■1-1.春の穏やかな日であった。
私は、北東北の人間および人間社会が持ちうる閉鎖的かつ排他的な雰囲気が嫌いです。我慢がなりません。他者が聞き取れない訛りをさも平然と喋る様は、そして聞き取れない余所者が悪いだろうと開き直る様は、厚顔無恥を通り越して醜悪にすら見えてしまいます。けれども、そんな私も東北の片田舎に生まれた人間ですから、同族嫌悪でしかありません。喋り方と吃音および滑舌は学生時代に矯正した結果、アナウンサーのように滑らかになりましたが、胸の裡に巣を張る臆病で狡猾な人間性は永らくの停滞ゆえに腐敗して、私が毛嫌いした人間そのものになってしまいました。そう遠くないうちに、自己嫌悪を拗らせて死ぬことになるでしょう。否、死にたいと願っております。そんな人間が書いた小説ですから、娯楽とはほど遠い、あくまでも慰めにしかなりえません。私のような底意地の腐った人間には刺さってくれるでしょう。ハハハハハ、そう思えば痛快なり愉快なり。
春の穏やかな日であった。
俺と妹を乗せて北上を続ける二輛編成の電車は、最果ての終着駅に向かっていた。車内には、車掌の退屈そうなアナウンスが時折かかるだけで、俺達以外の乗客はいない。
隣に座る飛鳥は、車窓からの風景を眺めては気の抜けた声を漏らしている。
「そんなに海が珍しいのか」
手にした文庫本を閉じ、飛鳥を見遣る。
「うん。実は私、水平線を見るの初めてなんだ。なんだか感動しちゃった」
「そりゃいいけど、もうちょっと落ち着けよ。馬鹿っぽいぞ」
「別にいいじゃん、誰もいないんだし。お兄ちゃんも景色を楽しんだら? 海がきれいだよ」
「別に海なんか見てもなあ」
確かに海を見るのは久々のことである。
良い眺めでもある。だが、それだけである。
「まあ、確かに綺麗だとは思うよ」
「それだけ? もっとこう、気の利いた感想とかないの?」
綺麗だって言っただろ、と抗議すれば、せっかく二人で来てるのに、と飛鳥は唇を尖らせる。
「頭を空っぽにして楽しまなきゃ損だよ」
「空っぽに、ねえ」
「そうそう。余計なことなんて考えない方がいいよ」
飛鳥は人好きのする笑みを浮かべる。
「なるほど。そりゃそうだよなあ」
「でしょでしょ」
飛鳥は俺の腕に自分の手を絡め、頬を擦りつける。猫さながらの仕草が微笑ましく、空いた左手で妹の頭を撫でてやる。去年から伸ばした飛鳥の髪もようやく肩口まで届き、ミディアムと呼べる長さになっていた。空気を含ませた髪型は、カジュアルな服装によく似合っている。
「お前、髪伸びたな」
「うん。やっとここまでって感じ」
「もっと伸ばすのか? 前みたいに」
「どうしようかな。私的にはこれくらいでいいかな。あんまり伸ばして校則に引っかかるのも嫌だし、悪目立ちもしたくないし」
「それくらい大丈夫じゃないのか」
「甘いよ、お兄ちゃん。私たちが行くところ調べてないでしょ」
意味ありげな台詞に、何かあるのか、と聞けば、ううん逆なんにもないの、と飛鳥は答える。
「めちゃくちゃ田舎だよ。そんなところの学校でこんな今風な格好が許されるわけないじゃん。都会モンが来たっていじめられちゃうよ」
「いや、お前それはないだろ。そんな理由で虐められるかよ」
「そうかなあ。お兄ちゃんだって割と怪しいよ? トップも襟足も長いじゃん」
「お前はどんだけ偏見があるんだよ」
「んー。偏見とはちょっと違うかな。私は警戒してるんだよ」
「警戒?」
「そ、警戒。私、同じ轍は踏まないから」
飛鳥は吊り広告に視線を移す。
紙面には名前も知らない企業の広告が書かれている。
「……悪い。俺のせいだよな」
「謝らないでよ。お兄ちゃんは何も悪くないんだから」
「けど、俺がもっとしっかりしていれば、お前まで転校することはなかったよ」
