エピローグ⑤
「おい」
鹿磯に小突かれ、何事かと目を凝らす。
「おはようございます。お二人さんはいつ見ても仲がよろしくってね」
偶然を装う彩夢に、二人で顔を見合わせる。
「お二人がそういう仲ってことは、存じ上げていてよ。誤解をなさらないで。わたくしこう見えましても、寛大ですの。知人にもそういう方がおりますし」
絶句する二人に、彩夢はどこまでも平然を装うのだが、しかしそれがあまりに不自然で、鹿磯は笑いのツボに嵌ってしまう。
「だとよ」
笑いを堪えながら、からかい半分に言う鹿磯に、晟也は舌打ちをする。
「俺としてはウエルカムだけどね」
耳打ちをする鹿磯に晟也はムッとしつつ、目を凝らす。
「冗談は止せ」
二人のやり取りなどまるで聞こえていない彩夢にとって、その姿は仲睦まじくしか見えなかった。
確信した彩夢は、心を決める。
どんな形でも、晟也のそばに居たい。その為にだったら、どんなことも厭わない。
時計に目を落とす。
急ぐ用などない。
「あら嫌ですわ。もうこんな時間。行かなくては」
誰から見ても空々しい仕草をする彩夢に、気を留めることもなく、晟也たちが通り過ぎようとしていた。
「お待ちになって。まだ、話は終わっていなくてよ」
必死の形相で呼び止める彩夢を盗み見た鹿磯が、晟也に耳打ちをする。
「本当に、これで良いのか?」
「良いから、行くぞ」
「でも」
鹿磯に目配せをされ、晟也は足を止め振り返る。
彩夢も同時に足を止める。
「あの様子だと、帰りそうもないけど。どうするよ。お前だって本当は」
「黙れ」
「ヘイヘイ」
振り返り、鹿磯が愛想笑いをする。
「わたくし分りましたの。あなたがどうして頑なに、わたくしを拒んだのか。それは鹿磯さんという大切なパートナーが、いらっしゃったからなのね」
的外れなことを言い出す彩夢に、鹿磯が嬉しそうに晟也の顔を覗く。
「それでも、わたくしはよろしくってよ。わたくしも、その方が気が楽ですわ。これからはビジネスパートナーとして、お互い、共存し合いましょう」
「は」
思わず振り返る晟也に、彩夢は満面の笑みで続ける。
「決して、二人の邪魔は致しませんわ」
「何を言っているんだ」
「わたくし、あなた方のオーナーになりましたの」
この発言には、鹿磯も目を見開く。
「あなた方の所属事務所を、買い取らさせて頂きましたの」
「ったく」
頭を抱える晟也に、彩夢は一歩踏み出す。
「多くは望みませんわ。あの頃のように、時々、共に過ごす時間をわたくしに下されば、それだけでよろしくってよ」
「断る」
こう答えることも、想定内の彩夢である。
「何をぐずぐずしてんだ。行くぞ」
「わたくしは、諦めませんわ」
振り返りもせず行ってしまう二人を、彩夢は見詰め続ける。
何度も足を運ぶつもりだった。彩夢は大事そうに、古い携帯電話を抱きしめる。止まってしまった時間を、必ず動かして見せる。そう決心したのである。
一言、二言話した二人の顔が急接近して、彩夢は自分の目を疑う。
突然の出来事に、彩夢は、気が付くと表へ飛び出していた。息が出来ず、その場へしゃがみ込む。
自分では、覚悟してきたつもりだった。しかし、目の当たりにしてしまうと、こんなにも動揺してしまうことに、彩夢は絶望する。
襟もとへ手をやった彩夢は、ハッとして後ろを振り返る。
「彩夢様、お加減でも」
「わたくしは、大丈夫」
「お車へ」
梶山が差し出す手を借りず立ち上がった彩夢は、よろよろと中へ戻って行く。
それはあの日、晟也が贈ってくれたものである。
