■3-1.「時貞くん。ちょっといい?」
「時貞くん。ちょっといい?」
編入学二日目。授業を終えて、優哉と遥斗と共に部活に行こうとしたところ、前の席の立花さんに呼び止められる。
「今から部活行くんだよね。それって最後までいるの?」
「いや、三十分程度で切り上げる予定だよ。どうせ見学するだけだし」
「んー、そっか。三十分くらいか」
立花さんは顎に手を遣り、何やら考える仕草をする。
「委員長、もしかしてあの話?」
事情を知っているような態度の優哉に「そうなんだよね」と立花さんは頷く。
優哉とは反対に、遥斗は何も知らない様子である。
「立花さん、あの話って何のこと?」
遥斗の代弁をするつもりで聞けば。
「ええとね。悪いんだけど、見学が終わったら剣道場の入口で待っててくれないかな。私も、きみが出る頃にそこに行くから」
「それはいいけど、何か用事でもあるのか。だったらそっちを優先させるけど」
「いいよ。そんな大事なことじゃないし。それじゃあ、私も部活あるからまた後でね」
具体的な説明をする前に立花さんは教室を出て行ってしまった。何となしに彼女を見送っていれば、優哉が俺の肩に手を乗せる。
「青春ってやつじゃねえか。羨ましい限りだぜ」
「まさか。そんな浮ついた話じゃないだろ。何言われるか分からないから怖いな」
唐突の呼び出しで青春らしいと思えるのは健全な証拠である。正直なところ美人局かカツアゲの標的にされたかとしか思えない。
「委員長はそんなことしねえよ」
「それなら何の話だい? 優哉君は知っているようだけど」
俺の思ったことを、今度は遥斗が代弁する。
「委員長、時貞に言いたいことがあるんだとさ」
「言いたいこと? 何か気に障ることしたかな」
「そんなんじゃねえから安心しろよ。何でもお礼を言いたいらしいぜ。まあ詳しいことは本人から聞くんだな。俺があれこれ言うのも野暮ってやつだろ」
「……身に覚えがないな」
「なんだよ変な顔して。とにかく悪いことじゃねえから行ってやれよ」
さあ、久々に部活に行こうぜ、と鞄を持った優哉は歩き出す。
俺も自宅から持ってきた防具袋を担いで続く。竹刀袋は遥斗に持ってもらう。
「時貞君、大丈夫かい?」
隣を歩く遥斗が探るような眼差しを寄越す。何とか持てるよ、と答えれば、防具のことじゃなくて、と彼は訂正する。
「せっかく女子に誘われたんだ。こういう時はもう少し嬉しそうな顔をするものだろう?」
「……辛気臭い顔で悪かったな」
格技場へは校舎南側から渡り廊下を経由する道程となる。この小さい集会場のような建物は地階だけの構造であり、入り口側は剣道場、奥側は柔道場という区画になっている。
奥にあるいくつかの小部屋が部室兼更衣室なのだろう。その一室から、女子の賑やかな声が聞こえることから察するに、あれが女子部室なのだろう。
「時貞君、男子部室はこっちだからね」
遥斗が女子部室の隣室へ入っていく。
六畳程度の部室に入ると、饐えた臭気が鼻をついた。
剣道特有の――世間一般には悪臭に分類されるであろうこの臭いは、脳髄の底に追いやった同好会時代の過去を呼び起こそうとして、それが堪らなく不快だった。記憶を想起させる引鉄は視覚でも触覚でもなく、嗅覚あるいは聴覚の占める割合が多いのかもしれない。
「やっぱりこの部屋臭えよなあ」
優哉がひとつしかない曇りガラスの窓を開ける。新鮮な外気が吹き込み、吊るした数枚の道着が風に揺らぐ。教室から担いだ防具袋を置けば、どさ、という音がした。
現役の頃は、重いと感じたことは一度もなかったが、片手が不自由な今となっては、ここまでの運搬も重労働であった。
「優哉。防具はどこに置いたらいい?」
「棚の空いてるとこならどこでもいいぜ。どうせ部員は俺たちだけだから自由に使ってくれ」
優哉は学ランを脱ぎ捨て、軽やかな開襟シャツ姿となる。シャツの裾を出し、赤色の派手なインナーが透けて見え、まるで背伸びした不良である。
「時貞、今日は見学だけか。せっかく道具一式持ってきたんだし少しやっていこうぜ」
「いや、今日は見てるだけにするよ。立花さんからの呼び出しもあるし」
