■4.編入学をしてから初めての土曜日、昼下がりのこと。
編入学をしてから初めての土曜日、昼下がりのこと。
午前だけの部活を終えて帰宅したあとは、自室の文机に向かい数学の参考書を眺めていた。
この参考書は編入前から使っていたものである。少し前までは基礎応用を問わず、全ての問題を解くことができたのだが、今では全くと言っていい程に駄目だった。いくら考えてもまるで解法が思いつかない。
――今日はもうダメだな。
苛立ちに負けて鉛筆を置く。思考を放棄して背筋を伸ばせば、背骨が鈍い音をたてる。
数学はこの様ではあるが、俺にしてはよくやっている方だろう。確かに理数系では苦しい部分もあるが、それでも授業では困っていない。部活動についても、順風満帆とは言えないまでもそれなりに上手くこなしているつもりである。
午前中も練習のあった剣道では、上段での戦法に転向したばかりで四苦八苦しているものの、優哉と遥斗からアドバイスにより実力の伸びを実感している。彼らと肩を並べて戦うことができる日はそう遠くはないだろう。
最後に、家族についても述べれば――及第点といったところだろうか。
飛鳥とは相変わらず仲が良い。距離が近過ぎると心配になるくらいには。あいつも転校する前は精神的に追い詰められていたのだが、今ではだいぶ落ち着きを取り戻してくれた。
親父の方は、つい先日正式に離婚が成立したらしく、昨日は職場からこの部屋に来て、俺達兄妹にこれまでの経緯を説明してくれた。まあ、これについては詳しく説明する必要もない。飛鳥は自分の意思で親父についていくと決めた。俺については最初から選択肢がない。それだけのことである。
いずれにせよ、俺達はこれからやり直していくのだ。
このまま、失った青春を取り戻せたらいいのだが――。
文机の上に置いてある携帯が震えた。メールではない。着信である。
背面の液晶に表示された名前を見れば。
『緒方夏美先生』
教育大学を卒業したばかりの、おっとりとした人柄の先生が思い浮かぶ。
先生は時折、こうして電話やメールを寄越すのだ。
あの優し過ぎる先生のことだ。逃げるように――否、逃げるために転校した俺を気遣ってくれているのだろうが、俺がその連絡に応じたことはただの一度たりともなかった。
「馬鹿じゃねえの。昔の教師が今更何の用だよ」
心にもない悪態を吐き、携帯の電源を切る。
今の今まで、変更の仕方が分からないと言い訳をして同じ番号を使っていたが、潮時だろう。実のところ、メールの差出人が紫さんでいてくれたらと期待している自分がいるのは確かである。そしてその文面が、俺を心配してくれるものであったら嬉しいと思っていることも。
――女々しいよな、まったく。
この際だ。
番号もアドレスも変更してしまおうと再び携帯を手にした時である。
「お兄ちゃん? どうしたの」
衝立の横から、飛鳥が不審そうにこちらを見ている。
「何でもないよ。どうかしたのか」
「何でもないって、何か言ってたでしょ。だから心配になって」
「ああ、悪い。色々鬱憤が溜まってな」
すぐ隣に飛鳥がいることを忘れていた。いくら仕切られているとはいえ、隣人の不穏な愚痴が聞こえてくれば様子も見に来るはずである。
「勉強の邪魔して悪かったな」
「別にいいよ。そもそも勉強なんてしてないし」
しれっと飛鳥は答える。言われてみれば、確かに飛鳥が参考書の類を開いている姿は転居してから見たことがない。
「大丈夫か。宿題とかもあるだろ」
「大丈夫だって。私、今の学校だとデキる方っぽいから。進学校に行けるの、私を含めて少ししかいないよ」
「勉強しない理由になってねえから。というか、それならなおさら勉強した方がいいって。周囲のレベルに合わせたってロクなことにならないだろ」
「お兄ちゃんは意識高いね。将来、社畜になって過労死するんじゃない?」
「はっ。俺が仕事なんかに殺されるかよ」
あの日、首を吊っても死ねなかったのだ。そんな奴が簡単に死ねる訳がない。そもそも俺なんかが就職できるのかも分かったものではない。
