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ミサキ

作者: マルケソ

  1


 妻と手を繋いでいた。

 二人でどこまでも続く白い砂浜を歩く。

 太陽の光がとても眩しく、私は目を細める。

 かすかな潮の香りがする。

 穏やかな風が吹く中、時折さざ波が足元で小さく立つ。


 ……どれくらい歩いただろう。


 ほんの数分なのか、何時間もたったのか、時間の感覚はここにはなかった。

 少しでも妻を感じようと、私は握った手に力を入れる。

 しかし彼女の手の感覚は、すでに消えていた。

 私は彼女へと振り返る。


 ……誰もいない。どこを見ても妻の姿はない。


 一人になっていた。

 周りの音が消え、同時にあたりの空気が冷たく、重いものとなる。

 色を失い、深くて暗い穴の中へ吸い込まれるような感覚が、私を襲った。

「やめろ」と、私は叫ぶ。

 その声も闇へと吸い込まれ消えていく。次第に辺りの景色も消えていった。

 太陽も、海も、波も、砂も、風も、木々も……闇の中に消えていく。


「ああ……」と、私は理解した。

 私は全てを失うのだ。


 目覚めると、ダウンライトが灯る小さな病室に、私と妻はいた。

 

 季節は十月半ば、窓の外では少しずつ冬の気配が強まりつつある。

 腕時計の針は、深夜二時を少し過ぎている。

 

 疲れのせいか、ほんの少しだけ眠っていたようだ。

 パイプ椅子に座ったまま、私は体を軽く動かして背を伸ばす。

 そして、傍らのベッドに眠る妻の様子を確かめる。

 

 妻は変わらず、酸素チューブと痛み止めの麻薬の管に繋がれた姿だった。

 彼女の胸が微かに呼吸で上下に動き、コードで繋がれた医療機械が定期的なリズムを刻んでいく。

 

 ……少し眠っているようだ。

 私は安堵した。僅かでも彼女が休めているのなら、それでいい。

 断続的に全身を襲う激しい痛みと、鎮痛のために投与される大量のモルヒネが、妻の精神と体力を消耗させていく。彼女は痩せ細り、死を待つだけの姿となっていた。

 

 最後に彼女と言葉を交わしたのは……いつのことだろう。ずっと昔のように思われた。

 何気なく視線を窓へ向けると、暗い窓に私の顔が反射して写る。

 疲れ切った男の顔が、そこにはあった。

 

 ここで妻に付き添い、私も病室に泊まりこむようになってから、もう……三ヶ月が過ぎていた。


 ――不意に、周りが不自然に静まりかえる。


 深夜といえども病棟には何かしらの音があるはずなのに、今はそれがない。

 患者のうめき声、微かな医療機器の音、看護師の足音……全ての音が吸い込まれるように消えていた。

 冬とは違う冷たく重い空気が辺りに流れた。何とも言えない異様な雰囲気だ。それはゆっくりと確実に、私たちの世界を侵食していく。


 また、あれが来たのだ。

 

 異変の原因が、こちらへ近づいてくる。


「ミサキ……」

 無意識に私はやつの名を呟くと、右手で上着に忍ばせたあるモノの感触を確かめた。

 それは、古びた短刀だった。鞘や柄は年月とともに茶色く変色し、15cmほどの刃もほとんどが錆びついていた。

 これは祖母の形見だった。

 この短刀の用途を知る者は、私と死んだ祖母の二人だけだ。


 すでに音は完全に消えていた。さらに空気も鉛のようなものとなる。

 そして……気づけばやつが病室の中にいた。


 黒い存在。

 輪郭はゆらゆらと陽炎のように揺らめく。だが、妙にはっきりとした存在。

 それは幼児ほどの大きさで、うねうねと動く黒い人型の塊だった。目も鼻も口もない。手足のようなものはあるが全てが曖昧で、顔の部分は大きく肥大し、アンバランスな形状をしている。