「そっか。お前と稽古したかったんだけどな」
「そのうちな。俺は先に出てるよ」
部室を出た時には、柔道部の男子数名が円陣を組んで準備体操を始めていた。
剣道部は男女ともに誰も出て来ていない。女子部室からは依然として談笑が漏れ聞こえるあたり、どの学校でも女子の着替えというのは遅いらしい。やはりここは普通科らしく緩やかな環境であるらしい。少なくとも、男性顧問が女子部室に闖入し、まだ着替えていない部員に体罰あるいは性的虐待を加えるような前時代的境遇ではないようだ。
男子は稽古中に鼓膜を破られ、女子は夜の居残り練習でまた別の膜を破られる――とは中学時代の悪友が残した名言である。それが事実かは最早知る由もないのだが――その顧問は執行猶予も付かずに塀の中にいることから推して知るべしだろう。
そんなことよりも。
着替えのことでひとつ懸念があった。
学ランと、その下のシャツのボタンを開けながら、壁に設置された大鏡の前に立つ。ハイネックのアンダーの襟を下げて首筋を露わにすれば、生々しい縊痕が未だ消えずに残っている。
鏡に映る少年が皮肉そうに唇を歪める。
当然、剣道着は肌の上から羽織るものだ。だが、それでは首の傷を隠すことができない。かといってアンダーを着たまま練習するのも非常識である。いっそのこと、蚊に刺されたとかアレルギーで皮膚がかぶれたとか、それらしい理由をつけて包帯でも巻けばいいのかもしれない。
意識を逸らすため、壁に掛かっていた誰かの木刀を取る。
鏡に向かい、中段に構えた時。
――貞くんの構えって綺麗ね。様になってて格好良いわ――。
誰かの声が蘇る。
「……は?」
振り向くが背後には誰もいない。柔道部が受け身の練習をしているだけである。
――何だ、今のは。幻聴か?
耳元で囁かれたかのようであった。
確かに大昔、誰かに言われたことである。
誰かだと? 俺をあんな綽名で呼ぶのはただひとりしかいないではないか。
――思い出すのは止せ。頼むから、やめてくれ。
記憶がひとりの少女を形成する前に、鏡の中に立つ己を睨みつける。中段の構えから、左足を半歩踏み出し、木刀を振り被った上段の構えをとる。添えただけの右手を丹田――臍の下に当て、幻想を振り払うように左手だけで木刀を床まで振り下ろす。
もう、声は聞こえなかった。
そうだ、これからは上段にしよう。どうせ右手が満足に使えないのだ。早期の回復が見込めない以上、片手で竹刀を扱う上段しか選択肢がない。一心不乱に左手だけで素振りをしている内に、初めてだった構えも、次第に形になっていく。
「ねえねえ。キミが噂の転校生君?」
また、背後から呼び掛けられる。どこか甘えるような響きをした声であった。
鏡に、こちらを覗き見る女子が映っている。今度は幻覚でも幻聴でもないようだ。
「ああ、どうも。初めまして」
振り返り、一礼をする。声を掛けてくれた彼女は、やや癖のあるボブという髪型で、女子高生らしい二三回巻いたような膝上のスカートが特徴的であった。
「キミが、ユウ君が言ってた入部希望者でいいんだね」
ユウ君――おそらく優哉のことだろう。彼はいつの間にか他の部員に俺の存在を伝えていたらしい。
「ああ。千葉時貞っていうんだ。よろしく」
「よろしくー。アタシ、剣道部のマネージャーで久我華子っていうの。くが、はなこだよ」
「久我さん、ね」
ぎこちなく笑い返せば「かたいなあ、華子でいいよ」と久我さんは軽い調子で笑う。
きっと彼女は、笑顔でいることに慣れ切っているのだ。同時に、他人との距離を無意識に詰められる人種でもあるのだろう。笑うことにいちいち疑問を挟む俺とは大違いである。
「いや、女子を下の名前で呼ぶのは緊張するから無理っすね」
「なんで敬語だし。というか転校生君、そんなキャラなの?」
「うん? 変なこと言ったかな」
「そんな顔して女子と喋るの緊張するって。おかしいんだけど」
「そんなにウケる要素ないでしょ。それより部活について教えてくれないかな」
「いーよー。ま、あっちで座りながら話そ?」
またも軽い返事をして、久我さんは窓際に置いてあった椅子に座る。
