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12/22

■5-1.剣道部に入部してから一ヶ月が経った頃のこと。

私は剣道という競技が嫌いです。「この子が生まれたらどんなスポーツをやらせたい?」と尋ねられた時、「剣道じゃなかったら何でもいいよ」と脊髄反射的に答えてしまう程度には。その時の婚約者の貌は、正直よく覚えておりません。何せ運転中でしたので。でも、きっと悲しそうに或いは困ったように笑っていたのではないかと思っております。今でも様々なことが忘れられません。クルマも売り、バイクも処分して、仕事も辞めて、住む土地も変えて。もう別人になったと言ってもいいのに、記憶だけがべっとりと脳裏にこびりついて離れません。嗚呼、だから私は作家になりたいと思うのです。作家のような生き様しかできません。

 剣道部に入部してから一ヶ月が経った頃のこと。

 練習には、多くて週に三回、少ない時でも二回は参加するようにしている。毎日出席しないことに対して、優哉と遥斗は何も言わないが、顧問やマネージャーを始めとする女子部員からは良い顔をされないのも事実である。


 県大会を翌日に控えた部活動終了後、男子は剣道場に残っていた。


「ついに明日だね。なんだか緊張してきたよ」


 防具袋に防具を詰めながら遥斗は言った。


「遥斗は緊張するタイプなのか。そんなに重要な大会でもないだろ」


 県大会とはいえどもインターハイ出場権を賭けた高総体とは異なり、上位に勝ち残っても何の恩恵もない。要は実力試しの場でしかない。


「そうは言ってもね、僕らは団体戦をやってみたいのさ。重要じゃない大会なんてないさ」


 遥斗はそう言い、今度は竹刀袋に竹刀と木刀を納める。枯葉色で上質そうな竹刀である。試合用のものらしい。


「団体戦なんて中学以来だぜ。試合前の作法なんて忘れちまったよ」


 そう言って笑う優哉には余裕があるように見える。


「そんなの俺と遥斗に合わせれば大丈夫だろ。頼むぜ、主将」

「そんなにプレッシャーかけんなよ。俺も緊張してきたじゃねえか」

「優哉も遥斗も強いんだから心配するなよ」


 実のところ、俺も剣道の腕前には若干の自信を持っていた。だが、右手の怪我や長期のブランクを考慮しても、二人の方が格上だったのだ。聞けば、週末には隣町の道場まで行って稽古に参加しているのだから納得である。


