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第十章 消えない想い⑨

 久しぶりに帰ってきた彩夢を梶山が出迎える。

 「お帰りなさいませ。彩夢お嬢様」

 「なぜかしら、わたくしあなたの顔を見ると、無性に腹が立ってしまいますわ」

 憎まれ口をたたく彩夢に、梶山は苦笑いを浮かべ、頭を下げる。

 「皆様、中でお待ちでございます」

 この家の敷居をまたぐのは、実に5年と8カ月ぶりである。どうしても気が進まず、ずるずると今日まで来てしまっていたのだが、目を細め出迎えてくれる家族を見て、年老いた。と実感させられる彩夢だった。

 「お帰り彩夢」

 両手を広げる哲司の胸の中へ、彩夢は素直に飛び込んで行く。

 「ご無沙汰しました」

 「彩夢、看護師の仕事には、だいぶ慣れましたか?」

 「おばあさまのおかげで、芳谷の叔父様たちには、とても良くしていただいておりますわ」

 「さぁ腕によりをかけて、あなたが好きなものをたくさん作ったのよ。早速いただきましょう」

 懐かしさに、こみ上げてくるものがあった。


 今日まで彩夢はどうしても、この家に帰る気になれなかった。閑静な住宅街の一等地。大きな屋敷。この家を守るため、沢山なものを失ってしまった。幼少期から一番の味方だった椎野木も、その犠牲者の一人である。久しぶりの家族団欒は、懐かしさと楽しさとが入り混じり、時間があっという間に過ぎて行った。今日は止まって行け。という哲司の言葉を丁重に断り、彩夢は夜風に吹かれる。

 「梶山、駅までで結構よ」

電車で帰る。という彩夢に、家族が一丸となって車を使うことを勧めたので、やむを得ず従うことにしたのだが。

 「それは出来かねます。もう遅うございます。ホテルまでお送りいたします」

どうにも梶山という人間が、好きになれない彩夢である。

 「梶山、これは命令です」

 「大変申し訳ございません。哲司様のご命令に、背くわけにはいきません。どうか酌量してくださいませ」

 相変わらず融通が利かなさに腹を立てる彩夢だったが、優秀なのは確かである、

 「ねぇ梶山」

 彩夢には珍しい頼まれごとをされた梶山は、快く承諾する。

 どんな手を使っても、彩夢はエスを名乗る人物の正体が、知りたいのである。 


 「彩夢さん」

 ホテルの前で、難波が待っていた。

 「征四郎さん、わざわざお待ちになっていらっしゃったの?」

 「久しぶりの家族水入らずで戻らんかもっ言よったが、どうも落ち着かんで」

 頭を掻きかき言う難波に、彩夢はぎこちなく笑い返す。

 「電話、差し上げれば、良かったですわね」

 「しっかりしたお家柄と、知っちょきながら、どうもいけん。心配性で。どうか気にしんさんな。わしがしとうて、したことじゃ」

 彩夢はそういう難波の目を、まっすぐ見ることが出来ずにいた。

 彩夢の腰に手を回しかけ、難波はその手をポケットに突っ込む。


 ラウンジへ行こう。と言う難波に従い、彩夢は向き合い座る。

 二人の前に、ホットコーヒーが運ばれてくる。

 難波は斜に構えて、座っていた。

 「良かったら、明日、浅草にご一緒せんか。生徒指導の合間で、楽しめるかどうかわからんけど、もしそんで良けりゃあ、是非」

 足を組みコーヒーを一口飲んで言う難波に、彩夢はぎこちなく微笑む。

 「申し訳ありません。明日は行きたいところがございますの」

 予想外の答えに、数秒、変な間が出来てしまい、難波は慌ててその場を繕う。

 「気にしなんな。わしも一緒しちゃりてーけど子供らを見にゃあならんけぇ。あとその堅苦しい言い方止めにせんか。御育ちがええけぇ仕方ねえ思うが。できれば、家族とお目通りしていただけたら嬉しいんじゃが」

 彩夢に目を瞠られ、どうしてそんな顔をされるのか、難波は見当がつかず、小首を傾げる。

 「どうかされましたか?」

 「おかしなことを仰りますのね。征四郎さんたら。以前、わたくしの家へ何度もいらっしゃったでしょ」

 難波は言葉を詰まらせる。

 「言葉を間違うた。正式にご挨拶をしたいって意味で」

 苦し紛れに言い訳をする難波に、彩夢はぎこちなく微笑む。

 「そうでしたのね」

 それ以上話を進めるのがしのばれ、二人して押し黙る。

 人気は少なかった。

 さっきまでうろうろしていた生徒も、もういない。

 コーヒーを一口、二口飲んで、先に口を開いたのは彩夢だった。

 「そうそう明日ですけど、日本橋へ行って参りますわ」

 「日本橋?」

 「ええお会いしたい方がおりますの」

 「会いたいって」

 「誤解なさらないでね。静雄君を魅了させている方に、お会いしに行くだけですわ」

 「芳谷のため、ですか?」

 「ええ。早く申し上げようと思ってましたのに、わたくしとしたことが、忙しさにかまけて、そのことをお伝えすることを忘れてしまって、申し訳ございませんが、この場で承諾して頂けたら、幸いですわ」

 一度も目を上げようとしない彩夢に、難波は一呼吸おいて、笑みを作る。

 「芳谷は、誰に会いに行きたいって言いよるんか」

 「申し上げて、お分かりになるかしら。かなりラジオをやられている方で」

 「芸能人ってことか」

 やっと目を上げた彩夢が、ぎこちなく微笑む。

 「そりゃ無謀すぎる。ちいと芳谷に、彩夢さんは甘すぎるような気がする。そこまでしちゃげる必要が、どこにあるんじゃ。むしろ、そのことをとがめるべきだ」

 ムキになる難波の迫力に押され、彩夢は顔を強張らせる。

 「ですけど、この機会を逃したら、次は何時になるか分かりませんもの」

 今にも泣きそうな顔を彩夢にされ、難波は頭を掻く。

 「わしの負けだ。どうもいけん。わしも彩夢さんに大甘過ぎる」

 コーヒーをがぶ飲みする難波を見て、彩夢は嘘を言ってっしまったことを、心の中で謝る。


 伝票を持って先に立ち上がる難波に続き、彩夢も立ち上がる。


 愛おしいはずの人なのに、気が重くなるのはなぜだろう? 看護師仲間に言わせると、結婚前の女性にはありがちな感情らしいのだが……。


 難波が振り返る。

 いつも通りの笑顔が、そこにはあった。

 彩夢は小走りで、難波の横へ並ぶ。


 この人と一緒になりたい。その気持ちに偽りはない。何でも正直に話したい。そう思っているのに、上目遣いで見る彩夢に、難波が微笑み返す。涙が出そうになるのは、なぜ?


 「静雄君にも困りもんですわ。でも、お会いできれば、頭もすっきりして、勉強に身が入ると思いますわ」

 そう、きっと一歩前へ踏み出せるはず。

 彩夢は自分の気持ちに置き替えながら、その言葉を噛みしめる。

 「そうあって欲しいもんじゃ」

 

 部屋の前まで送ってくれた難波を、申し訳ない気持ちで彩夢は見送る。


 

 

難波の気持ちに応じたい彩夢だったが、どうしても踏み切れずにいた。そんな折、偶然耳にした声に、心がざわめく。顔も名前も知らない相手に、どうしてここまで惹かれてしまうのか、彩夢はそれを突き止めるため、本人に会おうとしていた。


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