「お兄ちゃんと別れたくなかったし。それに、私だって正直限界だったよ」
「……そっか」
「そうだよ。だから、きっとこれでいいんだよ」
腕に縋る飛鳥の力が強くなる。
「何か困ったことがあったら言ってくれ。何でも相談に乗るよ。今度は、守るからさ」
「ありがと。でも、それはお兄ちゃんもだよ」
「分かってるよ」
そこで会話が途切れる。
しばらくの間、妹の体温を感じながら電車の揺れに身を任せていた。
「あのさ」
不意に飛鳥が口を開く。
「何があっても。私はお兄ちゃんの味方だからね」
唐突なる宣誓に飛鳥を見れば、妹も俺を見ていた。
「新しい町ではきっといいことがあるよ」
そう言って、にこり、と飛鳥は笑う。
『まもなく終点――お降りの客様はお忘れ物の無いよう――』
気怠げな車内放送が長旅の終わりを告げる。
「そうだな。そうだといいな」
いつまでも過去を引きずっていては前に進めない。だから俺は何としてでも過去を忘れなくてはならない。自分のためにも、妹のためにも。
* * *
想像に違わず、終着駅の規模は小さいものであった。降車して改札をくぐれば駅員の詰所があり、その横にはこぢんまりとした売店と、十人も収容できそうもない簡素な待合室があるだけであった。
駅舎を出てすぐ前には駐車場とロータリーがあり、そこから一直線に伸びる道路は海岸へ続いている。高台にあるらしいこの場所からは港町を一望することができた。
「やっとで着いた。電車で五時間は疲れたよ」
飛鳥はぐいと背筋を伸ばす。
俺も倣って首を捻れば、骨が軋み低い音を立てた。
「ちょっと。首回すのやめなよ。見ててハラハラするんだけど」
「大袈裟だなあ。いつもの癖だよ」
「具合悪くならない? 本当に大丈夫?」
「平気だよ。それよりこれからどうする。疲れたならアパートに直行するか」
「そうしたいのもやまやまだけど、まずは書店かな。あとスーパーで晩ごはんも買わないと」
「晩飯はいいけど、書店?」
欲しい本でもあるのか、と聞けば、注文していた問題集を受け取りに、と飛鳥。
「電車で説明したでしょ。忘れたの?」
「すまん。最近物覚えが悪くなって。その本屋は近いのか」
「うん。ここから歩いて十分もしないっぽい」
飛鳥はポーチからスマートフォンを取り出し、手慣れた動作で地図アプリを起動させる。
「あ、ごめん。徒歩で十五分だってさ」
「大差ないな。売店で土産とか買わなくてもいいよな」
「別にいいよ。どうせ渡す人もいないしね」
「それじゃ行くか」
「うん!」
上機嫌の飛鳥に右手を引かれながら緩い傾斜を下りていく。国道らしい広い通りに出れば、ここから先は商業区域らしく、スーパーやファミレスなどの店舗が建ち並んでいる。
「ここを右だね。ほら、アーケード街」
少々歩いたのち飛鳥は顔を上げた。見れば、アーケードの入口に架けられたアーチには『ようこそ海産と温泉の町へ』とある。イメージとしては新宿歌舞伎町一番街の看板を一回り縮小させた感じだろうか。鉄骨の至る所に錆が浮き出ているのは潮風による塩害のせいだろう。
「何と言うかまあ、情緒あふれる看板だな」
「正直に言いなよ。地味だって」
「お前はもうちょっとオブラートに包めよ。本屋はここでいいのか」
「うん。すぐそこ」
「あいよ」
再び飛鳥に先導されながら通りを進む。喫茶店に大衆食堂、服屋に雑貨屋、青果店に魚屋、百円均一ショップにコンビニ――この辺りで生活するには不便を感じないであろう店舗が揃っている。平日の昼下がりということもあり、人の数はまばらであった。
「やっぱり浮いてるのかな、私たち」
飛鳥が言った。その言葉通り、先程から視線を感じていた。