「千葉君も十分強いと思うけどな。上段になったばかりとは思えないよ」

「あんまり褒めないでくれ。調子に乗って明日負けちゃうだろ」

「負けちゃうのかよ」


 確かに大会に出てくれるだけでいいと言ったのは俺達だけどよ、と優哉は顔をしかめる。


「あー。なんかそれ分かるかも」


 俺達の会話に入ってきたのはマネージャーの久我さんだった。


「何が? 俺が調子こいてボロ負けするのが?」

「違うから。まあそうなってほしいけどさ」


 さりげなく毒づいた久我さんは優哉のすぐ隣に座った。


「キミ、週二くらいしか出てないのに結構強いでしょ。秘密特訓でもしてんの?」

「俺そんなキャラじゃないから。剣道の本を読んだり、試合の組み立て方を考えたり――足りない練習量は頭で補ってるんだよ」

「なんか納得いかない」


 久我さんは不満そうに呟いた。どうやら彼女は、俺が女子よりも強いのが気に食わないようである。まあ、そんなこと言われたところで仕方のないことであるが。


「皆。明日、勝とうぜ」


 優哉が拳を前に突き出した。 


「時貞。何ボサっとしてんだよ。手ェ出せよ」

「え、何? 気合い入れ?」

「他に何があるってんだよ。ほら遥斗も。華子も」


 俺達は拳を合わせる。


「絶対勝つぞ! 目指すは優勝だ!」


 優哉の掛け声に、俺達も応える。

 三人だけで優勝するなんて現実的じゃないが、それを指摘するのも野暮だろう。

 ふと久我さんを見れば、頬を染めながら眩しそうに優哉を見ている。その視線に気付いた優哉も照れくさそうに頬を掻いた。遥斗も訳知り顔で頷いている。

 部活に恋愛とは青春らしいじゃないか、と他人事のように感じていた。


     *     *     *


「お兄ちゃんの高校ってそんなに剣道強いの? 名前聞いたこともないんだけど」


 夕食後、飛鳥に部活での遣り取りを話したらそんな言葉が返ってきた。


「まさか。皆本気じゃないよ。言うだけならタダってやつだろ」

「ずいぶん簡単に言うけどさ。それ、本気で優勝を目指してる人の前で言っちゃだめだからね」


 複雑な表情で、飛鳥は控えめな非難を寄越す。

その主張は十分に理解できる。優勝以外は価値のないような強豪校に所属する者にとって、実力もないのに優勝したいと言うのは侮辱でしかない。冗談でも口にしてはいけないことである。なぜなら本当に優勝しなくてはならないのは彼らの方なのだから。もし顧問が納得のいかない負け方をしでもすれば、口に出すことすらも(おぞ)ましいペナルティを課せられてしまうのだから。


「そんなことは分かってるよ。とにかく、試合に出る以上は勝ちたいなと思ってるんだ」


 同好会時代は勝つための練習なんてしてこなかった。この町に来て、勝つことを意識した練習は素直に楽しかった。培った技術がどこまで通用するか試す機会を得られたことが嬉しかった。


「青春してるね。お兄ちゃんが元気になって嬉しいよ」

「お前はどうだ。学校は楽しいか」

「悪くはないかな。友達も多いし、これでもクラスでは人気のある方だと思うよ。男子からも女子からもね、勉強の方はそれなり、だけど」

「目を逸らすなよ。それなりってのは悪いってことじゃないか」


 飛鳥は、お世辞にも成績が良いとは言えない。地頭は良いし機転は利く方なのだから、俺を含めた家庭環境が勉学の障害になっているのだろう。


「中学校の評定は受験にも影響するから上げておいて損はないと思う。お前なら教師に媚びておけば簡単に上げてくれるだろ、多分」

「……何それ。女子であることを武器にしろって?」

「そこまでは言ってないよ。愛想良く振る舞えばいいってことだよ」


 俺が「友好的にしていれば教師も温情をくれるさ」と言えば、「理想論だよそれは」と飛鳥は反論する。


「そこで勉強しろって言わないあたり、さすがだよね。尊敬するよ」

「褒めるなよ。照れるだろ」

「何言ってんの、皮肉だから」

「知ってるよ」


 これでも最近の飛鳥は勉強をしているのだ。

 そこに追い打ちをかけても逆効果でしかない。


 同じ理由で、誰かに頑張れと言うのも嫌いだった。

 その言葉の裏には「俺も頑張っているのだからお前も同じように」だとか、「俺の迷惑にならないように」などといった長ったらしい接頭詞がつくような気がしてならないのだ。

 俺にとって頑張れという言葉は、応援ではなく、責任の放棄と他者への強要でしかない。本当に死に物狂いな者に頑張れなんて言えるものか。そんな薄っぺらい根性論を吐くよりも、何をどのように改善すればいいかの具体案を出した方が余程建設的であろう。

 そこまで考えて――人間不信を拗らせていることを自覚する。

 そんな自分が滑稽だった。


「明日、応援に行くからね」

「いいのか? お前、剣道嫌いだろ」

「大嫌いだよ。でも、お兄ちゃんが出るからね。家族の応援をしに行くのも青春じゃない?」

「そういうものなのかな」

「そういうものだよ、たぶんね」


 飛鳥は少々の間を置いたのち。


「明日、頑張ってね」


 とガッツポーズをしてみせた。

 頑張れという言葉は嫌いだったが、飛鳥に言われるのは不思議と嫌ではなかった。むしろ、その期待に応えたいとすら思った。


     *     *     *


 大会当日。開会式の後、俺達は観客席の陣地に戻り、試合まで待機していた。

 配布されたパンフレットによれば、午前に個人戦、午後には団体戦が行われる。

 個人戦には、男子からは優哉と遥斗の二名が出る。女子からも二名が出るはずだが、顔も名前も覚えていない。ウォーミングアップを終えた優哉と遥斗は、すぐそこで他校の男子と何やら話しているし、女子部員たちは円陣を組んで雑談混じりのミーティングをしている。


