■2-1.目が覚めた。身体が冷え切り、酷く寒かった。
新作を書く気力が湧かず、旧作の手直しを続ける日々。文章は幾らでも検めることができるけれど、過去は変えることができない。受け容れることしかできない。けれども。他人にも自分にも誇れるもののない過去しか持たぬ者はどうすれば良いのだろうかと頭を抱えてしまう。私の青春時代は、大学時代を除き、酷く不細工で、醜くて、汚い、まさに人生の汚点である。否、仙台にいた頃に婚約者を喪った時から、私の人生はもう終わってしまったのではないだろうかと思う。嗚呼、だから虚しいのだ、だから悲しいのだ。だからこんな失敗作を持ち出しては加筆修正なんかをしているのだ。
目が覚めた。身体が冷え切り、酷く寒かった。
分厚い遮光カーテンの隙間から眩い朝日が差し込んでいる。携帯を時計代わりに見れば、四時を少し過ぎたところであった。
最悪な目覚めだよ、畜生。
夢に見てしまうほど、俺は紫さんのことを、そして蓮次郎のことを気に掛けているらしい。あの空間をぶち壊したのは他ならぬ自分自身だというのに。
明朗な性格で人気者の蓮次郎に、大和撫子の紫さん。そして俺も優等生かつ理屈屋として、控え目ながらもチームの一員を担っていたと思う。思いたい。
三人だけの剣道同好会である。
あんな夢を見たからだろうか。久しぶりにかつての仲間の顔も名前も思い出すことができた。やはり友情というものはそう簡単に消えないのだろうか。
――馬鹿か、俺は。
そんなもの、とっくの昔に、しかも情けないほどあっさり壊れてしまったではないか。
あの頃には戻れない。戻りたいとも、思わない。
俺と連中の間にはもう何も残っていない。その証拠に、つい数秒前までは顔も名前も確かだった者達の存在は、白い靄に包まれてどこかにいってしまった。
半年前に、妹に勧められて行った心療内科の診断によれば、これは心的外傷に起因する記憶障害なのだとか。また快癒には時間をかけることしかないとも。
だが、嫌ではなかった。憎々しい者達の姿形を思い浮かべ、過去に責め苛まれるよりは、忘れてしまった方がずっといいことだってある。新たな出来事を詰め込む余裕こそないが、余計なことを考えずに済むのだから。
飛鳥が起きたのは、二人分の弁当と朝食を作り終えた時であった。
女子らしいモコモコとした寝間着に身を包み、目をこすりながら食堂兼居間にやってくる。
「おはよう、兄さん。早いね」
「おう。顔洗ってこい。寝癖も直せよ」
はあい、と気の抜けた返事をして、のろのろと飛鳥は洗面所に向かう。普段より一つ低い声とテンションであり、それが妹の素の姿である。
食卓に手抜き料理を並べ、飛鳥が戻るのを待つ。
「ごはん作ってくれたんだ。ありがとね」
髪の一部を濡らし、タオルを肩に掛けた飛鳥が椅子に座る。まだ眠そうな様子であった。
「寝起きで悪いけど、冷める前に食べてくれ」
「はい、いただきます」
飛鳥は両手を合わせ、味噌汁に箸をつける。俺もそれを見てから食事を始める。
訓練の賜物か、左手で箸を使うことにもすっかり慣れてしまった。
食事を済ませ、身支度を調えた時にはいい時間になっていた。
和室に置いた姿見の前で飛鳥は一回転してみせる。おろしたての制服にはシワひとつない。身長も低いこともあってか、新入生にしか見えなかった。
「どうかな。おかしいところない?」
「特にないよ。俺はどうだ。変じゃないかな」
「大丈夫っぽい。お兄ちゃん、学ラン着るの中学以来だっけ。そっちの方が似合ってるよ」
飛鳥からの呼称が切り替わる。
外行きの格好に着替えたことで、演技のスイッチが入ったらしい。
「そろそろ出ようか。準備はいいか」
「えっと。ガスの元栓も閉めたし、戸締まりもよし。電気も消した。あ、鍵どうしよう?」
「郵便受けの中にでも入れておけばいいだろ。先に帰った方が開けるってことで」
「ちょっと不用心じゃない? ま、いっか。こんなとこに空き巣もいないもんね」
「お前を見送ってから高校に行くから早くしてくれ。流石に初日から遅刻はしたくない」
外に出れば、穏やかな陽気であった。見上げた空には雲ひとつない。
トントンという軽快な足音を立て、飛鳥が外階段を下りてくる。
「お待たせ」
「おう。まずはお前の中学だな」
二人で歩き出す。
風が吹いた。朝だからか、あるいは北国だからか、その風は少し冷たい。
「本当に送ってくれるんだ。時間はいいの?」
「余裕で間に合うよ」
