第十章 消えない想い⑦
晟也を失い、二度と立ち上がれないと思った彩夢に、笑顔が戻る。
暖かな日差しに照らされ、庭に咲くひなげしが一斉に揺れる。
風に吹かれ、庭一面のひなげしが揺れる中、彩夢は大きく深呼吸する。
「おはようさん」
後ろから声を掛けられ、振り返る彩夢の笑顔に、一点の曇りはない。
「新川のおじいちゃん」
「うちなぁの畑で採れたんじゃけど、食べられー」
「いつもありがとうね」
くちゃっとした笑顔を見せ、ゆっくりと去って行く小さな背中を、彩夢は目を細め見送る。
こんな穏やかな日々がまた訪れると、誰が想像しただろう。
晟也が姿を消し、無気力になってしまった彩夢を、ここへ連れてきたのは、梶山だった。
付き添う青磁の肩を借り、ぼんやり外を眺める彩夢に、梶山は人知れずため息を吐く。
もっと泣きわめくものだと、思った。晟也を行かせてしまったことを、責め立ててくれた方が、どれほど良かったか……。
晟也を失ってしまった心の穴を、彩夢は仕事で埋めようとしていた。誰の言葉にも耳を貸さず、寝る間も惜しみ、食事さえまともに摂らず、ただひたすら働き続け、そして、壊れてしまったのである。
開け放った窓から、ほんのわずかの光が差し込み、風がレースのカーテンを揺らす。
「青磁君がここへやって来たのも、あなたくらいの年齢だったかな。彼は君とはまるで正反対で、誰とでも話をしたがったし、良く笑いもした。だから私は心配で仕方がなかった」
虚な目をする彩夢に、その言葉の意図を汲み取ることなど出来るはずもなく、しかし、芳谷は話しかけ続けていた。
「彼は、振りが得意だった。元気な振り。生きている振り。彼はとても頭が良い。そうしていれば、誰にも彼の本心を見破られないからね。彼はね、自分でも気が付かないうちに、もう一人の人格を、生むようになってしまっていた。とても醜く、卑劣な自分をね。こいつが目覚めてしまうと、もう手が負えない。そこら中のものは壊すし、嘘は吐くし、今の穏やかな彼からは、想像できないだろ? うちには、庭を埋め尽くすほどのひなげしが植えられている。彼が彼でいられた証として、一輪一輪、植えられていったものなんだ。でも君は彼ほど、症状は重くない。心はくたびれてはいるがね。それはどうしてだと思うかね? その意味を考えてみると良い」
芳谷の言葉が、ゆっくり彩夢の中で浸透して行ったある日、奇跡が起こったのである。
車いすに座らされた彩夢は、不意に入ってきた声に、僅かだが、反応を示す。
「……どうして……」
脳が追いついていない彩夢の目には、ぼんやりとした輪郭が映っていた。
風に吹かれ、カーテンが揺れる。
「何やってんだか」
垣間見える庭は、すっかり春めいていた。
一輪の花を握らせ去ろうとする背中に、彩夢は無意識のまま、言葉にならない言葉を発していた。それからである。少しずつ、彩夢に日常が戻ってきたのは。
「彩夢君」
窓から顔を出した芳谷が、手招く。
ずっと胸の奥につっかえていた言葉が……、「行かないで」が言えたその瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
夢中で手を伸ばす。
暖かな日だまりが、あの日の二人の面影を映し出す。
椅子から転げ落ちた彩夢を、抱き上げようとする手に怯えてしまう自分が悲しくて、でも愛おしくて、彩夢は胸に顔を埋め、声をあげて泣いていた。
立ち直れた。といえば、嘘になる。ここで生きて行く。生きて行きたい。生きて行こう。と決めたのである。
「お茶にしようって」
芳谷に促され、彩夢は家の中へと戻って行く。
湯気を上げるカップの前で、芳谷の妻、柚莉愛が微笑む。その隣には息子の静雄が、寝癖が付いたままの頭で、朝食を摂っていた。
「おはよう。また徹夜したの?」
不機嫌顔で何も答えない静雄と向かい合わせに座った彩夢が、髪へ手を伸ばす。
「ねぇ聞いていらっしゃるの? 何なら家庭教師をして差し上げましょうか?」
「ほっとけ」
不愛想に言う静雄に、彩夢は目を細める。
彩夢はこの生意気盛りの静雄が、かわいくて仕方がなかった。
「まぁなんていう言い草」
大袈裟に言う彩夢に、静雄はムッとして食事を止めてしまう。
その姿に、優梨愛の笑いがどうにも止まらなくなってしまっていた。
「その位で許しちゃって。静雄も年頃じゃけぇ」
彩夢には、その言葉の意図が読み取れずにいた。
「でも、寝不足は脳に良くありませんわ」
「煩えよ。母さんも余計なことを言いなんな」
「怒られてしもうた」
耳の裏まで真っ赤にして出て行く静雄と入れ違いに、やって来た芳谷が、あいつどうしたんだ。と首を傾げ、二人を見る。
「さぁ」
二人の声が揃い、それがおかしくて笑ってしまう。
こんな当たり前の日常が、今の彩夢には大事だった。何より幸福のひと時でもある。