 観客席の固い座席に腰掛けながら、試合会場を眺める。

 個人戦の一回戦が始まるところであった。


「暗いね。緊張してるの?」


 パンフレットを見ながら、左隣に座る飛鳥が尋ねた。


「かもしれない。ちょっとまずいな。身体が固まっているような感じがする」

「珍しい。お兄ちゃん、緊張しないタイプだったじゃん」

「昔はな。ちょっと微温湯(ぬるまゆ)に浸かりすぎたのかもしれない」


 どうにかしてメンタルを整えないとあっさり負けるな、と思った時。


「おはよう、時貞くん」


 聞き覚えのある声がした。

 振り向けば、三つ編みが特徴的な女子が立っていた。言わずもがな立花さんである。


「おはよう。どうしてここに?」


 彼女が何部に所属しているかを未だに聞いたことはなかったが、当然彼女は剣道部ではない。そして今日は土曜日の午前中である。


「応援だよ」

「それなら女子は向こうにいるよ」

「違うよ。私は時貞くんたちの応援に来たんだよ」

「え?」


 怪訝な顔をする俺を気にもとめず、立花さんは俺の右隣に座った。


「今日、時貞くんたちの初試合なんでしょ? それに、ほら。私、きみに無理に部活勧めちゃったかもしれないし、責任を感じていたんだよね」

「責任って言っても、部活の参加を決めたのは俺だよ。君が気にすることじゃないよ」


 俺が「案外義理堅いんだね」と言えば、「案外はよけいだよ」と立花さんは小さく笑った。


「折角の休日をこんなことで無駄にしなくてもよかったのに」

「こんなことって言い過ぎだよ。友達の応援をすることなんて普通じゃないかなあ」

「普通なのかな」


 俺だったら、自分の時間を誰かのために積極的に使おうとは思わないが。


「うん。逆に聞くけど、時貞くんだって今まで、誰かの応援したことくらいあるでしょ?」

「まあ、そうだけどさ」


 そこで会話が途切れてしまう。立花さんは、この話題は終わりとでも言わんばかりに、試合会場へ視線を移した。それからは、戻ってきた優哉と遥斗に立花さんの相手を任せ、俺は離れた場所で、団体戦で当たる相手校の試合をつぶさに観察していた。


 今の俺には、死力を尽くして練習することはできない。相手の弱点を見抜いて、自分の長所を理解して――頭を使って立ち回ることしかできない。もっとも、所詮は付け焼き刃である。欠点など最初から存在しない強豪校に当たったら地力の差でいとも容易に負けてしまうだろう。

 日々限界まで稽古をしているところは当然それだけ強いのだ。そう思えば、有無を言わさず生徒を従わせる体罰も――場合によっては性的虐待も――ある意味では合理的なのかもしれない。少なくとも指導する側にとっては。


「どうしたの? そんなに笑っちゃって」


 観客席から逃れてきた飛鳥がまた俺の隣に並ぶ。


「いや、なに。これだけ高校があって、そのうちどれだけ体罰や恫喝があるのかなと思って」

「……変なこと考えているね」


 少々思案したのち「あそこがそうじゃないかな」と飛鳥は試合会場に立つ審判のひとりを指差した。曰く、先程トイレに行った際、あの審判が女子部員を指導している場面に出くわしたのだとか。


「もうね、指導とか教育とかそういうレベルじゃない。大声張り上げて、壁を殴って――個室にいても声が聞こえてきたんだよ。出てみればその子もすっかり怯えちゃってるの」


 大層気の毒な話であるが、俺や飛鳥にとってはありふれた光景でしかない。おそらくは通りがかった関係者全員にとっても。顧問ないし監督なら何をしてもいいという歪んだ常識が浸透しているのだこの界隈は。