「あれを見てはならない」

 古い記憶の中で、しゃがれた祖母の言葉が聞こえた。

 だが私はその言葉に従わない。目を凝らし、その存在をじっと見る。

 

 黒い人型の塊はゆっくり動き、扉から妻の眠るベッドへと移動していく。

 やつは妻の傍にまで近づくと、その不格好に膨れた頭を小刻みに震わせながら、頭から一本の黒く細長い触手のようなものを伸ばした。

 触手はゆっくりと動きながら、妻の胸の中へと吸い込まれる。

 妻と繋がる、その触手は何度も脈打った。


 私は右手で短刀を握り、鞘から抜いた刃を触手へあてる。

 そして、一気に力をこめて切り裂いた。

 ――ザンと、肉を切る感触。

 次の瞬間、黒い人型が甲高い叫び声を上げた。その叫び声は私の鼓膜を震わせ、脳が揺れる。相変わらず嫌な声だ。

 

 やがて耳に残った叫び声も消えると……周りの音が戻った。

 妻の寝息が聞こえ、繋がれた酸素チューブから空気の音が聞こえる。機械もまた定期的なリズムを刻み出した。

 病室の外で、どこかの患者の微かな声が聞こえた。廊下を歩く看護師の静かな足音も聞こえる。

 

 目の前にいた黒い人型は、もうどこにもいなかった。


「ミサキ……」


 私はもう一度、あれの名を口にした。

 この手に握るのは、祖母の形見。

 幾重もの夜を……私はこうして過ごしていた。



  2


 ……ミサキ……ミサキサマ


 父の地元では稀に、その名を聞くことがあった。

 

 四方を山に囲まれた農村。父の実家は、そこで大きな地主をしていた。

 戦時中もそれなりに裕福に過ごせるほどの家だったという。古い木造の屋敷と、二つの土蔵、そして離れの屋敷もまた大きなものであった。

 

 年に2回、お盆と正月の時期になると、私は両親に連れられて父の実家で数日を過ごす。

 家長の祖父は、昭和で時が止まったかのようなとても厳格な人だった。

 そんな祖父の後ろで付き従う、祖母もまた古風な人物だ。

 二人とも物静かで、私は彼らの笑い顔など見た記憶がなかった。

 親族の数も多く、孫も多い。だから一族が集まる行事でも、私は彼ら二人と親しく話す機会はなかった。


「ミサキサマがくるぞ」

 酒宴の場、酔った大人たちが幼い子供にそう言って、怖がらせることがあった。

 しかし彼らの話に出るミサキサマの姿は、どれも形が定まってはいない。

 人、獣、影……それは語り手によって様々な形をもつ。悪霊とも神の使いとも言われる異形の怪物。ただ話の中では恐ろしい存在であることだけが伝えられる。村の老人たちには、その名を忌み嫌う者もいた。


 幼い頃の私は夜になると、その怪物が暗闇からこちらを見ていることを想像しては恐怖した。

 それは他愛もない幼子の想像だった。


 だがミサキサマがその姿を現したのは、私が十歳――秋の頃だ。


 その頃、病を患った祖父の容態が悪化し、父の一族が本家の屋敷に集まっていた。

 祖父は町にある病院ではなく、家で死ぬことを選んだそうだ。

 付き従う祖母は祖父の看病のために座敷へ引きこもり、他の大人たちは母屋で今後の話をしていた。子供の私には興味がないことだったが、建物や土地、蔵の中身、様々なモノの行方を大人たちは決めねばならないのだろう。


