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■6-1.いつも通り飛鳥を中学まで送り届けてから高校に向かう。

 いつも通り飛鳥を中学まで送り届けてから高校に向かう。

 日々の通学を楽しいと感じたことは一度もなかったが、先週の大会での出来事を思えば、今日ばかりは一段と憂鬱であった。


 あの二人がわざわざこんな僻地まで追ってくるなんて、一体誰が予想できようか。妹を泣かせ、周囲からは注目を浴びて、直後の試合では二本負けという散々な結果である。しかも一本目は竹刀を手放した反則と場外に押し出されたことの反則であり、二本目は足が居ついたところに、突きを打たれて派手に吹き飛ばされてしまったのだ。情けないにも程がある。


 全力を出した上での敗戦ならばまだ納得できようが、試合に全く集中していなかった。心の奥底では勝利を諦めていたのかもしれない。その証拠に、負けた今でも悔しさよりも、やはり自分なんてこの程度だろう、という投げやりな気持ちばかりがあった。


 当然ながら、優哉は「あの試合は何だ」と怒っていた。遥斗に至っては会話すらしていない。

 冷たい床に頭をこすりつけていれば、身体だって動かなくなるはずである。あの二人が来なければもっと良い勝負ができたと思わないでもないが――不毛である。過ぎたことをいくら考えても過去は変えられない。余計惨めになるだけである。


 教室にはクラスメイトの約半数が登校している。優哉と遥斗は、自分達の席で何やら駄弁っている。俺が着席すれば、二人はすぐにやって来た。妙な雰囲気であった。


「二人とも、どうした?」

「時貞君。この前の大会のことで――いや、君が前にいた学校について、聞きたいことがある」


 先に口を開いたのは遥斗であった。


「……は?」

「そう怒らないでくれ。本当に真面目な話なんだ」

「いや、別に怒ってはないけどよ。何が聞きたいんだよ、おい」


 遥斗を見れば、気圧されたかのように彼は視線を逸らしてしまう。


「華子から聞いたんだけど、お前のいた学校って、■■■■高校でいいんだよな」


 今度は優哉が言った。まるで尋問するかのような口調である。


「それがどうした? というか華子って誰だよ」


 俺が聞けば「マネージャーの名前くらい覚えておきなよ」と遥斗が小声で注意する。


「お前、そこで暴力事件を起こしたって本当なのか?」

「……暴力事件、ねえ。中々マイルドな表現になったな」


 まあ、あの事件は殺害未遂として報道されたのだから、暴力事件と言えないこともない。そして全国紙にも載ったのだから、第三者が知っていても不思議ではない。


「質問に答えろ。大会で、お前に会いに来たあの二人は被害者で、加害者のお前は土下座して帰ってもらったのか?」

「そうだよ。それがどうした」

「ああそうかよ。まさか、お前がそんな奴だったなんてな」


 優哉が俺を見下す。

 安全圏から他者を否定するその態度が癪に障った。


「だったら何だよ。他人に勝手な期待を押しつけて幻滅されてもな。そんなのお前のせいじゃねえか。何が言いたいんだよ」

「退部してくれ」


 優哉は言った。その一言で、クラスメイトの視線が集中する。


「退部って、お前本気で言ってんのか」

「本気だよ。華子とも話したけど、暴力事件を起こすような奴と上手くやれそうにないんだ」

「なるほど。そりゃ至極もっともな正論だが、俺はお前らに頼まれて剣道部に入ったんだぜ。随分勝手な言い分じゃないか」

「それは分かってる。けど、頼む。華子のためにも辞めてくれ」


 優哉は目をつむり、頭を下げた。


「はあ? マネージャーのためって何だよ。お前、まさかあいつに頼まれでもしたのか。お前じゃなくて、あいつが思ったことなのか」


 優哉は頭を垂れたまま答えない。きっとその沈黙が答えなのだろう。

 下衆の勘繰りにしかならないが――大方、優哉は何か吹き込まれたのだ。俺のことが気に食わないから追放すべきだとか何とか。結果、優哉は久我さんと俺を天秤に掛けて――俺の方が軽かった。それだけの話なのだろう。


