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■1-2.書店で用事を済ませてからも飛鳥の機嫌は悪いままであった。

学生時代のことです。人間社会にどうにも馴染めない私は部活動というものが嫌いでした。この嫌いという言葉の意味をもっと深く述べるなら、部活動を共にする先輩、同級生、後輩、顧問の先生、外部の指導者――己を含めた人間の全てが嫌いでした。他人の顔色ばかりを窺って生きることしかできぬ私には、部活動という閉鎖的な空間ないし社会に賊することが苦痛でなりませんでした。「三年間部活をやったところで一体何になるのだろうか。どうせここは普通科で全員が進学するのに。仲間だって連絡を絶ってしまえばそこまでなのに。部活動に費やす熱量を勉強に向けてより偏差値の高い大学に行くべきだったのではないか」などといった諸々の疑問は、結局解消することができぬまま、私は高校を卒業してしまいました。私にとって心から友と呼べるのは大学時代の仲間達だけです。部活動を共にした者達、教師達に対して、何の感情もありません。こんな人間不信を拗らせた私が主将を務めていたのだから何とも愉快な話ではありませんか。

 書店で用事を済ませてからも飛鳥の機嫌は悪いままであった。時々スマホの地図に視線を落としながら、俺の数歩先を足早に歩いている。


「飛鳥。ちょっと速い、待ってくれ」

「お兄ちゃんが遅いんだよ。疲れたから早くアパートに行きたいんだけど」


 飛鳥の抱えた紙袋がくしゃりと音をたてた。


「ごめんって。さっきは言うことを聞かなくて悪かった」

「本当に悪かったって思ってる?」

「思ってるよ。軽率だった。お前のおかげで助かった」


 結局、あの二人連れは飛鳥の演技を信じ込み、渋々ながらも帰ってくれた。事が起きてからでないと動けない国家権力も、ああいう連中にだけは効果覿面らしい。


「飛鳥。機嫌直してくれよ」

「別にお兄ちゃんに怒ってるわけじゃないよ。確かに心配したけど、お兄ちゃんが間違ったことをしたとは思ってない。ただ、見ててむかついただけ」

「むかついたって、あいつらのことか?」

「それもそうだけど――あの姉弟(きようだい)の方が私はイヤだった」

「姉弟? あの制服ふたりって姉弟だったのか」

「見てて分かるでしょ。というか驚くところそこじゃないし」


 飛鳥はふっと笑った。

 俺と飛鳥の距離が半歩だけ縮まる。


「よく分かったな」

「気づかなかったの? 顔も似てたし、距離感とか雰囲気とか、家族っぽかったよ」

「顔や雰囲気、ねえ」


 だとしたら俺には分からない。自慢にもならないが、視力も悪ければ、他人の顔を識別する力もほとんど残っていない。顔と名前を一致させて呼ぶことができるのは、妹の飛鳥だけである。


 試しにあの姉弟の特徴を思い出そうとするが、やはりぼんやりとした虚像が浮かび上がるだけであった。()いて言うならば、女の方がセーラー服で男の方が学ランだったはずだ。


「それでお前は、セーラーさんと学ラン君の何が気に食わなかったんだ」

「お礼も謝罪もなかったこと」

「そうだっけ? 俺、学ラン君から言われたぜ。『すみません、助かりました』って」

「弟くんの方は言ってたかもね。でも、お姉さんからは何もなかったでしょ。普通さ、助けてもらったら、ありがとうのひとつくらい言うものじゃない? お兄ちゃんを止めた私が言えた義理でもないけどさ」


 語気を荒げた飛鳥は続ける。


「これは私の想像だけど――あのぬいぐるみだってどうせ弟くんに取ってもらったものでしょ。それで弟くんに庇ってもらって、お兄ちゃんに助けてもらって、自分は何もしないってどうなのさ。そもそも人様に絡まれないように振る舞えばいいじゃん。私、ああいうの本当に嫌い」

「落ち着けって。きっと、驚いて何も言えなかったんだろ」

「かもしれないけどさあ」

「これは体験したことがあるから言うけど――いざって時、自分の身体って思う以上に動いてくれないものだぜ。気にしたって仕方ないだろ」

「甘いってお兄ちゃん。助け損じゃん」

「感謝されたくて助けに入ったわけじゃない。頼まれもしないのに勝手に出てきたんだ。向こうからしたら驚いて当然さ。まして、こんな顔じゃ味方とはまず思ってくれないだろうな」