俺達の軽い遣り取りを止めるように玄関のインターホンが鳴った。
「お兄ちゃん。呼んでるよ?」
「いや、お前が行けって。俺座ってんじゃん。どう見ても勉強の真っ最中だろ」
「やだ。知らない男と会って話すの、無理だよ。怖い」
「怖いって、お前」
「ごめん。今はまだ、無理だよ」
「……分かった。俺が行ってくるから、ここで大人しく待ってろ」
安物の固い座椅子から立ち上がり、飛鳥の脇を抜けて玄関に向かう。退室する時、部屋の戸を閉めてやるのも忘れない。
再びチャイムが鳴らされた。唐突な来客は、二〇一号室の住人が不在かどうかを判断しかねている頃だろう。
それにしても一体誰だろうか。受信料の取り立てか。はたまた宗教の勧誘だろうか。
生憎、この物件には安全カメラもなければ、覗き窓もないため確認のしようがない。
建てつけの悪いドアを開ければ――。
「こんにちは。久しぶりだね、千葉君」
かつて俺が在籍していた高校の教師であり、剣道同好会の顧問――緒方夏美先生がいた。
「……先生?」
突然の光景に、俺は呆然とすることしかできなかった。
なぜ居留守を使わなかったのかという後悔は遅れてやって来た。
「どうして、先生がここに」
極度の緊張で喉が渇き、声が掠れた。
「千葉君のことが心配だから、様子を見に。ごめんね、突然来ちゃって。事前に君のお父さんにも連絡はして許可は貰っていたんだけど――もしかして、聞いてなかった?」
「ええ。親父からは何も」
きっと親父も仕事や私事に忙殺されて、俺達に伝え忘れたのだろう。
「そっか。一応、君にも何度かメールや電話をしたんだけど気付かなかったかな」
「すみません、携帯の電源を切ってましたから。ええと、本日はどんな用件でしょうか。何か、編入関係の書類に不備があったでしょうか」
「違うよ。君と、話がしたかったの」
「俺と?」
俺なんかと、一体何を話そうというのだろうか。
「君が転校してから本当に心配してたんだよ。どう? 元気にしていた?」
先生の表情と声色に嘘はない。本気で俺のことを心配しているようだった。
しかし、俺は先生にどんな対応をすべきなのかが全く分からなかった。
むしろ先生のことが怖かった。
俺を詰責するために、遠い過去から現在まで辿り着いた悪魔にしか見えなかったのだ。捜査一課の刑事に隠れ家を見付けられた犯罪者の気持ちとは、まさにこんな感じなのかもしれない。
「お陰様で左手の腕時計は外せませんし、いつでもハイネックのインナーを着用していますよ」
「ごめんね、気付いてあげられなくて」
「いえ、俺が勝手にしたことなので先生が謝るのは筋違いかと。まあ、立ち話もなんですから、どうぞ上がってください。大したもてなしはできませんが」
先生は何ひとつ悪いことはしていないというのに口調が厳しいものになる。
謝ることができないまま、居間兼食堂に着いてしまった。
「こちらにお掛けください。ご存じかと思いますが、この家には俺と妹しかいません。今、お茶でも持ってくるんで、少々お待ちください」
「うん、ありがとう」
台所へ向かおうとした時、飛鳥が私室から顔をのぞかせる。
客人の声が女性のものであることから、少しは安心したのかもしれない。
「お兄ちゃん? お客さんって――」
来客を認めた途端、飛鳥の表情が豹変する。
「おう、丁度いいところに。先生の分のお茶をいれてくれないか」
俺の声が届いているのかいないのか、飛鳥は先生を見下ろしたまま動かない。
「飛鳥?」
「……どうして、来たの?」
消え入るような声であった。
「先生を招いたのは俺だ。親父にも連絡済みだってさ」
「何、それ。そんなの聞いてない」
「俺もだよ。親父だって余裕がなくて言うのを忘れていたんだろ」
「あとで話、聞くからね。あ、あと」
去り際、飛鳥は先生に振り返ると「用事が済んだら早く出て行ってください」と吐き捨てた。
重苦しい沈黙の中、先に口を開いたのは緒方先生であった。
「桐生さんのことだけど――知ってた? 彼女、今年の春から復学したんだよ」
