■6-2.気分転換に、駅に近い繁華街に行くことにした。
気分転換に、駅にほど近い繁華街に行くことにした。
空は晴れており、暑くも寒くもない。
初めてこの町に来た時と似た天気であった。
書店で好きな作家の小説を買い、その後は喫茶店の喫煙席で、早速その本を読んでいた。
文庫本のページを眺めながら、ぼんやりと物思いに耽る。
クラスメイトの前で、久我さんは俺を人殺しと呼んだ。多分、明日には俺の噂も広まっていることだろう。肩身の狭い思いをすることになるだろうが――そんなことよりも。
――友達が悪く言われたら庇うのが当然でしょ――。
あの時、立花さんは俺のために立ち上がってくれた。それも、友達だからという理由で。
それが嬉しかった。ありがたいと思った。俺を助けてくれる人がまだいたのだ。
だが、ありがたいからこそ、彼女とは距離を置くべきだろう。俺の近くにいては、彼女まで悪しきように言われてしまうから。
――まあ、俺なんてこんなものだ。
仲間からも家族からも疎まれ、居場所なんてどこにもない。あの日に死に損なったまま、惰性で生き長らえているどうしようもない人間なのだ。精神科の閉鎖病棟にブチ込まれたまま出てこなければ良かったのだ。
少し温くなったブレンドコーヒーを口にするが、一切の風味を感じることができない。
味覚異常はれっきとした鬱病の症状である。また抑鬱が再発したかと思った時である。
ふわり、と甘い匂いが鼻先をついた。
見れば、喫煙席の隅に陣取った若い男が煙草をふかしている。金髪に染めた今風の格好に、両耳にピアスをつけたヤンキーと呼ぶべき装いである。彼の前にはショートケーキがあり、不良がデザートを楽しむというその奇妙な光景に思わず笑ってしまった。
「……何だよ。見てんじゃねえよ」
俺の不躾な視線に気付いたのか、金髪が振り返って睨みつける。
「あ、悪い」
素直に詫び、文庫本に視線を戻す。だが、金髪はまだ俺を見ていた。
「何だよ。謝ったじゃねえか。まだ文句あんのか」
「お前、あんときのヤツだよな。ほら、クレーンゲーム機の」
ケーキにフォークを刺した金髪が驚いたように言った。
「クレーンゲーム? お前とは初対面じゃないか」
「この前、そこのゲーセンで会っただろ」
「悪い、覚えてない」
「マジかよ。俺そんなに印象薄いのか」
彼の格好は、良くも悪くも目を引く風貌である。普通ならばまず忘れないだろう。
「違うよ。俺、人の顔を記憶できないんだ。後遺症みたいなもんだから気にしないでくれ」
「後遺症? 頭でも打ったのか」
「まあそんなとこ。というか俺のことなんて別にいいんだよ。それで、クレーンゲームが何だって」
「あ、そうそう。俺、あんときの彼女と別れて、新しい彼女と出会えたんだぜ。お前のおかげだよ、ありがとな」
「……すまん。もうちょっと詳しく教えてくれないか」
聞けば、彼は以前そこのゲームセンターで揉め事を起こしてしまったらしい。その時一緒にいた恋人には、怯えられてフラれてしまったらしいが、その翌日バイト先で新しい彼女を見付けることができたのだとか。その場に居合わせて仲裁したのが俺なのだとか。
「――ああ、思い出したよ。そういえばそんなこともあったな」
「思い出すのが遅えよ。なにはともあれ、ありがとな」
「何で俺がお礼を言われるんだよ。逆恨みなら分かるけどさ」
別に俺がいなくても彼は景品欲しさに怒っていただろうし、元彼女だってそんな彼を見て別れようとしただろう。
「そんな細かいことはいいんだよ。俺が勝手に感謝してるだけなんだから」
ケーキ片手に隣に移ってきた金髪は右手を差し出した。
握手のつもりらしい。断る理由もないため俺も握り返す。
それからはずっと聞き役に徹していた。
元彼女にフラれて落ち込んでいたところを、バイト先の先輩に慰められたこと。それをきっかけに付き合うことにしたこと。真面目な先輩は今まで付き合ったことのないタイプの女性で、一緒にいるだけで楽しかったこと。バイトにもやる気が出て、先週若いながらもバイトリーダーに昇格したこと。先輩が大学を目指すと聞いて自分も遅まきながら勉強を始めたこと。勉強は苦手だけど目標があるから頑張れること。毎日が楽しくて仕方ないこと――。