 多分だが、あのセーラー服も、俺に何か伝えようとはしていたのだ。ヤンキーに恫喝されたせいか、俺の容貌の悪さが原因なのかは知らないが、結局言葉にはならなかったが。


「そういうこと、言わないでよ」

「あれは俺の自己満足だよ。あの学ラン君のために行ったんだ。お姉さんを守ろうとしたけど駄目でした、じゃかわいそうだろ。うまく言えないけど――彼には、俺と同じ思いをしてほしくなかったんだ。そうやって、少しずつ()いことを積み重ねて償っていけたらいいなと思う」


 傲慢かつ身勝手な利己である。また、償いという表現が適切なのかも分からない。他に上手い言い回しもあるかもしれないが――今は、この言葉しか思い浮かばなかった。


「どうして? どうして、お兄ちゃんが償うの?」


 前を向いたままの飛鳥が問う。

 また、紙袋がくしゃりと音を立てる。


「そんな必要ないよ。絶対に、ない」

「そう言ってくれるのはありがたいけど、やっぱり、俺は自分を許せないんだ」

「私、それは違うと思う」

「そうかな」

「そうだよ」


 飛鳥は歩調を緩めた。

 互いに並び歩く格好になる。


「そっちがどう考えているかは知らないけど――お兄ちゃんは、被害者なんだよ?」


 飛鳥は俺を見る。

 その訴えかけるような眼差しを見ていられず、思わず目を背けてしまう。


「そう簡単には、言い切れないだろ」

「やめて。それ以上言ったら、本気で怒るからね」


 それから、俺達の間に会話はなかった。

 飛鳥と顔を合わせることができないまま、転居先のアパートに着いてしまった。


「ここでいいんだね」

「ああ。二階の二○一号室だ」


 俺だけは親父と来たことがある。

 家具家電、その他必需品はその時に搬入済みである。

 木造二階建て、建築年数はそれなりに経ているものの、数年前に改装したばかりで外観内観ともに綺麗である。また二部屋キッチン付きの物件であり、俺と妹の二人で暮らすには丁度いい。徒歩圏内にはスーパーや薬局、コンビニや書店もあり、生活する分にはまず困らないはずである。


 上着のポケットから鍵を取り出し、飛鳥に渡す。

 受け取った飛鳥は、錆の浮いた縞鋼板しまこうはんの階段を上ると、二○一号室のドアを開錠する。いそいそとブーツを脱ぎ捨て、室内に入っていく。


「部屋のチェックを頼む。モノの配置は俺と親父でやったけど、気に入らないところがあったら言ってくれ。直すから」

「はーい」


 軽い返事のあと、飛鳥はきょろきょろと周囲を(あらた)めながら奥へと進んでいく。

 玄関から左手はトイレに風呂場、右手側はキッチンになっている。二部屋のうち、手前はフローリング、奥は和室となっている。フローリングは食堂兼居間として、和室は俺と飛鳥の私室として利用する予定であった。


「けっこういい感じじゃん。思ってたより綺麗だね」

「入居前にクリーニングはしてるらしいぞ。それより、お前はいいのか」

「え? 何が」

「奥の部屋、俺とお前で使うことになってんだよ。一応、衝立(ついたて)はあるし配慮はするけど、お前が嫌だったら俺はこっちで寝るよ」

「別に私は気にしないよ。お兄ちゃんこそ大丈夫?」

「俺は平気だよ。それじゃ、部屋はいいか」

「それはいいんだけど、ちょっといい?」


 衝立で仕切られた、二畳ばかりの俺の居住スペースを飛鳥は見遣る。


「お兄ちゃん、こっちでも剣道するつもりなの?」

「は?」


 一瞬、言葉を失った。


「いや、そんなつもりは全くないよ。急にどうした」

「だって見てよ。防具袋あるじゃん。竹刀も」


 飛鳥の指差す先には黒い革製の防具袋が鎮座している。竹刀も壁に立て掛けられている。俺の立ち位置からでは、衝立に遮られて見えなかったらしい。


「何で、それが、ここに?」

「知らないよ。お兄ちゃんが知らないなら、お父さんじゃないの? 余計なな気をきかせてわざわざ置いていったんでしょ」

「余計なって、酷い言い草だな」

「だってそうでしょ」


 言葉の(とげ)を隠そうともせず飛鳥は吐き捨てる。


「とりあえず、この件については保留にさせてくれ」

「なんで? もう剣道辞めるんでしょ。それなら捨てちゃえばいいじゃん」

「簡単に言うなよ。防具も竹刀も、いいやつ使ってたんだよ」


 それに、剣道という競技自体は好きなのだ。中学時代、指導者からの体罰と罵倒が平然となされる環境で強いられた剣道ではあったが、それでも嫌いになることはなかった。それこそ、高校に進学後、有志を募って同好会を設立してしまうぐらいには情熱を抱いていたのだ。