「本当ですか」
紫さん、退院することができたのか。
良かった。本当に、良かった――。
「留年じゃなくて、進級できたと受け取っていいんですか」
「うん。出席日数は確かに危なかったけど、学校側も特別に配慮してくれたの」
「特別に、ですか。まあ私立ですもんね。それなら良かったです」
「千葉君。あれから桐生さんに会ってないよね。今すぐじゃなくてもいいの。君の生活や気持ちが落ち着いてからでいいから、桐生さんに会ってくれないかな」
「え? いや、それは」
「急にこんなこと言われても戸惑うよね。でも、よく聞いて。彼女も、君に会いたいって言ってるの。あの子、いつも私に相談にしにくるんだよ。君がいないと学校に行く意味がないって。迷惑掛けてしまったのに、何も言えないまま別れるのは辛いって。だから――どうかな?」
「どうって言われても。信じられませんよ、そんなこと」
紫さんが俺に会いたがってるなんて、嘘に決まっている。
そんな馬鹿なこと、あっていいはずがない。
「それは、桐生さんが君を気に掛けていることが?」
「はい」
「どうして、そう思うのかな」
「あの時、俺は何もできなかったからです。紫さんを庇うことができませんでした。むしろ迷惑を掛けたのは俺の方です」
「そっか。君はそう考えているんだね。でもね、千葉君」
児童相談所のカウンセラーのように、俺の言葉を一旦受け止めてから、先生は語る。
「桐生さんはそう思っていないんだ。あの子は、君に会いたがってる」
それだけは信じてあげてほしいな、という先生の声音はどこまでも柔らかいものであったが、それに反し――否、それゆえに――俺の精神は追い詰められていく。額に脂汗が浮き出るのが分かった。
「あまり、嬉しそうにしてはくれないんだね」
「合わせる顔がありません。紫さんに会うくらいなら――俺は死を選びます」
「死を選ぶって――そんなに君は思い詰めていたんだね。でも」
「先生。俺には、無理です。泣き言を言ってすみませんが――無理なものは無理なんです」
「落ち着いて。君は、自分を責めているようだけど」
「やめてください」
先生の言葉を遮る。
「そんな役は、あの野郎――ああ、駄目だ。名前が出てこない。あいつにでも押しつければいいでしょう。あいつだって紫さんのことが好きなんだから」
「でも、桐生さんは」
「先生」
ここから先は決別の台詞だ。
先生にではない。紫さんに対しての。
「俺の中では、紫さんはもう死んだことになっているんです。彼女が何て言おうとも、俺はもう会いたいとは思いません。思ってはいけません。だいたい、あの時何もできなかった俺に彼女に会う資格なんてありません。会ったところで互いに辛い思いをするだけです」
「ううん。そんなことないよ。千葉君は、本当に桐生さんに会いたいと思わないの?」
「思いません」
「本当に?」
「……本当、です」
「桐生さんが、会いたいと言ってるんだよ?」
「お願いします。やめてください」
人が文字通り死ぬ気で固めた決心を何だと思ってやがる。
ありもしない期待を抱いて、過去に縋って生きるのはもうやめたんだ。
「言ったじゃないですか。もう決めたんです。知ってますよ。俺、そっちでは事件の犯人ってことになってるんですよね。殺人鬼に強姦魔でしたっけ? そんな奴が会いに行ってどうするんですか。これ以上紫さんに迷惑を掛けてどうしようっていうんですか」
「千葉君、ちょと落ち着いて」
「落ち着けって先生は簡単に仰いますが」
これが落ち着いていられるか。
いいから一刻も早く俺を見捨ててくれ。
「もっとハッキリ言いましょうか。報復なのか知りませんけど、あれ以来俺は虐められていたんです。特進科の連中ならまだマシでしたけど、面倒なのは普通科の奴らです。愛用のロードバイクは散々に壊されましたし、わざわざ校舎裏に連れ込まれての半殺しですよ。まあ、諸悪の根源は間違いなく俺なので律儀にサンドバッグになってましたけどね」
俺は喋ることを止められなかった。
無実の先生を傷つけてしまうと分かっていても。