無邪気に語る彼の話は退屈だった。他人の惚気話など面白い訳がない。だが、それでも嫌ではなかった。むしろ、もっと聞いていたいとすら思った。
それはきっと。
「羨ましいな。青春してんじゃねえか」
彼はきっと、仲間や恋人に居場所など、俺にはないものをたくさん持っているのだろう。そう考えると、心の奥底に閉じ込めたはずの劣等感が膨れ上がる。
俺だって、あんな事件がなければ今でも同好会の皆と一緒にいられたはずだ。どこかの誰かと恋愛だってできただろう。特進科の一期生として、勉学に十分励むこともできたのに――。
――よせよ、くだらねえ。
後悔しても時間は戻らない。
それに、だ。
俺は紫さんを守ることができなかった。
その報いを受けているに過ぎないのだ。
先週、俺に会いに来た紫さんの顔を思い出そうとして――。
ずきり、と眼球の裏側に鋭い痛みが走る。
「お、おい。大丈夫か? 顔色が悪いぜ」
「……平気だよ。少し頭痛がするだけだから」
「マジか。それなら一本どうだ?」
金髪は、シャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出した。こちらに一本を差し出す。
「いいのか」
「いいって。頭痛にはタバコがきくんだよ。それよか、軽すぎて全然吸った気にならないかもしれないが、そこは勘弁な」
頭痛と喫煙にどんな因果関係があるのかは分からないが、今はどうでもよかった。
彼から貰った煙草は吸い口にフィルターがあり、親父のものより遙かに吸いやすい。何より唇に刻んだ葉が付着しないのが良い。
彼も美味そうに喫煙を始めた。
――こういう空気も悪くない。
俺はこの相方のことは何も知らない。知っているのは気さくな性分であることと、甘い芳香の煙草を好むこと、最近彼女ができたことぐらいである。そんな奴と肩を並べ、コーヒーを飲み、惚気話を聞いているのだ。人生、何があるか分からないものである。
「お前さ。さっき俺が青春しているとかボヤいたけどさ」
思い出したように金髪が言った。
「お前はしてねえの? その青春ってやつ」
「多分してないと思う」
そもそも青春ってしようと思ってできるものかね、と言えば、面倒くさいこと考えるタイプなのなお前、と金髪は呆れたように笑った。
「今俺らがこうして駄弁って、フカしているこの瞬間なんてどうよ。これだって立派な青春の一ページじゃねえの? まあ、タバコ吸ってっから、大っぴらには言えないけどよ」
「いいな。これも青春か」
「だろ? 俺、いいこと言ったんじゃね?」
得意げに金髪は煙を吐いて、長くなった灰を灰皿に落とした。
まあ、一理ある。
悪くはないが――。
「青春にしてはずいぶんとヤニ臭いな」
「うるせえよ。青春がきれいなモノっていうのがそもそもの勘違いだっつうの」
「そうなのか?」
「そうだよ。やっぱり美化されてんだよ。そりゃ、ドラマや漫画なんかでは、ビバ青春って感じに扱われるかもしれないぜ? 部活とか恋愛とか友情とかよ。でも、俺達当事者からすりゃ、ありがたがるものじゃないだろ。幻想だよ、幻想」
そこで金髪はケーキのイチゴを頬張った。彼の持論は続く。
「部活じゃ熾烈なレギュラー争いはあるし、上級生は神様で下級生は奴隷だ。それで死ぬほどキツい練習をさせられて――それで怪我なんてしてみろ。監督や顧問は他人事だ。何の責任も取ってくれないんだぜ? そんなの馬鹿馬鹿しいじゃねえか」
「随分な熱弁振りじゃないか。もしかして体験談か」
「まあな。俺、ちょっと前までは野球部のエースだったんだぜ?」
すげえだろ、と金髪は寂しそうに肩を竦めた。
「……怪我をしたのか」
「ああ。肩を壊して、もうどうにもならないんだ。俺が勝手に無理して壊したんならまだ納得できるけど、監督の指示で投げ込んでこれだぜ。だから、その、なんというかな。部活が青春だってのは嘘だって思ってんだよ。少なくとも、俺にとっての青春は部活じゃなかった」
「じゃあ、お前にとっての青春は見付かったのか」
俺が尋ねれば、彼は少しばかり考えたのち。
「今付き合ってる彼女だな」
と自信満々に答えた。
「……先に謝っとく。期待した俺が馬鹿だったよ」