 ――夜。私は、他の従兄弟たちと離れの二階で寝ていた。

 ――ふと、目が覚めた。

 また眠ろうと試みたが、すっかり眠気は消えていた。

 私は目を開き、暗い天井の木目を見る。

 しかし、それもすぐに飽きると、布団から抜け出した。

 寝息を立てる他の従兄弟たちを踏まぬように避けながら、窓に近づく。

 静かに窓を開け、身を乗り出す。そのまま猿のように家屋の突起を利用して瓦屋根の上にするすると登った。素足で触れる瓦の感触はひんやりとしていた。


 母屋を見ればすでに暗く、大人たちも床に就いているようだ。

 ここに来たのは、特に意味もない。

 ただ天井をじっと見ているよりは、屋根に登って外を眺めたほうが退屈を紛らわせると思ったからだ。

 秋の夜風は冷たかった。山々は暗く、空は雲があって星はあまり見えない。雲の間から小さな月だけがこちらを覗いていた。


 変だな……。


 私はそう思った。

 いつもと違い、辺りが静かすぎるのだ。

 夜といえども、田舎の山には様々な音が溢れている。虫の音、獣の鳴く声、沢のせせらぎ、木々が揺れる音。

 ……今夜は全てがない。


 気づけば私の息づかいも、足元の瓦の軋む音も、聞こえなくなっていた。

 周りの雰囲気もどこかおかしい。見慣れた場所にいるはずなのにひどく異質だ。

 突然、訪れた異変。……私は少し混乱した。


 そして視線の先――虚空の中、私は奇妙なモノを見た。

 夜空からこぼれ落ちたような黒い一滴の雫。バスケットボールほどの黒い塊だ。

 それは空から音もなく舞い降りて、ゆっくりと地面に落ちる。

 塊は地面の上でゆらゆら動くと、四肢の様なものが生え、それはだんだんと幼児のような姿となった。

 無音の中、私は目を凝らした。


 それは人の子のような形をしているが、黒く異形の存在だ。


「……ミサキサマ」

 私はその名を呟く……が、発した声はやはり消えてしまう。


 ミサキサマはゆっくりと母屋の方へ歩き出した。

 恐怖よりも好奇心が勝った。

 すぐに私は屋根から部屋に戻り、木造の階段を降りてミサキサマの後を追った。

 僅かな月明かりを頼りに、樹木が生えた深夜の敷地の中を進む。


 幸いにも、ミサキサマを見失うことはなかった。

 ミサキサマは、戸の間を滑り込むようにして、母屋の中へと入り込む。

 私も鍵のかかっていない戸を開けて母屋に入り、暗い廊下の中をミサキサマから少し距離を取りながら追って進んだ。


 そのまましばらく母屋の廊下を歩く。あたりは相変わらず音がしない。

 