「折角、これから新しい学校で上手くやっていけそうだって時に、紫さんのことを――昔のことを思い出させるのはやめてください。俺はこの町で人生をやり直すんです。それとも先生は俺に死ねと仰るのですか」
ここで、初めて先生は俺から目を逸らしてくれた。
また部屋に沈黙が訪れる。
「どうしても、駄目なんだね」
「誰が何と言おうと、無理なものは無理です」
「君を、助けてあげられなくて、ごめんなさい」
「俺に助けられる権利なんてありません。俺が言えることでもないですけど――本当に、どの口が言っているんだという感じですけど――紫さんのことを、どうか、どうかお願いします」
そのあとは、俺がまた剣道を始めたこととか、次の大会はいつどこでやると決まったとか、当たり障りのない空虚な会話を交わしていたが――それも長くは続かなかった。
「先生。俺、このあと妹と用事があるので――そろそろよろしいでしょうか」
会話が途切れたところを見計らって終了を切り出す。
「そう、だね。今日は本当にごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまったね」
「それは――気にしないでください。紫さんが退院して復学できたと聞けただけでも良かったですから」
「妹さんにもごめんって伝えてくれるかな」
先生は飛鳥の籠もる部屋をちらりと見遣る。
「伝えときますよ。俺なんかを気遣ってくれて、本当にありがとうございます。あ、本日は電車ですよね。駅までは見送らせてください」
「ううん、大丈夫だよ。今日は私用車で来たし、すぐ近くの駐車場に停めているから」
「緒方先生。今までお本当に世話になりました。あと、色々とすみませんでした」
「丁寧にありがとう。新しい学校でも頑張ってね。君のこと、忘れないからね。もし気が変わったら遠慮しないで連絡していいからね」
先生はゆっくりとドアを閉めた。
――なんだよ、忘れないって。
頼むから、俺のことなんか忘れてくれよ――。
兄妹の私室に戻れば、飛鳥はベッドのふちに浅く腰掛けていた。
「先生、やっとで帰ったんだ。用件は何だったの?」
「聞こえていただろ。紫さんが復学したってさ」
「……それで?」
「紫さんに会ってくれって頼まれた」
「兄さんは、どうするの。――ううん、どうしたいの?」
飛鳥は、伏せていた視線を上げる。
「行くの? 会いに」
「行かないよ。どうするつもりもない」
「兄さんは、さ。同好会やってた頃と、今の生活、どっちがいい?」
「それは――」
どちらだろうか。
同好会の仲間と過ごした日々は確かに楽しかった。だが、それは跡形もなく砕け散った。
今も今で不満はない。これから先、楽しくなるだろうという明確な期待もある。
「即答できないんだ。私だけじゃ足りない?」
飛鳥の言葉に、詰るような響きが込められているのは気のせいではないだろう。
「私は、兄さんさえいればそれでいいと思っているけど、兄さんは違うの?」
「俺も、お前がいればそれでいいよ」
「本当? 嘘じゃない?」
「本当だよ」
短く答え、飛鳥の真横に座る。
ベッドの骨組みが、きいと軋む。
「もしもの話だけどさ。戻れるとしたら戻りたい? 何もなかった頃に」
「仮定の話に意味なんてないだろ」
「意味とかそういう話じゃないの。答えて。戻りたい?」
「いいや、これでも今の生活が気に入ってるんだ。学校には剣道部の仲間がいる。たった一人だけど、友達になろうって言ってくれた女もいる。家に帰ればかわいい妹もいる。だから、戻りたいとは思わないよ」
断言してやれば、返答に満足したのか飛鳥は薄く笑った。
「そっか。兄さんは、そう思ってくれてるんだね」
「お前はどうだ。今の生活に不備はないか」
「無いよ。不満なんてない」
「即答か」
「それだけ、昔の環境が酷かったからね。それにね」
私には、兄さんがいるから――と飛鳥は静かに俺の腕を抱き締める。
互いに何も言わず、しばらくそのままの体勢でいた。
寄り添う妹の身体は氷のように冷え切っていた。