「バッサリ言うなよ。でもよ、実際そうなんだって。この人になら、時間と金をどれだけ費やしても苦にならないというか――そうだ。お前はどうだ。彼女、いねえの?」
「いないよ」
「何でよ? お前もそれなりにイケてんじゃん。好きなやついないの?」
「いないよ」
「それなら部活は?」
「剣道部に入ってたけど、今日退部させられたよ」
「退部させられたって、お前、マジで何したんだよ」
「こっちにも色々とあるんだよ」
「それなら仲良いダチはいんだろ?」
「生憎、友達は一人しかいない」
そのひとりとも距離を置こうと先刻決心したところであるのだが。
「……お前、どうしようもねえじゃねえか」
「言うなよ。自分でも分かってるんだから」
多分だけれど。
俺にとっての青春はもうどこにもなくて。
ただただ償い続けるものになってしまったのだ。
左手にある煙草の火は、いつの間にか消えていた。
* * *
喫茶店で金髪と別れた後は、目的もなく商店街を散策していた。
結局、名前も連絡先も聞くことはしなかった。互いに日中から学校をサボり、未成年であるにも関わらず喫煙までしているのだ。悪友というのはこのような関係なのかもしれない。
それにしても、まさか感謝されてしまうとは。
なんともまあ、無邪気というか暢気というか――きっと、あの底抜けに明るくて素直なところが彼の魅力なのだろう。軽薄なようで軸のある、等身大の生き方である。己の殻に閉じこもり、頭でっかちになってしまった俺とは大違いである。
不思議なことに、沈んでいた心がいつの間にか軽くなっていた。
町にひとつしかないゲームセンターの前を通りかかる。
あの金髪と――そして立花さんと出会った場所である。
風除室に設置されているクレーンゲーム機の筐体を見れば、どこかで見たようなキャラクターが――確か、南米に生息する齧歯類がモデルだった気がする――敷き詰められている。立花さんが好きだったのはあれだったはずだ。
財布から小銭を取り出してプレイする。
特に理由があった訳ではない。強いて言えば気まぐれである。
あと少しで落ちそうなのだが中々上手くいかない。何度も挑戦を重ね、五回目でようやくヌイグルミを取出口へ落とすことができた。思わず左の拳を握りしめた時である。
かしゃり、と背後から軽い音がした。
振り向けば、黒いカメラを携えた制服姿の立花さんがいた。
「……何やってんの?」
「ごめんね。良い構図だったから、つい」
立花さんはカメラに視線を戻すと「やっぱりよく撮れてる」と頷いた。
彼女の小さな手には似合わない、無骨なデジタル一眼レフである。
「良い構図って、写真が趣味なの?」
「趣味というか――私、写真部だもん。ほら」
立花さんは誇らしげに『写真部』と書かれた腕章を示す。
「今日は部活動というか――下校中に良い風景がないかなって探していたら、ちょうど君を見かけたんだよ」
「後ろ姿なのによく俺だって分かったね」
「すぐに分かったよ。だってここ、君と初めて会った場所だからね」
そう言って立花さんは照れくさそうにはにかんだ。
金髪が言った青春という言葉が脳裏を過る。
「さっき撮った写真、どうするんだ」
「どうするのって?」
「いや、どこかに掲示されたりするのかなってさ。後ろ姿だろうけど、撮られる方としては良い気分にはならないよ。できれば使わないでほしい」
ただでさえ、こんな見た目で見世物的な扱いをされているのだ。その上、今朝は久我さんがとんでもない爆弾を落としてくれた。人目につくような真似はできるだけ避けたかった。
それに、理由はないが写真というものはどうしても好きになれなかった。
「……そっか。そうだよね。せっかく良い写真が撮れたと思ったのになぁ」
立花さんは残念そうに言うが、被写体が俺である以上、良い写真になるとはどうしても思えなかった。
「ところで時貞くん、大丈夫なの?」
「ん? 大丈夫って何が」
「何がって――具合悪いから早退したんでしょ。やっぱり今朝のこと気にしてる?」
「まさか。具合なら大丈夫だし、気にもしてないよ。単なるサボりだよ」
「時貞君でもサボるんだね」
「俺でもって――別に俺は真面目じゃないよ。見た目通りの人間だよ」