 やがてミサキサマの向かう先には、祖父と祖母が使う座敷があった。

 襖の隙間から座敷の明かりが、わずかに漏れる。

 その襖を開けることもなく、ミサキサマはゆらゆらと体をくねらせ、光が漏れる隙間から座敷の中へと入り込んだ。


 私は静かに襖を少し開けると、廊下から中を覗き込む。

 座敷の中では一本の蝋燭の明かりが、燭台の上で揺れていた。

 その小さな明かりの中、祖父は布団に寝かされている。声は聞こえないが、祖父の胸は苦しそうに上下に動いていた。


 祖父の隣には、もう一人いる。白髪の老いた女……それは祖母だった。


 目を閉じた祖母は、祖父の傍らで静かに正座をして座っていた。彼女の手には鞘に収められた小ぶりの短刀が握られている。

 ミサキサマはそんな祖母にはかまわず、祖父の近くに寄る。そのままブルブルと歪な頭を揺らせると、頭頂部から一本の黒く、細長い触手を伸ばした。

 触手はゆっくりと伸びて、そのまま祖父の胸の中へと溶け込むように入る。

 そして、祖父の胸から何かを吸い出すように触手はドクン……ドクン……と何度も脈打った。


 ――異様な光景だった。

 ――何が起こっているのか。

 一滴、緊張で流れた汗が覗き込む私の首筋を流れた。


 静かに祖母の目が開く。彼女は手に持った短刀を引き抜くと、その刃をミサキサマと祖父を繋ぐ触手にあてた。

 そして……祖母は手に持つ短い刀で触手を切り裂いた。


 次の瞬間、耳につく甲高い叫び声が響いた。触手を切られたミサキサマが大きな叫び声を上げたのだ。

 その声は鼓膜を大きく揺さぶり頭痛を伴う。私は両手を耳に当て、その場にふさぎ込んだ。何が起こったのか理解もできず、心臓が高鳴り、未知の恐ろしさで足の力が抜ける。


「誰かいるのか?」

 部屋の中から、祖母の声が聞こえた。


 気づけば――全ての音が戻っている。


「誰がいる?」

 もう一度、襖の向こうから祖母の声が聞こえると、襖がすっと開いた。

 廊下にへたり込んだ私を、上から祖母が見下ろす。彼女の年老いた目がやけに冷たく、そして空虚なものに思えた。

「ここで何をしている?」

 しわがれた声で、祖母が私に言った。

 答える代わりに、私は視線をさっきまでミサキサマがいた場所へと向ける。

 だが……そこには何もない。


「お前にも見えたのか……」

 祖母のその問いに、私は小さく頷いた。

 私の返答に、彼女は何も答えなかった。しばらく黙った後にぽつりと呟いた。

「あれを見てはならない」

 祖母は呪文のように、もう一度私に言った。

「見てはならない」


 私は祖母の虚ろな瞳を見るのが怖くなり、視線を下に落とした。

 畳の上にぽつりぽつりと雫が落ちた……祖母の流した涙だった。


「仕方がないことさ」

 私に言ったのか、独り言なのか、祖母は小さな言葉でそう言った。

「仕方がない……こと」

 彼女はまた言葉を繰り返す。私は黙ってそれを聞いた。


 祖母の後ろで、布団に寝かされた祖父が呻いた。震えるように苦しげな声を上げる。

 「忘れなさい」と、祖母は突き放すように言った。

 言葉はとても冷たく、重く響いた。

 その言葉から逃げるように、私はその場から走り出す。

「戻れなくなる」

 去る私の背中に、祖母は確かにそう言った。

 彼女の声を聞いたのは、それが最後だった。


 次の日の夜……祖父は亡くなった。


 祖父の死は、私が祖母の秘密を覗いたせいではないのか。

 何となくそんなことを考えた。

 しかし私は祖母に問うことはなかった。

 いや、たとえ私が尋ねても祖母は何も答えなかっただろう。


 あの夜からミサキサマという得体のしれない存在が、私と祖母を永遠に分かつ壁となっていた。


 祖父の葬儀の時、彼女は私と視線を合わせることもなく、私から距離を置いていた。

 私もまた祖母の秘密を覗いてしまった負い目から、それを受け入れ、彼女に近づくことはなかった。


 それ以来、ミサキサマを見ることはなかった。

 いつしか私も、その存在を記憶の奥に封じていた。



  3


 高校を卒業すると、私は進学のために上京をした。

 そして大学二年の春、祖母が亡くなったという知らせを受けた。祖父と同じような病で亡くなったという話だった。


 葬儀の後、私は伯父から声をかけられた。

 彼は私を母屋にある祖母の座敷に連れて行くと、戸棚の中から古びた木箱を取り出した。

