのかも、よくは分からないということも。尋は、今自分が裁かれる立場に立たされるのは仕方の無いこと、後は彼女自身の判断と問題だと腹を括った。そして程なく、言葉による裁定は下った。
「本当に、アナタらしいわね。」
灼は呆れ混じりに微笑んだ。そして、すぐに安堵した表情に変わった。そして、
「でも、どうして抱いてあげなかったの?。」
彼女はたずねた。その言葉を聞いて、尋は、
「へ?。」
妙なトーンで疑問符付きの返事をした。
「いや、そんな風に連れてかれるなんて思ってなかったし・・。」
「翌朝にだって、チャンスはあったでしょ?。しかもその人、魅力的だったみたいだし。」
尋は混乱した。責められても当然な状況にあって、何故そのような質問が彼女から飛びだしてくるのかと。そして、尋は思わず口にした。
「いや、だって、キミのこと、大好きだから・・。」
幾分の好奇心からか、それとも若干の悪戯心からか。意表を突いた矢継ぎ早の質問も、彼のその一言で彼女の口から出るのが止んだ。そして、彼女は顔を真っ赤にしながら、
「バカ・・。」
と小声でいって少し俯いた。そして、両手でカップを持ちながらココアを啜った。尋も右手で後頭部辺りを掻きながら、
「こんな状況で何いってるんだろう。オレ・・、」
と思いつつ、紅茶を飲んだ。このとき、二人は互いには口に出さなかったが、自身の感情よりも好奇心の方が勝ってしまう、似たもの同士であることを再認識していた。そして、カップの中身を飲み終えて目が合った瞬間、
「ははは。」
「ははは。」
何処からともなくおかしさが込み上げてきて、二人は声に出して笑った。そして、
「この後も講義でしょ?。はい、顔を上げて・・。」
そういうと、灼は自分が指で撫でて剥がれたファンデーションの部分を、自分の持っているもので再び塗り直してあげた。
「はい、これでよし!。」
「ど、どうも・・。」
先ほどの話と、この不思議な光景に、茶店にいた周囲の客達が聞き耳を立てていたのを、二人は知る星も無かった。
この穏やかな空気感の一体何処に難なる部分があるのだろうと、尋は不思議にさえ思った。
「女難の相について見てもらったばっかりに、逆に難儀が増える所だったなあ。」
ココアを飲む灼を見つめながら、尋は安堵の表情を浮かべた。そして、
「今晩、開いてる?。」
「うん。」
「じゃあ、終わったら連絡するね。」
尋は彼女に伝えた。そして、昼時でさらに混み合うのに遠慮して、二人は茶店を出ることにした。去り際に、尋はカウンターの方を見て、マスターに挨拶した。右手の平を縦にして感謝の意を伝えると、マスターは少し肩を竦めて、
「余計なことをしてしまったかな・・。」
といわんばかりに戯けて見せた。
茶店を出ると灼は、
「じゃ、お仕事頑張って。」
といって尋に近づくと、右の頬にキスをして去っていった。安心感と高揚感が同時に湧き上がった。ゆっくりと歩きながら、尋は校舎に向かった。いつもよりは少し早い出勤だったため、午前の生徒達が昼休みでごった返していた。講師控え室に質問にやってくる浪人生達も、いよいよこれからといった感じにモチベーションが上がっているのが窺えた。しかし、中にはやる気が空回りする生徒もいて、
「先生、ここ、これでよかったんですよね?。」
と、自身なさげに既に習ったところを何度も聞き返したりしていた。尋は荷物を置くと、人混みを避けて表に出ようとした。すると、出入り口付近に置かれたシートに一人だけポツンと座っている生徒がいた。予備校という所は、別に仲間を作ったり、和気藹々としに来る所でも無い。講義を真剣に聴き、休憩のときは静かに頭を休める、そういう生徒もいる。しかし、尋はその生徒が何故か気になった。
「いいかな?。」
「あ、はい。」
尋は少し間を開けて、その生徒の隣に座った。すると、
「あの、生物の尋先生ですよね?。」
生徒はたずねた。尋は浪人生の授業は受け持っていないので、自分のことを知られているのに驚いた。
「うん、そうだけど。ボクのこと知ってるの?。」
「ええ。弟が現役生で此処に通ってますから。」
「そうなんだ。」
「はい。で、弟から聞いたんですが。あ、不躾な質問ですみません。」
生徒は何か躊躇している風だったので、尋はサラッといった。
「いいよ。何?。」
「あの、先生は、ストレートに進学は出来なかったってうかがったんですが、そのときって、どんな感じだったのかなって。」
尋の予感は、ある意味的中しているようだった。真剣に受験に挑んで失敗をすれば、誰しもショックは受ける。そして、自分の進路について、ともすれば希望の光を見失ってしまいそうになる。そんな雰囲気を、尋は彼に感じていた。彼だけでは無い。進路に悩む生徒達は、張り詰めてしまったり、煮詰まったりして、つい安心の出来る答えを得ようと急いでしまうきらいがある。そういうのを感じたとき、尋はたまに雑談で自身の話を盛り込んだりする。そんなエピソードのどれかが、弟を通じて彼の耳に届いたようだった。
「うん。此処で頑張ってるみんなとは違って、ボクはルーズだったからなあ。初めは仲間を見つけて楽しもうとしたり。講義についていこうと無理に頑張ったり。でも、結局は駄目だったなあ。」
そういうと、生徒はもの凄く不思議そうな顔をして尋を見つめた。
「じゃあ、何で予備校の講師になんかなれたんですか?。」
食い入るように問われて、尋は一瞬戸惑った。そんな風にいわれるほど大した立場では無いのにと思いながらも、
「そうだなあ。本当に自分は駄目なのかも知れないって、そう思ったとき、最後の最後に、自分にかけてみようって。そう思ったかな・・。」
生徒は真剣な眼差しでたずねた。
「それで?。」
「もう、同級生とは既に年数もズレてたし、周りと自分を比べる必要が無くなってたから、焦らず、淡々と予習して、講義を聴いて、帰って復習と予習をして。そして休み時間は誰とも話さず、休憩にだけ集中して。そんな風に過ごしたかな。」
「何か、修行僧みたいですね?。」
「はは。実はボクも当時、そう思ってたよ。でも、そうすることで不思議なぐらいに毎日が集中出来たなあ。そして、受験直前のある晩に、もうこれだけやったんだから、それで駄目なら、諦めがつくかなって。」
そういいながら、尋は生徒を見た。彼の目が好奇な目から、何かに合点のいったような目に変わっていた。
「それで、合格されたんですね?。」
「うん。お陰さんで。ストイックに教科とだけ向き合って過ごしたら、ご褒美を貰えたって感じかな。」
彼はさらに柔らかい表情になっていた。すると、
「キミも、自分を信じてストイックにやって来たんだろ?。」
尋がそうたずねると、
「信じれてたかどうかは解りませんが、ま、一応、ストイックには・・。」
生徒はそう答えた。それを聞くと尋は、
「うん。そうか。うん。」
そういって、生徒の左肩をしっかりと掴んで、
「じゃあ、あともう一息。な。」
そういいながら、尋は席を立った。
「すいません。どうも有り難う御座いました。」
礼をいう生徒に、尋は振り返らずに手を振った。そして拳を高く突き上げた。
講師控え室の戻ると、質問の生徒でごった返していたのが一区切りしていた。午後の準備をする講師や談笑する講師。そんな中、
「尋先生っ。」
いつもなら尋の方が後から来て挨拶するのが、今日は彼女から挨拶をしてきた。古典の女性講師だ。
「えらく早いご出勤ですわね?。」
「ええ、まあ。」
「午後のコマ、おありになりまして?。」
「いえ、通常通り、夜のコマで・・。」
「あら、そうでらしたの?。」
彼女は不思議そうな顔をした。敏感だからでは無い。尋の行動パターンが極めてルーティーンだったからである。それが今日は、えらく早い出勤とあって、それが彼女の好奇心に火を付けた。彼女は目を輝かせながら、
「で、御先生とはお会いになりまして?。」
彼女は少し下から覗き込むようにたずねた。
「ええ、まあ・・。」
「それで?。」
「いや、相談内容は個人的なことですから・・。」
「そうじゃ無くて。」
尋はきょとんとした顔をした。彼女は自分の相談した内容に興味を持っていると思っていたが、どうやらそうでは無いらしかった。
「あの、では何を?。」
尋は訳が分からなかったので、率直に彼女にたずねた。
「御先生についてですわ。どんなご感想をお持ちで?。」
それを聞いて、尋は一瞬、何故そんなことを聞くのかと思ったが、
「何ていうか、聡明で清楚な感じで。でも、同時に豪放磊落な部分もあって・・。」
そう答えるや否や、彼女はニッコリとして、
「うんうん。ということは、どうやら御先生、お気に召したってことですわねえ。」
そういって一人で合点がいった感じだった。それを見て尋は、ひょっとしたら彼女が八卦見先生の行状を承知で、ワザと自身を引き合わせたのかと感じた。そして、その予感は当たっていた。
「で、それからは?。」
「それからといいますと?。」
「決まってるじゃありませんか。御先生からお誘いなど、あられましたでしょ?。」
「いや、それは・・、」
といいかけた時、尋の脳裏には今朝の彼女の露わな姿が過った。思わず体が反応しそうになった。
「いや、何にも無いです。」
尋は何も無かったことを強調するかのようにキッパリと答えた。
「あら?。そうなの?。それは異な事!。」
彼女は殊の外、何も無かったのが不思議なようだった。生贄に送り込んだ獲物が手つかずのままであったかのような予想外な展開に、彼女は少し考え込んだ。
「うーん、ということは・・、」
彼女の推測の様子を、尋も逆に下から覗き込むように眺めた。すると、
「尋先生、ひょっとして、立たなかったんですか?。」
彼女の言葉に、尋はドキッとした。そして、何をどう取り繕っていいのか解らず、
「いや、よく覚えてないんです・・、」
そう答えると、彼女は、
「へ?、お役に立たなかったかどうか、覚えておいででは無いんですか?。御先生、日頃のプレッシャーが大変そうで、息抜きに話し相手が欲しかったようだったから・・。」
そういって、自身が尋を八卦身先生に引き合わせたことが間違いであったと思い込んで、少し落ち込んだ様子だった。
「立たなかったって、お役に・・の方だったのか!。」
尋は心の中で叫ぶと、様々なボタンの掛け違えを収拾すべく、
「いえ、あの、お話はしましたし、食事をしてお酒を飲みながら楽しく過ごしました。。色々と大変そうなご様子だったので、ボクで息抜きになれたかどうかは解りませんが。お酒が弱かったので、記憶が曖昧になっちゃってました。すみません・・。」
それを聞いて、彼女は一気に明るい表情になった。
「よかったー!。それなら。」
ホッとした表情になった彼女を見て、尋も聞こえないようにホッとため息を吐いた。自身の勘ぐりが度を超えて下世話なものになっていたことと、その辺りのことを話さなくて本当によかったという、そういうため息であった。と、そのとき、
「あれ?、尋先生、頬の所が・・。」
と、いつもとは違う角度から見えた頬に妙な具合に光が当たって、ファンデーションがバレそうになった。
「だーっ!。」
尋は思わず、変な声を上げた。これ以上突っ込まれたら、折角収拾の付いた掛け違えも元の木阿弥である。少し驚いた彼女を他所に、
「さて、ちょっと外の空気を吸ってきます。」
そういうと、尋は取り敢えずこの場から離れようと、講師控え室を出て行った。
「ふーっ、やばいやばい。」
そういいながら、尋は校舎の玄関を出ると、近くのコンビニへ向かった。構内の自販機でもよかったが、今は兎に角、少しでも安らげる場所が欲しかった。
「イートインで、ホッとしよっと。」
尋はコンビニの自動ドアを潜って、小さめの缶コーヒーを買うと、空いている座席に腰掛けてゆっくりとコーヒーを飲んだ。
と、そのとき、
「よっ!。」
といいながら、尋の方を背後からポンと叩く人物がいた。振り返ると、そこには、黄色い服のおかっぱ頭の少女が立っていた。
「おわっ!。」
尋は思わずコーヒーを零しそうになった。
「な、何で此処に?。」
そう聞く尋に、
「だって此処、コンビニだよ。誰だって来るよ。」
と、少女は少し呆れた表情で答えた。
「隣、座ってイイ?。」
そういうが早いか、彼女はサッと椅子を引くと、尋の隣に座った。
「何か今日、早い?。」
彼女も尋の出勤が早いことにすぐに気づいた。その反応に、
「うん。まあね。」
といいながら、彼女が席の右側に座ったことに感謝した。そして、
「でも、キミも今日、早いよね?。」
と、たずねると、
「そりゃ、冬の講習だもん。だけど、次のコマが無いから、ちょい時間つぶし。」
そういいながら、彼女も缶紅茶を飲み出した。と、いつもならこの後に講義のことで質問が来るか、あるいは先日からヒートアップしている例の話題で押して来るかのどちらかと尋は少し身構えていたが、
「ふーっ・・。」
と、彼女は溜息を吐いた。予想外の反応だった。その様子を見て、
「ん?、どした?。」
と尋はたずねた。すると、
「昨日ね、姉貴が何か落ち着かなかったの。で、訳を聞いてもなかなかいわなかったんで、男でしょって聞いたら、黙ったの。」
尋は、さっき会った灼からは、そんな様子は微塵にも受け取れなかった。連絡が付かないことを少し心配している程度かなと思っていた。彼女は続けて、
「アタシも大概そうなんだけど、姉貴も好きになった男に別の彼女がいても、然程気にしない方なんだけどね。それがどーしちまったのか、先生にゾッコンのご様子でね。」
その言葉に、尋は黙り込んだ。状況が複雑すぎたからだ。しかし、今目の前にいるのは、姉思いの純粋な妹の姿をした彼女である。そして、その彼女は自身に好意を寄せている。何処に想いを寄せて話し出すべきか、どちらか一方のことを思って話しても、他方は傷つく。当たり障りの無い風に切り抜ければ、勘の鋭い彼女はもっと嫌がるかも知れない。と、尋は考えがまとまらない様子でいたが、突然、缶コーヒーをテーブルの上に置いて、
