■2-2.数学、現国、英語、古典と座学のフルコースを終えて昼休みを迎える。
数学、現国、英語、古典と座学のフルコースを終えて昼休みを迎える。
授業内容はどの教科も自習を済ませていた範囲であり、進行に問題はない。ただ、強いて挙げれば数学に少々の不安が残る。理解できないことはないのだが、どうにも頭の回転が鈍く、計算の精度もいまひとつであった。自分で言うのも情けないが、昔の己はもう少しデキが良かったはずだ。それが今となってはこのざまである。
死に損なった際の後遺症なのだろう、きっと。
首回りを撫でれば、ずきり、と脳の中心が疼く。
過去と現在を比較しても何の慰めにもならないことは重々承知している。今は昼休みだ。食事を済ませ、授業で理解しにくかった箇所を教師に聞くなり、校内を歩いて場所を覚えるなり、すべきことはそれなりにある。クラスメイト達も、財布を片手に購買に向かったり、雑談に興じたりと、各々が思うように過ごしている。
俺も昼飯にしよう。
机の横に掛けた鞄から弁当と茶を入れた水筒を取り出す。白米に梅干し、卵焼きにキャベツとミニトマトのサラダ、冷凍食品の竜田揚げという手抜きの献立である。男子高校生が食う分としては物足りないが、運動部でもないのだからちょうどいいだろう。
美味くも不味くもない弁当を空にして、温い煎茶を飲み干した時、ひとつ前の席の女子が、振り返ってこちらを見ているのに気付いた。
「何か用?」
目の前の女子は、まさか俺から喋るとは思っていなかったのか、少し慌ててから。
「前にも会ったよね」
と尋ねた。
「そうだったかな」
言われてみれば、見覚えがあるような気もする。
高くない身長に、左右から垂れるふたつのお下げ。
「ああ、朝に会ったな。職員室の場所を教えてくれて助かったよ」
「いや、そうなんだけど、そうじゃなくてさ」
三つ編みの女子が困ったように言う。
「昨日会ったでしょ。私のこと助けてくれたよね」
「悪い、ちょっと記憶にない」
そういえば、この女子は朝も同じことを言っていた。
「なになに? 委員長、転校生と知り合いだったん? なんかすごいなあ」
俺と女子の会話に、ふたりの男子が入ってくる。ひとりは茶髪を整髪料で固めた軽薄そうな格好をしており、もうひとりはメタルフレームの眼鏡が似合う理知的な外見である。
「別に知り合いってわけじゃないよ。昨日街で危ない人に絡まれたとき助けてくれたんだ」
委員長と呼ばれた女子は答えるが、やはり心当たりがない。
「やっぱりすごいじゃん。運命の出会いじゃね?」
「運命って。ちょっとおおげさだよ。きみもそう思うでしょ?」
名も知らない女子は同意を求めるように俺を見る。
「まあ、そうだね」
曖昧な返事をしてやり過ごす。
運命という言葉はどうしても好きになれない。俺を現在進行形で翻弄している糞みたいな人生の巡り合わせもすべて運命なのかと。神の掌の上なのかと問い糾したくなる。
「ところでさ。名前、聞いていいかな」
俺が聞けば「名乗るのが先だったね」と傍観していた眼鏡の男子が答えた。
続けて。
「僕は加賀美遥斗。好きなように呼んでくれていいよ。それで、こっちが」
眼鏡は隣の茶髪を示す。
「俺は榊原優哉。こっちの三つ編みが」
「私は立花さくらだよ。よろしくね」
眼鏡が加賀美、茶髪が榊原、委員長が立花。
「ああ。よろしく。ええと、加賀美君に榊原君、立花さんだね」
折角、俺なんかに声を掛けてくれたんだ。
できるのなら忘れたくない。
「ちょっとカタいぜ。優哉でいいって」
「僕も遥斗でいいよ」
「分かった。それなら俺も時貞でいいよ」
気の良い男子達は笑って頷いてくれた。
「それで、立花さんはともかく、二人は何の用?」
「あー。ちょっと言いにくいんだけどよ、頼みがあるんだ」
後頭部に手を遣った優哉が言葉を濁す。
「頼み?」
「いきなり聞くのもあれだけどよ。お前、剣道やってたんだろ?」
「もしかして部活の勧誘か」
随分と嫌なことを聞いてくるじゃねえか。
「怒るなよ」
「怒ってねえよ」
「怒ってんじゃん」
目付きが鋭くなったのを自覚して優哉から目を逸らす。
「言っておくけどな。朝クラスの空気凍ったからな。不良がキレたやばいって感じで」
「それは悪かったと思ってるよ。こっちにも事情があってな。田中先生に腹が立ったんだ」