平日の日中に、学生らしき男女が暢気に出歩いているのだ。しかも手まで繋いで。地域課の警官か巡回中の地元教諭にでも見つかったらまず声は掛けられるだろうが、まあその時はその時だ。誠意をもって対応する他ない。
「他人なんか気にしてもしょうがないだろ。手、放してもいいんだぞ」
「やだ」
「ならしょうがない」
「ほんとしょうがないね。方や美少女、方や不良だもんね」
飛鳥は憎らしく笑ってみせる。
「いや不良ってお前。善良な一般市民だろ」
「えー。どっからどう見たってガチの不良じゃん」
「髪も染めてないし酒も煙草もやってないんだけど」
補足するなら女遊びや賭博にだって手を出したことはない――はずである。
「何言ってんの。学生じゃそれが当然なんだよ。というか中身じゃなくて外見だよ」
「人を見た目で判断するものじゃないぜ」
「否定しないんだ」
「否定できないんだよ察しろ。というか俺頭良いから不良じゃないし」
「じゃあ、いんてりやくざ?」
「そこまでじゃないだろ、多分」
「あ、ちょっと待って」
俺をからかって遊んでいた飛鳥がまたも立ち止まる。
「ゲームセンターあるじゃん。ちっちゃいけど」
「え、なに。入りたいのか」
「行こうよ。プリクラ撮ろ?」
「え、お前と?」
理由はないが、何となく嫌な予感がした。
「いいじゃん。引っ越しの記念ってことで」
いいから行くよ、と飛鳥は俺の抵抗を無視して入っていく。
ゲームセンターは商業ビルの一階にあった。フロアは縦に長い構造であり、入口付近にはクレーンゲーム機が二台、中央にはエアホッケーとモグラ叩き、奥にはプリクラ撮影機が三台並ぶだけの小さな施設であった。クレーンゲーム機のヌイグルミ目当てに学生服の男女がいるだけで、他の客はおろか店員すらもいない。
「お兄ちゃん、どれにする?」
飛鳥は撮影機を見比べる。
「どれだって同じだろ。お前に任せるよ」
「そんなことないんだけどな。まあいいや。奥のするね」
ビニルの仕切り幕をくぐると、飛鳥は何の迷いもなくパネルを操作する。流石、今時の女子中学生である。それなりに遊び慣れているらしい。
「すごいなお前。素直に尊敬するわ」
「これくらい普通だから。お兄ちゃんも昔はやってたでしょ。あ、お金お願い」
「おうよ」
百円硬貨を数枚投入する。
「最後の落書きは任せたぞ」
「えー。お兄ちゃんもやろうよ。ひとりで書いてもつまんないよ」
「俺、この手のセンスというか絵心ないんだよ。というか、ほら。まだ右手治ってないし」
「……あ、ごめん」
「いいって。さっさと撮って帰ろうぜ」
飛鳥が撮影開始のボタンを押せば、機械音声がカウントを読み上げる。その声に従っている内に撮影はすぐに終わった。
写真の取捨選択、修正、落書き飛鳥に丸投げして、早々と筐体から抜け出した。近くにあった長椅子に座る。がやがやとした狭苦しさに息が詰まりそうだった。
昔はこういう場所も好きだった。
仲間とよく行ったんだけどな。
――仲間? あれ、仲間って誰だっけ――。
「お待たせ。できたよ」
何かを思い出しかけた時、飛鳥が個室から顔をのぞかせる。
プリントアウトしたものを受け取れば。
「……誰だ、こいつ?」
「誰って私たちでしょ。何言ってるの?」
「いや、それはそうなんだけどさ。何というかなあ」
人相のすこぶる悪い少年に、少女が腕を絡ませている。少女に合わせて少年も笑おうとしているのだが、唇を歪めた表情はぎこちない。彼の右頬に残る傷痕が、余計に柄の悪さを引き立てている。
「これ、知らない奴が見たら誤解するだろ」
改めて写真を見れば、至る所にハートが散りばめられ、『ずっといっしょだよ』というコメントまでつけられている。
「誤解って?」
「兄妹の距離じゃないだろ」