「昨日、かなりややこしいことがあってね。そしてさっき、お姉さんに会ったから、そのことを全部正直に伝えたんだ。ありのままをね。」
それを聞いて、彼女は少し意外そうな顔をした。そして、
「姉貴は何て?。」
「アナタらしいねって。」
そういって、その場は収まった旨を彼女に伝えた。いや、そのつもりだった。すると、
「で、何があったの?。」
彼女はたずねた。
「いや、それはちょっと・・。」
尋は当然、躊躇した。
「いいじゃん!。アタシだって気になってたんだし。結局、浮気したことは許してもらったんでしょ?。」
「はあ?。」
「アタシも、場合によっては許すからさ。」
尋は困り果てた。究極に困り果てた。
「いや、そうで無くて。そういうことは、何も無かったから。」
「そういうこと・・?。じゃ、その手前ぐらいはあったってこと?。」
これは、姉の代弁を彼女がしているのか、それとも、彼女自身が発しているのか、そして何より、彼女にことのあらましを説明する必要があるのか。尋は頭の中が鳴門の渦潮が如くグルグルした。そして、
「ところで、キミ、受験の追い込みシーズンだけど、こんなことに気を取られてて大丈夫?。」
尋はお茶を濁すつもりでは無く、こんな複雑な状況に、若干でも関わりのある立場に身を置く彼女が少し心配になった。しかし、彼女はキッパリと、
「うん。それは無い。大丈夫。」
真顔で答えた。
「だよな・・。」
尋は心の中で呟いた。あんな大音量の中で集中力マックスに勉強が出来る。そして恐らくは、十代にしては計り知れないぐらいにハイレベルな恋愛も経験して来たであろう、そんな豪胆な彼女には要らぬ心配であった。何をいっても惨敗かなと思いつつ、でも、尋は一つだけ確かめてみたかった。
「あの、会ってすぐは、何か落ち込んでる風だったけど、お姉さんのことが心配だったの?。」
すると、途端に彼女の表情が曇った。そして、
「・・うん。今までは姉貴の彼氏を取っちゃっても、特に何にも思わなかったけど、昨日の姉貴の様子見てたら、何か、ね。ちょっと気の毒な気がして、ね。」
やっぱり姉思いだったんだと、尋は胸が熱くなった。そして、
「さっきお姉さんにも謝ったけど、キミにも心配かけてコメン。」
素直にそういうと、尋は頭を下げた。すると、
「そうだよ、コノヤロウ!。心配したんだぞ!。」
そういいながら、彼女はギュッと尋に抱きついた。
「だあああっ!。」
尋は声にならない声を上げようとしたが、無駄だった。
「やっぱり、彼女の本心じゃねーかっ・・!。」
そう思いながら、尋は人目を気にしつつ、彼女の背中をポンポンと軽く叩きながら宥めた。
程なく、彼女は元気を取り戻して、いつもの黄色いおかっぱ少女になった。
「先生、アタシ、生物学者になろうと思ってさ。」
あれだけ生物の講義内容を熱心に聞いたり質問する彼女の姿を知っていた尋は、その発言に驚くこと無く、
「そっかあ。で、どんな分野の?。」
と、少し専門的なことを尋ねた。
「やっぱ、生態学系かな。アタシ、特にどの生き物が好きって訳じゃ無くって、生物どうしの関わり合いとか、そういうものが織りなす景色みたいなのが、何か好きかな。文学では四季折々は鑑賞するけど、その奥にある生物のメカニズムまではいわないじゃない?。そういうのも見ながら、全てが一体になってる、そういうのが、何かいいよねえ。」
彼女の壮大な視点に、尋はいたく感銘を受けた。
「そうなんだよな。初めは細やかな単語レベルな知識から始まって、やがてはその一つ一つが繋がりを持っているのに気づくと、どんどん世界観が広がっていくんだよなあ。こっちが調べたり分析してる立場なのに、気がつけば、いつのまにか自分自身も分析対象の一部になってる。」
「そう、それ!。」
尋がしみじみと述べた後に、彼女は大きく頷いていった。しかしその直後、彼女は少し困ったような表情で
「でもさ、今や生態系って、冒すことなかれみたいな風潮じゃん?。人間の活動なんて、自然を変革してナンボなのに、散々壊しといて、今度は逆に壊した者を悪者扱いで。矛盾してるよね。」
そういいながら、窓の外を見つめた。
「そうだよな。全く以て。だから、ボクは自分がしてることや考えてることが正しいなんて、ほぼ思わないかな。寧ろ、矛盾してるからこそ人間であって、なのに、そのことを直視はせずに、目を瞑ったり、距離を置いたりしながら、何となくアイデンティティーを保とうとするのも、人間の精神面の本質ではあるんだろうな。」
そういいながら、尋も窓の外に目を遣りながら、缶コーヒーを口にした。
「へー。先生って、寛大なんだね。アタシはメディアが鬼の首を取ったように生態系を守るべきっていってるのには、違和感あるなあ。それって、保護を謳いたい側の肩を持ってるだけじゃ無いのかなって。」
「そうだよ。」
尋は躊躇なく即答した。彼女は少し驚いた表情で彼を見た。
「人って、帰属意識ってのが必要なんだよ。どんなに独自な意見をいってるつもりでも、気がつけば、実は何らかの思想なり考え方に寄ってるもんなんだよ。ボクだって多分そうさ。意識はしてないけど。完全にオリジナルなんて、あり得ないからね。そんな風に気づき出すと、お互いが立場を異にしていても、やってることは同じかなって。」
「へー。先生って、大人だね。アタシは真に正しい生物の世界がどんなものなのかを追求して、今持て囃されてるエコロジーとかが、どれ程ズレてるかってのを証明したいって思うけどなあ。」
それを聞いて、尋は自身が日和っていると単に批判されたのでは無く、彼女が純粋で勇ましいが故の発言なんだと、このとき直感した。そして、
「真に正しい・・かあ。じゃあ、意図せず国外から連れて来られた生き物が、この地で繁栄していくのは?。」
尋は彼女が求める真についてたずねてみた。
「例え、遠くから運ばれてきても、そこに根付いちゃえば、そこが生息地じゃん。住めば都っていうし。」
「ははは。キミ、面白いな。やっぱ、見所あるよ。」
彼女の回答に、尋は感銘を受けた。義憤に駆られた姿勢なら、そのことにちょっと意見するつもりはあったが、そんな心配は全くいらなかった。やはり彼女はスケールが違う。ウィットもある。こういう豪胆な子こそ、研究者には向いてるのかもなと、尋は思った。彼女は彼からいわれた言葉に嬉しそうな意味を浮かべた。
「ねえ、先生。」
「ん?、何?。」
「先生は、生物の、どーいう所が好きなの?。」
彼女は率直に尋に尋ねた。
「うーん、実は、あんまり深く考えたことは無いんだ。動機もこれといってあった訳でも無くって。」
尋の言葉に、彼女は意外そうな顔をした。
「ただね、どんな日常で繁栄しても、突如として絶滅するってこともあるだろ?。そして、生きた痕跡だけが化石として残ったり、か細く深海のニッチを求めて消え入るように暮らしてたものが、そのことで逆にその系統を今日まで繋いだり。そういうのを見ると、何が幸いするのか解らない、そういう儚いものが、生物なのかなって。そう考えだしてから、次第に興味が湧いてきたって感じかなあ。」
「儚い・・かあ。先生、詩人だね。」
「そうかな?。」
「そうだよ。事実だけ見たら、生まれて、生きて、死ぬ。ただそれだけ。でも、その間に感情を込められる部分を見出すって、正に詩だよ。」
彼女は尋の持つ世界観が科学者とも文学者ともつかない、その狭間で揺れ動く存在であることにあらためて感銘を受けた。そして、尋も彼女の文学的センスを今日も見せつけられて小気味良かった。すると、
「ねえ、アタシ達って、お互いの感性が似てて、惹かれあってるんじゃ無い?。」
といって、彼女は上目遣いに尋を潤んだ目で見つめた。
「このまま、二人でどっかいっちゃわない?。」
尋は、そら来たと思いながら、しかし、もう驚くことは無かった。そして、
「午後の講義ならいいけどね。」
とサラリと返すと、
「臆病者。」
彼女は少し膨れっ面になった。
尋は少し微笑みながら、
「ボクは臆病者さ。だからこうして、自然の中に何か真実のようなものでもあればと、探してる。そして、もし、そういうのが見つかれば、何か少しは強くなれるのかなって。そんな風に思ってる。人間はエゴで自然から抜け出そうとする存在だけど、結局は自然物の一部だってことに気づけば、ちっぽけな存在では無くなる。もっというなら、存在って概念自体、要らなくなるって感じかな。」
そう、淡々と答えた。すると彼女は尋の左肩をガシッと掴んで、
「うーん、アタシはどうしても、この臆病者が欲しい!。くそーっ!。」
と、力を込めていった。しかし、次の瞬間、掴んでいた手を離すと、尋の方をポンと叩いて、
「いいわ。素直に教室に帰ってあげる。先にいって待ってるね!。じゃ。」
そういうと、彼女はニッコリと微笑みながら、右手で敬礼しながらコンビニから去った。
「颯爽としてるなあ。情熱的で、怖い物知らずで突っ走る。ああいうのを、若いっていうのかな・・。」
尋はそんな風に考えながら、少し自分が歳取ったことに気づかされた気がした。
「さて、仕事の準備にかかるか。」
そういいながら、尋もコンビニを後にした。校舎に戻ると、午後の講義が始まっていて、あれだけごった返していた生徒達は、全員教室に戻っていた。ロビーを歩く尋の足音が静かに響いた。講師控え室にも、質問をする生徒の姿も無かった。講師達は出払って、尋一人だった。
「切り替え切り替え。」
そういいながら、夜の講義に備えてテキストを開いた。この時期からは、より難関の学校を受ける生徒に対して、二次試験の準備をしておく必要があった。様々な生物や機構の名称を暗記的に覚えるだけでは無く、生産される物質がどのように挙動するのかを、矢鱈と計算式で求めさせようとするのが、概ね難関校の問題の特徴であった。つまり、数学的な能力も同時に問われるのだった。しかも、ただ単に公式に当てはめるというのでは無く、長い設問を読みながら、式を自分で導き出すということまで求められる。教科書に載っている数式は、古の学者達が苦心して発見したものであり、我々はその恩恵に肖って学べばいい。それが一般的な学校での教育スタイルだが、難関校は、より能力の高い人材を求めるべく、既存の公式を覚えるだけでは無く、自身でそれらを導き出せるような思考力を常に問うてくる。尋自身も、特に難関校の出身では無かったが、仕事柄、あらゆる学校に進学する生徒の受験を想定する必要があった。
「うーん、相変わらず、小難しいいいまわしだよなあ・・。」
手渡されているテキストには、解答と簡単な説明は付いてはいたが、生徒に伝わるように、自分なりの解説を如何に加えるかが腕の見せ所であり、同時にこの仕事の醍醐味でもある。そんなとき、尋は自身の思考回路が、デジタル型では無く、アナログ型で良かったと、熟々思った。
「現実って、答えが無いからなあ。自分で考え、自分でこれと思える答えを出していくしか無いもんなあ。」
既存の知識や概念を、スポンジのように吸収する人間は、学校の場では評価される。抽象度が高いまま、具体的な説明もほぼ受けずに頭にインプット出来る人間も、世の中には僅かだが存在はする。しかし、多くは知識を記憶させる際、具体例と伴って頭の中に仕舞い込む。殊に尋は、抽象度の高いものをそのまま記憶するのが苦手なタイプだった。故に彼は、自分なりに具体的な説明を常に思い浮かべながら、感覚的に頭の中に残るようにする癖がついていた。そして、そのことが後々に、此処でのような教育の場で役に立つということを実感した。色んな塾でアルバイトがてら渡り歩いた際、同僚達が授業で生徒達に上手く理解させられない例を幾つも見てきた。学校を出て講師にはなってはいるので、それなりのインプットは十分にある。しかし、アウトプットが決して万人受けするものでは無かった。講師自身が理解しているレベルと、教わる生徒との間に乖離が生じているからだった。そんな間を埋めるのが、具体例である。尋は、自身がそのような具体的な説明をすることを、何処かで学んだ訳では無かった。ただただ、頭の中でイメージが湧いて来て、それを言葉に出すということが、物心ついたときから出来た。そして、生徒に対しては教科内容を分かり易く伝えることは出来たが、同僚達が、
「どうすれば、そんな風に具体的に説明出来るんですか?。」
と質問してくるのには、答えに窮した。教育の場で、口にしてはいけないとされる言葉がある。それが、
「生まれつき・・。」
であった。
話は随分昔に遡る。尋がかつて通っていた高校は、成績的には真ん中程度の生徒が通う所であった。入学当初は自身も頑張れば大学へいけると思っていたが、学内での成績が振るわないまま三年生に進むと、自身のポジションではとても進学は無理であろうと薄々は感づいていた。そして実際、尋は浪人することになった。そんな中、中学の同級生で成績が上位の生徒達は、総じてとある進学校に通っていた。しかし、そんな彼らも他校の強豪達が集まる環境では思うように成績が上がらず、結果、大半は浪人することになった。
「彼らほどの能力でも、やはり大学の壁は厚いのか。」
尋はそんな風に思いながら、あるとき、彼らと偶然近所の茶店で顔を合わせる機会があった。尋は何となく進学を考えている程度だったが、彼らはやはりトップレベルの大学を目指して、真剣に勉強しているようだった。そして、何気ない会話を交わしているようでも、尋とは次元の異なる言葉が飛び交った。意識が高い人間達が好んで使うような、抽象度の高い言葉が次々に飛び出した。学力面で恵まれた環境とは、かくも人をこんな風に変えるのかと、尋は舌を巻いた。そして、そんな会話の中に人間の能力に関する話が出た際、尋は何気に、
