第二章 屈辱は恋の始まり①
彩夢がマルシチ倉庫で働き始めて、ひと月が経とうとしていた。
素通りして行く晟也を追いかけ、彩夢は駐輪所まで来ていた。
「おはようございます」
まるで聞こえていない様子で、晟也に素通りされ、綾夢は唇を噛む。
意識しすぎ。と言われても、引き下がることなど、あり得ない彩夢である。将来、西園寺グループを担って行かないものとしては、見逃すわけにはいかない事柄である。そう位置づけた彩夢に、迷いはなかった。
彩夢が目指すものは、源次郎とは全く正反対なものである。
身分を隠さなくても良ければ、皆の前に出て、挨拶はきちんとしましょう。と言ってやりたいところだが、そうするわけにはいかない。それにここは学校ではなく、職場である。ましてや心無いたった一人の行いのために、そんなことを言わなければならないのか、と忌々しく思う綾夢だった。
勢いよく開いたドアに反応して、桑井が振り返る。
「桑井所長、お話があります」
どうしてこんなに腹が立つのか、綾夢は分かった。誰と言わず、捲し立てるが、それはすべて、晟也のことである。言うだけ言って、綾夢は事務所を出て行く。
「何だありゃ」
呆れた顔で、柏木が桑井を見る。
怒りに任せて保科の元へやってきた彩夢は、その勢いで口を開く。
「まったく、最近の人はいけませんわね」
その言葉を聞くなり、居合わせた皆が噴き出す。
「あんたが、それを言うか」
マルシチで誰よりも若い彩夢てある。
保科に突っ込まれ、カーッと耳の裏まで赤くした彩夢が、言い逃れをし始める。
「まったく、挨拶の一つもまともに出来ませんのよ」
「だから、あいつはここへ来た時からずっとそうだって言っているでしょ」
そう言う岡部の顔を、彩夢は恨めしく見る。
「そうかもしれませんけど……。でもそれって、人として間違っていると思いません?」
「彩夢ちゃんが言っていることは、間違っていないよ。だけど、出来ないんだなぁ。うちの息子だって、同じもんよ」
坂東に言われ、彩夢は納得いかず口を閉ざす。
「でもさ、何でそんなにムキになるわけ? 気にしなければいいじゃない?」
栗田の突込みに、皆の視線が彩夢に集まる。
「そうはいきませんわ。わたくしが、ここへ研修に来た意味があるませんわ」
「なんだそれ?」
「彩夢って、ちょいちょい意味不明なこと言うよね」
保科に続き岡部に言われ、彩夢は顔を俯かせる。
「何を気負っているのか知らんけど、あんま、晟也に構うな。あいつはあいつの世界があるみたいだし、彩夢だって、突っ込まれたくないことあるでしょ?」
保科のもっともな意見に、彩夢は返す言葉がなかった。
しかし、それで諦める彩夢ではない。
昼休み、一人壁にもたれしゃがむ晟也に向かって、彩夢は迷いなく歩いて行く。
「よろしかったら、これお食べになって」
急にできた陰に晟也はおもむろに顔を上げていた。
「わたくしが焼きましたの」
すっと立ち上がる晟也に、一瞬、期待してしまった彩夢は、そのまま行かれてしまい愕然とする。
人の迷惑顧みずな行動に、嫌気を刺されているのは、彩夢も気が付いていた。だが、どうしても知りたいのだ。晟也がどうしてここまで頑なに、人を寄せ付けないのかを。
戻りかける晟也を、桑井が手招く。
卑劣な行為。そう知りつつも、どうしても自分を抑えることが出来ない彩夢は、そっとドアを開き聞き耳を立てる。
とるに至らない内容である。
簡単なやり取りがあって、晟也がぼそぼそと何かを話しているようだったが聞き取れず、もう少し大きく開こうとした瞬間、急にドアが軽くなり彩夢はギョッとする。
突然目の前に現れた晟也と目が合う。
訝る晟也に、彩夢は咄嗟的に手にしていたクッキーを差し出す。
「これ」
「おい」
無理やり持たされた晟也の声を背中に訊きながら、彩夢は更衣室へ逃げ込む。
恥ずかしさで顔が火照る。
ここに来てからの自分が、自分で信じられない彩夢である。
盗み聞きなんて破廉恥なこと、どうしてしてしまったのだろう?
彩夢はそっと胸を押さえる。
息が上手くできない。
晟也の顔がチラつく。
彩夢は分からないことだらけだった。
ロッカーに凭れ掛かり、彩夢は大きく息を吐き出す。
桑井と何を話していたのか、気になった。
要所要所聞こえてきた言葉を、頭の中で結び付けようと試みる。
いったい何が大丈夫なんだろう?
桑井は何に対して、頑張れって言ったのだろう?
彩夢はその場へへたり込む。
どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう?
皆目、見当がつかない彩夢だった。