「これをお前に渡せと、死に際に言われてね」伯父はそう言って木箱を私に手渡した。

 箱はずしりと重かった。私はそっと蓋を開ける。

 ……中には、古びた短刀が入っていた。鞘も柄も茶色く変色し、所々が綻びている。鞘を抜くと短い刃もびっしりと錆びついていた。

 私はこれを知っている――あの夜、祖母の手に握られていた刀だ。


「すまんね」伯父が申し訳なさそうに言った。

「えらい年代物だが、特に価値があるわけではないそうだ」

 他にも大勢の孫がいる中で、一人、私だけに祖母から遺された物……伯父としては気になって調べたのだろう。

 そんな気持ちを誤魔化すためか、彼はばつが悪そうに苦笑いをした。

「息子の俺が言うのもなんだが……あの人が何を考えていたのか、よくわからんよ」

 続けて、伯父は私に尋ねた。

「お前は、何か知っているかい?」

 伯父の問いに私は「わからない」とだけ答えた。


 実際、祖母が何を思いこれを遺したのか、それがわかるほど私は祖母の心を知らなかった。

 しかし故人から託された物を突き返す気は起こらず、私はその形見を持ち帰った。

 それから部屋の押入れの中で、ひっそりと木箱は眠ることとなった。


 大学を卒業し、私はそのまま東京で就職をした。

 目まぐるしく過ぎていく日々の暮らしの中で、ミサキサマや祖母の形見のことなど思い出すことはなかった。

 私は都会で生活を続け、何人かの恋人との出会い、そして別れを経験した。


 月日が経ち、周りの同僚や友人たちが身を固める頃になった。

 私は三十歳となっていた。


 季節は冬。その年はとても寒い日が続いていた。

 妻と出会ったのは……そんな頃だ。


 大勢の人が集まる年末の飲み会。一人の女が参加していた。

 歳は私より少し若く、二十七歳の女だった。

 笑顔が素敵で、澄んだ声と白い肌が特徴的……愛らしい笑顔を持つ女性だった。


 私たちは連絡先を交換すると、何度かデートを重ねた。


「あまり長生きできないのよ……それでもいいの?」

 初めて肌を重ねた夜、隣で彼女がそう尋ねた。

 表情はどこか諦めたように自嘲気味で、小さく笑う。


 過去に彼女は病を患っていた。

 二度の入院を経験し、今は落ち着いているが再発の可能性はあるという。


「かまわないよ」

 私はそれだけ伝えて、彼女の震える肩をゆっくり抱きしめた。


 それから私たちは一緒に暮らすようになり、間もなく籍を入れた。

 その生活は、ただ幸福な毎日だった。


「沖縄に行きたいな」

 ある日の休日、キッチンに立つ妻が私にそう言って笑った。

 私はリビングのソファに寝転び、読みかけの本から妻へと視線を移す。


 妻の言葉で、学生時代に旅行で行った記憶が蘇る。

 太陽は眩しく、白い砂浜と穏やかな波の音。異国のような風景の中、海風が私の頬を撫でる。

 いつだったか、そんな思い出話を妻にしたことがあった。

 懐かしい気持ちになる。

 あの風景の中を妻と二人で歩くことを考えると、胸が暖かくなった。


「そうだね。たまにはいいかも……」私は本を閉じて、妻へそう答えた。

 しばらく仕事ばかりをしていたような気がする。いつの間にか、旅行など思いつきもしない自分となっていた。


「本当?」

 妻が嬉しそう近寄って、寝転ぶ私の胸に顔を埋める。

 私は、それを優しく抱きしめた。

「うん。いいね」

「あなた仕事ばかりしているから、最近……」

「ごめんね」と、彼女の髪を撫でて私は謝った。「今、ちょっと大変な時期なんだ」

「仕事が忙しいのもわかるけど……私を忘れないでね」妻は寂しそうに言った。


 そう、私たちの時間は限られている。

 忘れていたわけではないが、妻の言葉で再度認識させられた。


「忘れないよ」私はもう一度、彼女の髪を撫でた。

「沖縄に行こう。必ず時間を作るよ」

「ありがとう」

 妻は穏やかに笑った。


 私は妻のその笑顔が、大好きだった。


 ミサキサマが現れたのは、それから間もなくしてのことだ。


 その日、久しぶりに仕事が早く終わり、私は早めに帰宅することになった。

 手元のスマートフォンから、妻へ早めの帰宅を伝える。

 帰宅途中、妻からの返信がないことを、特に気にも留めていなかった。

 マンションのエレベーターに乗り、自分の部屋の階で降りた時……私は異様な感覚に襲われた。

 

