□白昼夢 学園祭から二週間後
妹の様子がおかしいと気付いたのは退院してからすぐのことだった。具体的には口数が減り、思いつめた表情をすることが多くなった。昨日は学校を休み、一日中部屋に籠もっていた。
変化の理由には心当たりがあった。十中八九、原因は俺だろう。あの事件の噂が、妹のいる中学まで流れ、謂われのない誹謗中傷を受けているのだろう。
学校のない土曜日、俺と飛鳥は居間でぼんやりとテレビを見ていた。昼間の情報番組だったろうか。司会者や芸人達の笑い声が流れていく。意識して見ていた訳ではない。眺めていたという方が正しいのかもしれない。
俺達の間に会話はなかった。
親父は仕事に出掛け、母親はどこかで作った男に会いに行っているのか不在である。
飛鳥が俺をちらちらと見ていることには気付いていた。何かと思って俺から見れば、今度は向こうが目を逸らしてしまう。
「どうした。言いたいことがあるのか」
俺が口を開く思っていなかったのか、飛鳥はうつむいてしまった。普段、明朗闊達な姿ばかり見ていただけに、その変化は衝撃的であった。
「話なら聞く。相談でも愚痴でも、文句でも恨み言でも、遠慮なく言ってくれ」
「恨み言って」
無い訳ないだろ?
俺のせいでお前に迷惑が掛かっているんだから。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……学校で聞き慣れてしまったから、つい言葉が出てきた。それで、どうした?」
「相談なのかな。愚痴になるかもしれないけど」
視線で続きを促す。飛鳥が何を言うかの予想はついていた。
「私、学校で嫌がらせされているみたいなんだ」
「原因は俺だろ?」
少々の躊躇ののち、飛鳥は頷いた。
「兄さんは本当にやってないんだよね? 兄さんが紫さんを刺したって嘘だよね」
「当たり前だ。俺はやっていない。命を賭けてもいい」
「命って」
こんなことを聞かれるとは、ついに妹からも信用されなくなったか。
「飛鳥。俺、何とかするよ」
「何とかってなに? いい加減なこと言わないでよ」
「……ごめん」
「謝ってもらっても、私の学校生活はもうめちゃくちゃなんだよ? 見てよ、この髪。せっかく手入れして伸ばしてたのに――切られちゃったんだよ!」
そう言い、飛鳥は自分の頭を掻き毟る。
背中まであった彼女の長髪は、首のすぐ後ろで無残に切り取られていた。
「私の楽しかった時間返してよ! 言ったよね、何とかしてくれるんでしょ!」
激昂した飛鳥は、手元にあったマグカップを投げつけた。
陶器の器が俺の額に当たり、床へと落ちて割れてしまった。
「本当にごめん」
「口だけの謝罪なんていらない! ごめんと思ってるなら今すぐ消えてよ!」
「……え?」
「死ね!」
飛鳥は言い放ち、自分の部屋に去っていった。
立ち上がり、割れたカップの破片を拾おうとして、自分の手が震えていることを自覚する。
このカップは、飛鳥の中学受験成功のお祝いとして、俺が贈ったものである。
父親と母親の関係が冷え切っているから、せめて妹とだけは仲良くありたいと思っていたのだけれど――。
財布を持って家を出た。中身は寒いが、ペンと原稿用紙、そして麻縄を買うだけの持ち合わせはあった。今日中に身の潔白を証明する遺書を書き上げ、首を括ろうではないか。
多分これは衝動的なものなのだろうが――この機を逃せば俺は多分一生死ねない。死んだようにズルズルと生きるくらいなら、せめて有意義に死ぬべきだろう。
元凶である俺が消えれば、飛鳥を苦しめる噂も消えてくれるだろう。
それに、飛鳥だってそれを望んでいるのだから。
結局、壊れたマグカップの破片を拾うことが、どうしてもできなかった。
* * *
週明け。死に損ねた俺は学校へと向かう。
駐輪場に愛用のロードバイクを停め、A組の教室へ行く。
道中、すれ違った生徒達からの軽蔑とも嫌悪ともつかない視線が突き刺さる。