「やはり、才能がものをいうのかもな。」
と、ポロッと呟いた。すると、彼らの一人が、
「いや、そもそも、才能なんてものは存在しないよ。努力によって達成されたものを、人はそう呼んでるだけだよ。」
そんな風に、尋の発言を一蹴した。スポーツ選手にしても、芸術家にしても、人とは異なる卓越した能力を、ただ単に才能と呼ぶのが、そんなにいけないことなのか。尋は人を感動させる人間の行為を否定された気分になり、向きになって反論を試みた。しかし、悲しいかな、語彙が足らなかった。その上、彼らは尋なんかより、勉強であれ読書であれ、高いレベルで属する環境に揉まれてきた連中である。結果は惨敗であった。
「彼らはこのまま、来年には合格して、華やかな人生を送るんだろうな・・。」
一気に彼らの存在が遠くに感じられた。しかし、語彙は至らずとも、感覚的な訴えかける衝動のようなものを、尋はどうしても否定しきれなかった。そんな最中、尋はまた別の同級生に出会って、同じテーマの話をする機会があった。その彼もかなり優秀な頭脳を持っていたが、素行が宜しくなく、散々っぱらヤンチャな生活を送った挙げ句、実家を継ぐべく戻って来たという、波瀾万丈なヤツだった。尋は正直、彼とは馬が合わなかったが、この先の人生で、彼と話すこともあまり無いだろうと思い、何気にその話題を口にしてみた。すると、彼の答えは単純明快だった。
「そりゃそうだろう。だって、彼には才能が無いから。」
彼は尋と同様、才能というものの存在を信じて疑わなかった。それどころか、それを信じることの出来ないということが、如何なる存在であるかを、端的にいい当てた。そして、話はそこに留まらず、
「そもそも、お前には絶対的な経験の量が足りない。」
そうとまでいわれた。才能を否定した友人にせよ、今目の前にいる彼にせよ、若くして過酷な状況で自身を修練させてきたことに間違いは無い。それと同じだけの、いや、それ以上のことを尋が試練として自身に課してきた記憶など、尋には無かった。人間としての底を見透かされた尋は、その夜、眠れなかった。暗く深々とした闇だけが過ぎていった。目の輝きは衰えることを知らなかった。そのときの記憶は、今なお尋の脳裏の片隅にある。あのとき以降、彼もかなり紆余曲折があった。そして、才能云々と語って憚られなかったのは、自身が若かったからであったとも、今は理解している。才能を否定した友人と同様、そんなものに囚われずに淡々と努力して結果を出すことが、日々の生活の糧を得る唯一の方法であるとも十分に悟った。しかし、そんな忙殺されるような毎日にあっても、ふと何かの拍子に訪れる感覚、他の者が不思議がって止まない、尋にしか出来ない、思いがけない言葉の迸りがあった。人に自身の頭の中にあるものを伝えたいとき、その言葉に添えて、必ず共通する似たような現象を添えて口にする。例え、比喩、メタファー。いい方は何でもいい。尋には、それが国語や文法で習うようなものでは無かった。それはまるで息をするが如く、ほぼ全ての場面で口をついて出た。尋にはそれが当たり前のことであったが、それを行う度に、少なからず聞く者の表情は変わった。それは相手の感情に変化が生じたことの表れでもある。そして、これが具体例が重宝がられる理由でもあるのかと、随分後になって尋は再認識した。と同時に、
「そのようなことが出来るのは、有り難いことなのかも知れないな。」
と、率直に思うようになった。自らの話で、人が少しでもにこやかになってくれるのであれば、それはやはり有り難いことである。
夕方になり、尋は講義の下準備を入念に行った。比較的難易度の高い私立や国公立の二次試験では、生物の問題が超分化する傾向があったからだ。大抵は大学の研究室で行われた実験が、単元内容に沿う形に直されて出題される。受験勉強を目一杯やったとしても、それはどうしても基礎知識の詰め込みと、出題傾向に則した類題を反復練習するだけである。勿論、それでもある程度は点は取れる。しかし、研究の現場で院生や教官達が実践しているものは、そんなデスクワークとは大きく異なる。生身の実験体を試行錯誤しながら調べ、そのデータを積み重ねることで、何らかの傾向を見つけ出す。そして、その結果を文字や数式に表したり、図に表したりする。そうやって得られたものが、高校生達の目にする教科書や参考書に載る。つまり。誰が見ても解るように、丁寧に、かつ平易に書き直されたものである。それを繰り返し勉強しても、基礎が補われるばかりで、実践的な手探りの研究の感触とはほど遠い。そのことを、ある意味、思い知らせるために作られたのが、長文化された試験問題である。
「先生、この問題、読んでみても、イメージが湧きません。」
そういいながら眉間に皺を寄せる生徒も少なくない。文字と、ごく簡略化された図だけでは、長い実験の手順が如何なるものかを理解するには、情報量が足りない。その足りない部分を、これまでに培った生物の基礎知識と想像力で補うのが、このタイプの問題を解く際に必要である。そのような問題は、教育的問題と呼ばれ、問題文を読み進めていく内に、手順と方向性、そして、なにを突きとめようとしているのかに関する示唆を把握させる段取りになっている。この段階で、読み疲れする生徒は論外、比較的生物を得意とする生徒であっても相当苦戦するのが普通、そして、自分なりに文字から図式に書き換え、何とか自分なりに実験の全体像を掴もうとする生徒は辛うじて解ける、そういう問題である。尋はこの仕事に何年携わっていても、大学の最先端で研究されたテーマが直ぐさま入試問題として出題されることを知ってはいた。それだけに、自身が研究を行っていたときに経験した暗中模索な状態を決して侮っていなかった。在り来たりの解法なんかで解けるような問題では無い。そして、自身が解くだけでは無く、そのプロセスのどの部分が重要かを見つけ出し、そのポイントを生徒に伝わるように、別の分かり易い言葉に置き換える必要があった。高度に抽象化された数学の問題であれば、数式の範囲内で仕組みを理解していれば何とか解くことは出来る。そして、その過程を示すことで講義は成立する。しかし、生物という科目は違う。生体特有の縛りごとがある。細胞に仕組まれた構造に準じて、物質は決められた方向や仕組みでしか移動しない。そこから遊離してしまっては、もはや生体内の出来事では無くなる。そういう極めて具体的なものに則した現象のみが生じる。そういうものを確実に伝えるのが、尋の役割であった。
「うーん、この設問から、この解答を導き出すのは、なかなか厄介だな・・。」
答えと一通りの解説は用意はされている。問題は、それでは生徒にイメージさせるのには足りない点であった。しかし、丁寧になり過ぎることも禁物であった。生徒の思考を鍛える妨げになるからだった。そして、ある程度の目途がついたところで、講義の時間直前になった。
「さ、いくか。」
尋はテキストを抱えて、講師控え室を出た。通路を通ると、秋頃までは賑わっていた雰囲気も、今は静まり返っていた。得も言えぬ緊張感が教室を覆っていた。尋は教室のドアを開け、静かに入室すると、特に前置きはせずに、問題の番号を書いた。そして、設問を読みつつ、図解を描いては、どの部分のことを問うているのかを説明した。前の方に陣取る生徒達は真剣に尋の板書を書き写していた。だが、明らかに、その手に戸惑いが窺えた。
「理解するだけでも必死だろう。」
尋には解っていた。浪人を何年も重ねていない限り、このような問題を目にしたことは無いのが普通だからだ。ところで、黄色い服の彼女はどうだろうと、尋は解説の合間に、何気に教卓付近からそっと見てみた。
「ちゃんと写している。ん?、待てよ・・。」
尋は驚いた。同じ問題のページを開いてはいたし、ノートにはそれらしい図も描いていた。しかし、何か違う。そして、彼女が次のページを開けたとき、
「そういうことか。はは。なーるほどな。」
尋は理解した。彼女は、尋の講義を受ける前に、既に自身で問題をイメージ出来る図を描いて予習していたのだった。故に、尋の板書とは幾分の相違点があった。
「イメージの達人だな。彼女。」
尋はあらためて思った。彼女の能力が極めて高いのは解ってはいた。しかし、ここまでとは。脱帽だった。そんな風に。テンポよく講義を終えて、尋は教室を出ようとした。去り際、尋は生徒の様子をチラッと見たが、概ね、表情は重苦しかった。軽快な講義をしてはみたつもりだったが、教育的問題とは、そのように生徒の脳を疲弊させるほどのレベルだった。黄色い服の彼女を除いては。講義終了後、教室で彼女一人だけが背筋を伸ばし、凜とした顔で尋を見つめていた。右手を挙げて親指を立てながら。逞しい限りである。
教室の空気は、生徒達が醸し出す緊張と落胆が交互に訪れる雰囲気であった。いつもなら季節的なものとして受け止めていた尋も、今回ばかりは少し違っていた。講師控え室に戻った尋は、パイプ椅子にドカッと座るなり、
「あー、疲れたあ・・。」
と、小声で溜息を吐いた。いつもはお喋り好きな古典の女性講師も、彼の今日の様子を見て、話しかけるのを控えた。もしこのまま項垂れたら、恐らく朝まで起きないであろうと、尋は必死に踏ん張って質問に来るかも知れない生徒のために、机に両腕を押しつけて踏ん張った。しかし、尋の元に生徒はやっては来なかった。
「さもありなん・・。」
そのことを、尋は予感していた。イメージに大いに頼る必要のある難問を理解出来ないからといって、そのことを何度質問されたところで、言葉で伝えるのは難しいからであった。焦燥感から、自分の理解不足を何としても言葉や論理で埋めようと訪れる生徒は確かにいる。しかし、残念ながら、そういう生徒達の要求を満たせるものは無い。ひたすら感性を磨いて想像力を養うしか無い。そういうものであった。
「誰も来なさそうだし、帰るとするか・・。」
尋はテキストを鞄に入れて、残っている講師に会釈をして控え室を出た。
「あの子も来ないかな。」
尋は黄色いおかっぱの少女のことを思い出していた。イメージはOKといわんばかりに親指を突き上げていたし、何より、昼間にも十分語り合った。今日は受験生らしく、彼女もまっすぐに帰って、今頃は勉強しているだろうと、尋は思った。校舎を出ると、このまま直帰して眠りたいと、先程までは思っていた尋だったが、何か物足りなさのようなものを感じた。講義以降は、疲れが故に誰とも喋っていなかった。
「会いたいなあ。灼に。」
そう思うが早いか、尋は直ぐさま彼女に携帯をかけた。
「もしもし、灼です。」
「あ、ボク。尋。今日この後、空いてる?。」
「うん。いいよ。」
「会いたい。今すぐ・・。」
尋はストレートにいった。
「えへへ。アタシも。じゃあさ、伯母さんのお店、覚えてる?。あそこで会いましょ。」
「うん。解った。じゃ。」
そういうと尋は携帯を切って、足早に件の店へ向かった。余程彼女に会いたかったのか、尋は殊の外早く店に着いた。ガラス越しに中を覗くと、明かりが灯っていて、中には何人もの客が食事を楽しんでいた。
「そうだよなあ。この前は、事情が事情で、貸し切りも同然だったんだよなあ。」
そう思いながら、尋は中が空くのを待って、外で時間を潰そうかと思ったが、疲れから来る空腹には勝てなかった。
「カランカラン。」
尋はドアを開けて中に入った。
「いらっしゃい。」
カウンターの中から、女性が挨拶をした。
「どうぞ、カウンターの方へ。」
女性は尋を誘った。そして、おしぼりと温かいお茶を差し出した。
「アナタ、ひょっとして尋さん?。」
女性がたずねた。尋は驚いて顔を上げると、
「ええ、そうです。」
と、驚いた表情で答えた。それを見て、彼女は少し品定めをするような目つきをした。そして、ニッコリと微笑みながら、
「灼から伺ってます。どうぞゆっくりしていってね。あの子も、もうすぐ来るから。」
そういい残すと、再び料理に取り掛かった。尋はふと周りを見渡した。それぞれのテーブルでは、客達が談笑しながら食事を楽しんでいた。トロトロに煮込んだシチューや、ソースが程よく絡んで野菜の彩りが栄えるパスタ、程よく焦げメタ付いた魚、それらの匂いが店内に立ちこめて、見ているだけでもワクワクした。さらに、それぞれの匂いが尋の花本まで届くと、
「グーッ!。」
尋のお腹が急に鳴り出した。尋も何か注文しようと、メニューを手に取ろうとしたとき、
「はい、おまちどおさま。」
女性は尋の前に小さな土鍋とレンゲを置いた。尋は不思議に思って彼女を見上げると、
「灼がね、アナタに何か胃に優しいものを出すようにって。」
そういって、ウインクをしながら土鍋の蓋を開けた。途端に湯気が立ち上り、その向こうには雑炊があった。卵が程よく蒸されて半熟状態になっていた。女性はカウンター越しに、刻み海苔を一つまみかけた。
「召し上がれ。」
尋は恐縮と感謝で胸がいっぱいになった。
「すみません。すみません。」
まるで懺悔のように、尋は何度も頭をペコリと下げた。そして、
「いただきます。」
といいながら、レンゲで雑炊を頬張った。
「熱っ!。」
案の定の展開だった。女性は、
「はい。」
といって、直ぐさま水を差しだした。火傷しそうになった口を冷やすと、今度は息を吹きかけて冷ましながら、雑炊を頬張った。彼は、この世に美味しいものが何であるかとたずねられた場合、必ず真っ先に思い浮かぶのが、半熟の卵だった。出しの利いたご飯との相性など、いうまでも無かった。ましてや刻み海苔、そして、いつの間にか水と一緒に置かれていた漬物の盛り合わせ。尋は赤い漬物を口に運び、味わった。
「京都の柴漬け・・。」
尋は感動のあまり、言葉を失った。