 ……何かがおかしい。

 

 後ろで、エレベーターの扉が閉まる。いつもなら低く鳴るエレベーターの扉の機械音が今日はしない。

 二、三歩ほど歩いてみたが、自分の足音もしなかった。

 

 音が……消される。

 そして、私に覆いかぶさるように異様な空気が包み込んだ。

 

 この感覚を知っている。

 記憶の奥底に閉じ込めた、あの夜の出来事がフラッシュバックのように蘇る。

 

 ……ミサキサマ。

 迷いなく、そう感じた。

 

 その瞬間、立ち止まった私の足元を、何かがゆっくりと通り過ぎた。

 ずんぐりとした幼児ほどの暗い塊。人型というには形が定まらず、しかし幻というには、はっきりとした存在。

 

 言葉にならない声を出して、私は自分の部屋へと走り出した。

 もちろん声はどこにも響かない。

 無意識に妻の名を叫んだ。

 それはミサキサマの向かう先に、妻がいる気がしたからだ。

 

 胸が不安で重くなる。私は心を埋め尽くす不安を振り払うように叫びながら、妻のもとへと走った。

 汗ばむ手で玄関のドアを開け、妻を探す。

 私の帰りを迎える声も、彼女の笑顔も、そこにはなかった。

 リビングの床で妻が倒れている。

 

 私は妻を抱きかかえ、名前を呼んだ。

 妻は何も答えない。ただ、苦しそうに荒く呼吸をしていた。

 

 ふいに、妻の息遣いの音が消えた。

 私たち夫婦を取り囲む空気が、重く冷たいものになる。

 

