エピローグ⑥
ブレーキ音が耳を劈き、彩夢は気が付くと植え込みに倒れ込んでいた。
物陰から男が飛び出す。
同時に二つの影が動く。
ほんの一瞬の出来事に、綾夢は身動きが取れずにいた。
「大丈夫ですか? お怪我は」
帽子を目深に被った男が差し出す手に気付かない様子で、綾夢はヨロヨロと、次第に膨れ上がる輪の中心へと吸い込まれるように入って行く。
「晟也、大丈夫か? しっかりしろ。すぐに救急車が来るからな」
「あいつは、あいつは無事か」
「晟也?」
振り返る鹿磯の顔が明らかに顰めれる。
そこには、言葉を無くし青ざめた顔で立ち尽くす綾夢の姿があった。
近づいてくるサイレンの音に、晟也の口角が僅かに上がる。
「……ごめんなさい」
「ったく。あんたに関わると碌な事がねぇ」
こんな人だから、綾夢はヨロヨロと晟也の元へと、近づいて行く。
冗談じゃないと思った。
「わたくしのせいですわね。わたくしさえ、いなければ」
「相変わらずバカなんだな」
「晟也、もう喋るな。あんたも」
止める鹿磯が目を見開く。
がそっと伸ばされ、綾夢の頬を伝う涙を拭う晟也の手が、力無く落ちる。
二度と目を覚さないのでは、と不安を募らせていた彩夢の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「あんたに関わると、碌なことが起きねぇ」
身動きがままならない自分に、
也が苦笑いしながら言う。
それだけで、綾夢は胸が一杯だった。
ここまで来るのにどれほどの時間を費やしてしまったあのだろう。薄れゆく意識の中、少し皮肉めいて笑うせ
「おっ、晟也、気が付いたか?」
能天気な声で顔を覗かせる鹿磯に、晟也がうんざりしながら聞く。
「俺の躰は、どうなった?」
聞かれた鹿磯は口に手を当て、目を泳がす。
それだけで、晟也は充分事情は呑み込めた。
落胆する晟也を見て、鹿磯が耐え切れず噴き出す。
「何がおかしい」
「俺、担当医呼んで来るわ」
晟也は深い溜息を漏らす。
「ごめんなさい。すべて私のせいですわ」
「あんたって不思議なやつだよな。どうしてこんな俺が良い?」
「わたくしにも分かりませんわ。不埒で憎たらしいだけのはずのあなたなのに、どうしてかしら?」
さらりと言う彩夢に、晟也は首を振る。
「ったく。あんたが知っての通り俺は、男が」
不意に唇を奪われ、晟也は目を見開く。
「それでもよろしくってよ。だってわたくしは、あなたとしか、この先一生、こうして触れることが出来ませんですもの」
「おっと」
その声に、青ざめた彩夢が振り返る。
「ごめんなさい。大事な恋人にキスなどして」
慌てて病室を彩夢は飛び出して行く。
彩夢にとってそれがどれほど一大決心だったのか、晟也は腕で目を覆う。
「本当に良いのか?」
「ああ。あいつのためだ。俺になんかに、関わらない方が良い」
鹿磯が肩を竦め、病室を出て行く。
不意に目の前に缶コーヒーが現れ、彩夢は目を瞬かせる。
「ヨッコラッショ」
眩しそうに眼を細めた鹿磯が隣に座り、彩夢は言葉なく見つめる。
「あいつのこと、もう諦めたらどう」
まっすぐ前を向いたまま言う、鹿磯だった。
「図々しい女だと、お思いなんでしょうね」
絞り出すように言う彩夢に、鹿磯は目じりに皺を寄せるだけで、顔を見ようとしなかった。
「二人のお邪魔をする気など、サラサラございませんわ。どうかそれだけはご理解して頂けたら、幸いですわ。わたくしは、今までの罪ぼろしを、致したいだけですわ。どうかお願いです。彼が退院するまでで良いのです。わたくしに、お世話をさせて頂けませんか?」
フッと笑みを漏らす鹿磯に、彩夢は目を瞠る。
「話にならねぇな。あんた、それで幸せなのか?」
そう言って立ち上がる鹿磯に、彩夢はこみ上げてくるものを必死で堪える。
「勝手にしろ」
唇を噛む彩夢に、鹿磯は冷たくそう言い残し、行ってしまう。
「彩夢様、こちらでしたか?」
「梶山」
「比嘉様のことで、先生がお話があるそうです」
「分かりました」
病棟を一度見上げた彩夢は、嘆息を吐き、中へと戻って行く。
さわやかな風を吹き抜けていく中、彩夢はゆっくり中庭を晟也が乗る車椅子を押して進む。
「あんたさ、もうここに来るな」
何度となく繰り返される晟也の言葉を、彩夢は笑って聞き流す。
「あんたってさ、昔から鈍かったよなって、何度言ったらわかるわけ?」
色鮮やかな夏の花が咲く花壇の前で、彩夢は足を止める。
「迷惑なんだよ。鹿磯が可哀そうだと、思ないのか。鹿磯のためにも、遠慮しろって言ってんの。分かる?」
「その心配はなくってよ。鹿磯様には、きちんと許可を頂きましたわ」
「あのな、あいつがどんな思いで言ってんのか、あんた、考えたことある?」
ムキになって言い返す晟也に、彩夢は穏やかな顔で微笑み返す。
「なぜ、そんなにムキにおなりになりますの? 病人は、黙って甘えればよろしくってよ」
「だからそれが迷惑だって言ってんの。俺は何があっても忍への気持ちは変わらない。あいつを愛している。だから」
まるで聞く耳を持たない彩夢に、晟也はうんざりさせられていた。
「存じ上げておりますわ。わたくしも看護師の端くれ。自分のせいで、お怪我させてしまった方を、専属で看病いたしているだけですわ」
「ったく。だから」
もう何十回ともなく、繰り返されたやり取りである。しかし、今日は違っていた。
「わたくし、岡山に恋人を待たせておりますの」
唐突にこんなことを言い出す彩夢に、晟也は出かかった言葉を飲む。
「だったら」
「彼は懐が深い方ですの。事情をお話しをしたら、理解してくださいましたわ」
「キスをしたこともか?」
晟也の鋭い突込みにひるむことなく、彩夢は話しを続ける。
「それより、今日は朗報が、ございますの」
唖然とする晟也に、彩夢は優しく微笑む。
「お部屋に戻りましょう。詳しいお話は、先生がして下さりますわ」
わずかな可能性でも、掛けたい。それは晟也も同じ思いだと、疑うことを知らない彩夢だった。




