□白昼夢 学園祭まであと二日
冷たい風が頬を撫でる感触で我に返る。
椅子に座り、作りかけの不格好な展示物を眺めていた。
窓に目を遣れば、西の空に鮮やかな夕陽が浮かんでいる。
「お帰りなさい。戻ってきてくれて嬉しいわ」
投げ掛けられた声へ向けば、黒板の前に紫さんが立っていた。
何が面白いのか、俺を見て楽しそうに笑っている。
「紫さん。どうして、君がここに」
「どうしてって、それを作るためじゃないの」
出来損ないの展示品を指差して、紫さんは言った。
「そろそろ本腰をいれないと学祭に間に合わないわ。というか、私たちに残ろうって言い出したのはあなたでしょ」
「俺が、そう言ったのか」
「ええ。私たち同好会で決めてしまおうって。忘れたの?」
「そういえばそうだったね。けど、そういうことじゃなくてさ」
確かに俺は、同好会の面々に居残りの提案をした。準備を口実に、皆と共に過ごす時間を少しでも増やそうとしたのだ。だが、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて。
「どうして、君がここに。君はあの時」
「私が、まだ、なに?」
紫さんが尋ねるが、返答に窮してしまう。
彼女は事件に巻き込まれた。
だから、ここにいる訳がない。
まして、俺に笑いかけるなど。
「貞くん? ちょっと、どうしちゃったの」
怪訝そうな紫さんの声。伏せていた顔を上げれば、こちらを心配そうに窺う彼女と視線が交差する。その表情に涙の跡はない。
涙?
紫さんは泣いていたのか?
――何ががあっても私のこと、忘れないで――。
――これが私の復讐だから――。
前後の感覚が曖昧だった。脳髄を掻き回されたかのような感覚がして、自分が生きているのか死んでいるのか、ここが夢か現なのかも分からなくなる。眩暈で揺れる視界の中、黒板に『学園祭まであと二日』と書かれているのが見て取れた。
あと、二日。
良かった。まだ、大丈夫だ。
だが、これがゼロになってしまったら、俺と彼女は――。
「今は、学祭の準備期間だったのか」
「さっきからそう言ってるじゃない。思い出してくれたのね」
「ええと、もうひとりは?」
元親友の名前が出てこない。
「東君なら職員室よ」
他のクラスの女の子たちと一緒にね、と紫さんは付け加える。
ああ、そうだった。
蓮次郎は職員室に居残りの申請書を出しに行ったのだ。
「拉致でも強制連行でもなくて、校内デートを楽しんでるでしょうね」
いつかも交わした遣り取りであった。
「そろそろ東君も戻る頃だから、私たちも始めましょう」
「いや、それはありえないよ」
蓮次郎が戻ってくるタイミングは知っている。奴は俺の絶叫を聞いて教室に飛び込んでくるのだ。少なくとも、俺と紫さんが二本の足で立っている間は絶対に来るはずがない。
「そう? あの子たちも頑張っているのかしら。東君は乗り気じゃなかったみたいだけど」
「そりゃ、君がここにいるからね。あの野郎も渋るさ」
「それは、どういう意味?」
「なんでもないよ」
追求を避けるため、両足に力を込めて立ち上がる。展示品を見下ろすが、これが何になるのか、ふらつく頭では皆目見当もつかない。
A組のクラス展示は何に決まったかを聞こうとして――やめた。前回も同じことを聞いて駄目だったのだ。そしてその問いが彼女を傷つけてしまうことだけははっきりと覚えていた。
「ねえ、貞くん。ひとつ、お願いがあるの」
「何? 俺にできることなら何でもするよ」
「何でもって、ちょっと大袈裟よ。そんなに大したことじゃ――いいえ」
私にとっては一大事なのかもしれない、と紫さんは言い淀む。いつも堂々としている彼女にしては珍しい態度であった。一体何を言い出すのかと黒目がちな瞳を見つめていれば、紫さんは恥じらうように目を伏せてしまう。
「あんまり見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