――あんなことをして、どうして学校に来れるんだろう。
――罪悪感とかないのかな。刺された女の子、まだ意識が戻らないってよ。
――うわーかわいそー。あいつ、最低のクズ野郎じゃん。
噂は消えることなく俺の耳に届いてくるが、残念ながら噂で俺は殺せない。
教室に入ると、賑やかだった教室が一瞬で静まり返ってしまった。
――来たよ、人殺しが。あ、人殺しじゃなくて強姦魔か。
――え、何それ。
――犯そうとして、抵抗されたから刺したらしいぜ。
――まじか。死ねば良かったのに。
俺だって死にたかったよ馬鹿野郎。
いつの間にか人殺しの強姦魔になっているとは、噂の飛躍とは恐ろしいものだ。
当然俺はやっていない。だが、敢えて否定する気にもならなかった。大多数の人間がそう言うということは、彼らにとってはそれが真実なのだ。だからもう、どうしようもない。
窓際の座席に寄り掛かりながら、クラスメイトと談笑している蓮次郎と目が合った。
彼は俺を睨むでも庇うでもなく、すぐに目を逸らすと、隣にいる男子と話を再開する。
その態度に――愕然とした。
唯一無二の親友だと思っていた俺達の関係は、事実無根の噂に抗えない程に薄弱なものだったのだ。こんな状況でも、彼だけは俺の味方でいてくれると期待していたが――。
いや、あいつは何も悪くない。
悪いのは、他人に期待した俺の方なのだ。
俺は、どこで何を間違ったのだろうか。
幾度と無く繰り返した問いである。思い悩んだところで時間が巻き戻りはしないのだが、孤独となった俺にできる最高の暇潰しがそれだった。
* * *
放課後、昇降口を出た時、知らない連中に囲まれた。人数は五人。どれも男子。全員が頭の悪そうなな笑みを浮かべている。見たところ上級生らしい。面識がないことから察するに、普通科の人間だろうか。
「ねえ、千葉時貞クンだよね。悪いけどさ、ちょっとばかし面貸してもらうよ?」
まあ答えなんて聞いてないけどな、と男達はゲラゲラと笑っている。何がそんなに楽しいのか理解できなかったが――自分たちの軽薄さ? 間抜けっぷり? それなら俺も笑えるかもしれない――その程度で笑えるのなら、さぞ幸せな人生なのだろう。
このような手合いに絡まれるのも初めてのことではない。どうせ校舎裏にでも連れて行かれ、殴るか蹴るかして、ついでのように金を盗るのだろう。顔も名前も知らない奴らに痛めつけられるのも癪ではあるのだが、俺がしたことに対する罪と思えばどうということもない。むしろ手加減なんかせずに殺してほしかった。
連れてこられた場所は、人気のない校舎裏だった。まさか帰宅が命懸けになるとは思いもしなかった。存外、帰宅部というものはハードである。何せ中学時代の部活動よりも辛いのだから。
「おい。何笑ってんだ」
ドスをきかせたであろう声で上級生が言った。
俺は笑っていたらしい。我ながら、随分と余裕があるものだ。
「さっさとボコろうぜ。紫ちゃんの仇討ちってやつ?」
他の男が言った。周囲の連中も同調するように頷く。
「何でこんな奴があの美少女の側にいたんだか」
「本当だぜ。刺し殺すって何だよ」
「教室でレイプしようとして脅したって話だぜ。それで抵抗されたから刺したんじぇねえの」
「マジかよ! あんな可愛い子とできるなんて羨ましいなあ」
「おい、本音漏れてんぞ」
「ギャハハ。わりーわりー」
聞くに堪えない会話であった。何てことはない。こいつらは、紫さんと一緒にいた俺のことが気に食わないだけなのだ。
確かに紫さんは魅力的で、周囲を惹きつける人間だった。だから親派というか信者がいてもおかしくない。だが、一緒に居る男が憎いなら蓮次郎も呼んでやれば――いや、彼も紫さんと同様に人気者なのだ。結局、嫉妬をぶつけるに適した人間が俺しかいないのだ。
俺は勘違いをしていたのだ。
蓮次郎や紫さんといたせいで、自分も特別だと思い込んでいたのだ。本当の俺は、地味で退屈で、どうしようもない人間だというのに。調子に乗っていたツケが来てしまったのだろう。