ゆっくりと雑炊を平らげた後、尋はミルクティーを飲んだ。夕食の客が一段落して、店内には尋の他に、カップルが一組、楽しげに食事をしていた。
「先生をしているの?。」
カウンターの女性が尋にたずねた。
「ええ、まあ。予備校の講師ですけど。」
「何か、灼が随分世話になったみたいで。どうも有り難うね。」
「いえ、世話なんて。ボクの方こそ世話になってます。」
女性の抱く先生像を壊さないように、尋は謙遜して答えた。
「あの子の両親、色々あって忙しくってね。昔っから。だから、アタシがちょいちょい面倒をみてたの。みんな天真爛漫な性格でね。アタシもそうだけど、遺伝ってやつかな。」
尋も灼から伯母さんの話は聞いていたので、話に頷きながらミルクティーを飲んだ。
「恋多き女性ってのも、似なくていいのに、二人とも似ちゃってね。灼も黇ちゃんも。でもね、アナタに会ってからかな。灼が急に変わったのは。」
女性の言葉に、尋はカップの手を止めた。
「今までも色んな人と楽しんではいたみたいだけど、今回は何ていうのかな・・、凄く落ち着いたって感じ。」
尋は反応に困った。自分も彼女と出会えたことで、全てが変わって、そして何かが動き出したように思っていた。だが、彼女も同じように変化があったことは知らなかった。妹からそれとなく彼女の様子を聞くことはあったが、そこまでだとは思ってもみなかった。
「あの・・、」
尋の何かいいたげな様子に、女性は次の言葉を待った。
「ボクは色んな女性と付き合ったことは殆ど無いですが、でも、彼女と初めて会ったときから、とても惹かれたような気がします。そして、日を追うごとにその気持ちが強まっていって、今はもの凄く彼女のことが好きです。」
尋は少し照れながら、しかし、真剣に答えた。女性は一瞬、呆気に取られたような表情をしたが、次の瞬間、
「あら、やだ!。もう。」
そういいながら、顔を真っ赤にした。そして、次の瞬間、目元を潤ませて口元を押さえた。そして、
「なるほど・・ね。あの子もいい人に出会えたってことか。それはご馳走様。」
そういいながら、嬉しそうに微笑んだ。尋も何か胸の辺りが温かくなって、照れながらも、ほっこりとした表情になった。
「あんまり聞くと、あの子に叱られそうね。」
「・・・。」
二人がそうこうしてるうちに、店のドアが開いた。
「ゴメン。待った?。」
学校帰りの格好で、灼が入ってきた。
「ううん。雑炊頂いてました。連絡しといてくれて、有り難う。」
尋は彼女の気遣いに感謝した。
「お帰りい。ご飯、まだ?。」
「うん。あ、何か作ろっか?。」
「いいの。今日はごゆっくり。」
灼はいつものように店を手伝おうとしたが、女性はサッと遮って、彼女のためにパスタを作った。
「はい。おあがり。」
「うわあ。有り難う。」
目の前にはサーモンのクリームパスタがドンと置かれた。赤い身とアスパラのグリーン、それを包み込むように白いクリームソースが何とも色取り取りで華やかだった。
「いただきますっ!。」
灼は周りに人が居るのも構わず、フォークでパスタをクルクル巻くと、それをパクパクと口に運んで食べた。
「凄い食べっぷりねー。」
「だって、お腹ペコペコだったんだもん。」
灼はパスタを頬張りながら、喋りづらそうに答えた。女性は横に尋がいるのにと思いながも、しかし、そんな様子を微笑ましく見つめる尋の姿に、これでいいんだと、納得したようだった。
「何だかこっちまでお腹が空いてきちゃった。アタシも食べよっと。」
そういいながら、女性は手早くお握りを二つ握って、尋に差し出した柴漬けを一緒にそれを頬張った。
「あの、すいません。ボクもお握り一つ、いいですか?。」
灼の食べっぷりに感化されたのは、伯母さんだけではなかった。女性はモグモグしながら、
「はいはい。承知!。」
そういいながら、お握りを数個握って皿に盛った。
「はい、どーぞ。」
「すみません。頂きます。」
尋はお握りを一つ取って、齧り付いた。
「美味っ!。」
何気に握られたように見えて、米の香りといい、塩加減といい、何より、程よい握り具合が絶妙だった。
「でしょ?。」
そういうと、灼もパスタの合間にお握りを摘まんだ。店内はさながら、ピクニックの様相だった。
「あー、食べた食べた。」
と、灼が満足そうにお腹を撫でた。それを見て女性は何気にいった。
「また膨らんだ?。」
「ちょっと、ヤメテよ、もう。」
と、灼は急に恥ずかしそうな顔をした。そんな風に和気藹々としている所に、
「カランカラン。」
とドアの開く音がした。そして、数人の客が入ってきた。
「すいません。10人ほど、いけます?。」
「いらっしゃーい。どうぞどうぞ。」
といいながら、女性は団体さんを誘った。すると灼もサッと席を立ったかと思うと、カウンターの方へ回って、エプロン姿になった。先ほど食べていた食器は、既に片づけられて無かった。
「あの、ボクも手伝います。」
尋の言葉に女性は一瞬ちゅうちょしたが、
「うん、お願い。」
と、灼が食器と飲み物の用意をしながら、尋に指示を出した。見事な連携だった。
その後も客は増え、たちまち店内は満席になった。女性と灼がカウンター内で料理を作り、尋がそれを客席まで何度も運んだ。お酒も入って、客達は一段と盛り上がった。
「この前来たときは、なんとも落ち着いた、いい雰囲気だったけど、こんな日もあるんだなあ。」
と、尋は天手古舞いだったが、
「これが普段の様子よ!。」
灼はそういって、尋に檄を飛ばした。給仕の合間を縫って、尋は洗い物をせっせとこなした。しっかりと食べた夕食のお陰で、尋達は腹ごなしといわんばかりに働いた。そして数時間後、客達は引き上げていき、看板の時間となった。三人で店内を片づけてから、簡単に掃除を済ませた後、尋は客席の一つにへたり込むように座った。講義はお手の物だったが、飲食の仕事は尋には堪えた。
「ふーっ。」
溜息を吐く尋に、女性は、
「はーい、ご苦労様。」
そういいながら、温かいコーヒーを差し出した。
「あ、すいません。有り難う御座います。」
礼をいう尋の横に、灼も自分でカップにコーヒーを注いで座った。
「お疲れ様。」
彼女はそういうと、尋と乾杯をした。ミルクと砂糖をたっぷり入れて、二人はゆっくりと飲んだ。すると、
「さて、アタシはこれから出かけるわ。今日は帰らないから、後はお願いね。」
女性はそういいながら、二人に向かってウインクをした。そして、青いコートを羽織って、颯爽と出て行った。
「何か、カッコイイ人だなあ。」
「昔っから、あんな風なの。伯母さん。小さい頃から憧れだったなあ。で、あるとき、突然このお店始めたんだけど、いきなり大繁盛。で、アタシが中学生になった頃に、急に手伝えって。お陰で大抵の料理は出来るようになったわ。」
尋が彼女に抱いていた雰囲気と、灼が知る彼女との間に多少の違いはあったが、二人のことを思う優しい伯母さんであることは十分に伝わっていた。尋がこれまでの人生で、女性からウインクをされたことなど、一度も無かった。尋は彼女の気遣いに感謝した。
「いっぱい動いて、お腹空いたでしょ?。何か食べる?。」
そういって灼は立ち上がろうとしたが、尋はそっと彼女の手を握って制止した。そして、彼女に口付けした。
「会いたかったんだ。こうやって。」
尋がそういうと、
「アタシも。」
そういいながら、今度は灼の方から口付けした。そして、二人は見つめ合って微笑んだ。と、
「あ、いっけね。」
彼女が窓を見ていった。二人はブラインドを下ろさずに店内でキスを交わしていることに気がついた。薄暗がりの外からは、中が丸見えだった。幸い、外には誰もいなかった。もし、通り過ぎる人が何かを見たとしても、二人は気付いてはいないだろうが。
灼はプラインドを下ろした。そして、店内の明かりを落とすと、
「上へいきましょ。」
そういって、尋の手を引いて二回へ誘った。そして、二人は初めて此処へ来たときと同じように、いや、あのときよりも、さらに慈しむようにゆっくりと時を重ねて確かめ合った。ゆっくりと。今宵も、カーテンの隙間から月光が優しく差し込んで、二人の姿を照らしていた。吐息混じりのうねりがいっそうと激しくなっては、やがて嫋やかになり、灼は包み込むように尋を抱擁した。尋は彼女の胸元で寝息を立てた。
「お疲れのようね。ま、色々あったしね。今日は・・。」
そういうと、彼女は尋の額にキスをした。そして、尋の頭を優しく抱きながら、二人とも眠りに落ちた。角度を変えた月光は、相変わらず二人を照らしていた。
翌朝、カーテンから柔らかい日差しが差し込んで、尋は目覚めた。ふと横を見ると、灼もすやすやと寝息を立てていた。尋は彼女の肩をそっと抱き、頬にキスをした。そして、微笑みながら彼女の寝姿を眺めていた。やがて彼女も目覚め、尋が見つめているのに気付いた。
「おはよ。」
そういうと、彼女は尋に口付けをして抱きついた。そして、二人は暫し、時を重ねた。その後、尋は灼を腕枕しながら、天井を見つめながら話した。
「こんな落ち着いた気持ちは、どれくらいぶりだろう・・。」
「アタシも。」
尋はこのままずっと、こうしていたいと思った。灼も同じくそうしたいと思ってはいたが、
「さて、お昼過ぎには伯母さんが帰ってくるし、朝食にしましょうか。」
そういって、彼女は起き上がると服を着た。尋も少し残念そうにしながら、
「そうだね。伯母さん家だもんね。」
といいながら、起き上がって服を着た。そして、二人は口付けをし、一階に下りていった。灼は先日と同じように、カウンターに入り、朝食の準備をした。尋はそのままカウンターに座り、テキパキと動く灼を眺めていた。
「昨日、妹さんの授業をしたんだけど、彼女、凄かったなあ。凜として。追い込みの時期なのに、余裕さえ漂ってたなあ・・。」
尋が何気に話すと、灼は少し笑いながら、
「それがあの子の凄い所ね。外の人には全然見せないけど、内心、ドキドキなのよ。あれでいて。」
と、姉にしか解らない本当の彼女の姿を述べた。
「へー、そうだったんだ。」
尋は彼女のプライベートな部分を聞いて、ちょっと申し訳無い反面、人間らしさに触れて可愛げを感じた。
そうこうしているうちに、尋の前にこんがりとキツネ色に焼けたトーストとミルクティーが置かれた。
「はい、召し上がれー。」
彼女は自分の分も尋の横に置いて、座った。そして、二人並んでの遅い朝食が始まった。
「相変わらず、美味しいなあ。」
尋は感心しながら、モグモグ食べた。程よくバターが塗られ、僅かに蜂蜜がかけられてあった。口に入れると、渾然一体となって、次に味の相乗効果が訪れた。皿の横には、何気にカットされた二色のキウイが添えられていた。甘みのある黄色、酸味のある緑色、全てが絶妙にマッチした。一頻りトーストを堪能して、二人はゆっくり二杯目のミルクティーを味わった。
「さっきの話だけど、妹さん、進学したら、やっぱり研究の道を志すのかな?。」
「うーん、変わり者だからなあ。あの子。そっちの方が向いてるとは思う。ストイックで優秀だし。」
灼の言葉に、尋も頷いた。
「ところで、キミは今後、どんな方面にいこうと思ってるの?。」
「アタシは特にこれって決めてたものがあった訳じゃ無いから、適当に単位とって、卒業と同時に就職かなとは思ってたんだけど・・、」
「だけど?。」
尋は彼女の顔を覗き込んだ。
「何か、感化されたというか、アナタと妹を見てると、研究の道ってのも、悪くは無いかなって。」
尋は少し驚いた表情を見せた。しかし、
「へー。そうなんだ。真面目にレポートとか、取り組んでたもんなあ。」
そういいながら、自身の求める方向に進むのは、希望あってのことと、彼女の選択に対して、尋は自然と賛同する気持ちが湧いてきた。ところが、
「ふーっ。」
灼が小さく溜息を吐いたのを、尋は見逃さなかった。
「ん?。どうしたの?。」
「まだ決まった訳じゃ無いけど・・、」
と、彼女は少しいい難そうにしながら、カップを眺めた。そして、意を決したかのように、少しずつ話し始めた。
「アナタに色々教わって、化石の研究って、なかなか面白いなって思うようになったの。でね、ある日、研究室の教授が、アリゾナに研究留学の話があるっていってきたの。希望者が多いからって、選考することになったんだ。」
尋は目を輝かせた。自身が学生だったなら、是非ともいってはみたいと思っただろうと。
「で、選考方法は?。」
「この前のレポート・・。」
灼は少し俯いて答えた。それを聞いて、尋は彼女が少し浮かぬ顔をしている理由が解った。
「なるほどなあ。」
尋は頷いた。色んな意味で。
「アナタが色々アドバイスしてくれたから、レポートの評価は良かったと思う。それだけに、きっと受からないよとはいい難いし。そして何より・・、」
そういうと、灼の表情が一気に曇った。尋は静かに彼女の顔を覗き込みながら、
「何より?。」
と、優しく尋ねた。すると、彼女は目に涙を溜めながら、
「アリゾナにいったら、アナタに会えなくなるじゃない!。」
そういいながら、尋に抱きついて泣き出した。尋は優しく彼女を抱きしめながら、頭を撫でた。
「そういうことだったのか。もしそうなったら、ボクも寂しい。」
尋も、胸が締めつけられるよに感じ、思わず泣きたい気持ちになった。
「でも、キミは、それを実現したいんだろ?。じゃあ、前に進むのがいいのかな。」
尋は強がる自身の姿を想像しながら、しかし、何が一番いいのかを真剣に考えながら、精一杯の言葉を伝えた。すると、灼は急に顔を上げて、
「どうして、いくなっていわないのよ!。今までの男達なら、みんなそういったのに!。」
と、まるで尋の言葉を拒絶するかのように強い口調でいい放った。涙目だった。尋は彼女の肩にそっと両手を置いて語り始めた。