椅子の前には使い込まれた机があり、出席簿や戦績表と題されたファイルが置かれている。マネージャー専用席であるらしい。
「キミもそこ座りなよ」
久我さんは隣にある、もうひとつの椅子を指し示す。
「それじゃ、失礼するよ」
椅子の座面には画鋲も接着剤の類もない。脚の強度にも問題はなさそうである。
久我さんは出席簿を開き、やたら飾りのぶら下がったシャーペンでマルをつけていく。
「あ、キミの名前も追加しなきゃだめなのか。下に付け足すだけでいい? 新しくデータ作って印刷するのもちょっと面倒だし」
「別にいいよ。むしろ幽霊部員扱いでいいよ。毎日に出るつもりもないし」
「え、そうなの? 毎日出ないとダメだよ」
脊髄反射のように久我さんは答える。
彼女の言い方に強い違和を感じた。
「まじか。駄目なのか」
「いや、フツーに考えてそうでしょ」
「普通? 顧問がうるさいのか」
「それもあるけど部活は毎日やるものでしょ。皆やってるし」
分かるようで分からない理屈である。
彼女は、皆がやることだから俺もそれに従うべきだと言いたいのだろう。そして例外は許されないとも。もしかしたらこの学校ではそれが当たり前――常識なのかもしれないが、生憎、俺にそんな余裕もなければ従ってやる義理もない。部活というのは、身体的にも精神的にも、経済的にも時間的にも、ある水準以上の余力がある者にしか許されない一種の贅沢ではないだろうか。
「優哉はいいのか。あいつも毎日出てないんだろ」
「そうなんだよね。ユウ君、最近やる気がなくて。というか、それはハル君もなんだよね」
久我さんは小さく嘆息した。出席簿を拝借してパラパラと捲って見れば優哉の出席率は五割にも満たない。遥斗でおよそ七割である。対して女子の出席率は総じて高い。
「ウチの男子は女子と比べるとちょっとダメダメなんだよ。キミはそうならないでよ」
「善処はする。しかしそう言うってことは女子は強いのかい」
「うん! みんな強いんだ。この間も市の大会で優勝したし」
「ちょっと規模が小さいような気がするけど、すごいじゃないか」
「そこは言わないでよ。みんな練習に一生懸命なのは本当だから」
「ごめんごめん。あそこにある県大会出場ってのが目標?」
ちらりと視線を上に向ければ、『目指せ県大会出場!』と壁にスローガンが張られている。達筆な字で威勢こそあるのだが、内容自体は控え目であった。
「そうそう。男子はビミョーだけど、女子にとっては楽勝っぽいね」
「なるほど。大体分かったよ」
しばらくして練習が始まった。
隣に座る久我さんは時々掛け声を放ったり、部員が飲む水を汲みに行ったり、練習で気になった点をメモしたりなど忙しそうにしている。その合間に、彼女は練習について、またメンバーについてあれこれと解説してくれた。
基礎練習が終わる頃、顧問の教師がやってきた。
三十代前後の爽やかな風貌をしている男性教師は、優哉から俺のことをすでに聞いていたらしく、俺の入部も今日の見学もあっさりと許可してくれた。
スポーツマンのような若手教師――毎度のことながら互いに名乗ったものの名前を失念してしまった。今度は高橋先生と呼ばせてもらおう――から、防具も竹刀もあるならやっていかないかと誘われたものの、用事があると丁重に断った。
剣道着に着替え、防具を着用した高橋先生が練習に加わることで場が締まったものになる。
打ち込みの基礎練習から、試合を模した二人一組の稽古に移る。時間は二分区切りで、タイムキーパーは久我さんが担当する。ストップウォッチで測り、時間ごとにブザーを鳴らす。
高橋先生に女子部員達が稽古を請いに行く。我先にと行くのは彼女らの向上意欲が高いのか、はたまた先生の凛々しい見た目によるものなのかは分からない。
男子二人は互いで組むことにしたようだ。
「それはそうと、ぶっちゃけ、どう?」
激しく打ち合う優哉と遥斗を見ながら、久我さんはこちらに半身を寄せる。
優哉が飛び込んでの面を放とうとするが、その時には既に遥斗の竹刀が優哉の小手を捉えていた。二人が交差して間合いが開くが――すぐにその空間は激しい責め合いに塗り替えられる。