「思い入れでもあるの?」

「まあな。やっぱり愛着はあるよ」

「――ふうん」

「不服そうだな。辞めてほしかったのか」

「うん。だって私剣道嫌いだもん。お兄ちゃんにもしてほしくない」


 飛鳥は興味を失ったと言わんばかりに、自分のベッドに腰掛ける。学習机に回転椅子、寝具に箪笥など、飛鳥の物()()()前の家から持ってきたのだ。


「あ、でもね」


 飛鳥はこちらに向き直る。


「お兄ちゃんのことは好きだから安心してよね」

「……俺も、お前のことは嫌いじゃないよ」

「心がこもってない。やり直して」


 そんなもの当然である。

 心にもないことをいけしゃあしゃあと述べたのだから。


 嫌いではない。だが、絶対に好きにはなれない。

 仮令(たとえ)、天と地がひっくり返ったとしても。

 俺と飛鳥の関係は――端的に言ってしまえば虚妄でしかない。


「あほか。お前だって嘘臭いっつうの。というか話は変わるけど、お前学校はいつから?」

「んー。明日からだと思う。たぶん」

「多分って。よく確認しとけよ。日程も場所もな」

「それくらい分かってるよ。スケジュールだってプリント見ればすぐ分かるし、場所だってスマホの地図があるから大丈夫だよ。お兄ちゃんはいつから?」

「俺も明日からだよ」

「お兄ちゃんこそ遅刻しないでね。初日から不良アピールとか恥ずかしいだけだからね」

「分かってるよ。こう見えても俺は品行方正なんだよ」

「昔の話でしょ、それ」


 飛鳥はポーチを肩から外し、薄手のコートを脱ぎ捨てた。

 背筋を伸ばし、そのままベッドに倒れ込む。


「なんか急に疲れが出てきたっぽい。眠気がやばい」

「上着、シワになるだろ。ハンガーに掛けるから貸してくれ」

「ごめんね、お願い」

「夕飯の買い物は俺がやっとくから、今は寝とけ」

「ごめんなさい。お願いします」

「おやすみ。夕方には起こすよ」


 飛鳥は枕を抱きしめると、こちらに背を向けるように寝返りを打つ。二人分の上着をクローゼットに収めた時には、すでに穏やかな寝息を立てていた。


     *     *     *


 夕食を済ませ、シャワーを浴びたあとは敷いた布団に寝転んだ。時刻はまだ二十一時であったが、明日からの通学に備えて早めに就寝することにした。

 同室の飛鳥に目を遣れば、衝立の障子越しに電気スタンドの白い光が見える。机に向かっているらしい。勉強でもしているのかもしれない。


 枕元に置いた携帯の着信音が鳴った。

 電話? 俺に?

 俺にかける奴なんて、飛鳥と親父の他に心当たりはない。飛鳥は隣にいるのだから、親父からだろうか。

 閉じた携帯、背面の液晶画面を見れば。


緒方夏美(おがたなつみ)先生』


 かつて世話になった教師の名前が表示されていた。

 先生が今頃、俺に何の用だろうか。

 駄目だ。忘れたいことを思い出してしまう。


 出るという選択肢はなかった。

 鳴動が止むまで、携帯を睨んでいた。

 一分程度で携帯は鳴り止む。

 嘆息すれば、硬直していた身体が一気に脱力する。


「出なくてよかったの、電話」


 振り向けば、衝立の横から、飛鳥が顔をのぞかせている。

 机上の照明が逆光となり、その表情は分からない。


「非通知だったからな。出るわけにもいかんだろ」


 咄嗟(とつさ)に嘘を吐いた。

 飛鳥の返事はない。黙って俺を見下ろしている。


「どうした?」

「ううん、何でもない。話し掛けてごめんなさい」

「……早く寝ろよ。久々の学校だからな」


 飛鳥はまだいいが、俺にいたっては約半年ぶりの通学である。


「はい。おやすみなさい」


 飛鳥は自分のスペースに戻っていった。

 ぱち、と照明のスイッチが切られたかと思うと室内が暗くなる。ベッドの骨組みがきしみ、毛布を被る音がする。


 しばらく暗い天井を眺めていた。親父の用意したカーテンは遮光性に優れているらしく、いつまで経っても暗闇に目が慣れることはなかった。


「兄さん。まだ、起きてる?」


 どれだけの間、天井を睨んでいただろうか。

 不意に飛鳥が俺を呼んだ。


「起きてるよ。どうした?」

「明日から、学校だね」

「ああ、そうだな」

「これから、いいことばかり続くといいね」


 暗闇から発せられる飛鳥の声は、己に言い聞かせるかのような響きを持っていた。

 布団の端に置いた携帯は、朝まで震えることはなかった。

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