「止めたい気持ちでいっぱいさ。ボクも。でも、今しなきゃってタイミングが人生にはあるように、ボクは思う。それを逃すと、一生後悔するような、そんなタイミングが。キミの中で、ボクのこととアリゾナのことが同時に訪れたのは、きっと必然的だったのかな。ボクがキミに出会って、レポートを手伝ったことも。それが一つに繋がってたのかも。じゃあ、それって、二者択一じゃ無くって、一つの目標に向かって結実してるんじゃないかな。」
尋は、強がるでも無く、その場で浮かんだ言葉で間を埋めるでも無く、ごく自然に思う所を丁寧に述べた。
「会えなくなっても?。」
と、灼は目を真っ赤にしながらたずねた。
「会えないって、一生?。」
「ううん。」
尋の言葉に、彼女は大きく首を左右に振った。すると、尋はニコッと笑って、
「じゃあ、会えるじゃん。今もこうして会えてるし。会えてるってことを楽しもうよ。ね。」
そういいながら、彼女を見つめた。灼もニコッとしながら、
「うん!。」
と大きく頷くと、尋の胸に飛び込んだ。窓から差し込む午後の日差しが、二人を柔らかく包んだ。
食事の片づけをした後、二人は店を出た。灼が鍵を掛けて、二人で歩き出そうとしたそのとき、
「あら、ご出勤?。」
と、声を掛けながら、伯母さんが戻ってきた。
「こんにちは。」
尋は伯母さんに挨拶をした。
「お楽しみは、どうだった?。」
そういいながら、伯母さんは灼の髪を撫でた。
「えへへ。」
灼は少し照れ笑いで答えたが、何処となく憂いのあるのを見逃さなかった。
「おやおや?、何か心配事かなあ?。ま、いいわ。若いうちは色々あるから、よかったら今晩もいらっしゃい。」
そういって、右手を挙げながら店へと戻っていった。
「あーあ、何でも見抜かれちゃうな・・、伯母さんには。」
「キミのことをずっと見てきたから、解るんだろうなあ。」
尋は、灼に彼女のような伯母さんがいることを、とても心強く感じた。そして、二人は駅まで歩きながら語った。
「ところで、研究留学って、どんなことをするの?。研究対象とかは、決まってるのかな?。」
「うーん、ジャンルはまだ決めてないけど、兎に角、毎日、発掘と仕分けの日々みたい。」
「そうかあ。まあ、それが研究って作業の半分かなあ。」
「じゃあ、後の半分は?。」
「持ち帰ったサンプルの検証と、データ解析、そして論文作成かな。で、一通り出来上がったら審査があって、その後、発表とか。」
「ふーん。じゃあ、野外での活動って、大半って訳でも無いんだ。」
「いや、発掘の期間は、ずーっと野外で何日もひたすら採掘だろうな。で、山ほどの資料を持ち帰って、その後は研究室で籠もりっきりかな。」
「えー!。じゃあ、帰った後は、穴蔵暮らしじゃん。」
尋の話に、灼は驚きと落胆の表情を見せた。
「ははは。ま、研究って、概ね、そんなもんさ。フィールドワークとデータ解析。それが交互に行われる。地味で地道な作業さ。でも、そういうのが好きだから、いこうと決めたんだろ?。」
「うーん、でも、そこまでは考えて無かったなあ。それに・・、」
「それに?。」
「研究室でずーっと閉じこもってたら、アナタのこと思い出して、悲しくなっちゃうかも。」
灼がそう心配そうにいうと、
「多分、そんな風に思ってる時間は無いかもね。サンプルの解析って、膨大だから。ウンザリするぐらいに。でも、手にした化石や目の前にある地層が、何億年もの時を経て形成されたってことや、積み重なる以前の、化石達が生きていた時代を想像すると、何とも悠久で壮大な感覚に浸れるかな。それが研究の醍醐味ってやつかな。」
「へー。」
灼は感心した。何となく楽しく感じた化石の研究に、後先考えず飛び込もうとした結果、尋と暫く会えなくなる寂しさで頭の中がいっぱいになりかけたが、彼が語る生物の痕跡から垣間見られる世界観に、彼女は再び湧き上がる好奇心を感じた。
「今は地球上に存在しなくなった生物も、化石の中には沢山眠ってる。そういうのを一つ一つ発見して、どうしてそれがいなくなったのかを探求するのも、何処となく面白いかな。その当時だけが緩やかな時代で、どんな進化も受け入れられてたのが、何らかの変動によって、適応できたものしか生き延びることが出来なくなった。そういう時の刻まれ方も、化石からは窺えるからね。」
尋の話を聞いて、灼の眼に再び輝きが戻って来た。
「ねえ、もっと化石のこと、教えてくれない?。もしいくことになったら、あっちで見つけたものについて、もっと過去の世界を知る手掛かりを持っておきたいから。」
「勿論。」
尋はニッコリと微笑んで引き受けた。そして、駅の所まで来ると、二人は軽く口付けをして別れた。彼女がホームに入っていくのを見送った後、尋は近くの植え込みの辺りに腰を下ろした。大きな木からは木漏れ日が差し込んでいた。時の流れを緩やかに感じながら、尋は顔を上に向けて目を瞑った。心地良い風が頬を撫でた。と同時に、彼女と暫く会えなくなる寂寥感が尋を襲った。彼女の夢を応援したい自分と、引き止めたくてもそうはしない自分との狭間に吹き込む風は、幾分冷たかった。途端に尋は眼を開いた。
「やっぱり、強くは無いな。オレ・・。」
尋は自身の弱さと向き合いつつも、そのことを否定はしなかった。そして、今、自分と彼女に出来ることは、少しでも側にいながら、彼女があっちにいっても活躍できるように、生物の知識を伝えることだと自分にいい聞かせた。
「さて、本でも探しにいくか。」
尋は彼女のために化石の本を求めて、近くの本屋に向かった。今の時代、電子書籍やネット検索で大抵の情報は得られる。そこを、敢えて紙の本を手にすることの大切さを、彼女にも伝えたかった。常に変わり続けるものがある中で、そういう流れとは違う、そんな視点を持ってもらいたいと、尋は思っていた。
少し脚を伸ばして、尋は学術書も置いている、やや大きめの書店に向かった。そこはこれまでの本屋のイメージとは異なり、書棚から何冊かを選んで来て、設置されている机と椅子の所で試し読みが出来るようになっていた。大きな書籍は立ち読みもかなわない。そして何より、その書店は木造りで温かみのある造りだった。尋は時折、時間を潰すためにそこを利用していた。書店に着くと早速、学術書のコーナーに向かい、小さくて手頃なサイズの本から、かなり厚手で大きめな本まで、数冊を選んで机の所に持っていった。そして、静かにページを開いては、内容に没頭していった。
「あ、いかんいかん。ボクのじゃ無いんだ。」
尋は写真に写る化石をじっくりと眺め、その当時に生きていた生物たちの姿を、つい想像してしまう癖がどうしても抜けなかった。今のように人類が現れてないピュアな地球に、古生物たちだけが楽園を謳歌している姿。水も空気も、今よりは遥かに綺礼だったであろう、そんな透明感。写真には石化して埋もれた生物の痕跡だけしか写ってはいなかったが、尋の目を通した脳内のフィルターには、もはや時空を飛び越えた映像が次から次に浮かんでいた。そして、彼もまた化石と同じように、時間の虜になっていった。そんな具合に、どれほど時間が経っただろうか。周りのことなど一切目もくれず書籍に没頭する尋の前に、誰かが座っていた。傍らには本は無かった。試し読みの本のチェックもそろそろ終わろうかというとき、尋は何か視線を感じた。ふと前を見ると、
「こんにちわ。」
周囲に気遣いながら、小さな声で挨拶を交わす女性が一人、こちらを見て座っていた。
「・・・あ。」
間違いなかった。清楚な格好をした、八卦見の先生だった。
「ど、どうも・・。」
尋は現実の世界に脳が戻るのに、少し時間がかかった。そして、驚きと動揺で、言葉に詰まった。
「何のご本を読んでおられるの?。」
「あ、化石の本です。」
「そう・・。いいかしら?。」
「あ、はい。」
そういうと、彼女は尋の横に置かれている本から一冊を選び、ページを開いて読み出した。そして、写真に写る古生物の化石の辺りに指で触れると、そっと目を閉じた。そして、
「水、揺らめき、影、痛み・・・。」
彼女は静かに言葉を並べた。尋がそのページを見ると、そこには完全では無い三葉虫の化石が写っていた。
「あの、この写真で、何か解ったんですか?。」
尋は不思議そうに尋ねた。
「いえ、解ったとか、そういうのでは無く、彼が何かに追われながら、水の中を逃げ惑っていた光景が見えました。そして、とうとう追いつかれて、摂理の中に消えていった。晴れた日の浅い海、遠い昔の・・。」
尋は再び写真を見た。確かにその化石は、右後方がまるで何かに囓られたかのように欠けていた。尋も同じように想像はしていたが、彼女の見た光景とは明らかに異なる。それはまるで、当時の再現であった。
「あの、この写真は、どうです?。」
今度は、尋が別の本を選んでページを開いた。そこには微かに植物の痕跡と思われる化石の写真が載っていた。彼女は先ほどと同じように、写真の辺りに指を置き、そっと目を閉じた。そして、
「んー、かなり微かな・・。あ、でも待って。木漏れ日、ざわめき、地鳴り、毟り取り、食む音、大きな吐息と鼓動・・。」
そういうと、彼女は静かに目を開けた。尋はその植物の化石年代を見た。
「あれは何の息かしら?。」
「恐らく、巨大な動物が食事をしていたのかと。年代から考えて、今いるような哺乳類では無い、途轍もなく大きな動物の。」
「それって、もしかして・・。」
尋と彼女は息を呑んで見つめ合った。
「恐竜。」
どちらからとも無く、同じ言葉が口をついて出た。そして、次の瞬間、
「ぷっ。」
「ははは。」
二人は大声で笑いそうになるのを堪えながら、静かに肩を震わせた。
「本当に、そうなのかしら?。アタシにはそんな風には見えたけど、でも、姿までは・・。」
「いえ、ボクは信じます。アナタがそのような力をお持ちなのも、そして、それが如何に的確であるのかも知ってますから。それにしても、アナタはまるで生きたタイムマシンですね。学者や研究者がどんなに望んでも見ることの出来ないものが、アナタを通じて触れることが出来る。」
尋は少し興奮気味に話した。しかし、
「でも、そんな力のお陰で、何かと苦労もありましたけどね・・。」
と、少し溜息混じりに答えた。そんな彼女を、尋は優しく見つめながら、
「ボクは、いや、世の殆どの人間は、古のことを想像でしか思い描けない。しかし、アナタは違う。そのとき、確かにそこに生きていたものたちの、そんな息吹きを伝えるコトが出来る、失われたであろう過去との繋がりが、そんな風に僅かの間でも蘇るのは、とても感動的です。先生の苦労が解らずに、無責任なことをいってスミマセン。でも、やっぱり、ボクたちは嬉しいです。」
そういって微笑んだ。すると、彼女の顔から憂いが消えた。
「タイムマシンか・・。確かに、今の時空を超えたものが、アタシには少し見える。でも、みんなが求めるのは、先のことばかり。アナタのように過去のことを望んで見たがる人なんて、いなかったなあ。」
彼女はあらためて、自身の持つ能力の片側にのみ、人が興味を示すことに違和感を覚えた。
「それは多分、先のことが解れば、良い未来を選択出来ると思ってる人が多いからじゃ無いですかね?。競馬の予想みたいに・・。」
尋は彼女の疑問に、何となく思った所を伝えた。すると、
「尋さん、アナタは自分の未来を見たいと思わないの?。」
と、彼女は素朴にたずねた。
「うーん、思わないというか、普通の人には見えないものですからね。だから、見ようとは思わないかな。」
「じゃあ、何故過去は見たいの?。」
彼女の興味がドンドン質問となっていった。
「それはやっぱり、興味・・かなあ。太古の地球、人類もまだ登場していない地上には、どんな生き物たちが、どんな風に暮らしていたのかって、何かロマンがあるって感じかなあ。でも、」
「でも、何?。」
尋の杞憂を彼女は見逃さなかった。
「過去に起きたことは、決していいことばかりでは無いです。生物の大量絶滅や、人類が登場してからは戦争や破壊の歴史が繰り返されて、それが今も続いている。そういうことの延長線上が未来であるとするなら、明るい未来は来ないんじゃないかなって。そんな風にも考えてしまいそうになります。だから、」
彼女は尋の目を直視した。そして、尋も本に落としていた視線を彼女に向けた。
「もし、そういう過ちに陥りそうになるなら、これまでに起きたこと、通ってきたことを直視しながら、そういうのを踏まえて、自分の足元を見つめながら歩んでいけばいいのかな。いや、それしか無いんだろうなって。」
彼女は黙った。尋を見つめながら。
「あれ?、ボク、何か変なこといいました?。」
尋は黙ってじっとこちらを見つめる彼女にたずねた。すると、彼女の瞳が突然潤んだ。
「アナタ、強いのね。この前に会った時もそうだったけど、決して浮き足立ってないというか。そればかりか、会う人に安心を与える能力が凄い。アタシ、今日も感動しちゃった。」
彼女はそういったが、
「ボクは強くなんかは無いです。今までも、どうやって生きてけばいいのか解らないまま、何気にやって来ただけです。そして今も・・、」
と、今後確実に訪れるであろう状況に想いを馳せて、表情が曇った。すると、
「今も?。」
といいながら、彼女は本の両側を手で押さえている尋の手の上に、自身の手を重ねて目を閉じた。そして数秒後、ゆっくりと眼を開いて、
「別れ・・。そうね?。」
と、尋にたずねた。彼は黙ったまま、首を小さく縦に振った。すると、彼女が悪戯っぽく、
「では、この恋のゆく末を、占ってしんぜましょうか?。」
とたずねた。
「い、いや、それは結構です。」
「どうして?。心配じゃ無いの?。」
「いや、心配とか、そういうんじゃ無くって、ただ、寂しくなるな・・って。」