「どうって、何が?」
「うちの剣道部の感想。キミ、剣道やってたんでしょ?」
「そうっすね」
「だからなんで敬語だし」
そこで久我さんはブザーを鳴らす。二分という時間は、見ているだけの身からすれば短いが、やっている者からすれば異様に長く感じるものだ。息をつく間もなく、主将の掛け声で久我さんは再び時間を計測する。
「率直に言えば」
「言えば?」
久我さんは、男子が怠慢で女子が強いと言っていたが、俺の評価は全くの反対であった。
優哉も遥斗も強い。優哉は打突が早く伸びやかであり、更に縁を切らない――集中と間合いを繋ぐ剣道である。対する遥斗は、相手の竹刀を殺し、自分の間合いで戦うことを念頭を置いているらしく、とにかく剣先の責めに優れている。
女子の方は弱くはないのだろうが、そこに目を惹く者はいない。全員が平均以上であり堅実で隙のないチームなのだろうが――正直、飛鳥の方が強いだろう。
「優哉と遥斗、かなり強いな」
「まあ、今日だけ見ればそうだよね」
「普段はやる気がないんだっけ」
「そうなんだよ。やればいいのに、やらないんだ」
まあ、気持ちは分からないでもない。奴らは、人数がいないという理由で女子と共に稽古をしているのだ。女子にとってはレベルの高い相手とやれて満足なのかもしれないが――逆の立場ではどうだろうか。
視線を男子二人に戻す。
優哉は主将にやろうと誘われたが、彼はそれを断って高橋先生の許に行く。
遥斗は他の女子とやっているが、まるで相手にならない。女子は遠間から間合いを詰めようとするが、その遥斗に竹刀を殺され、逆に間合いを詰められる。退こうにも壁際で余裕もない。前にも出られず、かといって退くこともできず――女子の足が居着いたところに遥斗は片手突きを放つ。彼の竹刀は、正確に女子の喉元を捉えた。
一本取ったからもういいや、と言わんばかりに遥斗は背を向け、最初の立ち位置に戻っていく。
その一瞬、遥斗と目が合った。
眼鏡を外している彼は得意気に口元を釣り上げる。
――やるじゃねえか。
右手が使えない今、あの二人と対等に戦えはしないだろうが、一緒に試合に出たら楽しいだろうと思った。
「俺も本気でやるしかないよなあ」
もっとも、時間と妹が許す範囲になってしまうが。
自主練習としてジョギングと筋トレも追加しようと考えていると。
「おい、時貞。時間いいのかよ」
高橋先生との稽古を終えた優哉がやってきた。消耗したのかその吐息は荒い。
「ユウ君おつかれー。カッコ良かったよー」
「あんがとさん。それより時貞、もう時間だろ」
「ん? 時間って何が」
「忘れんなよ。約束してたじゃねえか」
「約束?」
別に、優哉と何かを取り決めた覚えはないのだが。
話が進まないと言わんばかりに「向こう見ろよ」と優哉は小手を嵌めた手でドアを示す。
言われた通りに立ち上がって出入口を見れば――ガラス越しに、渡り廊下の壁に寄り掛かる女子生徒が見えた。どこか寂し気な面持ちで、自分の三つ編みを弄っている。
あれは――立花さんである。
誰かを待っているのだろうか。
「……やべえ、やらかした」
誰かって――俺である。
立花さんと落ち合う約束をしていたことを完全に失念していた。腕時計を見れば、部活が始まってから既に一時間が経っている。見学にすっかり夢中になっていたのだ。
「ちょっと転校生君、どうしちゃったの?」
「もう帰るわ。ええと、蘇我さん。今日は色々と教えてくれてありがと。本当に助かったよ」
「待って、アタシ蘇我じゃなくて久我だから」
「あ、悪い」
どっちだって似たようなものじゃないか、とは流石に言わなかった。
戸惑う久我さんに「こいつ約束すっぽかして女を待たせてんの」と優哉が解説する。
「うわー。ダメ男じゃん。いくら不良っていっても約束は守らなきゃ」
「いやそもそも不良じゃねえよ。とにかく俺はもう行くよ。それじゃ」
「うん。また明日ね」
間延びした挨拶を背で受けながら、足早に剣道場を後にする。
格技場から出てきた俺を見て、待ちぼうけをくらったかわいそうな女子は、忘れられたかと思ったよ、と所在なさげに目を伏せてしまった。