番外編 暮れる④
戻ってきて欲しい。そう言われ、俺は頑なに首を振った。
もうこれ以上、迷惑を掛けるわけにはいかない。
口にはしなかったけど、それが伝わったらしく、桑井所長が俺の肩を力強く掴んで、言うんだ。
「君は充分、罪を償った。もう自分を許しても良いんじゃありませんか?」
「偽りでも良い。あの子が気が済むまで、半年。いいえ、ひと月でも構いません」
一緒に来ていた彩夢の祖母だという、清江に手を掴まれ、俺はそれでも頑なに断り続けた。
そんな俺に、清江は涙ながら、心に得てしまった傷は深く、彩夢は今もベッドから起き上がることすらままならないと言う。
「それならなおさら、彼女にとって、生半可なやさしさは毒になるのでは」
そんな押し問答がしばらく続き、俺は渋々承諾させられて、月日はあっという間に過ぎ、空っ風が吹き始めた11月の終わりに、彩夢は前触れもなく姿を現した。
後ろから抱きしめてきた彩夢の躰は、小刻みに震え、作る笑顔が強張っていた。
話しには聞かされていたが、青白くやせ細ってしまった彩夢を、俺はまともに見ることも出来ず、そのくせ躰の奥がポッと暖かくなる。
優しいことなど言えなかった。なるたけ俺は彩夢と距離を置いておきたかった。
その日から、彩夢は休むことなく出勤してくるようになっていた。一週間も過ぎたころだっただろうか、素通りする俺に、彩夢が頬を膨らます。
「もう相変わらず、ダーリンはいじわるなんだから」
そう言われて、俺は初めて、彩夢がそこにいることに気が付く。
その症状が現れ始めたのは、ひと月前の頃だった。
怪我も治り、徐々に練習を再開した俺は、自分を自分で疑った。ブランクはあったとはいえ、動体視力には自信があったからだ。その内、よくものにぶつかったり躓いたりするようになり、焦った俺は医者へ行き、そこで目がもう使い物にならないことを告げられたのだった。その時の俺は、自分でも驚くほど冷静で、すぐにその足で、凛子の親父さんに頭を下げに行った。参ることに、俺より親父さんの方が衝撃を受け、むっつりした顔でしばらく俯かれてしまった。そして、俺たちは話し合った。そう決まったわけではない。根気よく治療をすれば、直るかもしれない。そう言って、親父さんは、練習に来い。と俺をまっすぐ見る。その眼は真っ赤になっていた。
俺は目のことを伏せ、桑井所長に退職する意志を伝える。
何も知らない彩夢が、無邪気に笑う。
何でこんな俺を選ぶ?
彩夢は直感でも働いたのか、俺の部屋へ居座るようになっていた。凛子までがそれに便乗して、煩いくらいの毎日が俺を取り巻く。
手もまともに繋げなかった彩夢が、帰り道、俺の袖口を抓み微笑んでくる。
いつまでもこんなこと、続けるわけにはいかない。
だいぶ見え辛くなっていた。俺の異変を薄っすらだが、凛子に感付かれてしまったらしい。
そんな時だった。彩夢の父、哲司の移植手術を受けるため、渡米することが決まったのは。
俺はこの機に、姿を消すつもりでいたが、しかし、渡米して一週間も経たないうちに、彩夢は帰国してしまった。
「もう観念したらどうです」
転寝してしまった彩夢のために、ショールを持って来てくれた桑井所長に言われ、俺は苦笑する。
「君だって、恋くらいしてもいいんですよ」
目じりに皺をたくさん寄せ、そう言うと桑井所長は事務所の中へと戻って行く。
「恋か」
あどけない顔をして、肩で小さな寝息を立てる彩夢の髪へそっと手を伸ばしかけて、俺はすぐに辞め、空を仰ぐ。
本来、彩夢がいるべき場所へ、俺は一日も早く返してやりたかった。
俺は口を手で押さえ、こみ上げてくるものをグッと堪える。




