風の魔法使いがやって来る
再出発だぬめ。
この地上には三つの大陸があり、そのなかのひとつ、火の大陸の中央よりやや西にある一帯は、人々にアッシュラントと呼ばれている。そこにはハルツラードという封地があり、レンナントという名のひとりの誠実な候が治めていた。
――やがて全魔法世界に降りかかる渾沌の戦いへと至る物語は、あるときランディスにひとりの風の魔法使いが現れたところから始まった――
夏のじとじとした小雨の日、一頭だての屋根なし竜車が、うっすらと霧の漂う森のなかを進んでいた。ここは楯の森と呼ばれる場所で、サルンという小さな村とハルツラードの領都ランディスを繋ぐ街道が通っている。黒い岩のような幹を持つ背の高い石綿の樹と呼ばれる木が群生しており、この木が大きな葉を鬱蒼と茂らせているせいで、いつでもこの道は暗かった。
色々な種類の薬品と、乾物や日用雑貨をいくらか乗せた荷車を、年とった大きな雌の羽毛竜が牽いている。羽毛竜とは、二足の健脚で歩行する小型の竜の一種で、鳥のような羽毛を持つのが特徴だった。御者の男は慣れた手裁きでぬかるみを避けながら、羽毛竜をそろそろと歩かせていた。そして積まれた荷物の間では、夜空のように真黒な髪に黄金色の瞳、黄味がかった砂色の肌というアッシュラントではかなり珍しい外見をした異邦人の少年が、年季の入ったフードつきの雨外套に身を包み、ひどい道にうんざりしながら揺られていた。少年は、荷車のなかからいくらか不安そうな声を出した。
「なぁ、ベルさん。こんな調子で本当に、今日中にランディスに着くのか? こんなところで泥だらけになりながら、羽毛竜を引っぱって野宿するのはごめんだぞ」
すると、御者のベルはからからと笑って答えた。
「まぁまぁ、もう少しの辛抱だってハスト。こんくらいの悪路はいつものことさ。森を抜けて丘に出ちまえば、城は目の前だ。急ぎの旅でもねぇんだし、ゆっくりいこうや」
異邦人の少年ハストは、恨めしそうにぬかるみを睨みながら言った。
「これじゃ、着いたらすぐに宿探しかなぁ」
「はは、その心配は要らねぇよ! おれの馴染みがやってる店に行きゃいい。ちゃんと紹介してやるからな」
ベルは陽気にそう言うと、何かに気づいたように、あっと声をあげてから続けた。
「そういや、ひとつ思い出したぞ! その店な、昔うちの近所で狩人をしてたルーバートって男がやってる店でよ。二週間くらい前にも行ったんだが、そのときな、バートのやつから妙な話を聞いたんだ……」
「妙な話?」
ハストは訝しげに尋ねると、ベルは少し気まずそうに答えた。
「ああ。なんだかな、この道に……追い剥ぎっつーか、野盗が出たとか何とかで……」
「野盗だって!? なんでそんな話を今頃するんだよ」
すると、ベルはおでこをぺちっと叩いて言い訳した。
「いやぁ~、あまり信憑性のない話だったんで、すっかり忘れてた」
ハストは、村を出立するときに、ベルの娘が執拗に冒険者を連れて行くのを勧めていたのを思い出した。
「なんでリティリーさんがあんなに熱心だったのか、今わかったよ」
「なんだ、冒険者の話か? あいつはああ言うがな、あんな野郎どもは、ただの金食い虫なのさ」
ベルは言った。
「だいたい、ランディスなんざそう遠くもねぇのに、心配しすぎだ。おめぇさんだってあん時、『大丈夫だ』て言ってたじゃねぇか」
「おれは野盗の話を知らなかったし、あれはな、『今回はおれが冒険者の代わりをするから大丈夫』って意味だ。普通もっと用心するもんだろ」
ハストが呆れて言うと、ベルは笑い飛ばして言った。
「まぁまぁ! 野盗つっても、バートの話だって本当かどうか怪しいもんさ。なんせ、ここを通ったど貧乏な鋳掛け屋のじいさんが、鍋とシャツと、パンツを盗られたってだけの事なんだから」
「被害は大した事ないにしても、なんで疑うんだよ」
