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□白昼夢 学園祭まであと〇日

 右頬の熱い疼きで意識が引き上げられる。

 重い(まぶた)をこじ開ければ、赤い光が飛び込んできた。温度のない静かな光である。それが沈みゆく夕陽から発せられたものだと分かったのは、緋色の空を漂う薄い雲を認めたからである。


 冷たい斜陽は床に伏せる俺を照らしていた。

 俺も、その光を呆然と眺めていた。

 右目から流れ出た涙が、眉間を超えて左目を濡らし、じわり、と光線が乱反射する。


 俺は、何をしていた。どうして泣いている?

 何か、途轍もなく悲しいことがあった気がするが――それが何だったのか思い出せない。


 全身の痛みを堪えながら立ち上がろうとして、右手が大柄のナイフを握り締めていることに気付く。見れば、刃の根元から先まで血がどっぷりと付着している。まるで、誰かを刺し殺そうとした直後のように。


 ナイフを手放そうとするが、硬直した五指は言うことを聞かない。誰かに踏み潰されでもしたのか、手の甲は裂傷だらけで、節々からは白い骨が露出している。

 動かせないものは仕方がない。左手を使い、一本一本、指を反対方向に引き伸ばして凶器を捨てることに成功する。痛むには痛むには、些細なことであった。

 それより、何かしなければいけないことがあった――はずである。


 ――ああ、そうか。誰かが、刺されたんだ。

 俺は、そいつを助けようとして――。


 それから、どうなった?

 そもそも襲われたのは誰だ?


「…………?」


 前後の記憶が曖昧だった。


 口腔まで達した刺し傷からは血が溢れ、制服の襟元をじっとりと濡らしていた。傷口は熱く脈動しているくせに、凄まじい悪寒で歯の根を合わせることができない。


 眩暈(めまい)で世界が揺れる中、それでも周囲を見回せば、教室に立っていることが分かった。

 机と椅子は後方に追いやられ、足元には踏み荒らされた展示品のなり損ないが転がっている。黒板には、右肩上がりの整った文字で『学園祭まであと〇(ゼロ)日』と書かれてある。


――ゼロ? 二日前でも三日前でもなく? 


 これは、いつか見た夢の続きだろうか。

 窓際に目を遣った。

 そこが、いつも俺に笑いかけてくれる彼女の定位置だった。

 だが、そこに彼女――紫さんはいなかった。

 血を流して、倒れていた。


「紫さん!」


 傷だらけの身体を引きずって、彼女の許に駆け寄った。


「しっかりしろ、大丈夫か!」


 彼女の上半身を抱え上げる。腹部には、先程のナイフで抉られたであろう深い傷があった。そこから血が流れ、床に広がっていく――。


「……貞くん。わ、私は」

「待ってろ。今、救急車を呼ぶから」

「私の、ことより、あなたの方が」

「俺のことなんかどうでもいい。待っててくれ。必ず、助けてやるから」


 急に、目の前が歪んだ。

 俺は、泣いていたのだ。そんな場合じゃないというのに。


「ごめんね、貞くん。私のせいで――」

「もう、いいから。喋らないでくれ」

「駄目よ。これだけは、言わせて」


 紫さんの白い手は、血と夕陽で真っ赤に染まっていた。


「お願い。約束、忘れないでね――」


 今にも掻き消えてしまいそうな声だった。

 紫さんの瞳が閉じられた。彼女の全身が脱力する――。


 ――約束? 約束とは何のことだ?


 なぜ、紫さんがこんな目に遭わなくちゃならない。なぜ、誰も助けに来てくれない。なぜ、俺は彼女を守れなかった――。


「……ッ!」


 抱きかかえた彼女の身体を床に横たえる。

 叫びたい衝動を噛み殺し、ゆっくりと立ち上がる。


 斜陽の差し込む教室、踏みにじられた展示品、倒れた女子生徒、橙よりも赤い血――。


 この光景を見るのは二度目だった。

 嗚呼、何度この場面を忘れようとしたことか。


 あの時の俺は、救急車を呼ぼうにも、手が震えてスマートフォンをまともに掴めなかった。また、血に(まみ)れた指では、画面が反応してくれなかった。


 ――動けよ、動いてくれよ! 紫さんを助けないといけねえんだよ――。

 ――誰かいないか! 誰でもいい、助けてくれ――。


 俺の絶叫が届いたのか、蓮次郎と彼の取り巻きの女子達、そして緒方先生はすぐに来てくれた。先生に救急車を呼んでもらい、応急手当の指示を受けて――。


 そこから先は覚えていない。

 印象的だったことを挙げれば、俺を見た蓮次郎の第一声が「テメェ、紫に何をした!」という怒号だったこと。両隣にいた女子も、口を開きこそしなかったが俺に化け物を見るような目を向けていた。


