社会人5年目にくたばれと思う
社会人になって気付けば5年目になっていた。大学入学から社会人になるまでと同じ時間が過ぎた事になる。
多少鬱っぽくなった事もあるが、それ以外は基本的に健康に過ごしてきたと思う。
入院もせず、親族や身内に不幸もなかった。
転職は多少考えるようになったが、新卒入社からずっと同じ会社に勤めている。何だかんだエンジニアとしての適性はあったようで、給与は初任給と比較すればかなり多く貰えている。
最近では自分のコードを見本にしてください、と後輩に伝えたりした事もあって、気付けばそんな責任も背負いつつある。
これを順風満帆と言わないのは、流石に卑下が過ぎるだろう。
引っ越しはしていない。
それは今住んでいる東京のアパートと比較して、半分未満の家賃の大学時代に住んでいたアパートよりも長い時間を過ごし始めた事になる。
出退勤の時の電車はすし詰めとまではいかずとも、リュックやカバンは抱き抱えていなければいけない混み具合。駅前に限らず、人が多くなければやっていけそうにない意識の高い店や、飲食店、カフェなどが立ち並ぶ街並み。
夜になっても街灯からの光が窓辺から差し込んできて、カーテンを閉めても明かりを付けずに普通に歩き回れる都会の明るさ。
気付けば土に足を付ける事すら基本ない東京のど真ん中、そんな土地の便利な空気に自分はもう染まっている。
今はコロナで人混みになるような場所には殆ど行かなくなったが、蚤の市やコミケ、コミティア等と言ったイベントや、上野の博物館やらに赴いたり。
良く分からなかったコーヒーの味を、色んなカフェでケーキと共に飲んでみている内に少しながらも分かるようになってきたり。
都会でしか観れないような、そんなに全国展開されない映画を観に行ったり。
何でもある都会の便利さは、もう既に自分の生活の基盤となっている。
それは同様に、実家に帰った時にギャップを覚える結果にもなっていた。
車が無ければどこに行くにも不自由を覚える長閑さ。その長閑さは嫌いではないが、退屈は覚える。
また行くにせよ、選択肢は限られており、それから後述の理由で煩わしさも感じるようになってしまった。
人付き合いは、会社でしかしていなかった。それも、会話をする事は業務以外ではほぼ無く、誰かと昼飯を食べに行く事も無い。
休日に学生時代の友人などとも遊ぶ機会は半年に一度、コロナ禍になってからはそれ以下。ネット上でも自分が鬱っぽくなった時に一旦人間関係を断ち切ったのもあって、付き合いはほぼ無い。
それでも、自分は寂しさを大して感じる事も無かった。その位、自分は生きる上で人付き合いというものを必要としていなかった。気付いて振り返ってみれば、自分でも少し驚く位に。
そしてそんな、会社に出社しようとも雑談なども殆どせず、それ以外の時間では精々独り言やレジの前でしか言葉を発さない日々が続いてしまえば、もう自分にとって、他者への関心は殆ど無いに等しかった。
親の知り合いなどと会って改まったりする事は、とても煩わしい。加えて言ってしまえば、もう家族と会話する事すら煩わしいと感じるようになりつつある。
多分、自分はこうして一人のまま生きて、一人で死んでいくのだろうと漠然と思う。
それに対して後悔する時が来るのか、来た時にもう手遅れになっているのか、それは多少不安でもあったりする。
ただ、だからと言ってその不安を解消する為にまた人付き合いを始めようとは思わない。そう言うようなきっかけが訪れるような事も、自らが欲していないのだから基本無いだろう。
ただ、もし、起きるとしたら転職した時だろうとは思う。
一人が好きでも、完全に人付き合いが無くなっても籠っていられる程でもない、とは思っている。
社会人5年目にして、もう既に一人で好き勝手するには結構十分な給与を貰っている。同年代の平均と比べれば結構多い方でもあるらしい。出来る事ならもっと欲しいのには変わらないが、そんな余裕が出てきてからか、変わってきた事もあった。
自分は、常識というものを死に覚えしてきた類の人間だった。
要するに、学生時代には嫌な思い出が数多にあるし、そういう記憶はタチの悪い事に鮮明に残り続けている。
勿論、その原因の主なところは自分にある。だからこそ、思い出す度に穴があったら入りたい気持ちになっていた。
ただ、振り返ってみれば自分が100%悪い訳でもないと思える事柄もあったりする。
そして、こんな自分でも今は社会人としてやっていけているその自負、余裕もあってか、今は思い出した時には怒りも覚えたりするようになった。
そして最後に自分は、くたばれ、とだけ強く思う。
そんな自分は、これでもきっと社会人になった時と比べれば前向きだ。
基本的にくたばれと思う人にはもう会いたくないけど、
ある一人に対しては、もし会ったらマウント取るだけ取って去りたい気持ちがあったりする。