そう考えると、自分が惨めで仕方がなかった。
死にたいなあ、と心から思った。
解放されたのは日が暮れてからだった。連中は気がすむまで俺を殴打した後、飽きて帰ったらしく、ここには俺ひとりだった。全身が痛むが、立ち上がれるし骨も折れていない。残念ながら生きていく分には問題ない。
駐輪場までのろのろと歩き、自転車を探せば――俺のロードバイクは放り捨てられていた。タイヤは何箇所も切り付けられ、おそらくチューブまで駄目になっているだろう。スポークも大半が歪んでいる。ブレーキワイヤーも切断され、チェーンに至ってはバラバラである。
少し前に磨いたばかりで、入学当初から大事に乗ってきたのに――。
――仕方がない。
そうだ、これは仕方がないことなのだ。
諦めて受け入れるしかない。
ボロボロの自転車に詫びつつ、帰宅することにした。
* * *
翌日。何事もなく学校から抜け出した俺は、紫さんが入院している総合病院に向かった。
受付で、紫さんの見舞いをしたい旨を告げて、彼女のいる病棟と部屋番号を聞く。
紫さんのいる病室に入ろうとして――足が止まった。
病室前の長椅子に蓮次郎が座っていた。彼は俺を認めると、忌々しげに顔を歪めた。
「時貞。こんなところに何しに来たんだよ」
「見舞いだよ。俺が来ちゃ駄目だって言うのか」
「駄目に決まってんだろ」
間髪入れずに蓮次郎が答えた。
「紫はまだ意識が戻らない。誰かさんのせいでな。君だけを恨むのは間違っているのは分かってる。だが俺は君を許せない。君に、紫に会う資格はないんじゃないか」
「……そうか。いや、その通りだな」
「分かったら早く帰ってくれ。お互い、こんなところで殴り合いの喧嘩はしたくないだろ」
「ああ、そうだな」
病室を後にした。
もう、何を言う気にもなれなかった。
首を吊って死ねなかったのだ。今度は服毒自殺にでも挑戦してみようか、と考えていた。
* * *
俺はひとり教室に立っていた。
事件の直後らしい。紫さんが伏していた場所には血溜まりが残り、俺の足元には凶器となったナイフが転がっている。
窓越しの空は相変わらずの夕焼けであり、教室を緋色に染め上げていた。
立ったままでいるのも辛いため、近くにあった手頃な椅子に腰掛けた。
なぜ俺はここにいるのだろうか。
紫さんの見舞いに行って、蓮次郎に追い返された。いや、剣道部に入部して大会に出ていたはずだ。ではなぜ武道館にいない。いや、その前に首を吊って死んだと思ったのだが――。
よく分からない。何か大切なことを忘れている気がした。
教室のドアが開かれた。こんな鉄錆臭い部屋に誰が来るのだろう、と見ていれば。
「こんにちは、貞くん」
紫さんだった。
「やっぱり、あの時のままなのね。血があんなに残ってるなんて、ちょっと恥ずかしいかも。あ、それ私を刺したナイフでしょ。あの時は本当に痛かったなあ」
俺に近付いた紫さんは、ナイフを拾い上げると、物珍しそうに刃先を眺める。
もう、驚く気力もなかった。
「……意識、戻ったんだね」
「ええ、知らなかったの?」
「多分、知らなかったと思う」
いや、誰かからそんなことを聞いた気もするが――覚えていない。そんなことよりも。
「俺に話し掛けないでくれ。もう、疲れた」
「疲れたって、どうしたの?」
忘れていた記憶が次第に蘇ってくる――。
「俺は何もしていないのに、君を刺した犯人だって言われるし、殴られたり蹴られたりもするんだ。自転車は壊されるし、蓮次郎だって助けてくれない。病院に行っても、君に会う資格はないって追い返されたよ。妹にも迷惑を掛けてしまったし、首を吊っても死にきれなかった」
紫さんの前では弱音を吐くまいと思っていたのだが――限界だった。
「なあ。俺、そんなに酷いことをしたのかな。俺だけが悪かったのかな。もう、全部忘れさせてくれないか。君だって、俺のような奴なんて忘れた方がいいだろ」
