番外編 暮れる③
一時的な気の迷い。そうあって欲しい。そう願っていたはずなのに……。
綾夢の身の上に何があろうと、俺に知ったことじゃない。そう思いつつも、俺は桑井所長から渡されたメモを握りしめていた。
ムッとした暑さが俺の体力を奪って行く。
綾夢が住むマンションを見上げ、俺は肩で息を吐く。育ちなんて、そう容易く隠せるものじゃない。チャイムを鳴らすのも、躊躇わられる。応答がないことに、俺は心のどこかでホッとしていた。このまま諦めて、帰るべきか悩む。こんなときにさえ、必死に俺の胸にしがみついて泣く綾夢の顔が脳裏を掠めて行く。
「クソッ」
考えるよりも早く、俺は駅へ向かって駆け出していた。
自分の人生を悔いたことなど、一度もなかった。してしまったことは、いつか自分へ返ってくる。いつか聞かされた説教が、思い出され、俺は苦笑する。
あの時、避けようと思えば出来た。傘を振り上げた祥希と、遠い昔の自分とが重なり、ああこいうことか。と思った。折れてしまった腕を見て、泣きながら謝る綾夢が、眩しくて仕方なかった。
高層ビルを背にして歩く俺を、西日が照り付ける。手には、強引に持たされた書類があった。
俺と関わるな。そう言って書類を返そう。心にそう決めた俺は、もう一度綾夢が住むマンションへ向かう。
そこで椎野木と出会う。
控えめに話す椎野木ではあったが、すぐに綾夢を好いていることは分かった。力を貸して欲しいと言われて、なぜそれに応じてしまったのか……。
自分で自分の理解に苦しむ。
椎野木と話をする度、身の振る舞いを目にする度、俺の中に譬えようのない何かが、疼いた。それが何なのか知るのが怖かった俺は、逃げ出してしまっていた。
二度と関わるまい。そう誓ったはずだったのに、俺は椎野木からの電話を鵜呑みにして、止める凛子の手を振り解き、駆け出していた。
どうしちまったんだよ。
薄日に照らされた彩夢は、見るも無残な姿でテーブルに繋がれていた。
焦点が合わない目で、俺を見てくる。
なぜこんなことになってしまったんだ?
俺が現れることを想定していたかのように表れた祥希を、力任せで殴る。
痛みが脳まで痺れさせる。でももうどうでもよかった俺は、もう一発祥希の顔面に命中させていた。
俺はバカだ。
あれほど心に決めていたのに。
彩夢を椎野木に託した俺は、まさかの出来事に目をひん剥かせる。
何なん?
俺は首元に強い衝撃を覚え、その場に膝を崩し落ちる。
そして、意識を取り戻した俺は、すべてを悟った。これも、因果応報ってやつか……。と。
「書類、読まれていらっしゃらないようですね」
鬼頭と名乗る弁護士にそう言われ、俺は無理やり持たされた書類を思い出す。敵になっても、味方になる相手ではないのは、確かである。顔を顰める俺を見て、鬼頭の口元がわずかに緩む。
「誤解なさらないで欲しい。我々はあなたの味方です。決して不利な立場にさせないことを、ここでお約束いたします。わたくし共としては、彩夢様を救って差し上げたい。それにはあなた様の力をお借りせねばなりません。どうか、事が済むまで、何も語らずいては頂けないでしょうか。以前の私をした書類にも記載しておりますように、わたくし共は、比嘉晟也さん、あなたをいかなる場合でも全面的にサポートをさせて頂きます。ですから」
気が抜けて、俺はつい笑ってしまう。
「あんたらバカなの? 俺の経歴、調べたんだろ?」
「調べさせていただいた上で、お願いしております。彩夢様を助けられるのは、比嘉晟也様、残念ですがあなた様以外、居ないのです」
鬼頭に懇々と諭され、俺は渋々承諾をさせられてしまう。
彩夢は被告席に座る俺を、まるで汚いものを見るかのような目で見てくる。
一刻を争う。という鬼頭の言葉も、まんざら大袈裟ではなかった。それほど彩夢の風貌は変わり果ててしまっていた。
事件が起きたのは、二回目の公判が済んですぐのことだった。
俺はいきなり不起訴処分を言い渡され、自由の身になる。
そんな俺を待ち構えていたのは、二度と顔を合わすことなどない、そう思っていた男、椎野木だった。
緊張した面持ちで頭を下げる椎野木を無視して、俺は素通りして行く。
「ほんの少しだけ、私の話を聞いていただけませんか。お怒りなのは重々承知しております。ですがこれだけは、どうしてもお願いをしたくて参りました」
もうたくさんだった。
聞く耳を持たない俺に、椎野木は必死で話し掛けてくる。
「自分はもうすぐ捕まる。その前に、これをあなたに託したい」
前に立ちはだかった椎野木の手に、航空券らしきものが握られていた。
無理やり渡そうとする椎野木の手を、俺は振り払う。
「どうかこれを使って、彩夢様を幸せにして欲しい」
俺は正直参った。
口をそろえて、どいつもこいつも彩夢を守って欲しい。と言いやがる。俺はそんな人間ではないのに……。
数日後、ニュース速報が入り、鬼頭の話と椎野木のことがが合致する。