「そんなことないと思うけどな、ぜったい」
立花さんはちらりと遠くの空を見る。俺も視線を追えば、夕陽が西の空に浮かんでいる。
あと一時間もすれば、日は完全に沈んで夜になってしまうだろう。
「……俺、帰るよ」
「もう? 何か用事でもあるの?」
「そうじゃないけど、もう夕方だし」
夕焼けは好きじゃない。
どうしても不吉な予感がしてしまうから。
「まだ夕方だよ。もうちょっと話そうよ」
「大丈夫? 門限とかあるんじゃないの」
「そんなのないから平気だよ。私のところは共働きだし、放任主義だからね」
立花さんは俺を逃がすつもりはないようで、「ね、いいでしょ」と半歩前に出る。何となく断るのも悪い気がして、帰ろうという気が削がれてしまう。
「分かったよ。それなら、そこのファミレスでいい?」
「ううん。もっと良い場所があるから案内してあげる。行こ?」
立花さんは俺の返事を聞く前に背を向けて歩き出す。彼女にしては珍しく強引な姿である。彼女の先導に従い、商店街を一本裏に逸れた小路を通り、石造りの階段を上って行けば――。
「着いたよ。ここが私のお気に入りの場所なんだ」
夕陽を背負った立花さんが振り返る。
緑色のフェンスに囲われた、錆塗れのブランコとベンチがあるだけの小さな公園であった。
高台にあるらしく、遠くには夕陽を反射する海が見える。
「どう? 良いところでしょ」
「凄いな。眺めも良くて、潮風が気持ちいいな」
「撮影の穴場なんだよ。ここを知ってるの、多分私くらいじゃないかな」
立花さんは背もたれのないベンチの座面を手で払ってから腰掛ける。
彼女のすぐ後ろには桜があった。開花の遅い、本州最北端の地域とはいえども、既に見頃の時期は過ぎているらしく、葉桜となっている。
「時貞くんも立ってないでこっちに座りなよ」
「ああ。それじゃ失礼するよ」
立花さんと少し距離を開けて座り、頭上に広がる桜の梢を見上げる。
しばらくの間、互いに喋らずにいたが――決して気まずい空気ではなかった。
「時貞くん。朝は、ごめんなさい」
不意に、立花さんが言った。
「何のこと?」
「何のことって――朝、華子ちゃんがクラスに来たことだよ。私ね、きみが退部するように言われて、何だがそれがとても嫌で――何の関係もないのに突っかかっちゃった」
「別に、それは君が気にすることじゃないよ。むしろ、俺の方が君に迷惑をかけてしまった」
「でも、私が口を挟まなかったら、きみだって皆の前であんなこと言われなかったと思う」
「あんなことって、俺が人殺しってやつ?」
立花さんは遠慮がちに頷いた。
「それは――どうだろうな。こう言っちゃ何だけど、立花さんが何も言わなくても、久我さんは俺のことをバラしたんじゃないかな。彼女、俺のこと嫌いみたいだしさ」
それでも、久我さんを恨む気にはなれなかった。
彼女は、部活動という自分の領域に、俺という異分子を入れたくなかっただけなのだ。客観的に考えれば何もおかしいことじゃない。
「ねえ、嘘だよね。時貞君が人殺しって――そんなわけないよね?」
「いいや。朝も言ったと思うけど、全くの嘘って訳じゃない」
俺はあの時、紫さんを守れなかったのだ。そんな奴が、自分は被害者ですとは口が裂けても言えない。未だに残るちっぽけな自尊心――別の言い方をすれば矜持ないしは友誼だろうか――がそれを許さない。それに、前の学校では、俺は人殺しの強姦魔ということになっている。真実はどうあれ、久我さんが間違っている訳ではないのだ。
「ごめん、ちょっと、よく分からない」
「別に、分かってもらおうとは思ってないよ」
「なんでそんな冷たい言い方するの。教えてよ。前の学校で何があったの?」
「……君に言う必要はないだろ」
昔のことを詮索されて穏やかではいられない。
「ごめん。無理に聞いちゃったね。ほんとは朝のことだけを謝るつもりだったんだけど――うまくいかないや。嫌な気分にさせちゃって本当にごめん」
「俺の方こそごめん。俺はもう気にしないから、立花さんも俺のことなんて気にしないくれ。所詮他人なんだしさ」
「他人って、そんな言い方ないと思うな」
立花さんが俺を睨む。
「私たちは友達なんだよ。他人なんかじゃない」