 そして何より。

 倒れながらも俺を呼ぶ紫さんの声が――怨嗟(えんさ)が、忘れられない。


「私、刺されて本当に痛かったのよ?」


 顔を上げると、紫さんが立っていた。

 腹から流れる血が制服を濡らし、彼女の脚に筋となって伝っている。


「……紫さん?」


 なぜ、彼女が立っている?

 こんな光景、俺は知らない――。

 言葉を失う俺を見て、紫さんはくすりと口角を上げる。


「そんなに見ないでよ。あなたに見られると、流石の私もちょっと照れるじゃない」

「お、おい。何で君は」

「私が、なに?」


 紫さんが小首を傾げる。自身が血を流していることなんて知らないというように。


「さっき、刺されたんじゃ」

「そうね、刺されたわ。それも結構深く。具体的は――二週間は意識が戻らないくらいには」

「なら、どうしてそんな――大丈夫なのか」

「何言ってるの。重傷よ。大丈夫なわけないでしょ」


 紫さんは呆れたように眉をひそめる。


「こう見えても痛いんだから。早くしてよ」

「え?」

「救急車、呼んでくれるんでしょ? 今度は」


 今度は失敗しないでね――と彼女は酷薄に笑う。

 その声で、ぞくり、と背筋が粟立った。

 制服のポケットから携帯(スマホ)を出したところで、自分の手が震えていることに気付く。


「――へえ。あなた、また震えてるんだ。またそうやって、私を助けてくれないんだ」


 携帯が手から落ちた。血の脂に滑ったからなのか、紫さんの声に動揺したからなのか。

 かつん、という硬質な音が俺の精神を磨り減らす。 

 床に這いつくばって携帯に手を伸ばすが、紫さんが携帯を足で払った。携帯は床を滑り、展示物の側で止まった。


「紫さん。何をするんだ」

「それは私の台詞よ。どうして落とすのよ」

「ごめん。すぐに、呼ぶから」

「もう無理よ。諦めたら?」


 突き放すような言葉と同時に、俺は仰向けに蹴り飛ばされた。

 床についた右手の痛みに顔をしかめれば「痛いの? 私の方が痛いんだけど」と紫さんはせせら笑う。


「無様な格好ね。情けない」


 俺を見下す彼女に、得体の知れない恐怖が込み上げる。


「私は、あなたなら助けてくれると思っていたのだけれど――ごめんなさい。私の勝手な勘違いだったみたい。だってあなた、私が信じているのにも関わらず、何もしてくれなかったもの」


 紫さんが歩み寄る。


「来ないでくれ。俺が、俺が悪かったから」

「酷いこと言うのね。好きな人にそんなこと言われるのって、たとえ冗談でも傷つくのよ」

「――は?」


 紫さんは、今何と言った? 俺のことを好きだって?


「どうしてそんな顔するのよ。私が好きって言っても、貞くんは助けてくれないの?」

「やめろ。もう、やめてくれ」

「またそんなこと言う。それなら、仕方ないわね」


 紫さんは俺の腹の上にまたがった。俺の首に両手を添え、徐々に締め上げていく。

 彼女の端正な顔は憎しみに歪んでいたが――それでも、彼女は泣いていた。

 その表情が、恨んでいいのか縋っていいのか分からない、助けを求める子供のように見えて――俺は、彼女の手を振り払うことができなかった。


「どうして、あなたが辛そうな顔をしてるのよ」


 紫さんの細い指が、首に食い込み、視界が黒く染まっていく。


「被害者はあなたじゃない。私なの。分かってる?」


 分かってる。そんなの、分かり過ぎるくらい、分かってる。


「ごめん、紫さん。本当に、ごめんよ」


 最後の力を振り絞って謝罪をするが。


「今更? 何度言っても、私はあなたを許さない。だって」


 俺の誠意は紫さんに届かなかった。

 彼女は、喜色満面の笑みを貼りつけたまま。

 あなた、私を見捨てるんでしょ。裏切り者――と言った。

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