「いや、何を言うのかと思って。俺が悪いみたいに言わないでくれよ」
「あなたが全面的に悪いわ」
「そりゃ横暴だよ」
「とにかく、話を戻すけれど」
一呼吸置いたのち、彼女は意を決したように俺を見る。
射貫くような眼光に思わず背筋が伸びる。
夕暮れ。緋に染まる教室。
真正面に立つ女子生徒。
展示品を覆う影法師。
窓から吹き込む冷たい風。
何度も夢に見た場面であった。
俺はこの光景を知っている。
直後、俺と彼女に迫り来る悪魔のような結末も。
「それ、今言わなきゃ駄目か」
「今、あなたに聞いて欲しいの。そんな大層なことを言うつもりはないけれど」
「その顔は狡いだろ。分かった。聞くよ。償わせてくれ」
「償う?」
鸚鵡返しに紫さん。
俺の深刻な態度に眉根を寄せてしまう。
「償うって、あなた悪いことでもしたの?」
「まあ、そんなところだよ」
俺はこれから致命的な大失態を犯す。その結果、紫さんは――否、彼女だけでなく、俺と蓮次郎を含めた同好会の全員が不幸に突き落とされるのだ。
「俺のことなんてどうでもいい。それで、なにかな」
「ええと、ね。先客がいなかったらでいいんだけど――学祭、私と一緒に回ってほしいのよ」
「それくらいなら、別にいいよ。俺も、蓮次郎と紫さんの三人で回るつもりだったし」
「そうじゃないの。そうじゃなくて」
鈍いのね、という紫さんの呟きは確かに俺の耳に届いた。
「私とあなたの二人で回りたいの。東君にはちょっと申し訳ないけど、二人きりで」
「俺は良いけど、紫さんこそいいのか。蓮次郎もいた方が」
「あのね」
俺の発言を遮った彼女は「私はあなたと一緒がいいの」と強調する。彼女の乞うような表情に逃げ道がないことを悟る。俺が頷けば、紫さんは安堵したように息を吐き出した。
「なんだよ、驚いたな」
「私から誘ったことがそんなに意外?」
「それもあるにはあるけど、一大事って言うからさ。身構えたよ」
「そっちはまだ言ってないわ。本題はここからよ」
「え、まだあるの?」
「そんな顔しなくたっていいじゃない。学園祭が終わったら、ここで待ってて。それだけよ」
「それは構わないけど、同好会の打ち合わせでもするのか」
「いいえ。分からない?」
彼女は俺を凝然と見据える。
「そんな唐突に言われても」
「予想もできない? 勇気を出して言うけれど――あなたに伝えたいことがあるの」
夕陽を浴びた紫さんが言う。
徐々に、彼女以外のものが白く滲んで視界から消失していく。
「ここまで言えば、疎いあなたでも分かるでしょ」
「待ってくれ。俺は」
俺は、彼女に何と返答したのか。
彼女を好いている親友がいる手前、いつもと同じようにはぐらかしたような気もする。
「お願い。ごまかさないで」
意識が遠のいていく。
唇を動かし、何か喋ったはずだが、聞こえるのは紫さんの縋るような声だけであった。
「逃げないで。あなたが言い逃れできないように、証拠を残してあげる」
証拠?
「ええ。約束よ」
紫さんは立ち尽くす俺に歩み寄る。
彼女は何かをしようとしていた。
そして俺もそれを了承したように思う。
意識が混濁として、自分というものが分からなくなる。
己が世界から放逐されるべき、忌み嫌われた存在であることを強く感じて――恐怖を覚えた。
「――貞くん? どうして、泣いてるの?」
唇はもう動かなかった。涙が溢れ、止めることはできなかった。
今この時が、俺と紫さんが共に過ごすことのできた最後の時間であった。
紫さんは俺を見て酷く狼狽している。
駄目だな、俺は。夢の中ですら、彼女にこんな顔をさせてしまうなんて。
ああ、これは夢なのだ。この夢も、もうすぐ終わる。
目覚めて、俺は現実と向き合わなければならない。
――お兄ちゃんは、被害者なんだよ――。
俺の支えになろうとしてくれた誰かの声がした。
それは違うんだ。俺のせいで、紫さんは。
教室のドアが乱暴に開け放たれると同時に、俺の意識は幸せな夢から弾き出されてしまった。