彼女の矢継ぎ早な質問に、尋は狼狽えつつも、正直に自身の気持ちを答えた。
「ほーら。離れる寂しさが、やがては心配にまで及ぶ。物理的な距離は精神の距離にも及びましてよ。」
尋には、何か彼女の表情が楽しげに見えだした。そして、
「よろしい。ところで尋さん、古の生物たちの息吹きを、もう少し聞きたくはありませんこと?。」
彼女は少し微笑んで、可愛く首を傾げて尋を見つめた。
「あ、いや、はい・・。それは出来れば。でも・・、」
自身の興味と葛藤する尋だったが、直感的に、何かこのまま彼女のペースに乗ってしまってはマズいと感じた。そして、躊躇する尋に、
「あはは。冗談よ。でも、もし、寂しくなったら・・じゃ無かった、本当に、そうお思いになったら、書籍か化石を持って、アタシの所においで下さいまし。ドアはいつも開けてお待ちしてますわ。」
というと、彼女はスッと立ち上がって、彼の傍らに歩んできた。そして、肩に手を置き、
「もし来なかったら・・、」
と、耳元で囁いた。尋はドキッとして彼女を見た。
「アタシの方から伺いますわ。」
そういい残すと、彼女は残り香と共に颯爽と消えた。尋はフラッシュバックのように、あのときの肉感的な彼女の姿を思い出していた。鼓動が高鳴った。そして、
「ふぅーっ。」
と溜息を吐くと、
「今日も不戦敗・・かあ。」
と独り言ををいいながら、机の上にある書籍を持ってレジへ向かった。そして、会計を済ませると、書籍の入った袋を持ちながら、書店を後にした。ずっしりとした紙の重みが、知識の重み。そういう感覚も、これからは電子書籍に席巻されて、どんどん薄れていくのだろうかと、尋は考えながら通りを歩いていった。空はグレーの雨雲を散りばめながら、夕暮れに赤く染まっていた。
「一雨来るかな?。」
尋は雨に遭う前に、足早に仕事に向かった。
予備校の校舎に到着する前には、少し雨がぱらついていた。傘を持っていなかった尋は、ラストスパートで校舎に駆け込むと、
「セーフ。」
と、玄関の所で一人、両腕を広げて審判のようなポーズをとった。途端に、
「ザーッ!。」
と音を立てて、大雨が降り出した。すると、
「あら、何がセーフですの?。」
と、聞き覚えのある声が尋の背中側からした。古典の女性講師だった。
「あ、いえ、雨に遭わなかったなって。」
尋がそういうと、彼女は彼が持つ書店の袋を見て、
「わあ、高価そうな書籍ですこと。濡れないに越したことは御座いませんわ。」
そういいながら、尋の横を通り過ぎようとして、ピタッと足を止めた。
「スッ、スッ。」
彼女は尋の肩口から漂ってくる香りに気がついた。まさか、それは無いだろうと尋は思ったが、
「先生にお会いになられてたの?。」
彼女はいい当てた。
「あ、いや、その、書店で偶然お会いして・・、」
戸惑う尋の様子を見て、彼女は少し顎を引いて上目遣いになった。そして、
「そうでしたの。それはそれは。」
と、何やら一人で合点のいった相づちを打った。尋は何故かそれを否定しなければと思ったが、
「お引き合わせして、本当に良かったですわ。では。」
そういうと、彼女は鼻歌交じりで控え室に消えていった。何の詳細も伝えてはいないはずなのに、彼女には何か途轍もないことを握られているような、そんな気持ちに尋はなった。しかし、
「いい訳をする必要なんて、何も無い・・か。」
尋は不思議と気持ちを切り替えられるようになっていた。そして、ずしりと思い書籍の袋を持ったまま、控え室に入っていった。そして、空いている長机の端に陣取るとテキストを取りだし、今日の講義内容の所に目を通し始めた。
「魚類の浸透圧調節かあ・・。」
魚の血液には、僅かに塩分が含まれていて、それで体内の水分調節を行っている。それは人間も同じであったが、原始的な魚類、サメやエイの仲間、そして、シーラカンスなどは、塩分の代わりにアンモニアを溜めることで、水分調節を行っている。元来、獲物を食べて消化した際、タンパク質が分解されて生じるアンモニアは毒性が強いことから、極力体外に排出するように出来ている。しかし、寧ろそのことを逆手にとって、自身の生理機能にしている動物がいる。いや、順序としては逆である。そのような魚類が先んじて地球上に誕生し、後に、塩分を溜める魚類が進化・発展を遂げたのだ。
「未だ、進化の競争って感じかなあ。」
尋は、原始の仕組みを止めた魚類が、種類数こそ少ないが、進化した魚類と共存している状況を、常々不思議に思っていた。恐らくは、これから先、何万年、何億年後には、全ての魚類が新たな種に置き換わり、原始的なものは絶滅するのか、それとも、細々ではあるが、それ以上生理機能を進化させる必要性を見出さないまま、生き続けるのか。そんな時代にまで、我々は生存して確認することなど出来ない。
「過渡期・・なんだよなあ。ともすれば死に絶えるかも知れないものを、今が見ておくチャンスかあ。」
そんな風に尋は小声で呟きながら、先ほど購入した化石の本を取りだして、ページを開いた。そこは丁度、シーラカンスの化石群のページだった。彼らは太古の海洋で大繁栄していたらしかったが、隕石の衝突による大量絶滅の際、その殆どが一斉に、この世から姿を消したとされている。そんな中、たった二種類だけが、二つの地域に分かれて、僅かに生き残っていた。それらが発見されたのは、つい最近のことである。魚類の進化や衰退の歴史に比べれば、ごく些細な時間にしか過ぎない。しかし、人類が地球の歴史を知る上で、その偶発的な発見は、多大な知恵とロマンをもたらした。サメやエイは旧式の生理機能ではあったが、今も尚、世界中の海に生息している。しかし、彼らは違う。何故、たった二種類だけが、このような奇跡的な生存を果たせたのか。ふと、尋はシーラカンスの化石の写真を、何気に指でなぞってみた。そして軽く目を閉じた。
「・・・太古の海、漂う小魚の群れを追いかけようとする巨大な魚。」
一人呟きながら、尋は急に吹き出した。
「ぷっ。そんな、解るはず無いよなあ・・。」
そういいながら、彼は八卦見の先生のことを思い出していた。そして、ふと誰かが此方を見ているような気配を感じ、尋は左後ろを振り返った。すると、紙コップを片手に、此方を見つめてにやけている、古典の女性講師の姿があった。
「あちゃーっ。」
尋はまたしても、バツの悪い所を見られてしまったと自省した。そして、本を閉じようとしたが、
「お前達の仲間のように、時代遅れでも残ってくれてるやつがいたら、そんな物いわぬ彼らが、その存在を通じて歴史を物語ってくれるんだよなあ。」
尋は何処からともなく湧き上がる、感謝の念のようなものを込めて、写真を撫でると、そっと本を閉じた。
生徒達がやって来る頃には、いよいよ雨も本降りになっていた。予備校の事務スタッフは慌てて生徒達が濡れた床で足を滑らせないように、マットレスや傘立てを用意した。尋も気まずい空気感を変えようと、控え室を出て、ソファーに座りながら生徒達を眺めていた。
「こんにちわー。」
「こんにちわー。」
尋の顔を見て挨拶する生徒もいれば、濡れた衣服に気を取られて、それどころでは無い生徒、悲壮感を漂わせて、挨拶をする意味すら見出せていない生徒と、様々な表情があった。尋は何気に任された講義だけを行っていた訳では無く、寧ろ、生徒達の何気ない様子を見るとは無しに見ていた。
「悲喜交々・・だなあ。」
彼らにとって、受験は人生の一大事である。だからこそ、親御さんも安くは無い学費を我が子の為に出している。そんな真剣さに応えるべく、尋も可能な限り、生物に関する背最新の情報収集や分析を怠らなかった。データやテキストの内容は嘘をつかない。しかし、だからといって、それだけが合格の鍵を握る訳では無い。
「一通過点。そこから先も、まだまだ人生は続く。」
合否にのみ人生を懸けて勉学に励む姿勢は掛け替えの無いもの。しかし、そのことに気負うがあまり、もっと大切な何かをを、つい忘れてしまってはいないか。そういうものを、尋は生徒達の様子から何気に窺い知るようにしていた。そして、試験日も近づいた現在、みんなの表情は一様に硬かった。と、そのとき、目映いばかりの黄色い傘を差しながら、一人の生徒が現れた。そして、傘を畳むと、やはり黄色いレインコート。彼女は傘立てに傘を差し込むなり、尋を見つけて、
「よっ!。」
と、手を縦にしてチョップのように挨拶した。
「よっ。」
尋も思わずつられて、同じように挨拶した。
「どう?、講習は。」
「うん。いい具合に復習できてる。それよかさあ、」
サッと挨拶程度の会話で終えようと尋は思っていたが、彼女は何か話があるようだった。
「ん?、何?。」
「姉貴がさ、最近、元気無くって、ね。」
そういいながら、彼女は尋の横に座った。尋は、何となくは予想していたが、やはり妹の前では、素の自分を出しているようだった。
「そうかあ。彼女の希望が叶うように、色々と応援はしようとは思ってるんだけどね。」
「先生は、大丈夫なの?。」
彼女は無心な表情で、尋を見つめた。いや、幾分、楽しげに。
「いや、それは、まあ。いや、今此処で、そういう話は・・。」
尋は自身の心理を突かれそうになっているのと、周囲からの目をきにしつつ、話題を変えようとした。でも、何か妙に引っかかることがあったので、彼女に率直に尋ねた。
「それにしても、何か楽しそうだね?。」
すると、彼女はニコッとしながら、
「そりゃ、そうよ。邪魔者がいなくなるしさ。うふっ。」
と、悪びれずにサラッと答えた。尋は口をあんぐりと開けた。
「冗談よ。今みんな、それどころじゃ無いから。じゃーねー!。」
そういうと、狛犬のように阿の姿勢になった尋の方をポンと叩いて、彼女は元気よく教室の方に去っていった。数秒後、尋はようやく正気に戻った。そして、
「弄ばれるって、こういうことをいうんだろうな・・。」
そう呟きながら、ソファーを立って控え室に戻った。自身が比較的堅物なキャラだと思っていたのが、何か急に弄られキャラになっていて、しかも、そのことが最近では、満更でも無いとさえ思い始めていた。流れるように生きれたらと思いつつ、つい、どっかの角にぶつかっていたのが、ほんの少し、成り行きに身を任せるようになっている自分を感じていた。そして、
「黄色いお嬢さん、随分とご執心なご様子ですこと。」
案の定、空かさず古典の女性講師からチャチャが入った。
「ええ。彼女、熱心ですから。」
尋がそういうと、
「あら、まあ・・!。」
女性講師は尋の直球な返答に目を見開いた。尋も、何かマズいことをいったかなと思い、聞き返した。
「あの、何か?。」
「そ、それはただならぬことで御座いますわね。」
「受験が迫っているから、生物の勉強を熱心に復習してるのが、ただならぬことですかね?。」
「そ、そうですわね。おほほ。」
尋の返しに、女性講師は余計な詮索をしたことを恥ずかしく思ったのか、口元を押さえて尋の眼前から姿を消した。
「ふうっ。」
尋は内心、してやったりと思いつつ、溜息を吐いて座った。
「さて、今日の講義の所を、チェックするか・・。」
そういうと、先ほど出していた化石の書籍を袋に仕舞い、テキストを取り出して開いた。しかし、何か今ひとつ、集中出来なかった。そして窓の方に目を遣ると、雨だれがしきりに落ちているのが見えた。窓に伝う二つの水滴が一つとなって流れ、やがてまた、二手に分かれて流れていった。
「いかんいかん。集中集中。」
灼も自分も、やがて来るであろう寂しさに耐えつつ、黄色い少女以下、講義を待つ生徒達のためにも、ここは切り替えねばと、尋はそう思った。
最近は生態系の問題が流行りな感はあったが、オーソドックスに基礎科学的な内容も、特に難関校を中心に出題されている。
「遺伝・・かあ。」
分子生物学の内容として、遺伝子が取り上げられることも多くなった。尋が受験生の頃は、まだ遺伝子の解析技術が原始的な手法で行われていて、精度も余り良くなかった。ところが、それから二十年程の間に、技術は飛躍的に進み、生物の設計図である遺伝子の暗号が、ほぼ全て解読されたというニュースも飛び込んできた。たかだか4種類の小さな塩基という物質ではあるが、その組合せで無数のアミノ酸やタンパク質を作り出す設計図が構成されている。難病の治療や不老不死といった領域のヒントにもなるであろう、いわば生物学の最先端分野である。
「凄いよなあ。たかだか数十年の間に、此処まで解るようになったんだからなあ。」
尋は自身が教えていながら、その分野の進歩にはいつもながら唸らされていた。しかし、不思議なこともあったもので、生物の遺伝に関しては、昔ながらの問題が出題されていた。エンドウ豆の種の色や皮の形にはじまって、花の色、遺伝子疾患を含む血液型の話。家系図からどのような遺伝子型を持っているかを推測させる問題と、尋にとっても馴染みのある問題がズラリと並んでいた。生徒達にはとっては、習い始めに一回授業で聞く程度だが、尋のような講師にとっては、それを何年も目にする。かつて、某国の王家では奇病と騒がれた現象も、遺伝子の解析によって、その謎が解き明かされている。ところが、古の恐怖と、最先端の科学技術が同時に並び、その両方を問うて生徒に考えさせるというのは、尋にとっても面白い試みではあった。
「どんなに既存、既知のものであっても、学び始めに興味を抱いて、パズルのように取り組むのは、思考を鍛える上でも、好奇心を深める意味でも重要だよなあ。」
そんな風に尋は考えていたが、実は、彼自身、殆ど人には話さなかったが、その領域に関しては、不可思議な感慨を持っていた。生物が地球上に登場したことについては、科学的な立場と宗教的な立場が、現代においても尚、両立している。創造主を信仰する国々では、人間は人知を超えた何かに造られたものという理解もあった。尋は自身が科学畑の出身だけあって、原則的には科学的なスタンスでものを考える方であったが、こと遺伝に関しては、
