番外編 暮れる⑤
今日の彩夢は、やたらにお喋りだ。こういう時は、決まって調子が悪い時だ。案の定、小さなくしゃみをした彩夢をが俺を見て、微笑む。それが癪に障るほどかわいくて、俺はそっと目を反らす。
因果応報。そんな言葉を耳にしたのは、いつだったか忘れたが、今頃になって、その言葉の重圧が俺に圧し掛かってくる。
なぜ、こんな俺なんだ。
安アパートまであと少しで着く、俺は決心が鈍りそうな自分を振り立たせ、彩夢に寄り道しようと、珍しく誘う。
一瞬、目を丸くした彩夢が嬉しそうに頷く。
春はもうそこまで近づいてきていた。
誰も居ない公園のベンチに座ったものの、その先が続かず、俺は途方に暮れる。
思いがけず彩夢の早い帰国に、計画は少し先延ばしになってしまったが、俺に変える意思はなかった。
どんよりとした雲が空を埋め尽くし、彩夢が隣で手に息を吹きかける。
装飾品が隠れてしまうことを嫌って、彩夢はマフラーも手袋もしたがらない。それだけあの男に付けられてしまった、傷は深いのである。
「どうかお願いです。彩夢様の夢を、叶えてあげて頂けませんか」
椎野木の必死な顔が浮かぶ。
思い出は一つでも少ない方が良い。
「どっか二人で遊びに行くか?」
目をまん丸くした彩夢が、まっすぐに俺を見てくる。
俺だって。
照れ隠しで、彩夢の髪をくしゃくしゃにする。
思いがけない俺の行動に、戸惑いながら、それでも嬉しそうにする彩夢を、俺はまともに見ることが出来ず、空を仰ぎ見る。
いつの間にか、白いものが舞い始めていた。
薬で眠らせた彩夢を迎えに来た梶山に、俺は深々と頭を下げる。
「お気持ちに、変わりはありませんか?」
そんな問いかけに、俺は苦笑する。
「気が付かれた時、何て申し上げればよいものやら」
「俺と本気で付き合いたいなら、軟弱な躰をどうにかせぇと、言っていたと伝えてください。治るまでは、通勤もして来るんじゃねぇ。とも。それが守れなければ、デートはしねぇし、それと接近禁止を命じる。と言えば、おそらくおとなしく言うことを聞くと思います」
「そこまで彩夢様を分かっていらっしゃるのに、どうしてです?」
「こうするしか、俺はこいつを守ってやれないから。分かってやってください」
もう一度頭を深々と下げる俺に、梶山は首を振る。
これで良い。
走り去る車を見送りながら、俺は決意を固め直す。
それから一週間が過ぎ、彩夢の体調はかなり回復して来ていた。
俺の目も限界が近づいてきていた。
「これからどうされるつもりです」
桑井の問いかけに、俺は即答できずにいた。
「私にできることがあれば、何でも言ってください」
その言葉だけで、充分だった。
「ありがとうございます」
事務所を後にした俺は、忙しく動き回っているだろう倉庫に向かい一礼をし、まっすぐその足で待たせていたタクシーへ乗り込む。
「もう一度、考え直しませんか?」
「諄いですよ。もう決めたことですから」
「しかし彩夢様が、お可哀そうで」
「だからあなたの力が必要なんです」
よほど楽しみにしていたのだろう。散々はしゃぎ回って、今は俺の肩を借り、小さな寝息を立てていた。
だんだん見慣れた景色が見えてきて、俺は彩夢を起こす。
寝ぼけ眼で俺を確認した彩夢が、嬉しそうに微笑む。
一呼吸おいて、俺は一気に嘯く。
案の定、混乱した彩夢が目を潤ます。
「俺に、世界タイトルを取らせないつもり? いい加減、俺の邪魔をしないでくれ」
皮肉にも、その言葉が決め手になり、彩夢は俺が出した条件を飲んだ。
何度も何度も振り返りながら、彩夢が家の中へと入って行く。
部屋の明かりがともされ、彩夢からメールが送られてくる。
「今日は楽しかった。ありがとう。また行こうね」
しばらく動けずにいる俺の顔を、心配げに椎野木が覗き込んでくる。
「想像した以上に、手ごわかったな」
「本当に、これで良かったのでしょうか」
「さぁ。ただ、俺の人生なんて、こんなもんでしょう」
肩を竦めて言う俺を、椎野木がじっと見てくる。
踵を返す俺のために、椎野木がドアを開く。
俺はそれを無視して、通り過ぎて行く。
一人になりたかった。
誰にも何も言わず、そのまま消えてしまおう。
前もって預けていた荷物をロッカーから取り出す俺の肩を、誰かが掴み、驚きのまま振り返る。
「行く当て、ないんでしょ?」
鹿磯がさわやかな笑顔で言うから、俺はつい俯いてしまっていた。
「うちに来ればいいじゃん」
反論もさせず、俺の肩を掴んだまま、鹿磯は自分の車へと乗せる。
恐らくこんな芸当が出来るのは、梶山ただ一人であろう。
「お前さ。そう強がってばかりいると、損だぜ」
「うっせぇよ」
「お前がどう思っているかなんて、俺には関係ない。俺はきっちりあん時、助けられた恩返させてもらうからな」
「好きにしろ」
「合点だ」
俺はシートに深く凭れ、目を閉じる。
何も考えないようにしよう。そして彩夢の記憶から、比嘉晟也という男が消えてしまうことを、心から願った。