「本当? お兄ちゃんの高校、割と遠いんじゃないの?」
「いざとなったら走るから大丈夫だよ」
「そんなに無理しなくてもいいのに」
「無理なんかしてないよ。気にするな」
「すっかり心配性になっちゃったね。でも、ありがとね」
飛鳥は困ったように笑った。
確かに、過保護であることは自覚している。だが、事が起きてからでは遅いのだ。
ブレーキとアクセルを踏み違えた車両が突っ込んでくる可能性はゼロではない。通り魔やストーカーの標的にされないとも言い切れない。その時、身代わりになって死ぬことができるのは俺だけである。
それに。
俺達には、仲睦まじい兄妹を演じてでも、互いの傷を癒やす時間が必要なのだ。
――まるで家族ごっこだよな。しかも性質の悪い。
所詮ごっこ遊びなのだから、きっと俺と飛鳥は、本物の家族にはなれないのだろう。
「お兄ちゃん。お願いがあるんだけど」
春風に目を細めながら飛鳥は言う。その声色はわずかに固い。
どうした、と聞けば、結構まじめな頼みごとなんだよね、と飛鳥は前を向いたまま答える。
「頼みごとっていうか――約束?」
「まあ、聞けるだけ聞くよ」
その期待に応えられるかは別の話になってしまうが。
俺の首元を一瞬見た後、飛鳥は意を決したように口を開く。
「久しぶりの高校生活、満喫してね? 約束だよ」
「わかったよ。お前も学校楽しんでこいよ。お前ならきっとすぐ友達もできるだろ」
「それはどうだろうね。今回は、もっとうまくやるよ」
中学校に近付いたせいか飛鳥と同じ制服の生徒がちらほらと見えるようになった。男女共に、公立らしい落ち着いた意匠のブレザーとネクタイである。彼らがこちらを珍しそうに見るのは、高校の学ランを着た俺がいるからだろう。
「学校もすぐそこだし、見送りはここまででいいよ」
「わかった。青春、満喫してこいよ」
「お兄ちゃんもだよ。それじゃ、行ってきます」
飛鳥は小走りで校門へ向かっていく。その姿を見届けてから、俺も自分の高校へ向かう。
* * *
高校に辿り着いた時には、通学中の生徒はひとりもいなかった。まさか今日は休校だったのかと思ってしまうが――ただの遅刻である。
何にせよ職員室に急ぐだけである。俺が出席していないことで、仕事中の親父に連絡がいく可能性だってある。これ以上、俺が生きていることで親父に迷惑は掛けられない。
こういう時、スマートフォンの地図でも使っていればもっと早く着いたのだろうが、生憎俺のは時代遅れの携帯電話である。
もっともスマホにだって致命的な欠陥がある。指先が血や脂で濡れてしまうと、いくら画面を叩いてもまるで感応してくれないのだ。ゆえに非常時には不向きだという理由で、少し前にスマホから乗り換えたのだが失敗だったかもしれない。
結局、肝心なところで役に立たないのは、ガラケーもスマホも同じであるらしい。いや、持ち主の能力によるところが大きいのかもしれないが。
昇降口で、指定の内履きに履き替える。外靴は下足棚の上に置かせてもらった。歩き出したところで職員室の場所を知らないことに気付く。周囲を見回しても、案内看板もなければ事務所や受付もない。
「ねえ、どうしたの?」
立ち止まっていたところに声を掛けられる。
振り向けばひとりの女子生徒が立っていた。両手で通学鞄を持ち、少しばかり息を切らしていることから察するに、彼女も今来たようである。
「ちょうどいいところに。職員室ってどこか知ってるか」
「職員室? ええと、左の階段を上って二階のすぐのところだけど」
女子生徒は職員室があるであろう方向を指し示す。
耳の後ろから垂れる二本のお下げが特徴的であった。飛鳥ほどではないが上背は低い。
「あれ? その傷」
女子生徒は、俺の顔――右頬の傷跡を見て、驚きと怪訝をない交ぜにした表情をする。
まあ、無理もない。
彼女からすれば、俺はここの生徒であるにも関わらず職員室の場所も知らない白痴なのだ。更に人相も悪いともなれば、不審者に出会したような顔にもなるのだろう。
「ありがと、助かったよ」
「ちょっと待って」
立ち去ろうとする俺を、女子生徒が引き留める。
「なんだよ。急いでいるんだけど」
というか彼女は大丈夫なのだろうか。同じ遅刻組だろうに。
「あの、その傷――」
「それは聞かないでくれ。面倒だから。それじゃ」
「そうじゃなくて。あのさ、この前、私と会わなかった?」
「いや、記憶にないな。人違いだろ」
「昨日きみに助けてもらったんだけど――覚えてない?」
俺が、人助け?