「出来過ぎでは無いか・・な。」
と、常々思っていた。最小限の4つの構成要素、それを組み合わせた暗号、地球誕生と同時に発生、進化、拡散といった風に大繁栄する生物、そして何より、従来の設計図には無いイレギュラーなる形質の誕生。突然変異である。それらの現象が、本当に偶然の積み重ねによって発生、誕生しているのか、それとも、何らかの意図をもって、まるで導かれるかのように、創り出されているのか。もしそうだとしても、それはやはり科学の立場から見れば、荒唐無稽である。しかし、例えそう表されようとも、尋の脳裏には、数式的な論理よりは、詩的な物語として場面展開が成されていた。勿論、そのような姿勢は講義では一切見せなかった。別に意識していた訳では無いが、中立性を保つことが、科学的知識を伝えるもとしての責務では無いかと、暗に感じていた。彼女に対して以外は。
「あの子は、高度な知識と思考、そして、物語性の狭間を融通無碍に遊ぶもんなあ。」
黄色い少女のことであった。
「さて、いくか。」
尋はテキスト類の縁を机に縦ながらまとめると、席を立って教室に向かった。雨で湿気を含んだ玄関付近の空気も、通路辺りでは空調でカラッとしていた。そして、教室に入ると、一気にムッとした熱気で覆われていた。いよいよ大詰めといった雰囲気が、空気だけで十分に伝わってきた。
「こんちわ。では、今日の問題。」
そういうと、尋は淡々と授業を始めた。解説は最小に止め、解法とそれに必要な予備知識だけを話すように努めた。難問の場合、余計な説明はかえって生徒の頭に混乱を招く。解説が不十分だと思えば、後で質問に来ればいい。逆に十分だと思えば、正解にマルを付けるだけにして、次の問題へ進めばいい。彼女、黄色い少女は、それが常に出来ていた。そんな具合に、講義は一通り進み、突然変異についての解説に差し掛かったとき、尋はやはり、不思議な感覚に見舞われた。現象として、科学的に生じる理由はいくつか挙げられている。しかし、それは寧ろ原因である。本当に理由があるとするならば、それは一体何故起きるのか。尋はそのときばかりは、頭の中の自分と、手を動かす自分を別人格に分けていた。創造主の秘密を胸に抱きつつ、板書は整然と科学者の手として行う。彼にとっては、それは違和感でもあり、同時に矛盾をはらんだ人間の姿そのものであるといった、奇妙な快感も伴っていた。そして、そんな様子を、じっと見つめる視線があった。
黄色い少女であった。最近は特に講義に集中していた。しかし、今日はいつもとは少し視線が異なっていた。
「普通に講義してるつもりだけどなあ・・。」
尋も、特別な思い入れを一切口にはせずに、淡々と話を進めているつもりだった。彼女は、尋の言葉から、いや、尋自身から何かを探ろうとしているように見えた。自身が興味の対象になっていることは以前から知ってはいたが、何をそんなに不思議がられることがあるのだろうと、次第に尋も気になりだした。やがて講義は終了し、尋が教室を出ようとしたとき、
「先生、今日これで終わり?。」
と、黄色い少女が訪ねてきた。
「うん。予定は無いよ。講義のね。」
「じゃあ、後で質問にいくね。」
そういうと、彼女はアッサリと教室に戻っていった。控え室に戻ると、尋はテキスト類を片づけて、紙コップにコーヒーと、たっぷりのミルクと砂糖を入れて飲んだ。
「ふう。」
尋は一息つきながら、周囲を見回した。今なら他の講師陣、特に古典の女性講師はいない。その間に、質問に来てくれたらなあと思っていると、
「センセ!。」
と、ドアからひょっこりとおかっぱ頭を覗かせて、彼女がやって来た。
「ささ、入って。」
尋は幾分慌てた様子で、彼女を控え室に招き入れた。
「で、質問って何?、何処の所?。」
途切れない尋の言葉を察して、彼女は、
「先生、何慌ててるの?。」
と、図星な質問をしてきた。
「いや、別に慌ててなんか・・。はは、慌ててるな。オレ。」
尋は彼女に何を取り繕っても仕方が無いと解っていたので、直ぐに素直になった。そして、
「じゃあ、先に僕から聞くけど、今日、何かあった?。いつもと雰囲気が違ったから。」
尋は率直にたずねてみた。
「んとね、そうじゃ無いんだけど、先生、何かいいにくそうに授業してたなあって。」
やはり見抜かれていた。彼女の眼力に、尋はあらためて敬服した。
「まあね。突然変異の所になると、いつも不思議に思うことがあってね。でも、それをいうと長くなるから、必要なことだけを話そうとするんだ。」
「はい、じゃあ、質問。」
「はい。」
「突然変異は、どうして起こるんですか?。」
手を挙げて質問する少女を指名して質問を聞く、ちょっとした教室の風景が急に再現された。
「原因は、紫外線などの放射線やDNA合成を阻害するような化学物質、および、染色体が起こす組み換え。」
尋は解答例をザッと述べた。すると、
「そうじゃ無くって、理由。まるで誰かが意図したみたいに起こるじゃない?。それって、何でかなって。」
少女の質問を、尋は多少は予想していた。しかし、
「やっぱ、先生も科学者全般と同じよーに、そういうのは考えないというか、信じない方?。」
その言葉に、尋は何故か、自身の思いを白状するときが来たかのように感じた。そして、どう答えようか思案してると、
「アタシ、変なこといってるかな?。」
と、困惑気味な尋を気遣うように、少女はたずねた。
「はは。変なこというから、面白いんだよ。キミは。」
尋がそういうと、
「意地悪!。」
彼女は少し膨れっ面になった。それをフォローするかのように、
「そうじゃ無くって、実はボクも同じことを考えてたってことさ。ボクも変な人間だから。現象だけを物質的、物理的に見つめたら、それなりの原因にはいき着く。でも、それだけじゃあ納得がいかない。そこで人は、自分達を超えた何かを擬人化して想定する。すると、そんな存在が目の前の現象を意図を持って行ったってストーリーを構成することが出来る。すると、何故かストンって腑に落ちる。それを証明するとか、科学的かどうかとか、そういうのは、どっちでもいいんじゃ無いかな。第一、証明なんて出来っこないし。」
尋は優しい表情で、少女に語った。
「ふーん、やっぱり、そうかあ。じゃあ先生、神様って、いると思う?。」
直球な質問を、彼女はぶつけてきた。
「うーん、いてくれたら便利だなとは思うな。人間だけが地球や宇宙の謎解きをしてたんじゃあ、何処となく寂しいしね。あと、そういう気持ちを抱いていた方が、人は幸せになれるのかも知れないな。委ねられてるというか。」
荒唐無稽な質問ではあったが、二人の間には、十分な必然性があった。壮大なテーマではあったが、最早彼らには何気ない会話だった。すると、
「じゃあ、先生は、自分のことを不幸気味に思ってるでしょ?。」
一番鋭い指摘が、彼女の口から飛び出した。尋は何の抵抗もせず、
「科学的でいるってことは、無神論者でいるってことでもあるからなあ。キミのいう通りかも知れないな。」
尋は両腕を頭の後ろに組んで、天を仰いだ。すると少女は、
「先生がその気なら、アタシが幸せにしてあげるのにね。うふっ。」
そういって、悪戯っぽく微笑んで肩を竦めた。と同時に、講義を終えた他の講師達が続々と控え室に戻ってきた。
「じゃ、先生、またねー!。」
そういうと、彼女は尋にウインクをしながら颯爽と部屋を去った。それを古典の女性講師は見逃さなかった。彼女はサッと向きを変えて尋を見たが、彼はそれを無視して紙コップを持ったまま自身も退室した。そして、残りのコーヒーを飲み干すと、
「イカンイカン。」
そう呟いて、頭を振った。少女の言葉で、グラッと来かけていた。
尋は携帯を取り出すと、直ぐさま灼にかけた。
「プルルルル。もしもし、灼です。」
「あ、ボクだけど。今日、会える?。」
「うん、勿論。じゃあ、また伯母さんのお店で。多分、少し遅くなるから、先にいってて。」
「了解。じゃ、後で。」
「ねえ。」
「何?。」
「其処で大声で、愛してるって、いって!。」
灼の願いに、尋は慄然した。しかし、
「今、もの凄い心の中では、いってる。でも、此処、校舎のロビーなんだ。だから・・、」
「ははは。冗談よ。でも、聞きたかったのはホントだし、いい答え聞けたから十分。じゃあねえ!。」
似た者姉妹だなと思いつつも、尋は灼に会いたい気持ちでいっぱいだった。そして控え室に戻ると、荷物をそそくさと片づけて、校舎を後にしようと玄関に向かった。が、
「あ。」
尋は傘を持っていなかった。結構な本降りだったが、このまま走って近くのコンビニで傘を調達しようかと思ったそのとき、
「お困りですかぁ?。」
といいながら、誰かが傘を差しだした。黄色い傘だった。
「わっ!。キミかあ。」
黄色い少女だった。
「よかったら使って。それとも、このまま相合い傘でいく?。アタシはそれでも構わないわよ?。」
「あ、いや、えーっと、有り難う・・じゃ無かった。貸してくれるのは有り難いけど、キミは?。」
尋は狼狽えながらたずねた。
「大丈夫。ワタシには傘がもう一つ御座いましてよ。ほらっ!」
そういうと、少女はカバンからサイケデリックな花柄の折りたたみ傘を取り出して、パッと開いた。本当に華やかなものが似合う少女だった。
「傘は次会ったときに。それまでは、アタシだと思って、持ってて。じゃ。」
そういうと、彼女は颯爽と雨の街へ消えていった。
「あ、有り難う。」
尋の気後れしたお礼は、彼女には届いてなかったようだった。ちょっと申し訳無いやら、有り難いやら、そして何より、
「今日は彼女の日・・だな。」
と、一人で合点のいった尋だった。そして、黄色い少女に借りた大きくて黄色い傘を差しながら、尋はいつもの、灼の伯母さんの店へ向かった。季節外れの雨は、何となくこれまでに起きた色々なことを洗い流してくれるような、そんな清々しさを、尋は感じていた。暫く歩いて、知った裏通りを入っていくと、道には柔らかい明かりが零れていた。
「カランカラン。」
尋がドアを開けると、備え付けのベルが鳴った。
「いらっしゃい。あ、尋さん。ちょっと待っててね。」
「こんばんは。」
やはりこの時間は、お店は盛況だった。みんな楽しそうに料理とお酒に酔いしれていた。尋は黄色い傘を畳むと傘立てに差して、店の片隅に荷物を置いた。と、そのとき、
「あれ?、彼女、まだなんじゃ・・?。」
忙しく厨房で料理を作っている傍らで、やはり忙しく出来上がった料理を客に運んだり、食べ終わった食器を引き上げたりする女性の姿があった。頭にタオルを巻いていて誰だか解らなかったが、お盆に載せた水を運びながら尋の前を通りかかった時、
「あっ!。」
尋は思わず声を上げた。すると、彼女も尋の方を見て、
「ああっ!。」
と、さらに大きい声を上げた。二人は口をあんぐりと開いていた。
「先生、何で此処に?。」
「いや、キミこそ何で・・・。」
そう、黄色い少女だった。しかし、尋は直ぐに冷静さを取り戻し、
「あ、そっかあ。キミの伯母さんの店だもんな。いても不思議は無いか。」
しかし、少女の方はまだ状況が掴めていないようだった。
「もう。ビックリよ。何で先生が・・、」
そんな具合に二人が立ち話をしていると、
「黇ちゃん、忙しいんだから、ほら、お水運んで。」
「はーい。」
と、手伝いに戻っていった。すると、
「あの、ボクも手伝います。」
この前のように、尋も手伝いを申し出た。
「そう?、悪いわねえ。じゃあ、お願いするわ。」
かつて知りたる何とやらで、尋は厨房に入ると腕まくりをして手を入念に洗った。そして、下げてきた食器を洗ったり、野菜の皮むきをしたりと、忙しく働いた。客は途切れること無くやってきて、テーブル席が空いたと思ったら、直ぐに次の客で埋まった。時間が経つにつれ、お酒の入った客達はさらに賑やかさを増して、次から次に料理を注文して来た。三人は天手古舞いになった。と、そこへ、
「遅くなってゴメン。」
と、灼がやって来た。三人は舞い降りた天使でも見つめるかのように、一斉に彼女の方を見た。
「な、何?、この状況?。」
彼女が驚くのも無理は無かったが、今はそんなことをいってる場合では無かった。すると、尋は素早く厨房から出て来て、
「話は後。兎に角、お店の方を!。」
そう、縋るように灼にいった。彼女も完全に状況を把握したとはいえないものの、
「そうね。よーし!。」
と、腕まくりをして厨房に入っていった。
厨房と店内は戦々恐々だった。伯母さんと灼が次々に調理をこなし、尋と黇ちゃんが出来上がった料理を運んだり、食べ終わった食器を下げた。そして、尋は時折厨房に入っては食器を洗って拭き上げた。黇ちゃんはというと、
「よう、久しぶりだね。」
「えへへ。こんちわー。」
と、顔見知りの客に愛想を振りまいては、給仕する先々でテーブルを湧かせていた。
「黇!。忙しいんだから、立ち話しないで。」
「はーい。」
伯母さんの激が飛んでも、彼女は何処吹く風といった感じで、店内を賑わせていた。
「ワインお注ぎしまーす。」
「こちらの料理、とーっても美味しいですよー。」
教室で見せる真剣な表情とは真逆の、水を得た魚のような生き生きとした様子に、尋も驚かされた。洗い物をする横で、忙しくフライパンを振る灼が、
「ああいう所、才能よねえ・・。」
と、知ってはいつつも、妹の差配に感心していた。三人の連携は功を奏して、いつもより多い目の客も上手く捌くことが出来た。そして、ようやく一段落といったところで、
「はーい、三人ともご苦労さん。」
そういうと、伯母さんがテーブルに大きな鍋を運んできた。蓋を開けると、湯気と同時に香辛料と魚介類の香りが店内一杯に広がった。