あと俺は不良じゃねえよ、と付け足せば、優哉も立花さんも「え?」と首を傾げる。
遥斗に至っては「悪いけど説得力が皆無だよ」と笑っている。
「何だよその反応。自己紹介でも不良じゃありませんって言っただろ」
まあ、他人が抱く印象にあれこれ言っても無駄なのだが、それでも納得がいかない。
「そもそも田中先生って誰?」
立花さんが控えめに聞く。
「え? うちの担任、田中じゃないのか」
「いや田中じゃねえし。佐藤だから」
優哉の指摘に「どっちも同じだろ」と言えば、「君は全国の田中さんに謝罪した方がいいよ」と遥斗が言う。
「知ってるかい? 戸数が多いと思われる田中さんだけれど、実は約百三十七万戸で全国順位だと四位でしかないんだ。ちなみに三位は高橋さんで二位は鈴木さん。そして栄えある一位は」
遥斗は饒舌に語る。どうやら眼鏡は伊達じゃないらしい。
「どうせ佐藤だろ。話を戻していいか」
全国名字戸数調査に興味はない。おかげで気分は落ち着いたが。
「二人は剣道部の勧誘に来たのか」
「そういうことだ」
雰囲気から察するに、冷やかしでも雑談のネタでもなく、彼らは本気で部員を欲しているように見える。
「それで、どうだ? 無理にとは言わないが剣道部に」
「無理だ。他を当たってくれ」
即答すれば、男子二人は固まってしまう。
「……ちょっと断るのが早すぎるんじゃないかい。せめて話だけでも聞いてくれ」
「話を聞いても俺の答えは変わらないと思うぜ。部員不足で廃部の危機なのか」
「半分は当たりだよ」
「半分?」
「今、剣道部の男子は僕と優哉君だけなんだ。二人だけじゃ団体戦にも出られないし練習だって満足にできない。出ても個人戦だけだ。だから僕らは、せめて男子があと一人いればいいなって昔から話していたんだよ」
「なるほどね。事情は分からないでもないけど、俺はやらないよ。他を当たってくれ」
「何か事情があるのかい?」
「別に。引っ越してきたばかりで部活をする余裕がない。そもそも怪我やブランクで戦力にはなれない」
更に言えば。
中学時代、俺と共に剣道部に所属して、度を過ぎた指導を受けた結果、剣道を憎むようになった妹だっているのだ。妹のことを思えば入部なんてできようもなかった。
「お前の生活が落ち着いてからでもいいからさ。助けてくんねえかな」
「僕からも頼むよ。毎日参加してくれなんて贅沢は言わない。まずは入部してほしい」
優哉が手を合わせ、遥斗が頭を垂れる。
立花さんは不安そうな面持ちで俺と彼らを交互に見ている。
助けろ、ね。
なんというか、この言葉は卑怯だ。
ほんの少しだけ、手を貸してやってもいいんじゃないかと思ってしまう。
「仮の話だけどさ。俺は入部しても毎日練習に参加はできない」
「それでもいい。俺だって毎日行ってるわけじゃないし、文句を言える立場じゃないさ」
「俺、お前らより絶対弱いぜ。役に立つか分からない」
「それでもいいさ。団体戦に出られるんなら、それでいい」
優哉も遥斗も、やけに真っすぐ俺を見ていた。
「まあ、そうだな。すぐには答えられないから時間がほしい。期待はしないでくれ」
幸か不幸か、竹刀も防具も、道着も袴も未だ処分していない。部活に割く時間をどう作るか、俺の身体と精神が練習に耐えられるのかの方が問題である。右手を密かに握り締めようとするが、やはり指が完全に曲がらず、竹刀を振れそうにはない。
「あの、ちょっといいかな?」
明言を避けた俺に声を掛けたのは立花さんだった。
「私は運動部じゃないから分からないけど――ううん、分からないから思うんだけどね。運動部のみんなって、とても楽しそうに見えるんだ。なんというか、こう、文化部にはない繋がりというか、絆というか。だから、簡単に言って無責任かもしれないけど――時貞くんもやってみたらどうかな。きっと、楽しいと思う」
「楽しい、ねえ」
「うん。きっとそうだよ」
楽しめるのなら、やってもいいかもしれない。
――久しぶりの高校生活、満喫してね? 約束だよ――。
一瞬、妹の姿が脳裏をよぎる。
あいつは、俺が剣道をすると言ったらどんな顔をするだろうか。
* * *
俺が家に着くよりも先に飛鳥は帰宅していた。
制服のまま自室のベッドに寝転がり、どこで買ったのかファッション雑誌を開いている。
「おかえり。思ったより早かったね」
「ただいま。制服シワになるだろ。ハンガーに掛けとけよ」