 そこまで考えて――馬鹿馬鹿しくなってしまった。


「優哉君。退部ってのは言い過ぎだ。話と違う」


 制止に入ったのは遥斗だった。


「時貞君。優哉君はこう言っているが、僕は君に退部してほしくない」

「なんだよ話と違うって。お前ら打ち合わせでもしてたのか」

「そんなところさ。今日は事実確認と、君に毎日部活に来てほしいと頼む予定だった」


 辞めさせるなんてとんでもない話だ、と遥斗は重ねて念を押すが。


「毎日?」

「ああ。現在、君は週に三回くらいしか練習に来ていないだろ。毎日練習していればもっと強くなれると思う。少なくとも、この前のような負け方はしないはずだ。君を責めるつもりじゃないが、僕はこの前の大会で表彰台を逃したことを悔しく思っているんだ。だから――ほら、優哉君。いくら彼女さんに頼まれたからって、いきなり退部勧告ってのはどうかと思うよ」


 この場を収めるように遥斗は言う。

 毎日の参加って――入部の条件と違うじゃねえか。


 もう気力も失せてしまった。退部させてもうよ、と言おうとした時。


「おはよう、時貞くん、優哉くん。遥斗くんも」


 立花さんがやって来た。


「……おはよう、立花さん」


 彼女には悪いが、随分と間の悪いところに来てくれたものである。

 気まずそうに挨拶を返す俺達を見て、立花さんは「どうしたの?」と小首を傾げる。


「いや、なに。ちょっと部活の反省会をしていてね」

「あ、そうだったんだ。ごめん、もしかして邪魔しちゃった?」

「大丈夫だよ。なあ、二人とも。この続きは昼休みでもいいだろ」


 俺の提案に、優哉も遥斗も「分かった」と肯定するが。


「失礼しまーす」


 間延びした声が教室の入口からした。

 声の主へ向けば、久我さんが入室したところである。

 彼女は俺達を見るなり「あ、もしかして転校生君の退部について話してたとこ?」と嬉しそうに言ってのける。


「――退部? え、待って。時貞くん剣道部辞めちゃうの?」


 驚いたのは立花さんである。


「まあ、そんな話をしていたところだよ」

「どうして? 部活、楽しそうにしてたじゃない。優哉くんも遥斗くんもそれでいいの? 男子の人数足りないから時貞くんに入部をお願いしたんでしょ」


 信じられないと言わんばかりに立花さんは前傾姿勢になる。


「だって転校生君、前いた学校で人殺しって呼ばれてるんだもんね。そんな人と一緒に部活なんてできないよ」


 答えたのは久我さんであった。やけにはっきりとした口調で、遠巻きに俺達の様子をうかがっているクラスメイトに解説しているようでもあった。


「――え? そんなの」

「言っておくけど嘘じゃないよ。私、■■■■高校にも友達がいて、その子から聞いたんだ。キミが向こうで何したかをね」


 勝ち誇ったように久我さんが口許を釣り上げる。

 不穏な空気に、教室の緊張が高まる。


「久我さんは、何が目的?」

「もう知ってるでしょ。キミにお願いがあるの」


 久我さんは机の上に一枚の用紙を置いた。

 B5サイズのザラ紙を見れば。


「退部届?」

「うん。退部してほしいんだ」

「なんだ、そんなことか」

「え?」


 ペンを取り出し、用紙に学年と氏名を記入する。退部理由は――金銭的および精神的事情により部活動の継続が困難になったため、で良いだろう。記入済みの退部届を久我さんに渡せば、彼女は意外そうに受け取った。


「どうした。そっちが辞めろって言ったから書いたのに」

「あっさり書いてくれるんだね。ちょっと拍子抜けかも」

「辞めてくれって言われているのに居座るほど面の皮は厚くないよ。という訳で二人とも。俺はもう剣道部には行かないよ。短い間だったけど、世話になったな」


 優哉と遥斗は何とも言えぬ顔をするだけだった。まったく薄情な奴らである。別に、引き留めてもらいたかった訳ではないが――俺が青春だと信じて取り組んできた部活は何だったのかと思うと、ほんの少しだけ虚しくなった。