「わー!。巨大パエリアだ!。」
灼と黇ちゃんは声を揃えて喜んだ。尋も黄色いサフランライスの上に整然と並ぶエビや魚、大きなムール貝に目を奪われた。灼が取り皿と食器を運んできて、黇ちゃんが冷蔵庫から飲み物を持って来た。
「さ、片づけは後。食べよっ。」
そういうと、四人は席に着いて、思い思いにパエリアをよそって、
「いただきまーす。」
と手を合わせるが早いか、モグモグと頬張った。
「うん、ヨッポ、ンマイ!。」
黇ちゃんは頬張りすぎて、何をいっているのか解らなかったが、美味しいことを伝えようという雰囲気は十分に伝わった。
「ホント。流石っ!。」
「美味しいです。」
灼と尋も頬張りながら、夢中で食べた。すると、伯母さんは厨房へいき、大皿に盛られたパスタを持って来た。
「はい。お客さんに出す分を、余分に作っといたの。さ、召し上がれ。」
カリッと炒めたニンニクとベーコンに、彩りのバジルと鷹の爪が乗った、ペペロンチーノだった。
「伯母さん、こんなに炭水化物取っちゃー、太っちゃうよー!。」
「はいはい。どうせ食べるんでしょ。若い内はちゃんと代謝されるんだから、ドンドンお食べなさい。」
そう伯母さんにいわれるまでも無く、三人は直ぐさま取り皿にパスタをよそって、頬張った。
「美味っ!。」
尋は思わず声に出した。灼と黇ちゃんは、喋るのも忘れて、パスタに夢中になっていた。
見た目はシンプルだが、味は抜群。茹で加減なのか、炒め方なのか、それとも調味料の合わせ方なのか。いずれにせよ、正にプロの味だった。
「伯母さん、地中海、好きだからね。」
灼が何気にいった。
「ホント。父さんも母さんも、みーんな外国好きで。しょっちゅう留守だもんね。」
黇ちゃんも食べながらぼやいた。
「ところで、アンタ、例のアリゾナいきの話、どうなったの?。」
灼と尋の手が一瞬止まったが、灼は食器を置くと、
「発表します。えー、この度、わたくし灼は・・、」
三人は固唾を呑んで見つめた。
「審査にパスし、アリゾナにいくことに決定しました!。」
「おー!。」
「やったじゃん!。」
「御目出度う。」
三人は揃って拍手をした。尋はお祝いの言葉と同時に、熱い眼差しを彼女に送った。灼も目を輝かせて、尋を見つめながら小さく、そして力強く頷いた。
「尋さんのお陰。有り難う。」
灼の言葉に尋は、
「じゃあ、丁度良かった。はい、これ。」
そういうと、書店で購入した化石に関する本を取りだし、灼に手渡した。
「わー、有り難う。これ、欲しかったんだー!。」
そういうと、彼女はページを開いて中を次々と見た。
「今は何でも直ぐに検索出来る時代だけど、昔のまんまなものを研究するから、やり方も昔のまんまがいいかなと思ってね。」
「何か先生、相変わらず気が利くというか、いい感性してるね!。」
黇ちゃんが、ちょっと羨ましそうに尋の方を見ながらいった。
「そうかな?。普通だと思うんだけど。」
すると伯母さんが、
「優れてる人は、自分のことをそうは思わないのよ。」
と、黇ちゃんを優しい眼差しで見つめながら語った。
「で、姉貴。何時からいくの?。」
「うーんとね、四月の半ばぐらい。」
「そっかあ。何か寂しくなるなあ。あ、でも、任せといて!。先生の面倒は、アタシがちゃんと見といたげるから!。」
そういって、黇ちゃんは尋の腕を掴んで、ニコッと笑った。尋は眉毛を上げて固まった。
「コラッ、黇っ!。」
二人の様子を見て、伯母さんは直ぐに察したようだった。
「もう。アンタは、いつもいつも、人のものを取ろうとするんだから!。」
そういって、今度はキッとした目つきで彼女を睨んだ。
「はーい。」
黇ちゃんは反省した素振りは見せつつ、取り敢えず返事をした。そして、食事も一段落した頃、
「さて、邪魔者は消えるとするかな。」
そういって、伯母さんは食べ終わった食器類を調理場に引き上げると、サッと洗い物を済ませて、出かける支度を始めた。そして、
「ほい、黇。いくよ。」
「えー。何でアタシがー?。」
と、訝る黇ちゃんを一緒に連れ出そうとした。
黇ちゃんの手を引っ張る伯母さんに反抗して、ドアの取っ手をなかなか離そうとしない黇ちゃんは、
「絶対変なことしたらダメだからね!。」
そういうと、二人を睨み付けた。
「何野暮なこといってるの!。今日はアタシとホテルで缶詰よ。アンタ、すぐ英語サボるんだから。」
「えー。じゃあ、英語のレッスンの前に、ホテルのラウンジでスイーツおごってよ!。」
「はいはい。解ったから。」
伯母さんにそういわれると、黇ちゃんは顔は渋々だったが、ドアの取っ手からパッと手を離した。
「じゃ、ごゆっくり。」
伯母さんはそういうと、ゆっくりお辞儀をしながらドアを閉めて、黇ちゃんと連れ立って出ていった。窓の外からは、尋と灼を見つめながら遠ざかっていく少女の視線が注いでいたが、とっくに二人の世界に入った尋と灼は、気付くはずも無かった。
「やったね。御目出度う。」
「うん、有り難う。」
尋は灼の手の上に自身の手を重ねながら、祝いの言葉を述べた。灼は、ほんの少し強がるように、お礼をいった。しかし、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「やっぱり、寂しい。」
そういうと、彼女は尋に抱きついた。尋は、優しく彼女を撫でながら、
「うん。ボクも。良かったって気持ちと、寂しくなるって気持ちが半分半分かな。でも、不思議とそれが鬩ぎ合ってはいないんだ。」
それをきいて、灼が顔を上げた。
「どうして?。」
「うん、何ていうのかな。キミがやりたいことが叶ったってことは、キミがさらに幸せの方向に向かうってことだろ?。勿論、大変なこともあるだろうけど、でも、そういう機会が訪れたってことと、その試練を乗り越えようと頑張った後に、一回りも二回りも大きくなったキミがいるってことだろ?。じゃあ、それを祝って見守らない手は無いなって。」
尋は優しく微笑んだ。その笑顔を見て、彼女も次第に笑顔になっていった。
「でも、どうしてそうパッと割り切って考えることが出来るの?。」
灼は不思議そうにたずねた。
「割り切ってなんかいないさ。ホントのことだろ?。寂しいのもホント。でも、キミが目指すものに挑むのを見守りながら応援したいってのもホント。でも、いっぺんに同時は満たせない。人間って、欲張りで矛盾だらけだからさ。だから、出来ることから順番に・・かな。」
尋は思うところを正直に、丁寧に答えた。
「じゃあ、一番最初は?。」
灼がそういうと、尋は再び彼女を抱き寄せ、そっと唇を重ねた。すると、
「じゃ、アタシも。」
彼女はそういうと、さらに強烈な口付けを尋と交わした。店内の灯りは二人を煌々と灯した。外からは丸見えであっただろうその光景を、誰も咎めはしなかった。もし、黄色い少女が見ていたならば話は別だが。二人は片づけ物を済ませると、ブラインドを下ろして店を閉めた。そして、二人の座るテーブルの所だけ照明を残して、跡は全て消した。いつもなら、このまますぐに二階へ昇り、太古の野生生物の如く本能を謳歌するところだが、今日は違った。二人はどちらからいい出すでもなく、グラスを二つ並べて、スパークリングワインを注いだ。そして、
「乾杯。」
そういって、グラスを軽く合わせた後、それを一気に飲んで渇きを癒やした。そして、灼は尋からもらった化石の本を一冊取り出し、何気にページを開いた。
「最初にアナタに会ったとき、ずーっとアンモナイトの化石を眺めてた。」
「うん。そうだね。」
「そして、あなたと出会って、アタシも化石の魅力に取り憑かれた。何の変哲も無い、生命すら失せた、ただの石なのに、その石のお陰で、こうやってアナタと太古の生物について想いを馳せるようになった。正に、化石の取り持つ縁・・よねえ。」
灼はそういうと、またグラスに口を付けた。
「確かに生物は、生命を終えれば、ただの物質になる。でも、そこに生物が介在したか否かで、形跡が残るんだよね。恐らく、太陽系のどの惑星にも、そんなのは無いんだろうな。でも、地球だけには、それがある。昔も今も、生命が存在したから。そして、宇宙物理の法則だけでは無い、何か意図があるかのように、あるときは螺旋状に、またあるときは左右対称に体が形作られる。そして、そこに有機物の体と生命が宿ったとき、感覚や感情が、そして、想像や知恵が生まれる。もし火星に、我々の知らないうちに、何処かから知的生命体が飛んできて、石コロの上で休憩してたなら、そこには想像を行った時間が存在したのかも知れない。でも、そんな証拠は何処にも無いから、やっぱり、火星には想像は生まれなかった。でも、地球は違う。大昔の巨大なトンボや海中の魚竜が何かを想像したかどうかは解らないけど、でも、生きて、命を躍動させて、そして命を全うした、そういう確かな証拠は残っている。」
「それが化石ね。」
「そう。我々も、そういう流れの一部として、太古の生物から今の今まで、ずーっと乗っかって来ている。化石を通じて太古の息吹きに触れるというのは、自分達の命とは何かを、再確認する作業でもあるのかな。だから、興味が尽きない。」
そういい終えると、尋もグラスに口を付けて喉を潤した。二人は時が経つのも忘れて、いつまでも化石の写真を眺めながら、その当時に生きていたであろう生物たちの姿を思い浮かべては、命のあり方について語り合った。そして、
「ねえ、そろそろ、私達自身の命のあり方について、確かめ合わない?。」
そういって、灼は尋の手の上に、自身の手を重ねた。
「賛成。」
尋はそういうと、テーブルの灯りを消した。そして二人は口付けを交わした後、二階へ上がっていった。既に幾度となく逢瀬を重ね、互いの隅々までを二人は知り尽くしていた。そのはずなのに、二人の求愛は満たされるどころか、寧ろ、さらにその先を、その奥を求めんとして、激しく絡み合った。そして、嫋やかに撓り、またあるときには、強烈にうねり、再び静けさを取り戻したかと思うと、互いの香りを、熱を、そして感触を確かめ合うように、可能な限り、いや、それ以上ないぐらいの距離とも付かぬ間合いで触れ合った。一頻り、本能の赴くままに、ただただ摂理のように重なり合った二人は、並んで横たわりながら、互いを見つめた。
「不思議。」
「何が?。」
「アナタのことが、一番好き。本当に。信じられないぐらいに。」
灼は尋を見つめながらいった。
「ボクも・・っていったら、何か返事を返してるみたいだな。白状するけど、水族館で出会ったのは、偶然なんかじゃ無いんだ。ボクはあのとき、全てを掛けてみようって思ってた。キミに会えることに。そうしたら、出会えたんだ。本当に好きな人に。」
そういうと、尋は灼を抱き寄せて、額に口付けをした。
「もし、出会ってなかったら?。」
灼は尋にたずねてみた。
「それでも、出会ってた気がする。博物館で、キミが初めてボクを見たときから、既に始まっていたのかも。だから、キミのいう通り、やっぱり不思議・・かな。」
尋がそういうと、二人は暫く見つめ合って、そして微笑んだ。カーテンの隙間から差し込む月の光は、今宵も薄らと青く、そして優しく二人を照らしていた。
それからも、二人は以前にも増して頻繁に会うようになった。勿論、本能を確かめ合う目的もあったが、灼の旅達に備えて、尋が化石や古生物に関する個人レッスンを行うようになっていた。
「うーん、やっぱ、無脊椎動物は種類が多すぎて大変ね。」
「そりゃ、そうさ。今の地球上でも、無脊椎動物の方が圧倒的に多いからね。我々脊椎動物は後発組で新参者さ。」
尋は、いくつもの種類を体型的に説明していった。灼は息つく暇も無いほどに、真剣にノートを取っていた。
「ところで、黇ちゃん、受験、どうだった?。」
「余裕・・とまではいかないけど、あの子にしては珍しく、最後まで手は抜かなかったかな。明日、発表みたい。」
尋は、初めて出会った黄色い少女の、鮮烈な記憶を思い出していた。知り合う前から強烈なイメージはあったが、知れば知るほど、そのイメージは壊れるどころか、寧ろ想像以上に形成されていった。しかし、奢ること無く、教科に対して何処までも真摯な姿勢は最後までそのままだった。
「彼女なら間違いない。きっと。」
尋はそう呟いた。それを聞いた灼は、
「うん。」
と、ノートを取る手を止めて大きく頷いた。そして、その翌日、尋は校舎で合格発表の結果を伝えに来る生徒を待っていた。
「今年の受験は、如何でしたか?。」
古典の女性講師が尋にたずねた。
「うーん、少子化で受験者が減ったとはいえ、やはり上位校の倍率は高かったですね。」
いつもは何気にウザく感じる彼女に対しても、このときばかりは仲間意識を共有していた。それぞれの科目で、持てる全ての術を生徒達に伝授した、そういう、戦いをサポートした仲間であった。そうこうしているうちに、生徒達が手に封筒を持って、晴れやかな顔でやって来た。
「先生、やったよー!。」
「おお。御目出度う。」
講師も事務職員も、喜び勇んで生徒を出迎えた。しかし、事務職員達は新年度の入学準備も並行して行っていたため、生徒の集団が一段落すると、すぐに事務室に戻っていった。そんな具合に、生徒もそろそろ途切れた頃、
「セーンセイ!。」
尋の前に、覚めるような黄色い服を着た少女が立っていた。
「よっ。で、どうだった?。」
尋は、彼女がにこやかでは無いのが少し気になったが、何をしでかすか解らないことは十分に知っていた。すると、
「えへへへ。」
そういいながら、彼女は後ろに隠していた大きな封筒を尋に見せた。
「おお!。やったか!。」
「第一志望ッス。」
かなりの難関校ではあったが、彼女は難なく突破していた。
「ところで先生、聞きたいことがあるんだけど。」
黇ちゃんの言葉に、尋は一瞬怯んだ。