ハストが問うと、ベルは言った。
「ハスト。おめぇさんは知らんだろうが、この街道を守っている領主のレンナントさまはな、類まれなる魔法の腕前と、厳格な性格で有名なお人なんだ。ランディスの城壁には、捕まった犯罪者どもが処刑されて、レンナント様にまる焼きにされたときの黒い焦げ跡がいくつも残ってる。そんなお人のお膝元で、大した物も持ってないヨレヨレのじじぃを襲う勇気のある馬鹿がいるとは思えねぇ」
「でも、誰がそんな嘘つく必要があるんだ?」
「それな!」
ベルはひと声叫んで、言った。
「おれはよ、その鋳掛け屋があまりに酷い恰好をしてたんで門前払いされそうになって、とっさに口から出まかせを言ったと思ってる」
「……だといいけど」
ハストはひとりごとのように呟いて、森を眺めた。樹々の奥、霧の向こうには何も見えない。周囲の不気味さを打ち消すかのように、ベルは明るい調子で言った。
「心配いらんさ。今まで茂みのなかから飛び出して来たのなんて、一角兎くらいのもんだ。ここを通る連中は野盗よりも、火炎熊みてぇな、自然の魔獣の方を警戒してるもんさ。知ってるか? とんでもなくでっかいケダモノでよ、森の奥深い所に住んで――」
ベルがそう言い終わるか終わらないかのときだった。左手の大きな樹木の陰から突然、手のひらくらいの大きさの魔法の火球がいくつか飛んできた。そのうちの一つが、ぼっと音を立てて荷車の側面に当たると、驚いた羽毛竜が悲鳴をあげながら脚をもつれさせ、ハストとベルは大きく体勢を崩してしまった。
「うわあっ、言わんこっちゃない!」
「くそっ、一体なに事だ!?」
ふたりはほぼ同時に叫んでいた。すると竜車が止まるや否や、火球が飛んできたところから、物騒な身なりをした五人の男たちが出て来て、竜車の周りをぐるりととり囲んだ。見たところ、そいつらは冒険者崩れのならず者といった出で立ちで、あまり上等ではない武器に、防具は中綿のジャケットくらいしか持っていないようだった。ハストは、そのうちの一人が短杖を持っているのを見つけたので、今の魔法がそいつの仕業だとわかった。首魁らしい禿げ頭の男は、抜身の剣をふたりに見せつけながら、濁声で怒鳴った。
「さっさと降りろ! 持ってるもん全部よこせ!」
ベルは目をまるくして叫んだ。
「モノホンの野盗だとぉ!? しかも五人も!?」
「残念ながら、ベルさんが思ってるより治安は良くないみたいだね」
ふたりが会話していると、野盗たちはさらに怒鳴る。
「てめぇら舐めてんのか、早く言う通りにしやがれ! 焼き殺しちまうぞ!」
ベルはすっかり参ってしまい、目ではしっかり野盗の挙動を追いながら、ハストに向かって言った。
「こ、ここは奴らの言う通りにしよう。大人しくしとけば、まさか命までは取らんだろう」
そのとき、ハストが言った。
「冒険者の代わりはおれがするって言ったろ?」
ベルはハストの方をふり向いた。
「なに言って――」
そのときだった。ハストは突然、ベルの聞いたこともない異国の言語で詠唱した。
――神聖なる十三の風たち、唸り風!――
すると、それまで穏やかに流れていた風がぴたりと止み、つぎの瞬間、耳を劈く地鳴りのような音が聞こえたかと思うと、まるで台風か竜巻のような暴風が、森の奥から吹きつけてきた。風は竜車を避けるように流れ、野盗たちにだけ襲い掛かっていくようだった。とんでもない光景にベルは大慌てで座席にしがみつき、羽毛竜は甲高い悲鳴をあげる。
五人の野盗は恐ろしい突風に何一つ抵抗できなかった。へし折れた樹々や巻き上げられた黒い土砂のなかに紛れて、森の奥深くに吹き飛ばされていってしまい、すぐにその姿は見えなくなった。
「こんなもんだ」
ハストはそう言って、片手を水平に振る。すると魔法の突風はぴたりと止まった。それからハストはベルに呼びかけた。
