エピローグ⑦
病室に戻ると、鹿磯が見舞いに来ていた。
気を利かせ席を外したものの、気が気ではい彩夢である。
そっとドアを開いた彩夢は、思わず手にしていた花瓶を落としてしまっていた。
「俺はもう耐えられない」
さっき晟也に言われた言葉が、彩夢の中で重なり合う。
「わたくし……、ごめんなさい」
居た堪れなくなった彩夢は、何も考えられなくなってしまっていた。
「待てって」
鹿磯にかろうじて手を摑まえられ、彩夢は息を飲む。
「ごめん」
慌てて手を放す鹿磯に、彩夢は潤んだ目を伏せる。
「ごめんなさい。わたくしとしたことが、あなたの気持ちを踏みにじっていることに、気が付いていなかったなんて、何たる失態。お恥ずかしくて、会わせる顔が。ありませんわ。本当に、ごめんなさい。どうしましょう」
「彩夢さん。彩夢さん。俺なら大丈夫。だから話を聞いて」
彩夢はすっかり、自分を見失ってしまっていた。
狼狽える彩夢を、鹿磯は必死で、自分の方へ向かせる。
怯えた目で見られ、樫尾が首を振る。
「参ったな。何となく晟也の気持ちが分かった気がする」
瞳を揺らす彩夢を見て、鹿磯が小さく笑う。
「言うって決めちゃったから言うけど、彩夢さん、落ち着いて聞いて欲しい」
意気込む鹿磯から逃れるように、彩夢は目を反らす。
「俺と晟也、恋人なんかじゃありません。彩夢さんを欺くための嘘でした。本当にごめんなさい」
一瞬ためらいを見せたものの、意を決した鹿磯に告白され、彩夢はしばらく黙り込んでしまう。
どのくらいそうしていたのか、爪を噛み、考え込んでいた彩夢が、ポツリと呟く。
「存じ上げておりました」
すぐに理解できなかった鹿磯が、聞き返す。
「知っていた?」
俯いたままの彩夢が、頷く。
「たぶん、そうじゃないかなって」
「いつから?」
「鹿磯さん、ご結婚されていらっしゃりますよね」
「それは」
「静雄君と尋ねた時、しっかり左薬指に、指輪をしているのを、わたくし、気が付いておりました」
「てことは、最初から」
拍子抜けする鹿磯を、申し訳なさそうに彩夢は見る。
「でもどうして?」
「彼がそう言うなら、わたくしは信じることを選びました」
「あなたって人は」
「彼にどう思われても、わたくしは、彼の目を治して差し上げたい。それが唯一、わたくしが出来る罪滅ぼしですもの」
鹿磯は、空を仰ぎ見る。
「図々しいお願いかもしれませんが、わたくしに、手を貸しては頂けませんか」
「てことは、あいつの答えはNOってことか」
彩夢は、スカートを握りしめる。
「悪いけど、それは無理だな」
「なぜですの?」
チラッと顔を見る鹿磯に、彩夢は一目散で駆けだす。
きれいに片付けられたベッドを見て、彩夢は愕然と立ち尽くす。
「思った通りだったか」
遅れてやってきた鹿磯の言葉に、彩夢は首を振る。
「なぜですの?」
「あいつは、そういう奴なんですよ。俺の時もそうだった」
「逃げるように居なくなってしまうなんて、余程、わたくしを嫌っていらっしゃるのね」
声を震わす彩夢に、鹿磯は長く息を吐き出す。
「それは違うな。おそらくその逆。大事だから、離れようとしているんだと思う。参るよな」
肩で息をついた鹿磯が、もぬけの殻になってしまったベッドへ、腰を下ろす。
「彩夢さん、あいつが前科持ちということは?」
そう聞かれ、彩夢はじっと鹿磯の顔を見る。
「知っているか。裁判でも、散々叩かれていたしな」
鹿磯が、皮肉めいた笑みを浮かべて見せる。
「その原因が、俺だってことは、誰も知らないんだよね。あいつ、とうとう口を割らなかったし。俺と晟也は同じ地元でさ、俺は、いわゆるいじめられっ子で、あいつは、手が付けられない、不良だったわけ。それを聞いただけで、大体想像がつくだろ? 晟也がいた不良グループに、俺は毎に居のように、金を巻き上げられていたんだ。親の金をくすねたり、まぁ酷い話さ。でもついにその時が来てしまった。カネが用意できなくなった俺は、河川敷に連れて行かれ、いつも後ろで見ているだけだった晟也に、リーダー格だった奴が、バッドを握らせ、俺を殴るように命令したんだ。何とか逃げようとする俺を、仲間の二人が羽交い絞めにして、渋々近寄って来る晟也に、助けてくれって、何度も泣きながら頼んで、だけど仲間の奴らが、遣れって。最初、何が起きたのか分からなかった。気が付くと、俺は、晟也と猛ダッシュで走っていたんだ。そこからのことは、まるで覚えていない。どこをどうやって、家までたどり着いたのか。それからしばらく、俺は部屋に閉じこもり、晟也が捕まったことを知ったのは、だいぶしてからだった」
「お辛かったですわね」
「彩夢さん、もしかして」
目を瞠る鹿磯に、彩夢は優しく微笑む。
「わたくしには、優秀な秘書がおりますの」
「彩夢様」
音もなく、梶山がやって来ていた。
「また、やりましたわね」
振り返ることなく言う彩夢に、梶山が深々と頭を下げる。
「ご安心なさって。鹿磯様は、少しも悪ないわ。さっきも申しあげました通り、彼を愛してしまったわたくしが、いけませんの。そうですわね、梶山」
そう言って踵を返す彩夢に、さっきまでの動揺など、微塵もなかった。
何を思ったのか、彩夢は行きかけた足を止め、屈託のない笑みで振り返る。
「わたくしにも、プライドがあってよ。では、ごきげんよう」
しばらく茫然としてしまっていた鹿磯だったが、つい吹き出してしまう。
「晟也、お前の負けだな」
そう呟く、鹿磯の目に滲むものがあった。