 やつが……いた、黒い人型の存在。

 その黒い存在はぶるぶると頭を震わせ、一本の黒い触手を伸ばす。それはゆっくりと妻の胸の中に入っていった。


「やめろ!」と私は叫び、その触手を掴もうとする。

 しかし、私の手は空を切るだけだ。何度やっても、目の前の触手を掴むことができない。


 失う訳にはいかなかった。

 なら、方法は一つしかない。


 遠い記憶……あの夜の祖母の姿を思い出す。


 私は祖母が遺した木箱を取りに走り出した。

 押入れを開け、一心不乱に探し出す。

 ついに押入れの奥から祖母の形見を見つけると、中身を握り、妻の元へ駆け寄る。


 倒れる妻の顔はさらに白くなり、さっきよりも苦しそうな表情だった。彼女の胸にはまだミサキサマの黒い触手が入り込み、それは大きく脈打っている。


 私は鞘から抜いた刃をミサキサマの触手に当て、一気に力を込めた。


 ――ザンッと肉を切る感触が、刃を通して手に伝わる。

 それとともにミサキサマはあの夜と同じように甲高い叫び声を上げ、よろけるように妻から離れる。


 そして……気づけばどこかに消えていた。

 私は暗い部屋の中で妻を抱えて泣いた。

 音が戻り、私の嗚咽する声だけが部屋に響く。


 その夜から、妻は入院することとなった。

 もうこの家に戻ることはできないと、私も妻も理解していた。



  4


「奥さんが大変なのはわかるが、その後の君の人生はどうなる?」

 仕事を辞めると伝えた時、上司が私にそう言った。


「もう……いいんです」

 社内の様々な人間が入れ替わりで私に似たような話をしたが、私はその全てにこう答えた。


 会社を去る私に対して、皆が憐れみの表情を見せる。

 だが、彼らの表情に何も感じなかった。

 すでに私の心は、この会社になかったからだ。


 妻を失いたくない。

 私の頭には、それしかなかった。

 手に持つ、年代物の祖母の形見――この小さな刀だけが私の支えだ。

 これだけが妻を引き止めることができる。


「あまり根を詰めないで――」

 入院したばかりの頃、妻は身の回りで介護をする私へそんな言葉をかける余裕があった。だが再発した病の進行はとても早く、どんどんと彼女の命を削っていった。


 日々、体を襲う激痛は増していき、それに合わせて鎮痛の麻薬を使うようになる。

 やがて彼女は食事も取らず、眠るだけの時間も多くなっていた。

 痛みの緩和をすることしかできない。いや、それすら長くは続かないだろう……と、担当医はそう私に説明した。


 妻の病に対して……私は無力だった。

 すがるものが欲しかった。

 そんな私には、祖母の形見が唯一の希望に思えた。 

 だが、直ぐに私は理解した。


 これは希望ではない。


 祖母が残した……呪いだったのだ。

 