ストールに手を伸ばしかけた彩夢の耳に、電話で話す鹿磯の声が入ってくる。
彩夢は無意識のまま、そちらへ目を向けていた。
彩夢は一人になった晟也が待つ、エレベーターホールへ、吸い込まれるように進んで行く。
夢中になって話す鹿磯に気付かれることなく、近づいて行った綾夢は、一瞬振り返った晟也の目から逃れるため、身を隠す。
完璧に見られた。と思ったのだが、何事もなかったかのように、晟也はエレベーターへ乗り込む。
綾夢は、チラッとまだ話し込んでいる鹿磯を見る。
当分終わりそうになかった。それを良いことに、彩夢は迷うことなく、後を追う。
もう戻れないとしても、あの日、どうして黙って行ってしまったのか、彩夢はその理由だけでも、知りたかった。
階数を知ったところで、晟也に辿り着ける保証はない。どこかに身を潜め、鹿磯が上がってくるのを待てばいい。だがその心配は必要なかった。
ドアが開き、彩夢はハッとして物陰へ身を隠す。
壁を伝い、ゆっくり進む晟也が、まだそこにいた。
恐らく、鹿磯を待ちながら歩いているのだろう。と、そのことに彩夢は疑わなかった。
諦めた晟也が、先に部屋へ入って行く。
音をたてないように、最善の注意を払ってドアを押した綾夢は、息を飲む。
まさか、ドアベルが備え付けられているとは、思わなかった。
晟也に振り返られ、綾夢は気不味さに、目を伏せる。
「忍か? 早かったな、おい、何度も言わせるな。そこに立つな。それじゃ全然見えん」
それは、予想外の展開だった。
驚きのまま顔を上げた綾夢は、サングラスを外した晟也の視線に、愕然とする。
「もしかして、目が……」
その声を聞いた晟也の顔が、青ざめる。
「全部、わたくしのせいですわね。これで、凛子さんが仰っていた意味が、漸く解りましたわ。わたくしが、選手生命を、奪ってしまったのですね」
晟也が姿を消し、彩夢は真っ先に凛子に会いに行っていた。その時に、言われたのである。あなたに、探す権利はないと。その理由を聞いても、教えて貰えなかった。ただのやきもちからくる、言葉とばかり思っていたのだが……。
「ちがっ」
彩夢は晟也の話も聞かずに、部屋を飛び出して行く。
晟也はあちこちにぶつかりながら、彩夢を追うが、一足違いで彩夢が乗るエレベーターが閉まってしまう。
「畜生」
エレベーターの中でしゃがみ込む彩夢の脳裏に、あの日の記憶が蘇っていた。
鈍い音とともに、晟也が崩れ落ち、その先に見えた祥希の不気味な笑顔が怖くて、彩夢は必死でその足に縋りついていた。
何も考えられなかった。
扉が開き、一刻も早く、晟也の目を治せる病院を探さなければ。と、その一心だった。
「彩夢様」
聞き慣れた声が聞こえた気がして、彩夢は足を止める。
目の前に、車が迫って来ていた。
もう駄目だと思った瞬間、綾夢は植え込みへ弾き飛ばされていた。
一瞬の出来事だった。
帽子を目深に被った男が、綾夢の視界に映ったかと思うと、すぐに梶山の顔へ変わる。
「すぐに救急車を」
綾夢はてっきり、その男性が救ってくれたものとばかり思った。しかしそれは違っていた。
「まだ動かない方が良い」
信じがたい光景に、綾夢は目を見張る。
「バカやろう」
力なく言う晟也の額に、血が滲む。
躰のあちこちが痛んだ。それ以上に、胸が痛んだ。
「言っとくが、あんたのせいなんかじゃ、決してないから」
綾夢の目から、涙が溢れ落ちる。
真実を知ってしまった彩夢。もう戻れないことを確信する。