「あとでやるよ。いま、いいところだから」
「雑誌にいいところも何もないだろ」
「それがあるんだって。このモデルさん超かわいいんだよ? 脚キレイでめっちゃ細いし」
「ああ、そう。それは良かったな」
流行には興味が持てずどうしても返事がおざなりになる。飛鳥は俺の態度が気に食わなかったのか「なにそれ感じ悪い」と足をばたばた動かして抗議する。
「埃たつからやめろって。それより晩飯はカレーでいいか」
「お兄ちゃんが作ってくれるなら」
俺が「最初からそのつもりだよ」と答えれば、雑誌に視線を落とした飛鳥は「私は手伝わないからよろしくね」と答えてページを捲った。
「久々の学校、どうだった?」
夕食時、カレーをほおばりながら飛鳥は聞いた。
「そういうお前こそ。転入生ライフは満喫できたか」
「お兄ちゃんってさ。都合悪いこと聞かれると、いつもそうやって聞き返すよね」
「え、まじ?」
「うん。ごまかすの下手だよ。それで、何かあったの?」
「俺がごまかしたと知った上で、更に聞くのか」
「え、そんなに言いたくないことがあったの?」
「そこまで悪いことじゃないけどさ」
「ふうん。で、なに? いい出会いでもあったの」
飛鳥は小皿から赤い福神漬けをすくい、ルーと白米の中間地点に投下する。真ん中に置かなければ気が済まないらしい。
「出会いはなかったけど、部活に誘われた」
「誘ってくれる人がいるなんてよかったじゃん。何部?」
「剣道部」
飛鳥の動きがぴたと静止する。
視線だけが、俺の首と右頬を滑り――そして右眼で止まった。
「……するの? 剣道」
「剣道部の男子、今二人しかいないんだと。お前も知ってるだろうけど、二人じゃ団体戦は無理だ。それで助けてほしいって頼まれた。あと、部活をした方が楽しいだろうってことも。だから、俺としては、また剣道をやりたい」
「お兄ちゃんはそれでいいの? もう辞めるつもりだったんでしょ」
「そのつもりだったけど、ああも頼まれて、しかも助けてと言われると、な」
自分が必要とされているのだと。
こんな俺でも、誰かの力になれるのだと期待してしまう。
だが、それよりも。
「お前は、どう思う?」
「どうって、何が」
「分かってて聞くなよ。昨日言ってただろ。俺が剣道するの嫌なんだろ。納得してくれるか」
「それは――どうだろう。たぶん、無理だよ。絶対に無理」
飛鳥は、時間稼ぎをするように、スプーンを置いて麦茶の入ったコップを手にした。唇を濡らす程度に一度だけ傾ける。
「もし、私が嫌だって言ったらどうする? 入るの、やめてくれる?」
「ああ」
「即答してくれるんだ」
「もちろん。お前の方が大事だからな」
「ありがと。でも、お兄ちゃんはしたいんでしょ?」
「ああ。した方が、気は楽になる」
入部はあくまで人助けの手段でしかない。
また、青春の楽しみという分かりやすさに惹かれたのもある。
しばらくの間、互いに何も言わず見つめ合っていたが、やがて飛鳥は小さく頷いた。
「いいよ。お兄ちゃんがしたいのなら、私は応援する」
「本当にいいのか」
「だからいいってば」
あんまりしつこいと気が変わるよ、と飛鳥は俺を軽く睨む。
「無理だけはしないでね。中学のときみたいに大変で、何もかも犠牲にしなくちゃいけないところだったら」
「全部言わなくてもいい。多分、俺の高校は強豪校って訳でもなさそうだ。それに、練習に参加するのは今の生活に慣れてからにするよ。まあ、出ても週に三日程度じゃないかな」
「それ大丈夫なの? あとで絶対、毎日出ろって周りから強制されるでしょ」
「その時はこっちから辞めてやるよ」
無論、毎日時間が許す限り、精根尽き果てるまで稽古を重ねた方が当然強くなれるだろう。だが俺にはそんな余裕はない。他の連中のように、黙っていても食事を出して、衣類を洗濯して、部屋を掃除してくれるような家族はいない。
飛鳥に頼めば、従順過ぎるこいつのことだ。嫌な顔ひとつせず、そして甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれるのかもしれない。だが、これ以上妹の負担になりたくなかった。
「まあ、暮らしを最優先にして、その上での部活ってことになるかな。俺から話せるのはこれぐらいだけど、お前はどうだった? クラスに馴染めそうか」