 最初に妻のもとに現れてから10日後にミサキサマは再び現れた。次は7日後、そして5日後……だんだんと、その間隔が短くなる。

 現れる間隔が短くなるにつれ、彼女の痛みはさらに激しさを増した。モルヒネの量を増やし緩和しようとしても、それ以上の苦しみが彼女を襲った。


「苦しい……」

 いつしか妻が口にする言葉は、それだけとなった。

 食べ物も受け付けず、血と胆汁の混ざった液体を嘔吐する。深く眠ることもできず、苦痛に顔を歪ませる。


 その頃には、ミサキサマは毎晩現れるようになった。


 私は妻の傍らにいて、それに備えた。僅かな時間だけ眠り、柄を握って切り続けた。

 何度も、何度も……手に持つ刃で切り続けた。


 これ以上、続けてはならない。

 そう……頭ではわかっている。

 なのに、私は毎晩この刃で、彼女の命を繋ぎ止めてしまう……彼女を苦しめてしまう。


 今夜も、また音が消えていく。

 空気が重くなり、やつが現れる。


「仕方がないことさ」

 記憶の中の祖母は、そう言って泣いていた。

 あの涙の意味を、私は理解した。


 限りのある生命を持つ生き物ならば、抗うことはできないことだった。


「仕方がないことなんだ」

 祖母と同じ言葉を、私は呟く。そのたびに涙が溢れた。


 それなのに……私の手はまた動く。右手には祖母の短刀が握られている。

 あの存在を見てしまえば、繰り返してしまう。

 妻へと伸びるミサキサマの触手へ……私はまた刃をあててしまった。

 後は、この手に力を少し込めるだけだ。


 それだけで……今夜も妻が、私の傍にいてくれる。

 今夜だけ……。

 今だけ……。


「もう……いいかな……」

 ――諦めたように妻がそう呟いた。とても小さな声だった。

 彼女の手が伸び、私の手に重なる。痩せ細った白い指先が微かに震えていた。


 私の手から、力が抜けていく。

 一瞬で、私にかかった呪いは解けたのだ。

 右手からすり抜けた短刀が、音もなく床に落ちだ。


「……ごめん」

 そう言って私は、妻を抱きしめた。

「苦しませて……ごめん」


 妻の胸へと入り込んだミサキサマの触手が、さらに大きく脈打つ。

 ついに私も……受け入れた。

 涙で視界がくもる。私は静かに目を閉じた。


 しばしの沈黙の後、周りの音が戻りだす。

 ゆっくりと目を開けると、ミサキサマの姿はどこにもなかった。

 これまでの全てが夢のように、何もかもが元の世界へと戻っていた。


 私の手に、温かい手がそっと触れている――妻の手だ。

 しっかりと私は彼女の手を握り返した。


「どうしたの?」と、不思議そうに妻は尋ねた。

「……どうもしないよ」私は安心させるように、そう答えた。

「ずっと夢を見ていた気がする」妻が言った。

「ああ……、大丈夫だ」私は静かに頷いた。

「悪い夢はもう終わったよ。少し寝て、朝になったら海に行こう」

「海……?」 

 病と薬の影響で、妻は自分がどこにいるのかもうわからなくなっていた。

 虚空を彷徨う彼女の瞳は、もう何も見えていないのだろう。

「そうだよ。忘れたの?」

 だから私は一つ、嘘をつく。

「僕らは沖縄に来たんだよ。君が来たがっていた沖縄の海だ」

「そう……」

「一緒に行くって約束したろ? 明日は砂浜を散歩しよう」


 私はまた嘘をつく。

「少し眠るといいよ。朝になったら起こしてあげる」

 そう言って、私は彼女の髪を優しく撫でた。

 妻は安心したように目を閉じた。

 そして、「ありがとう」とかすれた声で囁き、穏やかに笑った。

 とても嬉しいことがあった時に、私に見せてくれる妻の笑顔だ。

 この笑顔が大好きだった。

「ありがとう……」私は彼女へ伝えた。

「とても幸せだった……」


 そしてもう一度、妻へ謝る。

「君を苦しませて……ごめん」

 ただ君を失いたくないと、そんな身勝手な思いだけで君を長く苦しめてしまった。

 声が震え、涙が頬を伝わる。

 何度も彼女に謝った。何度も何度も謝った。


 しかし、妻はもう言葉を発することはなかった。

 大好きなその笑みを浮かべながら、静かに息を引き取っていた。



  5


 あれから何日かたった。

 昼下がり――私は自宅近くの公園でベンチに座っていた。

 特に何をするわけでもなく、あてもなくそこにある風景を眺めていた。

 公園には数人の子供たちが遊んでいた。近くには幼子を連れた母親たちもいる。

 遠くで何台も車の走る音が聞こえる。

 冷たい風が吹いていた。

 心は何も感じることができなかった。

 妻を看取ったあの夜から、私は抜け殻となっていた。


 風がさらに強くなった。そして強く空へと舞い上がる。

 ふと……何かが、私の足元を通り過ぎた。

 やがて周りの音が消えていく。あたりの空気が重くなる感覚がした。

 目の前を幼子のような黒い塊が通り過ぎる。


 それは――ミサキサマだった。


「あれを見てはならない」

 記憶の中から、祖母が私にそう言った。

 なるほど……確かに私はあれを見た。そして……見過ぎてしまった。

「……戻れなくなる」

 また祖母からの忠告だった。

 しかし、私がどこに戻るというのか……帰る場所もないのに。

 そう記憶の中の祖母へ尋ねた。

 だが祖母は何も答えない。

 いつしかその幻も消えていた。

 やはり私は何も感じなかった。

 妻を繫ぎ止める呪いの中で、とうに心など失っていたのだ。


 物陰から、また別のミサキサマが現れた。

 木の影、街灯の柱の裏、ベンチの下、車の影……。

 一体、二体、三体、四体……。

 付近の音を奪いながら、無数の黒い人型たちがこの世界に這いずり出てくる。


 ――どこへ向かう? 

 ――何を奪う?

 いや、と私は首を横にふる。

 もう、どうでもいいことだ。


 さらにあたりが暗くなった。

 さっきまで出ていた太陽が、どこかへ隠されたように周りの風景を暗闇が包んでいく。


 私はゆっくりと空を見上げた。

 街を覆うほどの巨大な闇が、そこにはあった。

 人型というには形が曖昧で、しかし幻というには、はっきりとした黒い存在。

 それが覗き込むように、この街の上空を覆っていた。

 空から覗き込む巨大な存在が、私を見ている気がした。

 だから、私もやつを見た。

 それは目も鼻も口もなく空虚な顔だった。

 そこから無数の黒い触手がうねりながら伸びて、地上へ広がっていく。


 私は、そっと目を閉じた。

 口元には自然と笑みが浮かぶ。

 私はただ……それを待つ。


 一人の狂人が……それを待つ。


 [完]


『ホラー』をテーマに友人たちと小説対決『マルケン杯』用に書いた作品です。

読んでいただき、ありがとうざいます。

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