「ありがと。コレは私の方から出しておくね」


 退部届の内容を確認した久我さんが去ろうとするが。


「ちょっと待ってよ!」


 立花さんが立ち上がる。

 間髪入れずに久我さんの持つ退部届を掠め取ってしまう。


「人を脅すようなまねをして退部させるのはひどいよ。そんなの絶対に間違ってる!」

「ちょっと、なに? 委員長には関係ないでしょ」


 立花さんに詰め寄られ、久我さんがたじろぐ。


「これは剣道部の問題なの。部外者は黙っててよ」

「だからって、前の学校のことを出してまで辞めさせるなんておかしいでしょ」

「うるさいなあ。こいつが前の学校で何したか知ってんの?」

「それは知らないけど」

「なら黙っててよ。転校生君だって、こうしてサインしてくれたじゃん」


 ほら返してよ、と久我さんは立花さんに手を出すが、立花さんは頑として譲らない。


「委員長だか何だか知らないけどさ、よその部活に口を出さないでくれる?」

「友達が悪く言われてたら庇うのが当然でしょ!」


 立花さんは毅然と言った。

 その姿が眩しかったが――このままではいけない。

 これは俺の問題である。

 彼女を巻き込んではならない。


「立花さん。俺のことはいいから、退部届を渡してやってくれ。頼む」

「え? でも」

「誰に言われなくても、俺は退部するつもりだったからさ」

「……きみは、それでいいの?」

「ああ。もうどうでもいいよ。巻き込んで悪かったな」

「本当に?」


 まだ立花さんは動かない。

 抗議するように俺を睨んでいる。


「やだなあ。これじゃあ私が悪者みたいじゃん」


 これ見よがしに久我さんは肩をすくめて。


「言っておくけど、こいつ、前の学校で女子をナイフで刺した人殺しだよ?」


 と笑顔で言ってのけた。

 大きな声ではなかった。けれど、静まり返った教室に響くには十分過ぎる声量であった。


「そんなの嘘だよ。時貞くんはそんなことする人じゃない。いい加減にしてよ!」

「まーね。もちろん私だって全部信じてるわけじゃないよ。しょせん噂だからね。でも、火のない所に煙は立たぬって言う言葉もあるくらいだし、私としては、人殺しだとかレイプ魔だとか言われちゃう人間に、同じ部活にいてほしくないんだよね。というワケだからさ、返してよ。ほら、早く」


 久我さんは再度立花さんに手を差し出す。

 立花さんは躊躇していたが、俺が反論しないのを見て、渋々ながらも返却に応じた。


「ごめんねー転校生君。ほんとはここまでするつもりはなかったけど、しつこかったからつい」

「別にいいよ。退部届、顧問に出してくれよ」

「もちろん。というか本当にクールだね、キミ。なんかむかつく。負けたくせに」

「うるせえよ」


 やば不良を怒らせちゃった、と久我さんは悪びれた様子もなく去っていった。


「時貞くん。あの、さっき華子ちゃんが言ったことは」

「本当だよ」

「え?」

「前の学校で、俺は人殺しってことになってるんだよ。残念ながら」


 そう伝えた時、立花さんはどんな表情をしていただろうか。彼女の失望した顔を見るのが怖くて、直視することができなかった。


 だが、これで俺と立花さんとの関係も終わりだろう。

 結局、悪人はどこまでいっても悪人なのだ。どれだけ離れたところへ転校しようが、己のしでかした悪事から逃げ(おお)せることはできないのだろう。


 気の置けない部活仲間を失い、たった一人の友人まで捨てて――。

 何だ、何も変わらないじゃないか。俺はどこまで行ってもひとりなのだ。何も不思議なことじゃない。理不尽なことばかりと思っていたが、案外この世界はよくできている。


     *     *     *


 授業を受ける気がせず、この日は体調不良と偽って早退することにした。 

 自宅の前に一台の自動車が停まっている。黒色の車体に英国風のデザインをした――親父の車両である。二○一号室のドアを開ければ、三和土(たたき)には親父の革靴があった。

食堂兼居間には煙草を咥えた親父が座っていた。

 グラスに洋酒を注いでいる。酒には詳しくないため、角瓶の黒ラベルを見ても、それがウィスキーなのかブランデーなのかが分からない。酒の肴として、近くの市場で買ったであろう乾物が小皿に盛られている。