「かもね。でも誰かに見せるつもりで撮ったわけでもないし。もしかして嫌だった?」
「いや嫌じゃないけど」
「ならいいでしょ。記念だよ記念。あとで切り分けるから持ってて。なくさないでね」
「分かったよ。内容はともかく、書いてくれてありがとな」
「どういたいまして。――ん? あれ、何だろ」
飛鳥は俺の背後に視線を逸す。
振り返れば、クレーンゲーム機に熱中していた制服姿の男女が、ヤンキー風の男女に絡まれている。セーラー服の少女がヌイグルミを抱えていること、そして風に乗って聞こえてくる会話から察するに――あのヌイグルミは最後の一個らしく、あれを欲しがった彼女のため、ヤンキー男が譲ってくれるように交渉、否、強要して――決裂してしまったらしい。
「大丈夫かな、あれ。あんまりひどくなるようだったら、警察呼んだ方がいいよね。店員さんもいないようだし」
「暴力沙汰になったらな。それより見ろよ。俺よりあいつらの方がよっぽど不良じゃねえか」
ヤンキー二人は、ともに髪を金に染め、黒字に金文字をあしらったお揃いのスウェットという出で立ちであり。年齢は俺と同じか少し上だろうか。
無論、連中だって悪気があって騒いでいるわけではない。彼らは、自分たちの容姿や言動が周囲に威圧と不快を与えることを理解していないだけなのだ。友人として付き合ったらそれなりに楽しい奴等ということも知っている。知ってはいるのだが――看過できるかはまた別の話である。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。待ってよ、行くの?」
歩き出した俺の手を飛鳥が掴む。
「まさか止めに入るつもり?」
「ああ。ここで待っててくれ。ああいうの、嫌いなんだわ」
逆上した男が、少女を庇う少年に何やら喚いている。少年も、気圧されながらも少女を守ろうとしているが、あの様子ではあまり長くはもたないだろう。怯えた少女はヌイグルミをきつく抱き締めているし、ヤンキー女は相方の豹変におろおろとするばかりである。
「やめなよ。お兄ちゃんには関係ない。怪我でもしたらどうするの?」
「怪我って。ただやめろって仲裁するだけだから大丈夫だよ」
「でも、向こうが殴ってきたりしたら」
「俺、あの子に惨めな思いをしてほしくないんだ」
「え?」
飛鳥の手を振りほどく。
誰にも収拾がつけられそうにないから、俺がするだけである。それに、あの少年の勇敢な姿を見て、知らぬふりはできない。眼に力を込め、男に向かって真っ直ぐ歩く。
男は、俺を見て、ぎょっとした表情をした。
「な、何だよお前」
少年の前に割って入った俺に動揺した男であったが、女もいる手前、すぐ冷静さを取り戻す。
「ただの通りすがりだよ。情けないからあんまり怒鳴るなよ」
「うるせえよ。お前には関係ねえだろ」
「関係ないから無視するほどクズじゃねえよ。あのさ、お二人さんはそいつが欲しいんだろうけど、諦めてくんねえかな」
「はぁ? なんでお前にそんなこと」
「かわいそうだろ。せっかく取ったモノを横取りされたら、誰だって嫌に決まってんだろ? お姉さんもそう思うよね? 他人のモノを力尽くで奪ってまで欲しいわけじゃないでしょ?」
男よりは常識人らしい女に話を振れば、女も「あたしはもういいから。この人絶対やばいって」と男に制止を促す。男女は二、三度問答を交わすが、意地になってしまった男は引き下がろうとしない。
ここまで話が通じないとは意想外であった。
この調子だと殴り合いの喧嘩になるだろうなと思った時。
「もう警察に通報しましたよ。捕まりたくなかったら逃げた方いいですよ」
携帯を片手にした飛鳥がやって来た。俺以外の面々に冷ややかな眼差しを向けたのち、呆れ果てたと言わんばかりに溜め息を吐いた。