「ベルさん」
「……」
さらに大きな声で呼んだ。
「ベルさん!」
「ひぇっ!?」
ベルは、びくりと跳ね起きた。怖がらせてしまったかと思い、ハストは穏やかな口調で言った。
「ごめん、驚かせたよな。野盗はなんとかなったんだけど」
「あ、ああ……そう……みてぇだな」
ベルは青ざめた顔で答えて、風の魔法による破壊の跡を見まわした。それから席を降り、ぎこちなく言った。
「あ……ハスト。悪いが、羽毛竜を落ち着けなきゃいかんから、少し待っててくれな」
ベルは、その場に座り込んでギュウギュウ唸り続ける羽毛竜を、起こしてやりに行った。ハストはわかったと返事をし、少し寂しそうな顔でその後ろ姿を見ていた。
竜車が再び動き出すまで、そう時間はかからなかった。動物に怪我はなく、荷車も焦げ跡がついたくらいで無事だった。ふたりは、それまで話していたことも吹き飛んでしまったかのように、しばらく無言で道を進み続けた。最初に沈黙に耐えかねたのはベルの方で、やや遠慮がちに、ハストに話しかける。
「……すまんな。まさか、本当に出るとは思わんかった」
「そういうこともあるって」
ハストは、何でもなかったというふうに答えた。
「それにしても、あんなすげぇ魔法を使うたぁ、もしかしておめぇさん、どこかの国の王族の方だったりすんじゃねぇのか?」
ベルが緊張した声で尋ねると、ハストは不思議そうに首をかしげた。
「なんで魔法が使えたら、王族になるんだ?」
「いや、違うならいいんだが、アッシュラントでは昔から、魔法は高貴な身分に宿るって言われてっからよぉ」
「はじめて聞いたよ」
ハストが答えると、ベルは残念そうに言った。
「生まれで才能が決まっちまうなんて、つまらねぇ話だよな。おれもおめぇさんみたく、魔法を自由に使ってみたかったもんだ」
「いい事ばかりじゃないけどな」
ハストは素っ気なく答えて、言った。
「それよりベルさん。魔法、急に使ってごめんよ」
「それに関しちゃ、さっきも謝ってただろう」
ベルはちらっとハストの方を振り返る。
「さっきのは、あまり伝わって無かったと思ってさ。念のため」
俯くハストに、ベルが言った。
「何も気にするこたねぇよ。おめぇさんは、おれや荷物を守ってくれたんだからな。もっと自身を持ったっていいくらいさ。正しい力の使い方をしたってな!」
ハストは僅かに微笑んだ。
「そう言ってくれるとありがたいよ」
すると、ベルがため息をついて言う。
「あーあ。それにしても、治安が悪くなったもんだ。おめぇさんが、このまま用心棒になってくれりゃいいんだがなぁ」
「そりゃ無理だ。おれは旅を続けないとならないんだから」
ハストは苦笑して、ついでにからかうように言った。
「自慢の娘さんの周りに、腕の立ちそうなのが何人もいたじゃないか」
「冗談じゃねぇやい! やつらにゃ絶対頼まねぇよ!」
ベルの大声に、ハストは思わず吹き出した。
そんな会話をしているうちに、森の終わりが見えて来た。ずっと暗がりのなかにあった街道が、先の方で明るく輝いている。樹々の間から、広い空と丘の一部が見えていた。
「そら、ハスト。前を見て見ろ。丘に出るぞ!」
ベルがそう言うと、ハストは荷物の間から身を乗り出して、嬉しそうに言った。
「やっと着くのか、ランディスに!」
ハストの目に、丘の広い景色が写り込む。緩やかな上り坂になっている大地は、雨にしっとりと濡れた鮮やかな緑に覆われ、頂上にはランディス城が聳え立つ。無骨な城の黒いシルエットが、赤い夕陽に染まった空に浮かび上がっていた。その城の周りには、周囲にぐるりと巡る高い壁のなかに収まりきらないほどの城下町が広がっている。
緑のなかに一筋伸びる土色の道を、竜車は登っていった。
こうして風の魔法使いの少年は、ランディスの城市へと辿り着いたのだ。