 煙たい部屋の中、テレビは参議院予算委員会の国会中継を映している。


「おう、早いじゃねえか」


 紫煙を吐きながら親父は言った。


「久しぶり。体調が悪いから早退した」

「あんまりサボって単位落とすんじゃねえぞ。公立じゃ金で出席日数は買えないからな」

「サボりじゃないよ。マジで具合が悪いんだって」


 それより吸うなら換気しろよ飛鳥がキレるぜ、と言えば、そんなに臭うかね、と親父は不服そうに首を傾げる。

 飛鳥は嫌煙家なのだ。こうして親父が顔を見せた時に煙草を吸っていようものなら、やれ受動喫煙だ副流煙だと騒ぎ立てる。妹だけをこれでもかと溺愛している親父も、これには辟易(へきえき)としているようである。


 窓を開け、台所の換気扇を回せば、部屋の煙も薄れていく。テーブルの上に乗った南部鉄器の灰皿を見れば、十を超える吸い殻が転がっていた。親父の対面に座り、手を付けていない弁当を広げる。


「その弁当、お前が作ったのか」


 親父が弁当をしげしげと眺めている。


「いや、飛鳥が作ったやつだよ」

「よし、寄こせ」

「何がよしだよ。親父にはツマミがあるじゃん」


 親父は俺の返事を聞く前に、箸を伸ばして鶏の竜田揚げを食べてしまった。


「そんなに飛鳥が大事かよ。言っておくけどほとんど冷食だぜ」

「中身より誰が用意したかの方が大事なんだよ。代わりにお前にはこれをやるよ」


 親父はパックに入ったままのイカの燻製を投げて寄越す。


「昼飯にはならないだろ。いや貰うけどさ」


 それからは、親父は飛鳥の弁当をつついていたし、俺は水筒の茶を飲みながらイカの燻製をかじっていた。会話という会話はなかったが、それでも退屈ではなかった。

 少々の酒臭さと煙草の匂いが漂う部屋の中にいるだけで、一介の高校生にはできない贅沢を味わっているような優越感を覚えたのだ。


「親父。それ、美味いの?」


 焦げた卵焼きを頬張り、弁当を平らげた親父が顔を上げた。


「飛鳥が作った弁当だろ。美味いに決まってる」

「違うよ。弁当じゃなくて、煙草の方だよ」


 苦笑いを浮かべた親父は「美味いから吸ってんだよ」と言い、丸い缶から煙草を一本取り出した。缶には濃い青色に白抜きの文字で『peace』と銘柄が書かれている。眩しい銀色の蓋に、草を咥えた鳥の意匠が目を惹いた。


「銘柄、ピースっていうんだ」

「ああ。フィルターのないショッピだよ。これじゃなきゃ吸った気がしない」


 親父は手にした一本の断面を四五回テーブルで叩くと、そっと咥えてオイルライターで着火する。濃厚な煙を天井に向かって吐き出した。


「何だよ、そんなに見て」

「いや、サマになっているなと思って」


 親父は何も言わず、俺の前に缶とライターを置いた。


「そんなに吸いたきゃ吸ってみろ」

「息子に煙草を勧める親がいていいのかよ」

「お前なんか息子と思ってねえよ」


 酔ったが故の失言だったのだろう。流石に親父もまずいと思ったのか、気まずそうにテレビへと視線を泳がせる。テレビは国会中継から日経平均株価へと移っていた。


「……知ってる。飛鳥がいればそれでいいもんな」


 俺の親権は元々母親にあるはずだった。だがそれを当の母親が拒んだだめ、仕方なく親父が俺を引き受けたという経緯がある。察するに――俺と親父に血の繋がりはないのだ。おそらくは妹の飛鳥とも。


「一本、貰うよ」


 受け取った缶から、震える手で煙草を抜き出す。見よう見まねで点火して吸ってみるが、あまりの煙たさに噎せてしまう。


「下手糞。一気に吸うからそうなるんだ。クールスモーキングでやってみろ」


 親父のレクチャーを受け、咳き込まずに吸うコツは掴んだが、期待したほどの味ではなかった。同じく勧められるままに飲んだウイスキーも、喉が焼けるように痛むだけで、ストレス解消の手段にはなり得なかった。


 込み上げてくる涙は、初めての酒と煙草のせいである。

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