そんなことある訳がない。
思わず失笑してしまう。
「覚えていないよ。というか時間大丈夫か。俺も人のこと言えないけどさ」
「う。ちょっとやばいかも」
「お互い急いだ方がいいだろ。教えてくれてありがと」
「あ――」
彼女は何か言ったようだが構うことはしなかった。冷たい対応だと思わないでもないが、所詮は他人である。実際会った覚えもなければ悠長にもしていられない。
二階に上がれば、すぐ先に職員室はあった。
時間的には一限の開始直前くらいだろう。担任の教師に挨拶と遅刻の謝罪をしたのち、教室で自己紹介という流れになるのだろう。制服の第一ボタンを閉め、三回のノックをしてから入室する。
* * *
俺の編入先は二年二組、文系クラスであった。
教室の最前に立たされ、クラスメイト達からの注目を浴びている。すぐ横には、担任である恰幅のいい男性教師――早くも名前を失念してしまった。田中先生と呼ばせていただく――がいるとはいえ、値踏みをするような視線が不快であった。
「今日は転校生を紹介するぞ。彼は■■■■高校から編入した千葉時貞君だ。経歴は――私立の特進クラスなのか。あまり頭が良さそうには見えないが凄いんだな。ふむ、なるほど、なるほど。色々とあったみたいだが今日から同じクラスの仲間になるんだ。仲良くしてやってくれ」
手にしたバインダーに目を落としながら担任教師は横柄に喋る。億劫そうに眉をひそめるあたり、俺がいた高校からの申し送り事項でも挟んでいるのだろう。俺にとっては、さしずめ悪行を書き綴った閻魔帳である。そんな顔になるのも大いに頷ける。
「千葉。ぼさっと立ってないで自己紹介」
「え?」
「簡単でもいいから。人前で話す訓練は大事だぞ」
出身も名前も勝手に喋っておいて、更に要求する態度に釈然としなかったが、まあここで腹を立てても仕方ない。
「先程ご紹介にあずかりました千葉時貞です。親父の仕事の都合などで、この度ここに編入することになりました。どちらかといえば口下手なので、話しかけてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
無難で定型な挨拶を述べれば、パラパラとまばらな拍手が起こる。それに混じり「え、やば。不良っぽくね?」「こわ」「しっ。聞こえちゃうよ」などとという女子達の内緒話が耳に入る。
「短いなあ。もう少し何か言ってくれよ」
「名前と挨拶だけで十分だと思います。皆さんの時間を取るのも申し訳ありませんので」
言外に、あからさまな拒絶を含ませるが、残念ながら田中先生には汲み取ってもらえない。
「趣味とか好きなこととか、いろいろあるだろ。部活でもいいぞ」
部活、か。
糞みたいな話題である。
「では、もう少しだけ続けますが――趣味は、自転車や軽音楽、あとは読書ですね。少し前はロードバイクを改造してあちこち走ったり、軽音楽ではギターやドラムに手を出したりしていました。また、空いた時間があればいつも本を読むように心掛けております。皆さんの好きな小説や作家がいれば教えてほしいなと思っています。勉強について言えば、苦手科目は理数系です。時間はかかるでしょうが克服していきたいです。最後に、こんな外見ですが決して不良なんかじゃありませんので悪しからずご了承ください。ホント、皆さんおマジでそのへん願いしますね」
愛想笑いを浮かべながら模範生らしくまとめるが、最後に諧謔を交えることも忘れない。
「部活はどうだ、何かやっていたんじゃないのか」
「いえ、していないですね」
「そうだったか? 確か資料には――ああ、やっぱり。剣道部って書いてあるじゃないか」
言えよそれくらい、と田中先生は馴れ馴れしく俺の肩に手を乗せる。あまりウケのよろしくない俺を気遣ってフレンドリーに接しようとしたのだろうが――その態度が癪に障った。
「俺は部活をしていませんよ」
「嘘を吐くなって。ここに書いてあるぞ。剣道同好会って」
嫌なこと思い出させるんじゃねえ。
同好会と部の違いも分からねえのかよ。
「俺がしてねえって言ってんだから、してないでいいんじゃねえの?」
眼光に険が混じるのを自覚する。
ああ、こうも忍耐が足りないから不良だ何だと誤解を招くのだろう。もっとも、この場合は誤解でもなんでもないのだが。
「お前、その口の利き方」
「先生。俺は帰宅部でした。そこに書いてある情報は根拠のないデタラメですよ」
教室の空気が一気に不穏なものになる。
先生と睨み合うこと数秒。
「――まあ、いい。千葉、ここでは問題起こすなよ」
「もちろんです。俺からは何もしませんよ。俺の席はどこでしょうか」
「窓側の一番後ろだ」
随分骨のある奴が入ってきたな、と先生は俺を追い払うような仕草をする。
何も知らない癖に、利いた口を叩くんじゃねえよ。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
振り返ることもせず、教室の後ろ、窓側の席に座る。
そこからは、田中先生からの粗雑な連絡事項があり、すぐホームルームは終了となる。先生が退室して、空気が少しは和らいだものになるが。
――これ、大丈夫だろうか。
触れられたくない過去をつつかれ少しだけ逆上してしまった。初日からやらかしたのかもしれない。まあ、気にしても仕方ない。今日は黙って授業を受けるだけだ。
黒板の端に書かれている時間割によれば一限目は数学である。教科書とノート、黒の油性ボールペン一本を取り出す。教室のドアが開かれ、数学教師と思われる厳めしい顔つきの男が入ってくる。
さて。学生の本分は勉学だ――と己を鼓舞し、新品のノートを開いた。