「……友達、か」
「もしかして嫌だった? 私は、きみのこと友達だと思っているけど」
「違うよ。嫌じゃない」
むしろ彼女の姿勢に救われてすらいる。友情というものに愛想を尽かし、無償の友好という存在を信じ切れずにいる俺でも、彼女となら友達になってもいいと思えるのだから。
しかしその反面、俺と親しくすることで、彼女に迷惑を掛けてしまうのではないかという恐怖を常に感じている。もっと言えば――俺は彼女に嫌われることに怯えているのだ。
「本当?」
立花さんは疑わしそうな眼差しを寄越す。
「本当だよ。そんな顔をしなくたっていいじゃないか」
「だって時貞くん、私に遠慮してるみたいだもん」
どうやら、俺の臆病な心は彼女に見透かされているらしい。
思わず笑ってしまった。
「あれ、どうしたの?」
「いや、図星だったから」
「やっぱり。遠慮することないじゃん。どうして遠慮なんかするの?」
君に嫌われるのが怖かったから――と言おうとして、慌てて口を塞ぐ。立花さん相手だとどうにも口が軽くなってしまう。彼女と距離を置くと決めたのだ。この決心だけは譲れない。
「立花さん。こいつのこと、好きだったよね?」
隠し持っていたヌイグルミを彼女に見せる。
少々強引であるが、話題を変えたかった。
「え? うん、好きだけど」
「これ、貰ってくれない? 俺からの感謝ということで」
返事を聞く前に、彼女の膝の上にヌイグルミを乗せる。
「わあ、ありがとう。でも、いいの? 私、感謝されるようなことなんて全然してないのに」
「朝、庇ってくれたから。その時のお礼。本当に嬉しかったからさ。こればかりは嘘じゃない。信じてほしい」
「あれは、私も悪いところがあったし。というか友達なら当然のことだよ」
「こういうのは当然にしちゃいけない。当然というのが一番難しいんだよ」
「よく分からないけれど――どうもありがとう。大事にするよ」
立花さんはヌイグルミを両手で掴み、そっと頬ずりをしてみせる。丸い目をした茶色いネズミ君は、何か言いたげにこちらを見つめていた。
「勘違いだったら恥ずかしいけど――きみがクレーンゲームをしてたのって、私にこの子をくれるためだったりする?」
「まあ、そうだね。立花さんに喜んでほしかったのは確かだね」
「そっか。ありがとう、嬉しいよ。私、この子たち大好きなんだ」
名前何にしようかなあ、と立花さんは本当に嬉しそうに笑った。
「やっぱり、きみは優しいね」
「それだけはないよ。騙されちゃいけない」
「そこで嫌そうな顔をするの、きみらしくて、ちょっとだけかっこいいよ」
立花さんはヌイグルミを脇に置くと立ち上がる。数歩前に歩み出て、くるりと振り返る。
空は先程よりも赤みを帯びて、彼女の影が一直線にこちらに伸びている――。
「ねえ。一枚、撮らせてくれないかな」
右手の人差し指を立てながら立花さんが請う。
「撮るって、俺のこと?」
「他に誰がいるの。いいでしょ」
「嫌だよ。さっきも駄目って言ったじゃないか」
「だって――とっても良いんだもの。テーマは『私の友達』なんていいと思うんだけどな」
立花さんは首からさげたカメラの準備を済ませてしまう。
「ね、お願い。私と君の、友達としての証拠を撮りたいんだ」
真摯な声であった。友達としての証拠と言われると、不思議と魅力的に思えてしまう。そうではなくとも、彼女からの頼み事ならできるだけ聞いてやりたかった。だが、そんなことよりも。
以前にも、こんなことがなかっただろうか。
「分かったよ。その代わり、他の人には見せないでね」
「ありがとう。それじゃ、表情はそのままで、視線をこっちに向けて」
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける。
空は透けるような赤色に染まっている。
立花さんの影法師がぴたりと制止して――。
――ああ、やはり。
この光景は、どこかで見た覚えがある――。
「いい? 撮るよ――」
立花さんが言った。
その瞬間、カメラのフラッシュが閃いた。
視界が真っ白になり、鋭い頭痛に貫かれ、何も考えられなくなった。
脳裏に浮かんだのは、血塗れになって倒れ伏す紫さんの姿であった。