「どうだろ。一応、手応え的なものはあったかな」
「手応え?」
「うん。仲良くなれそうな子が近くの席だったり、クラスの中心っぽい子が、私を認めてくれたな、と感じたときとか。この調子でいけば――そうだね。中心グループの二番手ぐらいにはなれるんじゃないかな」
ほら私かわいいから、と飛鳥は不敵に笑う。
「そこまで計算するもんなの? 何だか息苦しいな」
「女子はみんな打算にまみれているんだよ。ま、他の子から恨まれたり妬まれたりしないていどに頑張っていこうとは思ってるよ。あ、でもさ。ひとつだけ違和感を感じたんだよね」
「へえ。どんな?」
なお、違和感を『覚えた』と言う方が適切だろう。
「学校の雰囲気というか、みんなの考え方なんだけどね。お兄ちゃんは感じなかった? 何というか、みんなで同じことをするのが正解で、いい意味でも悪い意味でも空気を乱そうとしなくて――今日、国語の時間にあてられたとき変な空気になったもん」
「変な空気って、お前が答えられないから、そうなったんじゃないのか。そんな簡単な問題もできないのか、みたいな感じで」
「私ちゃんと答えたから。むしろ、分からないって言ったの他の人だから。それで、私が最後に答えて『そこ答えるところかよ』みたいな空気になったんだ。そこだけは、ちょっと分からない――ううん、納得いかなかったな。何というか――そう、閉鎖的なんだよね」
「あまりこういうことは言いたくないけど、要するに足の引っ張り合いだろ」
「なんだかばかみたい。ああいうのにも合わせなきゃいけないもん」
「ばかみたい、じゃなくて馬鹿なんだよ実際」
「ほんと、その通りだね。何だか苦労しそう」
憤慨した飛鳥は、スプーンを取り食事を再開する。
確かに、場の雰囲気を乱す側も問題だが、足並みを揃えることを強要して、列を乱す者を排除しようとする奴もいるのだから始末に負えない。まあ、そのあたりの平衡感覚と実害は、俺よりも飛鳥の方が身をもって知っているから何も言えないが。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「どうしたって、何が」
「今日食べるの遅いじゃん」
半分ほどカレーを減らした飛鳥が俺の皿を見る。
俺は喋ってばかりで、ほとんど食べていなかった。
「今更だけどリハビリしようと思って」
「リハビリ?」
「剣道するなら右手の握力が戻らないままじゃどうにもならないだろ。だから今日から右手を使って食べてみようとしたんだが、どうにも上手くいかなくてな」
情けないことだが、指に力が入らず、すくう動作ができない。
「……そっか」
「気にすんなよ。お前はさっさと食って風呂にでも入ってろ。明日もあるんだから」
「食べ終わるまで待ってる」
「そんな必要ないよ」
「今日は私がお皿を洗うから。それに、お話でもしてればすぐでしょ」
「悪い。できるだけ急ぐ」
「お兄ちゃんのペースでいいよ。リハビリなら焦っちゃダメ。ゆっくり確実にいこうよ。ね?」
飛鳥は唇の端を持ち上げる。
その笑顔と呼ぶに呼べない表情からは憐憫が透けて見えて――たまらず、特徴のない味のカレーに目を落とす。捻じ曲げるつもりでスプーンをきつく握ったつもりであったが、やはり手指は思うように動いてくれない。結局、たった一皿を平らげるのに三十分を費やしてしまった。
まさか、食事がこんなに疲れるとは。
和室に敷いた布団に、うつ伏せに倒れ込む。食事すら満足にできない自分が惨めだった。このまま不貞寝をしてしまおうと思った時、文机の上に置いた携帯が振動した。どうやら携帯までもが俺の敵であるらしい。振動の長さから察するに、着信ではなくメールである。左手を伸ばし、携帯を手に取る。差出人の宛名を見れば。
『緒方夏美先生』
俺が前にいた高校の教師。そして剣道同好会の顧問。
また、この人か。
ただの顧問が転校していった生徒に連絡取ろうとするなよ。
コンプライアンス的にも褒められたことじゃないだろう。
思わず溜め息が漏れた。本文を見る前にメールを削除して携帯の電源を落とす。
ああ、そうだ。部活のことだ。
あの仲良しメンバーの名前、何だったかな。
ノリの軽い茶髪に、利口そうな眼鏡、三つ編みの委員長――。
妹以外と、あんなに話をしたのは久々だった。
強張った頬が緩むのを感じた。
連中の名前を思い出す前に、俺は眠ってしまった。