「お願い。そんな辛いこと言わないで」
紫さんが悲痛な声を上げた。
優しい彼女のことだ。俺に同情してくれたのだろうが――それすらも嫌だった。
紫さんを無視して椅子から立ち上がる。教室から出ようとして――。
「待って。行かないで」
紫さんに袖を掴まれる。
「放してくれ」
「行かないで。私が何とかするから。皆の誤解を解くから。東君にもちゃんと言うから。あなたのことを守るから。だから――」
「やめてくれ。今更そんなことを言っても遅いんだよ!」
紫さんは身を震わせて一歩退いた。
「俺、学校で何て言われてるか知ってるか。人殺しに強姦魔、最低の屑野郎だぜ。もうどうしようもないだろ。戻りたくても戻れないんだよ!」
「ごめん。ごめんね――」
紫さんは泣き出してしまった。もちろん、俺の発言がただの八つ当たりでしかないことは分かっている。だが、叫ばずにはいられなかった。
何もかもがどうでもよくなった。その証拠に、泣いている紫さんを見てもまるで良心が痛まない。むしろ全てが滑稽に感じて笑いすら込み上げてくる。
どうやら、俺は堕ちるところまで堕ちてしまったらしい。
いや、違うな。俺を堕としたのは俺以外の全ての人間だ。
最低で罪悪感の欠片もない、人殺しで、強姦魔で、屑野郎が俺なのだ――。
「……貞くん?」
紫さんの声に怯えと恐怖が混じる。俺はさぞ醜悪な笑みを浮かべているのだろう。
紫さんは身を固くして俺を見上げていた。
「ねえ、どうした――」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。
俺が彼女を突き飛ばしたので。
「痛い。な、なにするの!」
俺は返事をせず、床に倒れた彼女に覆い被さる。
「怖い。ちょっと、やめてよ。やめてったら!」
紫さんは必死に手足を振って抵抗するが、組み伏せるのは簡単だった。
彼女の整った顔は恐怖に歪んでいる。俺はそんな彼女を黙って見つめていたが――いつまで待っても罪悪感は湧き上がらない。それどころか嗜虐心が鎌首をもたげる始末である。
これは、笑うしかない。
俺は、自分の良心にすらも裏切られたのだ!
「私、あなたのことが好きだったのに。酷いわ、こんなの」
「俺だって君のことが好きだった」
「え?」
紫さんの顔に一瞬喜色が浮かぶが、すぐ俺を睨みつけるような顔に戻った。
「そんなの嘘よ。だったらどうしてこんなことをするの?」
「好きだったからだよ」
好きだった関係が壊されたのだ。それならば、最後だけは俺の手で終わらせたかった。
もしかしたら、まだ俺達はあの頃に戻れるのではないか――。
皆で再び笑い合うことができるのではないか――。
そんな叶わぬ幻想を抱かずにすむのだから。俺も、彼女も。
「お願いだからやめて。今なら何もしなかったことにしてあげるから」
「それじゃ駄目なんだ」
「それならせめて、優しくして――」
観念したように紫さんは目を閉じた。
俺は震える彼女に唇を近付けて――。
――私と、友達になってくれませんか――。
誰かの声が蘇り、俺の動きが止まる。
この優しげな声は――立花さんのものである。俺なんかに、友達になってくれと言ってくれた彼女を思えば、忘れていた罪悪感が戻ってきた。
俺はここで紫さんを傷つけなければ前に進めないと思っていたのだが――。
何を馬鹿なこと言っているんだ。そんなものは俺のエゴでしかない。それに、これ以上ない程に傷つけているじゃないか。
紫さんを解放して立ち上がる。
「……貞くん? どうして――」
彼女の潤んだ瞳は、俺を真っ直ぐ見つめていた。
何に対して、どうして、なのか。
押し倒したことか。
それとも――いや、やめよう。
もう、ここに俺の居場所はない。行かなければ。
教室から逃げ出した。誰もいない廊下を走り抜ける。
漠然とした不安と恐怖に追いつかれるのが怖くて、後ろを振り返ることができなかった。