「感覚が麻痺しているんだよな。それか腐っているかだ。懐かしいぜ、まったく」


 俺と飛鳥があのような地獄の日々を乗り越えたことに妙な感傷を抱いてしまう。

 もっとも、それが原因で俺達の性格は多少なりとも歪んでしまっただろうし、もう二度と戻りたいとも思わないが。


「そんな強豪校があるなら当たりたくないな」

「そこは心配しなくてもいいと思う。監督が厳しいだけで男女ともそこまでじゃなかったよ。多分、遥斗先輩たちなら余裕で勝てると思う。今のお兄ちゃんじゃちょっと微妙だけど」

「俺が負けちゃ駄目じゃないか」


 本来、団体戦は五人でやるものなのだ。俺達は三人しかいない。つまり不足している二人分は不戦敗となるため、俺達三人の中で、ひとりでも負けたら、その試合は負けとなってしまう。


「あいつらのこと見てたんだな」

「うん。遥斗先輩も優哉先輩も強くてびっくりしたよ。さっきも少し話したけど、強いのにいい人だったからちょっと意外だった」

「それな。超分かる。剣道強い奴って大概人格が終わってる奴ばっかりだからな」


 冷静に考えれば、得物を持って対戦相手を本気で打ち据えるような競技を進んでやりたがるような奴にまともな感性を求める方が間違っているのかもしれない。礼節を重んじて、真摯に打ち込んでいる方々には大変申し訳ないが――俺が知る限り、そんな模範たる者は生徒にも指導者にも一握りしかいない。武士道だ礼節だと取り繕うのは一向に構わないが、所詮は野蛮な競技であり、体罰と虐待の温床でしかない。少なくともそれが俺と飛鳥の認識ないしは経験である。


「鏡見た方がいいよ。頭にブーメラン刺さっているから」

「何だよ。俺はまだマシな方だろ」

「本当にマシなら自分で言わないでしょそんな傲慢なこと。まあそんなことは置いといて――お兄ちゃんが助っ人になりたいと思ったのも分かるよ」


 飛鳥は観客席にいる優哉達を見遣る。俺も見れば、さっきまでいなかったマネージャーの久我さんも加わり、何やら和気藹々とした雰囲気であった。


「あの三つ編みの人――さくら先輩だっけ? わざわざ応援に来てくれたんだよね」


 値踏みするような眼差しのまま飛鳥は言う。


「そうみたいだな。俺には理解できないけど」

「この前クッキーくれた人だよね」

「クッキー?」


 俺が首を傾げれば「友達になってくださいってメッセージカードを書いてくれた人」と飛鳥は補足する。


「ああ、そうだったな。立花さんがどうかしたのか」

「あの人もいい人だよね。きっとさくら先輩、お兄ちゃんのこと好きだよ」

「ありえないよ」


 考えるより先に言葉が口から転げ出た。


「即答なんだ。今日だってお兄ちゃんのために来てくれたんでしょ」

「俺だけじゃなくて、俺達のためにだよ。同じクラスで仲も悪くないからな。立花さんは確かに優しい人間だけど、勘違いはできないな」


 好意と厚意を履き違えてはならない。

 俺なんかが立花さんに好かれていると舞い上がっては、彼女の方がかわいそうだ。


「そうかなあ。私は脈があると思うけどな。嫌いな人の隣に座ろうとは思わないでしょ」

「そりゃクラスメイトだからね」

「今だって、ちらちらとお兄ちゃんの方を見てるよ?」


 そう言われても、俺の視力では確認することができない。


「あんまりからかうなよ。俺が誰かに好かれるなんてあり得ないよ」


 そして誰かを好きになることも、もう二度とないだろう。


 ――もう二度と?


 まるで、昔誰かを好きになったような言い振りである。そんなこと、ある訳がないのに。

 何となく落ち着かない気持ちのまま、個人戦の部である午前中を過ごしていた。

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